22 / 26
第十九章 吉原改革 ー後篇ー
しおりを挟む吉原・夕風屋 ───────
いつ見世が潰れるのかと戦々恐々している女郎たちや若い衆の間を抜け、吉野はまっすぐ自身の室へ向かった。襖を開け放つと瑞香が駆け寄って来た、
「姐さん! 「双葉楼」での話し合いはどうだったのでありんすか?」
見世を出る前、瑞香たちには事情を話していた吉野は眉をひそめつつ励ますように妹女郎の肩を摩った、
『残念だが、協力はしてくれんかった』
そう言うと瑞香は下唇を噛んで俯き出した。吉野は続けた、
『けんど、諦めちゃいない。あちきらで何とかする』
「なんとかするったって! 旦那様方はお力をお貸しくださんしょうか……?」
藤尾が不安そうに腕を組みながら次の間から現れ出た。一人じゃ心細かったのだろう、藤尾付きの禿と新造まで揃って身を寄せ合っている。無論彼女たちにも、吉野の考えは説明済みだ。
『お前さんも助けておくれ。ある程度はお客はついているだろう?』
「ま、まあ……」
藤尾がうなじを撫でながら、気恥ずかしそうな反応をした。
「でも、期待しないでくださんし。お大尽様に当たるお客はまだ付いておりんせん」
『それでも構わない。多ければ多いほど力になる。──野分も楓も、封に宛名を書くのを手伝っておくれ』
振袖新造の野分と禿の楓は小さく頷いて「あい」と返事をした。
『今宵から始める。呼出があった折はそのまま旦那様方に吉原の窮地をお救いくださるようお願いするつもりだ。よろしく頼むぞ』
吉野が言い含めると、妹女郎たちは元気よく返事をした。心強い妹たちの反応に、吉野は胸が熱くなった。
────────────────────
吉野は自分の客帳を紐解き、文を出すお客人を選出した。
その中で特に──、
油問屋・三橋屋 直五郎
江戸小物問屋の豪商・宇野屋 忠義
佐倉領の財政係・栗原 藤右衛門と竹井 兼善である。
大尽である彼らに、ご公儀の吉原改革諫止の嘆願書を書いてくれるよう頼み込んだ。もちろん、協力する・しないは大尽たちの裁量だが、吉野は慣れない手練手管を駆使して、あまり利用して来なかったねだりを含んだ文言をしたため、認めてくれるように心がけた。
「姐さん、杉原様はどういたしんしょう?」
ようやく四名に宛てた手紙を書き終えると、瑞香が客帳をめくりながら訊いてきた。
『杉原様? あぁ……』
杉原 庄次郎とは、三年前の正月、芸者に手を出そうとした咎で見世を出禁にしたお客だ。亡き夕顔太夫の時からの上客であったが色を売らない芸者に迫ろうとした罪は重い。そのことを瑞香に諭すと、徐に手紙の束を差し出してきた。
『これは?』
「杉原様からの文でござりんす」
五通もある手紙の中から一通を選んで開けると、そこには謝罪の言葉が延々と綴られていた。ずっと無視して来た手紙を今更のようにざっと読んだ吉野は、どう謝罪して来ようとも許す気は起きなかった。しかし、ある考えに至った。
「お、お書きになるのでありんすか? 姐さん」
吉野が文机に向かうのを見て、夕華は目を丸くしながら訊いてきた。
『あぁ、あちきに許して欲しければ協力してくださいなんし、とな」
姑息な手だとは思ったが、五通もの詫び状を送って来るくらいだからよほど許しを得たいのだろう。吉野たっての願いとあれば聞き届けてくれると思い、絵を描くように筆を走らせた。
『それに、杉原様の家業はご公儀御用達の菓子屋だ。老中や家臣団との繋がりもある』
と吉野が言うと、夕華は「なるほど」と納得したように頷いた。
────────────────────
客帳を眺めながら、吉野はため息をついた。
『お次は直孝様か……』
伊勢崎屋 直孝──薬問屋の若旦那である。ご公儀との関わりは無いに等しいだろうが、三橋屋や宇野屋、杉原同様、町人として吉原改革の嘆願書を書いて頂くには申し分のない人物と言えた。紙を用意し、筆を持とうと手を伸ばしかけたその瞬間、吉野は思いとどまった。直孝にこれ以上迷惑を掛けたくないという考えが頭を覆ったのだ。かつての女将に会いたいと、不用意に相談を持ち掛けたことを吉野は四年経った今でも後悔している。
一度ならず二度までも彼の手を煩わせることは避けたかった。吉野は、直孝を除外するよう瑞香の方を向いた、その時──。
「花魁。ちょいといいかい?」
室の外から大助の声がし、吉野は楓に命じて襖を開けさせた。
『どうした、大助。あちきは今忙しいんだ』
「伊勢崎屋の直孝様が今宵ご登楼だ。茶屋は「梅原屋」。準備するように」
『え……?』
引手茶屋・梅原屋 ───────
偶然か否か……ちょうど考えていた相手が登楼して来るとは夢にも思わず、吉野は道中の最中にあっても動揺を隠すのに苦労した。
「梅原屋」の店先まで到着すると、野分が夕華と話していた会話が気にかかった、
「何故「梅原屋」なのでござんしょう? いつもは「瓜葉楼」でござんすのに」
考えてみれば確かにそうだ。なぜ茶屋を替えたかというと「夕風屋」が贔屓にしているのが「瓜葉楼」だからなのだが、直孝にはその事情を承知してもらっている。なぜ今宵「瓜葉楼」ではなく「梅原屋」にしたのか、吉野は不思議に思った。
座敷に通されると、いつもの想い人が上座に座していた。吉野の姿を見上げた直孝は、「吉野」と親し気に名を呼び、微笑した。
しばらく酒を酌み交わしながら歓談していると、
「覚えているかな? 吉野花魁。この茶屋を」
座敷を見回しながら直孝は言った。吉野はしおらしく首を傾げた。
『はい?』
「いや、すまない。数多の客を抱える花魁が私との小さな思い出を覚えておるわけはないか」
ははっと軽く笑い、直孝は頭の後ろに手をやった。吉野は彼の膝に手を置き、上目で訊ねた、
『仰ってくださいなんし、ここは──あっ』
記憶が流れるように脳裏を包み、ようやく思い出した。ここ「梅原屋」は直孝と初めて会った茶屋だ。すぐに「夕風屋」へ場所を移したので宴会はしなかったが、紛れもなくここが思い出の場所である。
吉野は再び直孝の目を見つめ、改めて口を開いた、
『初めて、直孝様とお会いした場所でござんすか?』
「そうだよ」
ふっと微笑んでそう頷いた後、直孝は途端に俯き出し、吉野の手を取った。「どうなさんした」と訊ねると、直孝は顔を上げて小さく呟いた、
「ひどいではないか……」
『直孝様?』
「吉原が窮地の只中であること……私が知らぬとでも思うたか?」
吉野の心臓が跳ね上がった。既に承知のことだとは思わなかったからだ。動揺する吉野を見つめながら直孝は続けた、
「知っておる通り、私の家は薬問屋だ。様々な客がやって来る。その中に、私と同様に吉原に出入りする客もおるのだ。見世が多数潰れていることや、人々の出入りが減って行っているなどという話を耳にして私は驚いた。そんな重大な事を聞いてからひと月経っても、そなたからの手紙の一つもなかった。だから心配して今宵ここへ参ったのだよ」
直孝は真面目な顔で話していたが、声は幾分柔らかだった、
「そなたの苦しみ、辛さ、悩みを……打ち明けて欲しかった。私は……それほど信用に値しない男であったか?」
直孝は目が悲しい色に塗り替わり、握られた手の力が強くなった。吉野はすかさず否定した、
『そのような……ただあちきは、あなた様を煩わせたくなかったのでありんす。以前、かつての女将たちに会いたいと直孝様に相談を持ち掛けたことがありんした。あちきはそれ以来、後悔しているのでありんす。私情を挟むことは吉原の女郎にとって許されない行いでありんすゆえ──』
「何を言う……私は嬉しかったぞ。そなたが胸の内に隠し持っていた辛さ苦さを話してくれたことで、ようやく私はそなたの物になれたのだと実感したのだ」
『直孝様……』
「微力だが、協力させてくれないか。そなたのことだ、恐れ多くもご公儀に訴える覚悟であるのだろう?」
何もかもを見透かされ、吉野は目に涙を浮かべながら思わずふふっと笑った。そして、握られた手をゆっくりと解き、直孝に向かって両手をついた。
『ありがとうござりんす。どうか、よろしくお願いいたします』
吉野の心にわずかな期待と希望が波のように広がった。
────────────────────
月が替わって五月。
吉野花魁からの文を受け取ったお大尽たちからそれぞれ返事が届いた。彼らの応えは好意的で、一様に「吉野のためならば」と協力を約束してくれた。
返事に目を通しながら、吉野は彼らに対する信頼と感謝の思いを強くさせつつ、自身の成して来たことが間違いではなかったと悟ったのだった。
返事の中で特に杉原 庄次郎のは滑稽だった。助力の承諾はしてくれたものの、それ以外の文面は吉野に対する再六の謝罪と、感謝の言葉が繰り返し書かれていたのだ。気味が悪くなった吉野はそっと手紙を畳み、それを文箱の奥底に収めた。
「姐さん!」
襖が勢いよく開き、藤尾が駆け込んで来た。吉野は顔を上げた、
『おぉ、藤尾。聞いたぞ、木川屋の三治郎様から協力のお許しを得たとか』
謙遜こそすれ、藤尾の抱えるお客の中にも発言力を持つ御仁が多くいた。先日、藤尾の新造から「呉服問屋が了承してくれた」との報告を受けていたのでそのことについて褒めそやした。しかしそれとは関係なく、妹女郎は「あい」と一礼しながら、焦りの表情を浮かべている、
「それより、見世の女郎たちが……」
吉野は首を傾げた。手を引かれるまま階下へ降りると、若い衆含めた見世の者たちが一階の広間で屯していた。吉野の姿を捉えると、皆が一斉に駆け寄って来た。
「花魁! あっしらにも何かお手伝いさせてくだせえ!」
若い衆の一人、清が勢い込んで言った。吉野が初めて「夕風屋」の暖簾を潜った時に出会った若い衆で、今では道中の肩貸しの男衆として就いてくれている。
「わっちのお客ん中にもご公儀と繋がりがあるお方がおられんす! どんか、協力させてくださんし!」
「あたいも!」
「あちきも!」
続々と女郎たちが声を上げて、吉原改革の諫止嘆願に助力したいと願い出て来た。噂の回るこの吉原で、吉野の今していることに気付かない女郎はいない。
予想だにしなかったこの状況に吉野は慌てて『待てっ!』と、女郎たちの興奮を制した。
『お前たち、分かって言ってるのかい? お客に艶書(恋文)以外の文を書くということは、お客を失う危険が伴うということだ。それに──』
吉野は改めて皆の顔を見回した、
『これは花魁であるあちきの役目だ。もしこの嘆願が聞き届けられ、ご公儀に知られることになったとしても、吉原改革を中止させた張本人として花魁であるあちきが一人で背負う! お前たちは気にしなくていいんだよ』
「何を水臭いことを言ってんだい」
吉野の熱い説得を受け、心打たれた女郎たちだったが、後方から聞こえた一言によって我に返ったように目を見開いた。
聞き覚えのある声の正体は菊葉だった。女郎と若い衆たちが散り散りに道を開けると、菊葉が堂々と間を歩み寄り、ねぶるような目で吉野を見上げた。
『……菊葉』
三年前、誰とも知らぬ客との間の子を産んだ菊葉は、現在張見世への復帰を果たしていた。傍には母の裾引きを掴んだ女児が、不思議そうに女郎たちを見回している。
「わちきらにとって、この見世が無くなるのが一番困んだ。周りの見世が潰れてってるのを目の当たりにして黙ってるわけには行かねえんだよ。何が ”花魁だから一人で背負う” だ。つべこべ言わずに、わちきらの協力を受け入れな!」
「そうでありんす!」
「これで見世が救われるんなら、あちきらには何も怖いもんはありんせん!」
菊葉に賛同した女郎たちは、更に勢いをつけて吉野に詰め寄った。
「見世が無くなるくらいなら、お客の一人や二人失っても同じことだ。なあ? みんな」
「あい!!」
菊葉の問いかけに、皆がぴしゃりと返事をした。
吉野は彼女たちを見渡した。その表情からは本気の色を帯びており、覚悟を決めた目をしていると分かって胸が熱くなった。
『お前たち……』顔を背け潤み出す目を抑えた後、再び彼女らを見返し嫣然と微笑んだ。『よろしく頼みんす』
吉野が軽く頭を下げると、女郎たち一同も続けて深々と頭を下げた。
威厳だけでは委縮してしまう。それが世の理だ。吉野は花魁の威厳と慈愛の心を持ってこれまで女郎たちに接していた。一部始終を見守っていた藤尾と瑞香たちは、姐女郎のいままでの行動に感服し、更なる尊敬の念を抱いたのだった。
斯くして廻り出した歯車は大きく広がって行き、やがて「夕風屋」での行動を聞きつけた他の見世々々もそれに倣い、吉原改革の諫止嘆願をお客に申し入れる手紙の数はより一層増して行くことになったのだった。
そんな中、吉野はある人物に宛てて筆を走らせていた。これが吉野にとって最後の頼みの綱となる。
「ほんに、花房様に文を書くのでありんすか?」夕華が不安げに訊ねた。「あのお方は旗本でござんすよ? ご公儀に近しいお家柄でありんす。大名家ならいざ知らず、旗本がご公儀の政に口を挟むんはご法度破りではありんせんか?」
紙から顔を上げた吉野は、夕華の目を真っすぐ見つめながら頷いた、
『吉原が無くなるくらいなら、花房様に嫌われても構わない……』
身請けを引き受けてくれた大旦那の協力を仰ぐことはきっと間違いではない。ただ、此度の件では花房の身を危うくさせ兼ねないうえに、見限られてしまうかもしれない。
深く恐れた吉野だったが、これで吉原を救うことが出来るのならと意を決したのだった。
────────────────────
八日が過ぎた頃、女郎たちがひっきりなしに吉野の室を訪れた。各々の返事が届いたのだ。
女郎と一緒に手紙を開封し、一喜一憂の時間を過ごした。「難しい」と言って突っぱねるお客もいれば「お前のためならば何だってする」という勇ましい返事だったり、様々あった。
吉野は、女郎たちと共に喜びを分かち合い、またお客を失った悲しみで落ち込む女郎に肩を抱き寄せて慰めたりした。
室の窓から侘しい仲之町を眺めていると大助がやってきた。久しぶりに会った気がした吉野は、大助の姿を捉えると胸が弾み、心地よく思った。しかし、それもすぐに崩れ去った。
「花房様がおいでだ。茶屋を介してないが、通しても良いか」
淡々と報告する大助に吉野は目を丸くした。番頭のその眼差しは「それ見たことか」と軽蔑したように見えて、心が引き裂かれるようだった。
『ああ、分かった』と返事すると、大助は辞去した。
前触れもなく登楼して来るのは大して珍しくもないことだ。しかし、手紙を出した後の突然の登楼。吉野は身体が震えだしそうになった。
し掛けを羽織っただけの粗末な恰好のまま、吉野は花房が待つ一階の座敷へ向かった。
「夕風屋」・一階 大広座敷 ───────
「文を受け取った」
吉野が上座に座ると、開口一番に花房が言った。その表情はこれまでより厳しく、声色は鋭かった。
『はい』
吉野は、し掛けの衿を握りしめながら悄然となった。花房は懐から封に入れ戻した吉野からの手紙を取り出し、目の前に突き返した。
「残念であるが……わしには出来兼ねる」
見れば、紙は皺くちゃになっており、花房が読みながら握り締めていたことを物語っていた。吉野は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから、顔を上げた。
『なにゆえか……お聞きしてもよろしゅうございますか?』
「何故だと? ご公儀に楯突く旗本がどこにおるというのだ!」
花房の声が怒りに震えている。吉野は気圧されながらも根気強く反論した、
『他のお客様は承知してくださいました。いずれもご公儀に縁のある方々ばかりでございます』
「ふん。そもそもの話、ご公儀がそやつらの嘆願を受け付けるわけがない」
せせら笑う花房に吉野は身を乗り出した。そんな花房の姿を見るのは初めて出会った時以来だった。
『やってみなくては分からぬではありませんか! やらぬ以前に諦めてしまっては、事は治まりません!』
「遊女がでしゃばるでないわ!!」
吉野は体から、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。初めて見せる表情、今まで聞いたこともない怒声に心臓が張り裂けそうだった。
身請けを引き受けてくれた花房にだけは、廓詞を用いない市井の話し方で接し、花魁の威厳を内に秘めて、将来の妻としての姿を見せてきた。しかし、二人の間の何かが音立てて崩れて行くのを感じ、吉野は花魁の誇りを引き戻すように姿勢を正した。
花房を見やると、ばつが悪そうに目をぱちくりさせている。もはや吉野にその表情を愛おしむ気持ちは薄れていた。
「すまぬ……ちと言い過ぎてしもうた。されど分かってくれ。四十路の下屋敷住まいの四男坊が、兄や父に吉原に通うてることを告げれば勘当されることは必定。お前を身請けする折の家も無うなってしまうのだぞ?」
『なら、あちきとの身請け話もご破算にしてくださいなんし』
「な、なんじゃと……?」
『時は掛かりんすが、前払いしてくださりんした身代金は耳を揃えてお返し致しんす。どんか、あちきをお諦めくださいなんし』
「ほ、本気か……? この吉原の為に……何も出来ぬわしを捨てると申すのか!?」
『仰せの通りでござりんす……』
「何故そこまで?」
吉野はまっすぐ花房を見返した。
『あちきはこの十二年間、様々な思いで過ごして来んした。大切な人たちを失い、争いたくない相手とも争い、色々な客に買われ、身を粉にして抱かれて参りんした。けんどその内、この吉原には江戸市中では到底得られぬ喜びも、楽しみもたっくさんあることを知りんした。女将や親父様への愚痴、菓子屋の甘味、甘えん坊な禿を手懐けられた充実、新造に様々なことを教える手応え……苦労もありんしたが、これが……これがあちきの幸せなのでありんす』
吉野の脳裏に、慕ってやまない人たちの顔と過ごして来た思い出が尽きることなく浮かんでは消えた。花房を見ると、唖然としている様子だった。吉野は続けた、
『今のあちきがあるのは、この吉原なのでありんす。吉原が無くなることは、何としてでも防がなければならないのでありんす。旦那様がお助けできぬと仰せならば、あちきなんぞ……旦那様の傍に行く身分には相応しくござんせん』
心からの訴えだった。いくら打ち解けた間柄とは言え、ここまで自分の考えを語ったのは初めてで喉がカラカラになった。咳払いを一つした後、吉野は両手をついた。これが最後であると覚悟しながら、
『ご足労おかけしんして、かたじけのうござりんした。どんぞ、お気を付けてお帰りくださんし』
花房に頭を下げた吉野は、そのまま相手の顔を見ることなく座敷を退いた。
廊下に出ると、女郎や若い衆たちが気まずそうに立ち尽くしていた。おそらく聞き耳を立てていたのだろうが、吉野は気にするでもなく彼らを一瞥した後、二階の自身の室へまっすぐ向かった。
曼珠沙華柄の襖を閉め切った直後、涙が止めどなく溢れた。息をするのも辛いほど、赤子のように泣いた。
生涯の、たった一人の夫となれるやもしれぬ花房を振った。なぜあのまま素直に花房の意思を尊重しなかったのだろうか、吉野は悔しかった。
しかし、育ててくれた場所を失うか、愛してくれる人を失うか、どちらかを秤に掛けるかは一目瞭然だった。
「姐さん……」
畳に突っ伏しながら滂沱の涙を流していると、徐に誰かの手が肩に触れた。
「もうお休みくださんし。横になって寝た方がきっと楽でありんすよ?」
瑞香であった。いつの間にか人払いさせた室に入って来ており、吉野の肩を優しく叩いてくれていた。いつの間にこんなに大きくなったのだろうと改めて思いながら、吉野は瑞香の手を取った。少女だった手が女の手になり、温もりが残っていて心地よかった。
「姐さんにはあちきがおりんす。大丈夫でありんすよ」
子供のように泣く姐女郎を、もしも恥ずかしいと思う女郎がいるとしたら、それは人情を捨て去った鬼だ。瑞香は、吉野を抱き寄せながらそう思ったのだった。
────────────────────
六月十六日 ───────
この日、江戸城では暑気疫気払いの恒例行事【嘉祥】が執り行われる日であった。
将軍近侍の田沼主殿頭意次は朝一番から登城し、雑用係の御坊主衆になりふり構わず指示を出していた。菓子の用意や儀式に使う大広間の清掃整備、参加する大名や旗本が余裕で着席できるように茵の間隔を自ら物差しで測って入念に確認するなど、準備に奔走していた。
そんな中、田沼の直属の部下・藤浪が額に汗を浮かばせながら慌てて駆け寄ってきた、
「主殿頭殿、一大事でございまする!」
「このような日の他に一大事なんぞあるか! ──ほれ! そこの毛氈が乱れておる! そこ! もっと丁重に扱え!」
露骨に顔をしかめながら、田沼は坊主たちに扇手であちこち命令を出していた。しかし藤浪は、ためらいを振り払って口を開いた、
「それが、ご老中方も困り果てているご様子にて……。吉原の改革を取りやめさせる嘆願書が山ほど送られておるのです!」
”吉原” という言葉を耳にして、田沼は思わず手を止めて藤浪を見た、
「なんじゃと?」
急ぎ、政が行われる【表】と将軍の住まいである【中奥】との境にある【御用部屋】へ向かうと、書面に目を通している老中たちでごった返していた。
「何事でござる!」
田沼の一言に、老中の右近衛将監が慌てた様子で立ち上がった、
「あ、あぁ……主殿頭殿! こ、これを……」
右近衛将監が微かに震える手で書状を差し出した。田沼はそれを乱暴に受け取ると、その書面の花押が、ある大名からの物だと分かった。そこには、吉原の起こりから、ご公儀が得る利益、江戸の町を潤沢且つ治安を維持させるための証が、ありありと綴られていた。
黙ったまま老中に突き返し、今度は手近にあったのを拾い読んだ。すべての書状には、吉原改革の諫止を要求する文面で溢れていた。差出人は大名から武士、商人に至るまで様々あった。
特に旗本からの文には目を惹かれた。そこには崇拝してやまない東照大権現の名があり、気付かされた。吉原遊郭は東照大権現がお認めになられた遊里だということを。三年前の寄合でも、この事について老中数人が進言していたのだったが、田沼はとっくのとうに失念していた。
これほどの男達を動かせる力を持つ吉原遊郭に恐れをなした田沼は、
「手をお止めくだされ!!」
そう命じると、老中たちは書面から一斉に顔を上げ、両手をついた。
江戸の治安整備の第一歩として、吉原改革に着手した田沼意次だったが、百、いや数百ほどの書状の山を見て、ただただ無駄な三年間を費やしたと悔恨の念にかられた。
「方々に申し渡しまする──」
田沼はある決断を下した。
六月十八日 ───────
吉原の朝は早い。特にお客が登楼している日は早々に起こして帰さなければならないからだ。この日の吉野の許には、珍しく四十代のお客が登楼していた。
吉原が危機に瀕していることはお客には関わりない。いつ見世がお取り潰しになるのか戦々恐々としながら営業する中見世や小見世は、平常心を持って登楼する男たちを迎えているのだ。
大門の前で首元に唇を這わせながら『また来ておくんなんし』と囁いて見送った後、夏霞が辺りを包んだ。不思議に思いつつ、見世に戻ろうとするやいなや、がらんとした仲之町で一人の女人がじっとこちらを見て立ち尽くしている。
誰かと思って目を凝らしてみると、その人影は「糸菊屋」の花魁、薄雲だと分かった。
『薄雲姐さん! 一体どこに行ってらしたので?』
数多の大見世と少数の中見世・小見世が閉店に追い込まれてからこの方、女郎たちの行方は噂にすら上らなかった。大概は人知れず切見世へ流れる者がほとんどだが、今の吉野は昔と違って、両河岸へ出向く気は無くなっていた。
薄雲花魁は吉野に向かってふっと微笑みかけた、
「あんたのおかげだよ」
『え……?』
どういう訳か問いかけようとすると、薄雲はふっと微笑んでゆっくりと霞の中へ消えてしまった。
寝ぼけていたのだろうか、と「夕風屋」に戻ってからは二度寝に入ることもないまま、髪結いの又次がやって来た。
髪を結ってもらいながら先ほどの霞の中の薄雲花魁を忘れようとすると、又次が気になることを言い出した、
「そういや先日、大見世の花魁の髪を結わせてもらった時、面白えことがあったんでさぁ──」
『待ちや!』
「へ、へえ……どうしやした? 花魁」
急に話を中断してきた吉野に驚き、又次は鏡越しで素っ頓狂な顔になった。
『大見世の花魁って……誰のことだい? 大見世のほぼすべて潰されちまったんじゃなかったのかい?』
「へっ!? 吉野花魁知らないんですかい?」
又次の話を聞いた吉野と瑞香、野分、楓たちは同様に顔を見合わせた。早々に髪を結い上げてもらい、挨拶もそぞろに階下に降りると、女郎、若い衆たちが歓声を上げて吉野の傍に駆け寄って来た。
大見世が復活した。
両河岸へ散り散りになっていた花魁と女郎、楼主に女将、廓内の問屋などに異動させられていた若い衆たちがそれぞれ見世に戻ることが出来た。
というのが又次の話してくれた事のあらましだ。
噂の広まりやすいこの吉原で、誰にも気取られずに見世に戻り、密かに営業を再開させた大見世の肝っ玉の太さにも驚きだが、こんなにあっさりとご公儀の政が鳴りを潜めたことに驚愕と同時に安堵で満ち溢れた。
「花魁がこの吉原を救ったのでありんすよ?」
後ろから抱き着いてきた藤尾が嬉しそうに言った。周りも同様に笑顔で頷き、吉野を湛え、のべつまくなしに快哉の叫びが室内を覆った。
『あちきだけの力じゃない……これは、お前たちのおかげでもあるのさ』
吉野はとうとう涙が溢れ、『ありがとう!』と皆の顔を一人ずつ見返して言った。
一介の切見世上がりの花魁が、二万八千五百坪(94214.87㎡)の広さを持つ吉原を、改革の魔の手から救う。この一大出来事に江戸の民たちは黙って見過ごすわけもなく、江戸全域に伝わり伝説となった。
……しかし、それを知る者は吉原終焉後の現在まで残ることはなかった。
この一件により宝暦以降、徳川幕府による吉原の改革の断行は永久に成されなかったものの、女郎が客たちに呼びかけて協力を仰いだことが幕府の知るところとなり、廓と客との艶書以外の文通を禁止した。
それでもなお、吉原の女たちは幕府や政府に楯突くことなく、明治・大正の間に起きた数多の危機を乗り越えて、女郎としての見栄と張りを持ち続けたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる