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イリベロトスドルイワ14

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 少年は、歩いている光太を見つけた。
 表情は引きつっている。
 その表情がどの感情を表そうとしているのか? と聞かれれば頭をひねるが、口の端を持ち上げようと試みていることから恐らく笑顔ではないだろうかと思える。

「……やぁ、光太くん」
「あぁ、あんちゃん。こんにちは」

 声は大きく、はっきりとした口調で。
 しかし、どこかがさついている。
 そして、中身がないように、何か空っぽさを感じるものだ。

「大丈夫だよ。あんちゃん。俺は、大丈夫なんだ」

 心配しているのがわかりやすい少年を、安心させるように光太はそう言った。
 涙が溢れそうに見える。

「少しくらい泣いたって、誰も怒らないでしょ……?」

 少年が思わずといった調子でそういうも、光太は首を横に振る。

「俺は、長らくうずくまっていたけれど、もう大丈夫なんだ。だって、俺は幸せに生きなくちゃならない。笑顔になれるような人生を、これから送っていかないといけないんだ。それが、約束だから」

 少年は、治したあとにある処理を行った。
 補修するために使用した妹は、がらんどうになって死んでしまった。
 このまま誘拐されたという事実のままでは、見た目が万全な兄がいては不自然な状態になる。
 なにより、少年はなりそこないの天秤という存在がした行為が、妹が命をかけた兄――光太に影響がでてしまうのを嫌った。

 記憶を書き換えることくらいは楽な事だ。
 それも地球人類すべてという訳でもなし、ほとんどは上手くいった。
 妹は事故にあったということにその場でして、兄はいなくなったりしていないということになった。

 ただ、天秤の始末をつけさせた先生――雨宮はいじっていないというか、いじれなかった。天秤を始末した後に記憶をどうこうしようとしたが、同じくなりそこないである雨宮は、おなじなりそくこないにかかわったからかどうかわからないが、その強度を上げていたからだ。それでも無理やりそうしようと思えばできるが、それをしてしまうと損傷してしまう。それは、少年の本意ではなかった。本人がいたずらにそれを吹聴する人間でもないためか、放置することを選んだ。

 そして、光太の状態も想定外だった。
 記憶は操作できたのだ。
 少年が不必要と思った、忌まわしき記憶は排除できた。
 光太に、天秤にされた行為のあれこれの記憶は残っていない。

「そういうと、母さんたちは変な顔をして、それのせいかぎくしゃくするけど……大丈夫なんだ、俺は」
「大丈夫じゃなくてもいいと思うんだけど」
「ダメだよ。だって、約束したんだから」

 魂の修繕を行う際に混じり合った。
 それがただの補修材として一部になってしまう前に――どうやら、兄妹は最後の会話を内で行ったようだったのだ。
 色々なことを誤魔化しやすくする、いじった記憶を補てんしやすくする意味もあって、妹は事故でになったということになっていた。

 記憶は、都合がおさまるように収束する。
 両親にとって、妹という存在は見るも無残な即死状態。会話もできずに別れることになった家族。それは、他の人間にとってもそういうものとして記憶されている。

 だが、光太にとっては違うのだ。
 光太は、自分の部屋で目を覚ました。
 修繕の都合もあって、何日かたってからの話だ。

 その結果。
 光太の記憶は、『事故にあった妹と最後の会話を病院でして、精神的なダメージを受けて引きこもっていた』ということになったのだ。
 両親の中では、『妹が事故で死んだショックで倒れてしまった』心配している子供が、やっと起きてきてこういうのだ。

『妹と約束したから』

 病院につれていってないのは、自分たちも気が動転したからと補填されている。
 後悔しただろう。
 絶望もしたかもしれない。
 ショックで、残された子供までおかしくなってしまったと思ったかもしれない。どなろうとしたどちらかを、どちらかが諌めるようなこともあったかもしれない。

 光太の両親は、光太を嫌った訳でないだろう。
 だが、どこか致命的にずれた。
 この家族のだれが悪いわけでもない。
 しいて言えば天秤という異常者が悪いし、中途半端なことをした少年が悪いかもしれない。
 が、誰が悪かろうが、それで謝られようが起こった事実が変わるわけではない。

 この家族は、ずれてしまった。
 温かなな家庭のはずだった。
 愛情ある、幸せな家族の1例であった。
 子供は1人になってしまった。
 両親は、子供をまっすぐ見れなくなってしまった。
 残った子供は、もう1人の子供に捕らわれてしまった。

 両親から見れば、幻覚に。
 本人からすれば、約束。

 他の人が聞いたなら、そう生きろという呪いのようにすら思えるものに。
 家族が壊れて両親も少し壊れてしまった。
 少年から見れば、光太はショックで幻覚を見たわけではないと知っている。
 けれどそれでも、光太は壊れていないようで、壊れているようにも感じる。

(どうしてうまくいかないのだろう)

 記憶の操作を何度もすれば、それは齟齬が生まれやすくなってしまうだけだ。
 少年は、どうすることもできず、笑顔になろうとする友人を前に、ただ後悔するしかなかった。



 そうして、数年が経って。
 光太は1人暮らしを始めることになった。
 いつも通りの笑顔で過ごす毎日。
 たまに嫌なことはあるが、特に問題なくなった毎日だ。

 色々あったし、今でもそれがかかわると変な顔をする大人や友人はいるが、それでも光太は気にしすぎず暮らしていた。
 先生と呼んだ人はいまだそのまま先生と呼んで習い事を続けている。
 あの頃同じく通っていた友達とは、いまでも付き合いがある。
 妹がお世話になった病院はかかりつけになった。妹の話をすると空気が妙になる場所の1つであるため、その感謝を伝えたりはできない。

 死なず、幸せに、笑顔で生きる事。
 光太が望むのはそれだけだ。

(変なあんちゃんだったなぁ。いや、あんちゃんは普通ですみたいな顔して変人寄りの人だけど……)

 朝話した長い付き合いの年上の友人の事を思い出す。
 どこか、いつも通りでいて神妙な空気感を出していた。
 あまり、付き合いはじめから変わっていないようにも見える不思議な人というのが光太の印象だ。
 ずっと心配してくれるのが苦手で、だけど少し有難いような人ではある。

(何かあるなら、いってくれてもいいのに。あの人はあんなふうでいて、自分からは踏めこめない感じの人だからなぁ――ま、こっちから聞いてあげようかな)

 ふと、空が暗くなったような気がした。
 まだ日が沈むような時間じゃないはずなのに、太陽が無くなりでもしてしまったような暗闇に。
 思わず空を見ようと、首を傾け――意識が落ちた。
 くらくらとする。

(あぁ――? ここ、どこよ)

 気付けば、全然知らない場所にいた。
 そしてどこからか声が聞こえてきて――
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