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鬼の首51

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 関係あるかよ、という声は小さかった。

「――そしてお前さ、目論見が成功しても余程上手くやらなけりゃ多分いいように使われて終わるか――ただただ消されるんだと薄々気付いていたんだろ。クリアしました、良かったね! なんて展開が望める相手じゃないって。
だから怯えた。焦っていた。選ばれた、なんてお為ごかしだ。お前という玩具を拾って遊んでいる誰かでもが見ていることを警戒したか? 怯えた忖度ご苦労様だな」
「う、る、せぇぇぇぇぇ!」 

 がむしゃらに突進してきた天秤を避ける。そこからの連打も、余裕をもって回避ができる。もはや、均衡は崩れ切ったのだ。
 だから、それは容易なことである。

 相手が弱くなった以上に――人の部分を理解し掌握出来た結果だ。
 啓一郎の『出来事の中心に関われない』とは、つまり危険に近づかないという事である。
 そうすればそれだけ生命が繋がりやすいという事であり、本人の精神はさておき安全であるという事。
 ある種の進化というか――生物としての危険への勘や本能を濃くしたものであるのだ。

 『全体を見れば中心というのが一番危険なものである。つまりその中での大きな危険を察知する事ができた』ということだ。
 それを制御できない結果、本能が勝ち無意識に察知した全てを避けさせていた。

 生きるために、できる限りの危険を本能が避けさせていた。
 それに気付けなければ、理性ではどうしようもない事だったのだ。

 神田町が精神を察知できるように。
 浅井が視覚として特定事項を得て、これをある程度引力操作できるように。
 天秤が逃げることに特化し、方法を模索するためにあらゆることの習熟度が高くなり、その変わらぬ姿から――おそらく老いるという機能を極限まで薄め、機能が弱まっていくことさえなかったように。

 啓一郎も、ただ身体能力が高いだけではなかった。
 その異能を、知りようがなかっただけだったのだ。
 力の中心を探る。
 危険を察知する。
 掌握出来た今、それを高機能で実現できる。応用ができる。

 だから、猶更触れることさえできない。格上でもない、繋がりも薄くなった状態なら、流れが手に取るようにわかるのだから。

「人だったお前の方が、案外いい勝負になったんだろうな」
「馬鹿にしてんなっ! 弱いモノ見てぇな目で見下して粋がってんじゃねぇ!」

 啓一郎の攻撃は、当たる。
 天秤の攻撃は、当たらない。
 そんなもの、もう勝負がついているようなものだった。

「お前は人を切り捨てたんだろうが。
だから、強みが無くなった……今のお前はどっちつかずの、単なる人でも鬼でもない、中途半端の化け物になったんだよ」
「違う。俺は進化したんだ、ちゃんと、てめぇがいなけりゃもっと!」

 内側でもっとやれというような声が無数に聞こえる。
 支配下の鬼たちはもちろん、先ほど融合状態になった家族らからだ。毒々しいものというよりは何やらスポーツ観戦でもしているのかというくらいの野次めいた程度の。
 啓一郎はのんきなもんだと、呆れる。
 呆れる余裕すらあるという事だった。

「お前はなんだってできたらしいじゃないか。多分、お前は『より多くの事を取得しやすくなる』『危険から遠ざかる時全力以上を振り絞れる』あぁ、『弱点を見やすい』『勘が鋭い』というのもあるか? そういうような特異性だったんじゃないか? そう外れてないと思うんだが、どうだ?
それがなくなったんだよ。ないんだよ、今。
お前を支えていたお前の強みだったものを、お前は捨てたんだよ。鬼になって捨てたんだ。俺と違って消えたんじゃなくて、わかっていて食わせて捨てたんだろ――そんなだから、ずっと1人なんだよ、お前は」

 優れていた。
 天秤という存在は、啓一郎以上に優れていたのだ。
 やっていたことは外道の行いだったが、優れていたことに違いはないのだ。
 そのまま鬼になったなら、どうしようもない劣勢を強いられたのだとわかるくらいには。
 こんな風に、追い詰めることができるような結果にはならなかったのだろうとわかるくらいには。

「知らねぇ! そんなもん知るものか。そんなもんなくたって――」

 やろうと思えば、恐らく天秤にも今ならできる。それらを取り戻すことが。
 乱されて人間の部分が大きくなっているのだ。それを前面に押し出すくらいはできるはずだった。取り戻した啓一郎というお手本がいるのだ、そうしたければ思いつかないわけもない。第一、もともと上位互換のような存在であるのだから、啓一郎にできるなら同じ状況であれば容易にこなせておかしくないのだから。
 鬼から脱することはできずとも、それを取り戻すほどに人間の色を濃くするくらいは。
 だが、それができない。天秤には、それは。
 もしもそれが優位に立つために必要だとしても、それを選ぶことができない。

「それがお前が逃げられなかった、生きられなかった人間の証だから。罪の証でもあったから。
怯え切る元で、理由だと信じていたからだ」

 怯える人生だったといった。
 実際そうだったのだろう。啓一郎も、実際にはそう頻繁に感じていたわけではないが――浅井の時やその他で一時的に感じたことがある、どうしようもない大きなもの、終わらせてくるものの気配。
 それを感じ続けていたのなら、狂ってもしまうだろうと理解はする。許すことはできないが、確かになっておかしくはないだろうとは思うのだ。
 そして、人間天秤であったころを捨てることで――きっと少しだけでも、その怯えは解消された。されてしまったのだろう。
 能力を、人間であった頃の全てを捨て去ることで。

 人に戻ることは、恐怖が戻る事。
 今でも怯えているが、それ以上の、どうしようもない人間のころの恐怖が戻ってくるという事を意味するのだろう。

 だから、再びトラウマの恐怖を感じることが、恐ろしすぎるからできないのだ。

「俺も同じように、さっきまでなくなってたんだろうがな。
本人以外になったやつなんぞに、気付いてないふりをして不利をして固持し続けるやつに、もう負けてなんぞやるものか……なぁ、残りカス以下が。どんな気分だよ、毎度そう呼んでたやつにボロカスにやられるのはっ」

 だが、それで投げ捨てていくならば死んでいるのとどう違うのか、とも思う。
 恐怖が無くなった、それはいいだろう。だがそのために自分がなくなれば、消えてしまう事は元の木阿弥ではないかと。
 先ほど完全なる鬼になりかけていた状態ならまだしも――死人に負けるつもりは啓一郎にはもうないのだ。
 胸を張れない人生を送ってきた。
 けれど、死人に負けてはその胸を張れない人生につき合わせてきた幾多の人間にも、家族にも申し訳が立たない。
 啓一郎はせめて自分らしくありたかった。
 生きるのも、喜ばれるのも――恨まれるのも。

「逃げて逃げて、逃げ続けて――最後が袋小路か。お笑いだな……いや、笑えもしないな。やっぱりただただ哀れだよ、お前は。
同情しようとは、まったく思えないが……」

 何度か、そう見えていた。
 まるで、子供だ。
 庇護されていない、子供。
 周りが全て敵に見えたか、阿呆に見え過ぎたからなのか。
 天秤に、味方がいた時間はなかったのだろうと、なんともなしにわかるのだ。

 ずっと独りぼっちで震えていたのだ。
 温かさが与えられず、未完成でも人への興味も失えず。
 自分の能力に振り回され続けた人類。

 哀れだと思う。心底。
 許せない事とは切り離して、色々なことがあって麻痺している今だから思えることなのかもしれないが、確かに啓一郎は哀れな存在だと思ってしまった。
 元からそうだったのかもしれないが――成長しようがないのだ、精神の。そんな環境では、どうしようも。

 だから、見下しているわけでもなく子供に見えてしまうのだ。

「哀れむな……哀れんでんじゃあねぇ……てめぇみてぇなのが、俺を、哀れんでんじゃあねぇぞ……」

 ぱしん、と当たる。
 それは、力のない拳だった。
 鬼だというのに、弱弱しい拳。避けれるというのに、当たった拳。
 怒りを吐き出すような言葉は、同時に泣いているようにも聞こえた。
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