モールス・サイン・ラブ

トーマス・ライカー

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月曜日

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 今朝は珍しくふたりとも、8:30に病院に着いた。

 バスから降りて歩き出す彼女に、左手を挙げて見せながらマウンテン・バイクで走り込む。

 彼女は手話で朝の挨拶をしてくれたけど、僕は右手が使えなかった。

 僕がマウンテン・バイクを駐輪場で固定するまで、彼女は待ってくれていた。

 リュックを背負って歩き出した僕に歩み寄りながら、彼女はもう一度手話で話し掛ける。

『…おはようございます…昨夜はよく眠れた? 』

 僕は足を止めて、手話で応えた。

 まだ歩きながら充分に応えられるほど慣れてないから。

『…おはようございます…ぐっすりと眠れたよ…ありがとう…』

 それから並んで歩き始める。

 彼女は、松本  恵里香。24才。

 僕は、加藤  紘一。25才。

 彼女は聾唖の看護師で、僕は大きい機械の面倒も診るシステム・エンジニアだ。

 彼女は聾唖者でありながら看護師の国家資格を取得した頑張り屋の努力家で、その一点だけでも尊敬に値すると、僕は思っている。

 僕達はお互いに1人暮らしなんで、朝の挨拶に続けては…病院勤務なだけに、お互いの体調を気遣ったりとか…前夜の夕食はどんなメニューだったとか…最近購入した好いものとか…実家から送られて来たものとかを…手話で遣り取りするのが、いつもの流れだ。

 でも僕の手話がまだ稚拙なこともあって、不足なく伝えるのは難しい。

 従業員通用口から入って、それぞれの更衣室で着替える。

 僕の職場は、通称で『修理部』と呼ばれている『システム・保全・メンテナンスグループ』だ。

 彼女は看護師だが、特定の科には所属していない。

 手話を使う看護師は彼女も含めて3人いるが、彼女の手話が1番語彙が多く…適切で的確で…表現も幅広くて速いから…手話を使う患者さんをいつもたくさん担当して、コミュニケーションを取っている。

 だから、彼女はいつも科の枠を超えて跳び回っている。

 彼女と知り合ったのは、今から20日前……不具合を起こして動きが悪くなっていたストレッチャー・ベッドの扱いに苦労していた彼女を見留めて、その場で治した時だった。

 その時まで僕は、手話のしの字も知らなかった。

 彼女は発声が全く出来ない訳じゃない。

 でも…余程注意深く聴かないと、彼女の『言葉』は理解できない。

 だから僕は翌日…ラウンジで彼女と一緒にお昼を食べながら、手話を教えて欲しいと頼んだ。

 手話が解るようになれば彼女の要望を正確に聴き取ることが出来るようになるし、応答や説明も正確に伝えられるようになると思ったからだ。

 彼女の反応は鈍かった。

 面倒くさいと思ったんだろう。

 そりゃそうだ……毎日仕事で忙しいのに。

 だから僕は、その代わりにモールス信号で使うサインを教えると提案した。

 彼女から手話に触れて…手話の重要性は理解したが、究極の通信手段はモールスだと確信している僕は…その事も彼女に伝えながら、お互いに教え合おうと伝えた。

 すると彼女は、モールス信号で使うサインに興味を持ったようで…お互いに教え合う事を承知してくれた。

 そうは言っても、僕達は毎日とても忙しい。

 昼休み中の20分ぐらいと…シフトが一緒なら、帰り際に数分話せるぐらいだ。

 僕は日勤だけど…彼女は看護師だから、早番・日勤・遅番・夜勤に深夜勤もある。

 それでも、少しずつ教え合っていった。

 日本語の50音は…1文字ずつ、モールス・サインで表現できる。

 だから…『あ』行から、ひと文字ずつ対応するモールス・サインを教え始めた。

 代わりに彼女からは…簡単で覚えやすく伝達もしやすい、手話に於ける自分の状態や感情の表現から教えて貰い始めた。

 僕達は、まだ知り合って20日だから…終業時刻が一緒になったのは、2回だけだ。


 最初は喫茶店でお茶を飲みながら……2回目はスーパーで買い出しをしながら、野菜や食材の名前を手話やモールス・サインで教え合った。


 今日は月曜日…珍しくふたりとも日勤業務だ。


 お昼のラウンジでは、いつも同じテーブルに対面で座る。


 僕はいつもの日替わりヴァリュー・ランチだが、彼女は可愛らしい手作りのお弁当だ。


 いつも美味しそうに見えるんだけど、僕からすると量がかなり少ないんで、まだ作って欲しいとは頼んでない。


 まあ忙しいからって、断られると思うけどね。


 手話を教えて貰う時には隣り合って座って…モールス・サインを教える時には、対面で座る。


 隣り合いで座るのは…彼女と同じ方向を向いていないと、手話のハンド・パターンを正確に憶えて模倣できないからだ。


 モールス・サインを教える時には、彼女の右腕を借りる。


 右手人差し指で、彼女の右腕を微かに叩いて『トン』


 同じ場所に人差し指を置いて、右に3cm滑らせて『ツー』


 モールス・サインは、この『トン』『ツー』の組み合わせで文字・語句・単語・名詞・動詞の総てを表現する。


 この奇妙な教え合いは、その場に居合わせた人達には…かなり奇異な印象を与えたらしい。


 そりゃそうだよね。何やってんの? あのふたり…ってな感じじゃないかな。


 職場の同僚とか仲の良い職員からは、もう告白したのかって訊かれたり…手話を習うのにかこつけて上手くやってるなとか言われて冷やかされるし…呼ばれた現場で何かを修理していても、あれは何をやってるの? と…他の看護師さんや医師の方に訊かれたりもした。


 その都度僕は…効率的なコミュニケーション・スキルの勉強会ですよって説明するんだけど…何だかみんなニヤニヤしちゃって、あんまり信じてくれてないみたい。


 後で彼女から聞いたけど…彼女も同じ病棟の看護師さんとか女医さんとか…よく話す職員さんとか、入院患者さんからも…手話を教えてあげてる彼って格好良いよね、とか…お似合いよ、とかも言われたそうだ。


 何だか彼女に申し訳なくなって…一度彼女にこう訊いた。


「…もしも、周りの目や人に恥ずかしいんだったら…止めようか? 」


 すると彼女は手話で、こう応えた。


「…ううん…モールス・サインを習うのは、楽しくて面白いから…大丈夫だよ…」


 この返答に接してから僕は、彼女の事を好きになり始めたんだと思う。


 この日(月曜日)は、終業時刻も同じだったんで…病院から出る時に彼女と話して、彼女がバスを降りる停留所近くのファミレスで…一緒に夕食を摂りながら、教え合う事にした。


 彼女はバスで帰るから、先にファミレスに着く。


 マウンテン・バイクを飛ばしても、彼女より7分遅れた。


 息を弾ませながらファミレスの隅の席に対面で座る。


 メインが食事だからって事もあったけど、彼女には以前にモールス・サインで日本語の50音を表示している対応表を渡していたから…それを取り出して参照しながら、暫くモールス・サインでの遣り取りで…今日の近況を語り合った。


 消化器外科の病棟で故障していたガス給湯機を修理していた時に……ちょうど通り掛かった外科部長から声を掛けられた時の事を、モールス・サインで伝えた。


『…若いのに勉強熱心な事で感心だね……彼女のような、手話の上手な看護師さん達が居てくれるおかげで…聴覚に障害のある外来の患者さんにも、気軽にこの病院を使って貰えるようになっているんだよ…冷やかされたり…変な事を言われたりもあるだろうが、気にしないで続けて下さい…』


 これをモールス・サインで彼女に伝えた時…消化器外科部長さんは、自分が科を超えて手話を使う患者さんへの対応を拡げ始めた頃…最初に認めて強く推薦してくれたんですと、モールス・サインと手話も混えて…熱っぽく語ってくれた。


 その他に…人伝てに聞いた話なんだけれども、と言う前置きで彼女が教えてくれたのは…自分を講師とした手話の講習会を、院内で定期開催してはどうかと言う議案が…各科部長が集まる定例会議で提案されたそうだ。


 でも自分の業務が時間としても形態としても、明らかに不規則で不定なものであるので…とても時間が採れないだろうとの見解の基…廃案となったそうだ。


『…まあ、仕方が無いだろうね。ただでさえ、君は忙し過ぎるから…』


 そう応えると彼女は…『でも、いつかはやってみたい』と…すごく前向きに応えた。


 料理が運ばれて来て…一緒に食べながら、ふと彼女がこう言った。


『…そう言えば、アパートの石油給湯機の調子が悪いのよね…』


『…君は明日、早番だよね? じゃあ、僕が朝…登院する前に君のアパートに行って、給湯の室外機を診てみるよ…』


『…ありがとう…でも、大丈夫? 』


『…大丈夫だよ。30分、早く起きれば良いだけだからね…』


『…朝食は? 』


『…一回くらい食べなくても、大丈夫だよ…』


『…ダメよ! じゃあ、私があなたの朝食を作って…ちゃんと包んで玄関ドアの直ぐ外に置いておくから、それを食べてから病院に来て? 』


『…君が大変だから……そんな事までしなくて良いよ…』


『…良いのよ。これが私からあなたへのお礼だから…』


『…分かったよ…じゃあ、ありがたく頂きます…』


 観念したようにそう応えると…彼女が笑って、僕も笑った。


 その後も笑顔を見交わしながら夕食は進み、終わらせた。


 『僕が君をマウンテン・バイクの後ろに乗せて送って帰れるように、特製の荷台を造って熔接したんだよ』と伝えると…『大丈夫なの? 私の体重、知らないでしょ? 』と笑って応えたので『多分、君が2人でも大丈夫だよ』と応えたら、彼女は笑いながら僕の背中を右手で叩いた。


 ファミレスから彼女のアパートまで5分間…荷台に異常は無かった。


 彼女を降ろして自分のアパートに帰る前に、ちょっと室外給湯機をチェックした。


 詰まりも含めて、構造やシステムに異常は無いようだ。


 念の為にお湯の出具合も確認させて貰い、多分電気的な系統の接触不良だろうと思った。


 最後、彼女に右手を挙げて見せて挨拶し、帰途に着いた。

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