ショートホラー

ぷーさん

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忘却の付箋

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毎朝、目を覚ますと、部屋のどこかに付箋が貼られている。洗面所の曇った鏡、冷蔵庫の錆びた取っ手、食卓の擦り切れたテーブルクロス。最初は「昨日の私が貼ったメモだろう」と気にも留めなかった。牛乳を買う、クリーニングを出す、明日の会議の準備。ありふれた指示ばかりで、几帳面だなと自分に感心さえしていた。
東京の外れにあるアパートは、静かだった。窓から差し込む秋の光が、古い木の床に淡い影を落とす。だが、時折、部屋の隅に置かれた小さな香水瓶が目に入る。甘い花の匂い。今はもう、誰も使わない。

ある朝、キッチンカウンターに貼られた付箋に目が止まった。見覚えのない筆跡で、こう書かれていた。
「あの夜のこと、思い出せ」
細く震える文字は、まるで闇の中で書かれたようだった。心臓が締め付けられる。私の字ではない。学生時代の手帳と見比べたが、線の太さも癖もまるで違う。誰かがこの部屋に入ったのか? 鍵は無傷、窓も閉まっている。なのに、胸の奥で何か重いものが蠢く。オフィスに向かうエレベーターの中で、ふと、知らない男の声が頭に響いた。
「君は忘れたいんだろ?」
 その声は、どこか悲しげだった。鏡に映る自分の顔が、一瞬だけ歪んで見えた。不気味さを感じながら、オフィスへ向かった。書類を手にしても、その一文が脳裏を離れず、視線が泳いだ。夜、部屋に戻ると、埃っぽい空気と静寂が私を包む。だが、胸のざわつきは消えない。誰かが、すぐ近くで私を見ている気がした。
 

翌朝、寝室の壁に新たな付箋。
「彼女はどこへ行った?」
その文字は、昨日の震える筆跡と同じだった。「彼女」とは誰だ? 頭に浮かぶ顔はない。だが、その言葉は胸の奥で鈍い痛みを呼び起こす。思い出せないが、私には彼女がいたのだろうか?理由のわからない悲しみが、喉元までせり上がる。手帳の走り書きと見比べても、付箋の筆跡は明らかに違う。まるで、別の誰かが私の部屋を侵すように貼り付けている。

その日から、付箋は増えた。書斎のデスクの角、リビングのソファの背もたれ、バスルームのタイル。カーテンの隙間から差し込む光が、付箋の文字を不気味に浮かび上がらせる。内容は具体的になっていく。
「白いバラの花束」
「あの公園の、古いベンチの下」
「赤く染まったアスファルト」
震える文字は、深い苦しみを抱えた者が必死に訴えているようだった。ある朝、冷蔵庫の付箋に凍りついた。
「まだ、思い出せない?」
その筆跡は、私の字にそっくりだった。学生時代の手帳の走り書きと見比べても、線の強さ、字の癖が一致する。だが、私はこんなメモを書いた記憶がない。混乱が深まる。私の字と、震える見知らぬ字。両者が入り乱れ、まるで私の頭の中で二つの声が争っているようだった。
付箋を捨てようとしたが、なぜか手が止まり、机の引き出しに溜め込んでしまう。誰かが、私に何かを思い出させようとしている。だが、なぜ? 霧のような記憶の断片が、頭の奥で揺らめいていた。夜、眠る前に、どこかで男の声が囁く。
「君は自由になれる。だが、彼女は?」
 その声は、まるで私の影のように、すぐ近くにいた。
 

衝動に駆られ、付箋が示す「あの公園」へ向かった。新宿のネオンが遠くで瞬く中、静かな住宅街の外れにある小さな公園にたどり着く。秋の雨が地面を濡らし、雑草の匂いが鼻につく。古いベンチは、クスノキの木陰にひっそりと佇んでいた。彼女と二人でここを歩いた記憶が、ふと頭をよぎる。白いバラを手に、彼女が笑っていた。ベンチの下の土を掘ると、錆びたブリキの箱が出てきた。湿った土の匂いと、冷たい金属の感触に心臓が跳ねる。震える手で箱を開けると、中には色褪せた革表紙の日記があった。

ページをめくる。そこには、私の筆跡が並んでいた。3年前の事故の記録が、克明に綴られていた。文字を追うたびに、断片的な映像がフラッシュバックする。
「あの日、私は彼女を乗せて車を運転していた。婚約者だった。雨の夜、滑りやすい路面。一瞬のよそ見。対向車線から飛び出したトラックを避けきれず、衝撃。彼女は動かなかった。血が、助手席に広がっていく。彼女の手に握られた白いバラが、路面に散らばった。私の、せいだ……」
日記の最後には、衝撃の記述。
「彼に頼んだ。この記憶を封じる方法を。もう、耐えられない」
その後には、付箋の貼り方、記憶を上書きする習慣の作り方が記されていた。
「毎朝、同じ時間に付箋を貼る。新しい記憶で古い記憶を覆う」
私は、罪悪感から逃れるため、誰かの助けを借りて記憶を封じたのだ。私の筆跡に似た付箋は、記憶を封じる前の私が書いた指示だった。だが、震える筆跡は誰のものか? 日記には「彼」の名前はないが、こう書かれていた。
「彼は言った。『これで君は自由だ』。だが、彼の目は、彼女の名前を呼ぶたびに震えていた。彼はあの夜、現場にいた。私と同じように、彼の心にもあの夜の傷が深く刻まれているようだった。彼は、私の記憶を封じながらも、いつか私が真実に向き合うことを願っていたのかもしれない。」
 

日記を閉じた瞬間、頭の中で何かが弾けた。部屋に貼られた付箋の文字が、まるで私の視界から溶けるようにぼやけた。記憶のフラッシュバックが押し寄せる。血に染まった彼女の姿、白いバラの花束がアスファルトに散らばる光景。彼女の笑顔が、血に染まる前に一瞬だけ浮かんだ。繰り返し、脳裏で再生される。私は、彼女の死を認めたくなかった。記憶を消せば、彼女はまだ生きていると信じられた。だが、それは私の罪を隠すための嘘だった。彼女の記憶をなくすことで自分を守ったのだ。

私は声もなく公園の地面に崩れ落ちた。湿った土の匂い、冷たい秋の風が現実を突きつける。付箋は、私の罪を隠しきれなかった。記憶を取り戻した今、それが私に罰を与えるために仕組まれたものだと気づいた。自宅に戻ると、埃っぽい部屋は、記憶を封じるための付箋が貼られる前の、あの静寂に戻っていた。以前の付箋は全て消え、まるで悪夢から覚めた後のようだった。だが、ベッドサイドのテーブルに、たった一枚の付箋が置かれていた。見覚えのない、あの震える筆跡で、こう書かれていた。
「次は、あなたの番。明日の朝、公園で」
その下に、私の名前が小さく記されていた。震えが止まらない。「彼」は私を救おうとしたのか、それとも最初から真実と向き合わせるために導いていたのか。彼もまた、彼女の死に囚われているのではないか。
「あなたの番」とは、私自身が罪と向き合い、償いを始める番だということなのだろうか。私は公園に戻り、彼女の名を呟き、白いバラをベンチに置いた。償いは、ここから始まるのかもしれない。だが、私の心は、闇に閉ざされた。公園の木々のざわめきが、耳元で彼の影を囁いているようだった。誰もが忘れたい過去を持っている。

だが、私の罪は、永遠に私の隣にいる。
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