あたしが大黒柱

七瀬渚

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第4章/理解を得るのは困難で

8.与え合う仲でいたい(☆)

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 坂口とも別れた後、2人でマンションのエレベーターに乗った。廊下を進んで辿り着いたドアの前。『葉山』の表札を目にしてホッと安らかなため息が零れる。

 鍵を挿し込んで開けると玄関の芳香剤の香りがあたしたちを包み込む。本当、しばらくぶりに帰ってきたみたいに懐かしい。


「蓮、熱も下がったみてぇだし今のうちに風呂入るか。その方が後でゆっくり出来るだろ」

「ん……」

「よし。ちょっと待ってろ、浴槽洗ってくるからな」


 あたしは一度寝室のクローゼットに寄り、部屋着を持ってから脱衣所へ向かった。蓮は真っ先に水槽のあるリビングへ行ったみたいだ。

 残ったままだった浴槽の湯を流した。着ていた服は洗濯カゴに入れ、通気性抜群なAラインのカットワンピースに袖を通す。膝下まである裾を軽く結んで掃除の準備完了だ。

 今日は入浴剤も入れてみるかな。ラベンダーは蓮もあたしも共通して好きな香りだ。そんなことを考えながら浴槽を綺麗に磨き上げた。なんだかあたしもスッキリした気分!


「蓮~、1人で入るか? その方がくつろげそうならあたしはここで……」

 リビングに戻ったとき、蓮はテーブルの前にちょこんと正座していた。

 自分が書き残していった手紙、それとあたしにプレゼントしてくれたマフラーを見つめてる。


「ああ、お前に早く会えたらいいなって思って会社にそのマフラーつけていったんだよ。お守りっていうかさ。花鈴ちゃんが来てくれたのは急だったからそのときは置いていったんだけどな。あとちょっとほつれちまったんだけど……」

「葉っぱ……2つ」

「……うん、そうだな」

 蓮がいま口にしたそこは無事であってくれて良かったとあたしも思う。尤もボロッボロになったって手放すつもりはなかったけど。

 小走りで駆け寄ってきた蓮があたしの胴にぎゅっと抱き付いた。そう、これからもずっと葉っぱ2つだよ、と思いを込めてあたしも彼を強く抱き締めた。


 浴槽に湯が溜まって蓮は風呂に向かってった。せっかくだからあたしも次に入るつもりだけど時刻はもう13時頃。昼飯もなんか考えなきゃな~と冷蔵庫の食材を隅々まで眺める。トマトとアボカドを見つけてこれだと思った。

 今日はいわゆる小春日和だ。さっぱりした冷製パスタなんてどうだろう。大雑把なあたしは料理とかそんなに得意じゃないんだけどさ、乾燥バジルを入れればそれらしい味になりそうってことくらいは想像つくぜ。

 パスタ用の湯を沸かしている間にトマトとアボカドを刻んで、オリーブオイルやブラックペッパー、粉末のコンソメなどで味付けをする。初心者向けのこの手順ならそんなに難しくもない。

「葉っぱ2つ、か」

 生のバジルがあったらそんな洒落た演出も出来たんだけどな、なんて、想像しているうちに微笑んでた。蓮、もうすぐ出てくる頃かな。同じ家に居るのに、もう安心を手にしたはずなのに、凄く凄く待ち遠しいよ。


「葉月ちゃ……お風呂、ありがと」

「おお、ちょうどメシも出来たとこだぜ!」

 しっとり落ち着いた髪をタオルで拭きながらやってきた蓮。ドライヤーで乾かしてる間にパスタも常温に近くなっていくだろう。冷た過ぎると胃腸の負担になるだろうから、これももちろん計算通りさ。


 食卓はいつもダイニングだけど今日は水槽に囲まれたリビングを選んだ。時刻はもうすぐ14時。遅い昼食になっちまったな。

「おいし……」

「お、マジか! そりゃ良かった」

 蓮が気に入ってくれたから嬉しくなった。毎回は難しいかも知れねぇけど、こうやって落ち着いて食卓を囲める方法、その時間を作る方法もしっかり考えていこう。


 食事を終えたら蓮は水槽の手入れ、あたしはまだほのかに温かいであろう風呂に入ることにした。

 シャワーの音、あたしには心地良いけどこれも辛いときがあるなんてな。想像の及ばない範囲のことを想像しようとしたってやっぱり無理で、ただこの胸が苦しくなるだけだ。人と支え合っていくには客観的な目も必要だって知ってはいるよ? 共感のし過ぎは時にバランスを崩すことになりかねないってことも……

 でも力になれるか不安になる。湯に浸けたタオルを海月クラゲみたいにして遊びながらも童心はさほど力になってくれなかった。

(うん、やっぱり話そう。こんなときだからこそ)

 一方で決意も確実なものになっていった。


 風呂から出たら蓮はソファの上に横たわり瞼を閉じてた。すう、すう、という息遣い。緩やかに上下する細い肩。そうだよな、疲れたよなと労わるべく、あたしは隅っこに畳んであるタオルケットを広げて彼の身体をふんわり覆った。

さなぎみてぇだな)

 そのポエミーな想像はあたしに希望をもたらした。

 コイツの中には可能性がいっぱい眠ってる。どんな人間にも言えることだろうけど、何もかも自分には不可能と思い込んじまってるコイツだからこそ強く実感するんだ。

「大丈夫、必ず蝶になれるさ」

 まだ羽化していない背中をさすって身体を寄せているうちにあたしもうとうとと微睡んだ。





 こんな優しい時間を過ごすのはどれくらいぶりだろう。


 水面から立ち上がる幾つもの葉。水滴を表面に転がしながら呼吸をする葉。その中で次々と咲いていくピンクの花に囲まれながらあたしは次第に目を見張っていく。


 その先には……



――葉月、ちゃ……



 彼が佇んでいた。





「……あ、わりぃ、あたし眠っちまってたか」

 彼にかけたはずのタオルケットが自分にかかっている。いま見た幻想世界が夢だったのだと気が付いた。

 陽もだいぶ落ちたみたいだ。この季節ならそうだな……多分、17時過ぎくらいだろう。


「ちょっと話してもいいか?」

 あたしは見下ろす彼の頰に手を添えて言った。彼もこくりと頷く。

「僕も……話が……でも、葉月ちゃ……先に、言って」

 なんだろうって不安定な胸が疼いたけど、今は素直に伝え合うことの方が大事に思えた。


 改まった話だろうとお互いに察したみたいで、あたしたちは向かい合って正座する形になった。あたしは言った。包み隠さず。彼の手を取ってその寂しげな茶の瞳を見つめながら。

 だけどやっぱり蓮はカウンセリングという言葉のところで下向きに目を逸らした。ただでさえ薄い唇が見えなくなるくらい固く結んでる。予想はしていたことだ。だからこそあたしは握る手に力を込めて。

「頼む、自分を責めないでくれ。花鈴ちゃんの言う通りあたしは元々そんなに強くねぇんだ。お前と人生を共有することでやっとそれが見えたんだ。正直辛いこと……あったよ。だけど考えてみれば自然なことなんだよな。今まで自分の人生には無かった痛みを知ったんだから。それでも知らないよりかは良かったと思う。お前独りで抱えていくよりかは、ずっと」

 紛れもないこの本心がなるべく真っ直ぐ伝わることを、救いになることを願った。優しいお前のことだ。すぐには難しいかも知れねぇけどよ……

 蓮は申し訳なさそうな顔をしながらも最終的には頷いてくれた。あたしは少しでも空気が前向きに流れていくよう微笑みを浮かべる。


「それで、蓮。お前からの話ってなんだ?」

 そっと次の扉をノックすると、怯えていた彼がゆっくりと、開いてくれた。


「僕……生活のリズム、おかしい。なんとか、したい」

「在宅ワークで家に居る時間が長いと、そういう自己管理って難しいよな。あたしと朝のランニング……は、キツイか。そだ! ウォーキングならどうだ?」

「夜……本当は、あまり、眠れてない。だから朝……胃が痛く、なったり……」

「え! 眠れてなかったのかよ!? もぉ~……お前なぁ、そういうのは早く言ってくれていいのに……」


 ため息をつきながらもあたしは内心驚いていた。蓮がいま口にした内容は今朝あたしが懸念していたこととまさに合致していたからだ。

 でも真の意図までは聞くまでわからなかった。


「元気になって、葉月ちゃ……を、いろんな、場所へ……」

「え?」


「葉月ちゃんと、行きたいとこ、沢山、ある。葉月ちゃ……に、お嫁さんの格好、させて……あげられたら……」

「蓮……」


 さっきからあたしの名前ばっかじゃねぇか。蓮、なんでお前はもっと自分のことを考えられねぇんだ。

 いじらしくて、愛おしくて、そして切なくて、あたしはそっと身を屈めてうつむき加減の顔を覗き込む。

「はは。いいんだよ、あたしは。別に急いでねぇし」

 だけど次の瞬間、握り返す手の力強さに驚いた。意を決したように見上げてきた眼差し。見た目に反して固い意思を真正面から受けて、驚いた。


「葉月ちゃ……と、もっと」


「……そうか」


 あたしの為。それが彼の喜びに繋がるなら叶えられる方法を考えてみようと思ったんだ。焦らずゆっくり歩いていこうと約束を交わす。それと同時に、あたしは1つ、彼に教えてあげたくなった。


「なぁ、蓮。お前はあたしに何か与えようと必死になってるけどよ、あたしはもう既にでっけぇモンをお前から貰ってんだぞ」


 なんだかわかるか? と問いかけると目を丸くする。だろうな。無自覚だとは思ってた。

 昨夜、冴子と話してたときにやっと“言葉”という形へ辿り着けた。ここまで大事に持ち帰ってきたよ。

 ちゃんと覚えておいてくれな。



「生きる力だよ」



 はっきり伝えたかったのに声が震えた。さっき見た幻想世界がありありと蘇って目の前の彼を彩るとあたしの涙腺は一層熱を帯びた。

 後はもう声にならなかったけど、眼差しで伝えていった。





――れん


 お前にその名はよく似合ってる。

 泥水の中から美しく咲くはすの花。それは生きづらさの中でも純度を失わなかったお前と重なるんだ。あたしなりの解釈なんだけどよ。

 儚さの中で際立つ生命力を確かに見たんだ。出会いは自殺未遂だったのにな。でも今ならちゃんとわかる。

 お前が人一倍真剣に生きようとしてきたこと。死にたい、なんて、血が滲むほど頑張ってきた人間でないと生まれない感情なんだよ。



「葉月、ちゃ……っ」


 声にならなかったのに。蓮は全て受け取ったみたいにあたしに身体を寄せた。頰に柔らかいものが触れた。もう何度か体験しているものだからすぐに意味がわかる。


「葉月ちゃ……あの……」

「蓮……」

「あ、あの……」


「……うん、いいよ」


 赤く染まった頰、物欲しそうな眼差し。そう、これってもっと近付きたいっていう蓮の合図なんだ。可愛いだろ?

 魚たちが見つめてる。ここで? とは思ったけどよ、あたしもなんだか止まれそうになかった。どんと来い! と両手を広げて構えるとか相変わらず色っぽくねぇことしちまったけど、そんぐらい嬉しかったんだ。


 だってよ、欲求って生きていく上ですっげぇ大事なものなんだぜ? 大切な人が生気を失ったままよりかは、こうして何か欲しがっててくれた方が安心できるってもんだ。



 思えばいつだってそんなふうに、あたしが受け止める側だと思っていた。ソファから見上げる窓には星がちらついてる。あの輝きに負けないくらいあたしが導くんだと思っていた。

「葉月ちゃ……大丈……」

 見下ろす蓮はあたしに気を使ってるものだと思っていた。だけど普段にも増して冷えた空気が教えてくれた。彼の小さな声を際立たせてくれた。


――大丈夫。


「葉月ちゃ、もう……大丈夫。僕が、いる。もう、何処にも行かない」


 ああ……


(ああ、包まれてるのはあたしじゃねぇか)


 自分の勘違いに気付くと涙が目尻へ伝った。優しく、だけど力強く抱きすくめられて実感がより大きく迫る。もう寒くない。


 傷だらけになった心が治癒されていく。額を合わせてくすぐったく笑う。していることはこんなだけど、あたしたちなんだか戦友みたい。

「あたし、甘えるの上手くねぇよ」

 いつになく弱気なことを言ったんだけど、薄く微笑む蓮は上手くなくていいと囁いてくれてるみたいだった。


 薄闇の中を泳ぐネオンテトラたち。星々の瞬きとが生まれたての泡が混じり合って、そこは二人だけの幻想世界になった。

 鎧を外され素直になって、彼の名を呼んでみると自分でも驚くくらい甘い声色だった。絡ませた指同士を強く握った。そのぬくもりは刺激以上の安心感を与えてくれる。

 彼に触れられる度に夜が優しくなっていく。




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