上 下
3 / 11

3.覚悟

しおりを挟む
 スノウが人を殺めたのはこれが初めてではありません。老紳士の弟は兄とは違って大変強欲で、遺産を受け取ったスノウを亡き者にしようと企てました。仕方がなかったなんて、言えないことはスノウもわかっています。許されないことをしたと。だけど自分は元々人間にとっての害悪。本来なら迫害される身。生き残っていく為には綺麗な手段ばかり選んではいられないと判断したのです。
 老紳士の弟を埋めた庭の土、そこにはリコリスの花が咲きました。スノウは同情をかけるのもかけられるのも嫌いです。丁寧に育ててきたのも償いなどではない。ただ花に罪は無いと思ったからです。

 スノウは老紳士に保護されたとき、大変衰弱していました。心の傷も深く、記憶の一部を手放していた。回復するまでに何年もの時間を要しました。そうして大きく育ったある日、一番に取り戻した記憶が自分を助けてくれた人魚のことでした。
 そこからは芋のつるを引き抜くように思い出していったのです。ドス黒く腐った記憶まで。


 スノウが七歳を迎える少し前、雪の降りしきる深夜。素性を隠してひっそりと暮らしていた吸血鬼一家は街の者に正体を見抜かれ、ナイフを持って追いかけられた。そして目の前で両親を失った。両親はシルバーアクセサリーの店を営んでいました。人に害を与えないよう、秘薬を使って生き延びていた慎ましい吸血鬼。にも関わらず、今まで取引先や客だった者たちまであっさりと一家を裏切ったのです。

 海岸まで追い詰められ、腰を抜かし、恐怖で動けなくなっていた幼い頃のスノウ。じりじりとにじり寄る街人。こんなの人間じゃない。悪魔だ。水の膜が張った目を見開き、怒りも悲しみも一緒くたになった感情を震わせていました。

 そのとき、海が唸りを上げました。泡沫うたかたが満ちた後、渦を巻き、人間たちを次々と巻き込んでは遠くの浜に投げました。砂も生き物のようにうねって人間たちを腰の位置まで飲み込みました。今ならはっきりと思い出せる、狂気の渚に響き渡った幼い声。

――早く逃げて!――

 はっきりと思い出せる、青い髪した小さな人魚姫。

――逃げるんだ!!――

 平らな形をした裸の胸に雪の結晶が光っていました。

 スノウは力を得たような気分でした。今まで動けなかったのが嘘のように、両足が何かに取り憑かれたように繰り出されました。逃げて逃げて、線路まで走って、車庫を見つけ、明け方には発車すると思しき貨物列車の中に隠れました。そうして遠い地まで流れ着いたのです。


 長らく記憶が封じ込められていても、想いは生きていたに違いない。今、スノウはそう思っているのです。生きていく力も確かにあのとき貰ったと。そして故郷の治安が更に悪化したタイミングで目覚めたことにもきっと意味があると。
 手配書なんてものは本来、悪人を取り締まる為のもの。いつしかその本来の意味さえ為さなくなってしまいました。人間たちはすぐ疑心暗鬼に支配される。行方不明者は吸血鬼や獣人の仕業。津波は海に住む人魚や魔物の仕業だのなんだのって誰かが言い始めて、それを鵜呑みにした者たちが人ならざる全ての者を虐げるようになったのです。

 そしてついには賞金までかけられるようになった。スノウが先程出くわしたような如何にもがらの悪い人間もいます。しかし更に厄介なのが自身の中で芽生えた欲望を正義とはき違えている人間。彼らも人ならざる者は害悪なのだから当然とばかりに賞金首を狙っている。こんな荒んだ世になってしまった今。

――僕の姫を迎えに行く為。

 それ以外、生きる目的など無いとスノウは心から思うのです。自分の手が汚れることは、もう怖くありませんでした。


しおりを挟む

処理中です...