嘘の世界で君だけが

七瀬渚

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第1章/変わり始めた世界

5.驚いたのは俺自身(☆)

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『朝比奈奏』

 あの日岸さんにその名前を出されたことで、薄れかけていた彼女の残像がまたハッキリしてきてしまった。

 朝比奈さんに出逢ってからもうすぐ二週間が経とうとしている。

 通学途中は必ず彼女の住むマンションの横を通る。向かい側にも歩道はあるけどそんな遠回りをするのも却って変だ。
 でも実際のところ、内心ではすっかり意識してしまっていた。わざわざ彼女の部屋を見上げたりとか、そんなことはしてないんだけど。

 あれから会っていないがやはり学校は休んでいるのだろうか。

 順調に回復へ向かっているだろうか。食べ物とか日用品はどうしているんだろう。実家から送ってもらうとか、岸さんに持ってきてもらうとか、なんらか周りに協力してもらっているんだろうか。

 俺は今更ながらに後悔した。こんなに気になってしまうくらいだったら、あのとき岸さんに朝比奈さんの様子を訊いておけば良かった。

 俺から訪ねに行くようなことは出来るはずないのだから。いくら朝比奈さんだってそこまで許してはいないだろう。

 それにそんなことをしたら、朝比奈さんの心を守ろうとしている岸さんを裏切るようで後ろめたい気持ちになるに決まっている。別にあの子に近付くなと言われた訳じゃないけれど。


 そう思っていたんだけれど。


 ……さん。

 ……のさん!


「夜野さん!」


 それはある日の登校途中、自宅の最寄り駅まであと少しというところだった。
 俺の名を呼ぶ声に気が付いてヘッドホンを外して振り向いた。

「朝比奈……さん?」

 まだ3メートルくらい離れたところに彼女がいた。松葉杖はついていなかった。

 ふやけたような無防備な笑顔が咲いたのがわかった。甘い香りまで漂ってくるような錯覚に陥った。

「もうちゃんと覚えましたよ! 夜野さんですよね!?」

「あ、ああ」

 声だけはやたら元気でちょっと誇らしげだ。

「今そこのコンビニ寄ってたらちょうど夜野さんが歩いてくるのが見えたんです。あっ、松葉杖はもう大丈夫だって言われました! まだ治ってはいないんですけど」

 そう言いながらも彼女は小走りでこちらへ向かってくる。包帯を巻いた片足の動きは確かにまだぎこちなく、上に履いたサンダルはパカパカしていて今にも脱げそうだ。

 俺は思わず彼女の方へ歩き出していた。

「わかったから。走らないで。せっかく良くなってきたのにまた転んだらどうするの」

「あっ。あはは、そうですよね。ごめんなさい」

 そしていつの間にか彼女の苦笑が目の前にあった。

 彼女の細い両肩に自分の両手がわずかに触れていることに気が付いて俺は慌てて引っ込めた。
 胸の高鳴りがなかなか落ち着かない。

 朝比奈さんの心の声は相変わらず聞こえない。触られてなんとも思わなかったんだろうか。
 なんかいつも、俺ばかり気にしてる。

「また夜野さんに会えたらいいなと思ってたので、嬉しくてつい」

「そうか。その……元気そうで良かった」

「あと今日こそお金返したいんで詳しい金額教えて下さいね。そこのATMで用意してきます!」

「うん……ありがとう」

 参ったな。そう思ったのに、なんだか癖になるようなくすぐったさを感じていた。


 朝比奈さんにお金を返してもらってから、俺たちはそのまま並んで駅へ向かった。

 大学前の駅は混んでいる。降りたときすぐエレベーターに乗れた方がいいだろうと思っていつもとは違う車両に乗った。

 一緒にいるのにヘッドホンをしているとさすがに感じ悪く思われるだろうか。
 でもこんな能力、誰も信じるはずがないんだ。例え朝比奈さんだって。そんなの試さなくてもわかる。

 近くにいる乗客の心の声をまともに食らってしまうが仕方ない。少しの辛抱だ。
 俺はヘッドホンを荷物の中にしまったままにしておいた。

 覚悟はしていたけどやがて複数の心の声が容赦なく俺に降り注いだ。


――ったく暑苦しいなぁ。みんな同じ車両にばかり集まりやがって。ちったぁ広がれよ――

――あいつまた彼氏との写真載せてる。そんなに幸せアピールしたいのかよ、うっざ!――

――新人教育なんて私にできる訳ないじゃん。無茶振りだよ…… はぁ、行きたくない――

――疲れた。気分悪い。めっちゃ寝たい――


「…………っ」

 大丈夫、大丈夫。

 この人たちの感情は俺の感情とは関係ないから。俺が言われてる訳じゃないんだから。
 それに俺がこの人たちを助けてあげられる訳じゃないんだ。そんなのもう、嫌というくらい知ってる。

 そうやって自分に言い聞かせながら、歯を食いしばって耐える時間が続いた。



 約十分後、大学前の駅に着いた。
 エレベーターに乗って下へ降り、改札を通ったところでだいぶ人がまばらになってきた。やっとだ。やっと少し、息がしやすくなる。

「夜野さん、大丈夫ですか?」

「え、何が?」

「今、大きなため息ついてたから具合悪いのかなって。なんか顔色も良くないですよ?」

 ため息までは自覚してなかったな。鈍感な朝比奈さんでも気付くくらいあからさまだったのか。

 満員電車の中でヘッドホンなしはさすがにキツかったんだなとわかった。到着するまでの間に少なくとも七~八人分くらいの声が聞こえたし、通勤、通学時は特にイラついてる人が多いからな。

「ごめん、ちょっと人に酔ったかも知れない」

「じゃあ休んでいきましょう? あっ、ガムありますよ。ちょっとスッキリするかも」

 そう言って朝比奈さんは銀の包みに入ったガムを一粒俺に差し出してくれた。

 ありがとうと言って受け取ろうとしたその瞬間、ぎゅっとそのまま手を握られた。

「ベンチありました! 座っていきましょう」

「!!」

 なす術もなく彼女に引っ張られる俺は、俺の中の脈拍は、跳ね上がりそうだった。重なった手が汗ばんでしまう。

 ベンチの前に着くと振り返って目を細める彼女。

 これは本当にあざとい計算じゃない……のか? 受け取ろうとした手をそのまま握るなんてするか、普通? 関われば関わるほどよくわからない子だ。

 俺は重力を半分くらい失ったようなフワフワとした気分のまま彼女と一緒にベンチに座った。

「ありがとう。あの……も、もう大丈夫だから」

「えっ、もう治ったんですか?」

「いや、手……」

「ああ、ごめんなさい。ガム食べられないですよね!」

 そうじゃない。

 でも、信じ難いけど彼女はこういう子なんだろう。まだ二回しか会っていない人間にだって簡単に触れられる。肩を掴まれそうになっても気にしない。

 むしろ俺が人に慣れてなさすぎるだけで現代の世の中はそんなもんなのかも知れないとさえ思えてきた。違うかも知れないけど今だけはそう思っておこうそうしよう。

 彼女から貰ったガムを噛むとミントの爽やかなフレーバーが心地よく広がった。

 微風が頬を撫でた。
 見上げると新緑を身にまとった木々がサワサワとそよいでいた。
 降り注ぐ温かな光の粒。こんな季節だったのだ。


「だいぶ気分が良くなったよ。ありがとう」

「本当ですか! 良かったぁ」

 なんとなく瑞々しい香りがする彼女は、まさに今の季節が似合っているように思えた。

「あの、夜野さん。いつもこれくらいの時間に学校来てるんですか?」

「そうだね。他のみんなよりはちょっと早いかも知れないけど好きな席を確保しやすいし」

「ですよね! 私も足まだ治ってないし念の為早めに出てきたんです」

 今朝はこうして寄り道しているから席は埋まってしまうかも知れない。でも今は清々しさの方が上回っている。

「もしまた夜野さんを見かけたら声かけてもいいですか?」

「え? あ、ああ……別にいいけど」

 というかもう声かけてるじゃない。今更だなとちょっと可笑しくなった。

「やった! ありがとうございます! 私、学校では高校時代からの友達とよく一緒にいるんですけど彼女の家は別方向だし、こっちは私の地元じゃないから他に知り合いもいないし、今日みたいにお話ししながら学校行けたらいいな~って思ったんです」

 高校時代からの友達。岸さんのことかな。
 あの不機嫌そうな顔が脳裏に蘇って少し気まずくなってしまう。

「夜野さん先輩だけど、仲良くなれたらいいなと思ったんです。助けてもらったときからずっと」

 俺をくすぐる無邪気な声。今まで聞いたどの声よりも混じり気がなくて澄んでいる、ように思えてしまう。

 何か不思議な力に導かれたのか、俺は少しだけ打ち明けておこうという気になった。

「あのさ」

「はい」

「俺、人混みではヘッドホンしてるけど、いい?」

「ヘッドホン、ですか?」

 彼女の声に戸惑いが感じられた。そうなるよな、わかってる。
 理解してもらえるか自信がない。そんな恐れを感じながらも、ここまで言ってしまったからにはと思って俺は続けた。顔はなかなか上げられなかったけど。

「君と話したくないとかじゃないんだ。ただ、俺はちょっと人よりも聴覚が敏感で周りの声で気分悪くなったりするから、だから……」

 勇気を出して、ついに顔を上げた。しっかりと彼女を見つめた。


「あまり喋れないけど、隣にいてもらってもいいかな?」









 いや待て、なんでそんな言い方になった。


 俺は自分で自分の言葉が信じられなかった。

 こんなときに限って周囲の人の声は消え去り、木々のざわめきだけを強く感じた。
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