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第七章 かけがえのないもの
72話 人形の逆襲
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市街での戦闘が終わって、もう半月が過ぎようとしていた。
既に看護の必要な怪我人の数は少なく、施療所の働き手も数人が交代で入る程度で、常駐する者はいなくなった。
ただ任務がなくともアルドは甲斐甲斐しく施療所に通い、医療行為をするとも限らず患者や看護師と世間話をしているらしかった。
彼自身の病院は、まだ開院というわけにはいかない。早く準備を進めたらいいものを……なんて傍から見て思ってしまうが、どうにも彼は悠長だった。
そして私はというと、施療所の多忙の佳境が過ぎ去るのとほとんど同時にヨンとパウルが飛び出していったものだから、アルドの元へ取り残され、できる範囲で彼の手伝いをしながら、彼と医術や魔法の勉強を共にしていた。
戦いが始まる前からアルドには医術のことを教えてもらおうと思っていたし、アルドも魔法を学びたがっていた。その知識の交換は当然興味深く、新しい知識を開いていく刺激に満ちていた。
……はずなのだが、それなのにどうしても、ヨン達がいないことがぽっかりとした虚しさのように感じられて……その一週間の時間の長さと言ったらありはしなかった。フェリアまで連れて行ってしまうなんてあんまりだ。
最初にアルドから聞かされた説明では、パウルが何者かに命を狙われているらしく、それに他の人を巻き込みたくないからヨンとフェリアだけを連れて出ていったと、そんな話だった。
あまりに突然のことに唖然とした私を、アルドは慰めるように言ったのだ、その言葉を今でもはっきり憶えている。
「大丈夫だ、ヨハンは絶対にジュリさん、あなたの元へ帰ってくると約束してくれた。その間にあなたが他の男にとられやしないかなんて心配していたぞ。いや、父親ながら全く気付かなかったがあなた達はそういう仲だったんだな。もう結婚の約束までしているのか?」
まるで当然の事実かのようにそんなことを言うのだからひっくり返ってしまったものだ。
いや、私の記憶の限りではそうハッキリとそんな仲になった覚えはない。確かに、ただの仲間や友人と言うには近かったようなことも、あったかもしれないけど。
だけどヨンがアルドにはそんなことを口に出して言ったのかと思うと、もしかすると彼にとってはすっかりその気だったのかもしれない。そんなこと、一度も私本人には言ってくれなかったのに。
彼のことだ、そんなのわざわざ言わなくても分かるだろう、なんていうつもりだったのだろうか。そんな言葉を一方的に残して置いていかれるなんて……本当にあんまりだった。
勉強の他にやることも少なかったせいで、空いた時間にはずっと悶々とヨンのことを考えていた。好きなら好きだと、ひと言でも言葉にしてくれればよかったのに。それなら私だってもっと……勇気を出すこともできただろうに。そんな恨みっぽいことを思いながら、その分焦がれる思いは募っていった。
そして一週間の後に、彼は約束通り私の元へと帰ってきた。それまでの時間に募らせた思いはまるで弾けたように、私はその姿を見て言葉さえ失ってしまったものだ。そして私をその腕の中に受け入れて、やっぱり彼は何一つ言葉にすることはなく……。
ああ、また思い出してしまっている。男の人と唇を重ねるなんて私にとっては初めての経験だったのだ、その感触はあまりに強烈に記憶に残ってしまった。
しかしそんな甘美とも言える記憶を、じっくりと反芻して味わっている余裕はすぐに吹き飛んでいく。彼らが帰って来ると同時にもたらしてきた報は……それまで遠のいてさえ感じていた、魔道人形を巡る騒動だったのだ。
フェリア、ウィル、そしてその親であるミョーネのこと。彼らをとりまいていた残酷なまでの歴史には、私も無関係ではいられなかった。
ミョーネが作った精巧な人形ウィルを引き連れ、人形を利用して盗賊行為を働く男、ガロン。彼がウィルを従えた経緯は詳しく分からないが、ウィルは私やフェリアにとっては幼い頃の記憶の一部だ。……家族と言ってもいい。
魔道人形という存在の痛ましさは私だって理解しているつもりだ。だけど、それでもあのウィルがそんな恐ろしい行いに加担させられているという事実は受け入れるだけでも耐え難かった。
ガロンの行いは許せない。考えただけで私だって憎しみのような感情を抱いてしまう。それを始末すると意気込むパウルの気持ちには共感できてしまった。
だけど現状そのガロンを“父”などと仰ぐウィルをそこから救い出すことはできるのだろうか……。考えても胸はざわつくばかりだ。
ミョーネはウィルを我が子のように愛おしんで扱っていた。ウィルにとっても、ミョーネを母と信じて疑っていなかっただろう。……だけど当然、そこに父の存在は不在だ。その歪さが、人形の作られた心に開いた穴だとでも言うのだろうか。
しかしミョーネには夫がいた。一度目の結婚の相手は分からないが、二度目にはトレンティアの王子、パウル・イグノールと結婚をしていたはずだ。
その夫婦関係は破局に終わったが、パウルのこれまでの語り口を考えるなら、単純な不仲だったとも思えない。彼は確かにミョーネを“本気で愛した”と言ったし、現にそれを追うようにしてズミへ渡ってきている。
その夫へ対するミョーネの感情はどんなものだったのだろうか。既に本人が亡くなっている今、想像することしかできない。
だけど、ウィルの目は青い。そこに想定されている“父”の存在はきっと……、なんて思い至ってしまって、思わず目眩がするような気さえした。
パウルは……、全てを知ってしまっているとすれば、ウィルをどうするつもりなのだろうか。それを追求する勇気が私にはなかった。
思い詰めたまま、ただ所在なく時間を過ごしていた。
ヨンとパウルはやはり朝から出かけてしまった。私がついていったところで何の力にもならないだろう。いつものことだけど、待つことしかできない無力な自分が歯痒い。
勉強も手につかなくて、休憩と自分に言い聞かせてやってきた食卓で、放心したように座り込んでいた。
そこへ静かな足音を立てて訪れる者があった。何気なく視線をやると、穏やかな表情を浮かべたアルドが立っていた。
「ジュリさん、大丈夫か? 顔色が悪い……あまり眠れてもいないんじゃないか?」
そう言ってアルドは、温めたらしいミルクをコップに入れて持ってきた。私は少しだけ背筋を伸ばした。
「せ、先生。今日は施療所には……?」
「今日はまあ、いいかなって」
アルドはのんきそうな声で言うが、その気遣いを見るに、きっと分かりやすく悩んでいる私を心配してくれているのだろう。
ありがとうございます、と小さく言って、まるで当たり前のように差し出されたミルクを受け取った。
何気ない仕草で食卓を挟んで私の斜め前あたりに腰掛けて、アルドも同じように入れてきたミルクを飲み始める。
「私には話の全部は分からないが、あなたも大変な思いをしているのだな。あまり思い詰めないように……」
いつものように優しい言葉をかけてくれる。温かいミルクを喉に流して、そんな彼の声を聞いているだけで少し癒やされる思いがする。
「ま、まあ……、考えてても仕方がないことなんですけど。やっぱり不安は不安で……すみません」
しどろもどろに言いながら、なぜか変な謝罪の言葉が出てくる。そんな私を見てアルドは可笑しそうに小さく笑った。
「そうだよな、どう頑張っても不安で仕方がない時はある。どうしようもないときもある。私で力になれるのならなりたいが、きっとそうもいかないのだろう。だけど悩むのは、あなたが一生懸命生きている証拠だ。大丈夫、ミュロス様は見てくださっているから……」
彼と過ごした時間はまだそう長くはないが、それでもとっくに分かってしまうほど……、それは彼の口癖だった。ミュロス様が見てくださっていると。決まり切ったようなその文句にはそれだけで謎の安心感がある。
しかしアルドはそこで、ころりと表情を不安そうに変えた。
「……念の為聞くけど、その悩みというのは、ヨハンとのことではない?」
そんなことを聞かれて、思わずミルクをむせこみそうになった。
「そ、それは、違います」
か細い声で言った。むしろヨンとの仲は順調で、なんて言葉は浮かぶだけで、口には出さなかったけど。
「そうか、それならいいんだが。いやあのヨハンが恋人を作るなんて未だに信じられなくて……、女性と上手くやっていけるところが想像もつかない。いや、私だって今まで五年間も彼と離れていたんだ、その間にあいつも成長したんだなあ……」
そうしみじみと感慨に耽る様子で言った。私までなんだか恥ずかしくて、思わず顔に血が昇るのを感じる。
だけど私だってヨンとは幼馴染なわけではない。五年も前のヨンの姿なんて想像もつかなかった。
アルドはヨンの育ての親だから、当たり前だがヨンの子どもの頃のことを知っているだろう。そう思うと、なんとなく興味が湧いてきた。
「ヨンは……、子どもの頃はどんな子だったんですか」
そんな風に話を振る。ウィルやガロンのことで栓のない悩みに頭を痛ませているよりかは、気分を紛らわせるためにいい話題だとも思った。
アルドはどこか楽しそうに、しかし遠くを見る目になって穏やかな笑顔を浮かべた。
「まあ今とそんなに変わらないと思うけどな。赤ん坊の頃からやんちゃというか暴れん坊で……、目を離したらすぐにどこかへ這っていってしまうし、物は散らかすし言うことは聞かないし、一度泣き出すともうなだめてもすかしてもちっとも収まらなくて……」
随分と子育てには苦労したらしく、その言葉はすらすらと彼の口から流れ出るようだった。その様子を想像して、思わず頬が緩む。
「言葉を喋りだすといよいよ負けん気で、何でも大人の真似をしたがって、無鉄砲で、言う事は聞かないし。外で遊ぶようになるとそれはもう大暴れで、鳥や虫を追いかけてどこまでも走っていくから本当に大変で、やっぱり言うことは聞かないし、他の子どもと喧嘩はするし、木登りが好きで、無茶して落っこちるなんてことも片手で数えられるような回数じゃなくて、兵士になる前から生傷が絶えず……」
想像すればするほど、なるほど確かに今とあんまり変わらないかもしれない、なんて気がしてきた。
「だけど驚くほど聡明な子でもあった。読み書きを教えると好き好んで薬草図鑑を読んでいたし、弓を教え始めた時は本当に親が困るぐらい熱心で、夜も寝ない勢いで練習を続けて、同じ年頃の子どもの誰よりも早く獲物を仕留めてくるようになった。それだけ優秀で、しかも負けん気な子だったから余計に……、戦争が始まった後に受けたいじめはひどかったのだろうな。刃物を出してきて刃傷沙汰を起こしかけたことだって何度もあった」
そう振り返った声は切なそうだった。いよいよ今のヨンに近付いてきたようだ。
「……そう思えば、あの頃と比べると今は少し丸くなったぐらいだな。あの歳で兵士になんかなって、どれほどの経験をしたことかと思うと苦しいが……、その中でもいい出会いがあったことはありがたい。……あの子の傍にいてくれてありがとう、ジュリさん」
唐突に私の名前を呼んで微笑んだ。思わずどきりとして背筋を伸ばす。
……礼を言われるようなことはない。傍にいるというほど傍にいたわけでもないし、彼が何を考えているのかなんて私にはちっとも分からなくて、戦いではもちろん、そうでない時だって私が彼のためにしてやれたことなんてそういくつもないだろう。
だけどアルドの穏やかな言葉を否定するのもなんだか違う気がして、私はそれを受け止めて微笑んだ。あまり力になれてる気はしないけど、それでも、そんな私のことをヨンは大事にしてくれているのだから。
アルドの話を聞いていると、なんだかむしょうにヨンのことが愛おしく感じられてきた。今彼はパウルと共に任務に出かけているが、戻ってきたら……、また二人きりになれるタイミングを見計らって、少し甘えてみようかな、なんていたずらな心が浮かんでくる。
そうして話しているうちに、温かいミルクはすっかり胃の中に入ってしまっていた。体の中も温まって、何も問題は解決していないというのに、妙にほっとしたような、そんな安心に包まれる。アルドの気遣いにはいつも助けられてしまう……。
もし……、もしもいつか、ヨンと私が結婚する、なんてことになれば、この人とも家族になるのか、なんてそんな思いが頭の端をよぎっていった。そんなことはまだ到底現実味がないけど。
考えてみれば結婚なんて普通は親同士で話を決めるものだ。とっくに戦争で両親を失っている私はどうすればいいのだろう。ヨンだってアルドがいるとはいえ、生みの親はいないのだからどういう手続きを踏むべきなのかはいまいち分からない。きっと彼だって分かってない。
しかし何であれまだ戦争の渦中だし、ヨンは兵士という身分である以上、家庭を持って落ち着けるような状態でもないだろう。そんな話はまだ、ずっと遠いところのものだ。
そんなことを考えている時、少し遠くで奇妙な物音が鳴ったのが聞こえた。
恐らく廊下の奥……、病院ではなくて住居部分のどこかから……それは大きな音だった。
思わず視線を上げた先で、きょとんとした顔のアルドと目が合う。一瞬耳に引っかかっただけの音は、はっきりと何なのかは分からない。何か甲高く、ものがぶつかり合うような、破裂するような……不吉な音なような気はした。
「……な、なんだろう」
アルドが不安そうに呟く。病院の方から聞こえた音ではないし、到底扉を開くような音でもなかった。穏やかな客人ということは少なくともなさそうだ。
パウルもヨンもいない間に、何か敵性のあるものがやってきたのだろうか。そんな不安が急に押し寄せて背中がひやりとした。
しかし戦力といえば、また眠らされたままのフェリアがパウル達の寝室にいるはずだ。いざとなれば彼女の起動を私がやるしかない。そう思い至り、私は勇気を振り絞って立ち上がった。
もし敵の類が来ているのなら……、今この家を、アルドを守る手を打てるのは自分しかいないのだ。
少し足を急がせてその部屋へと向かった。一緒に様子を見に来るつもりらしく、アルドもそれについてくる。何が起こったのか分からない状態で一人で動くのは不安で仕方がない、この際アルドが来てくれるだけでもありがたかった。
そしてフェリアが眠っている部屋の扉を開け、しかしそこにあった景色を見て私は息が止まるような心地がした。
招かざる客は、まさにその部屋へ侵入してきていたのだ――その硝子窓を破壊した出入り口から。先程の音はどうやら窓が破壊された音だったようだ。
砕けた硝子の破片の中にゆらりと立ったその姿を見て、思わず息を呑む。幼く、小柄な少年の姿がそこにあった。まるで純真に見えるあどけない無表情、その両目に揺れるのは碧色の瞳……。
「……ウィル」
私は彼の名前を呟くように呼んだ。彼はゆっくりと部屋を見回すように首を回して、床に寝かされているフェリアを見下ろし、次に入口に立ち尽くしている私に視線を向けてきた。
「……トレント……の。トレントの血の気配を追ってきた。この術は……フェリアか。ジュリ、君もここにいたんだね」
ぽつりぽつりと零すように言った、その声は穏やかだった。窓を力ずくで破ったことは感心できないが、ただちに私達に危害を加えてくる様子はないらしい。
……それもそのはずだ、ウィルにとってはフェリアも、そして私も“家族”のうち、彼の中では味方に分類されているはずだ。
そして彼はたった一人でここにいるように見える。近くにはガロンも、他の魔道人形の姿も見当たらない。
「ねえ、どうしてフェリアは寝ているの? 久しぶりに会ったのに……」
ウィルは眠っているフェリアの元にひたひたと歩き、そこに屈み込んだ。私は少し緊張を高めながらも、同じようにそちらに近付く。途中で、強張った顔のまま立っているアルドを振り向いた。
「えっと、ウィルはフェリアの弟にあたる魔道人形です。大丈夫、今は……危険もないでしょう」
そうアルドに向かって説明すると、彼もゆっくりと緊張を緩めていったようだ。それに釣られるようにしてウィルもアルドの顔を見たが、特に関心もないのか、何も言わず視線を逸らした。
ウィルはフェリアの魔術が停止されていることを察したのか、その額へと手を伸ばした。途端にぱちと小さく不適合反応が起こる。
「……これ、普通の術じゃないな。書き換えられてる? ジュリ、フェリアを起こしてよ」
ウィルはもどかしそうに言ってこちらに言ってきた。「え」なんて私は戸惑った声を上げる。
……確かフェリアが今眠っているのは、ウィルを目の前にすると不具合を起こすからだという話だ。彼の言葉に従うわけにはいかなかった。
「……すみません、それは私にもできません」
そう言って私は小さく首を振った。ウィルは人形だ、言われたままの言葉を受け取る以外に、疑ったりすることはできないはずだ。
「できない? フェリアを眠らせたのはジュリじゃないの? ……やっぱりパウル……なのか」
呟くようにパウルの名前を呼んだ、その声には何の感情も乗っていないようだ。
「ねえ、ジュリ。ヨンという男のことを知ってる?」
そして唐突にそう聞いてきた。私は眉を寄せてウィルを見つめた。
……何か様子がおかしい、そんな直感を覚えた。ウィルと話すのは当然久しぶりだ、そうはっきりとした確信があるわけではなかったが……。昔はこんなふうに、自分から何かを喋ることは滅多にない人形だった。
それが、なぜかは分からないがヨンの存在を気にして、まるで自分の意思を持っているかのように問うてくる……その姿の不自然な様に胸がざわつく。
「ヨンが……どうかしましたか?」
不安に思いながらもそう聞き返すと、彼のあどけない青い瞳が、刺すように私を見据えた。
「知っているんだね。居場所を教えて欲しい。僕はあいつのところへ行かなきゃ……」
「居場所って……、今は出かけてていないですけど。ヨンに会いに行くなんて、一体どうして……」
更にそう尋ねる。ウィルは変わらない無表情で、あどけなくも聞こえる少年の声で、はっきりと答えた。
「殺す」
その重々しい答えを。思わず私は息を詰まらせる。アルドも同じだっただろうか。
……分からない、なぜウィルがそんなことを言うのか。彼の中のコードもまた、私にとっては未知のものだ。
自分から喋っているところさえ稀な、あどけないばかりだった人形が、まさか人を殺すなんて、そんな言葉を発する理由が全く分からない。
はっきりしていることはともかく、ヨンを殺すなどという目的を果たさせるわけには当然いかないし、かといって相手は魔道人形だ、私達が力ずくで阻止できることでもない。可能であるなら説得して思いとどまらせなければいけなかった。
その先へ踏み込んでいくことに当然とてつもない不安が伴った。だけど、今彼を止められるのはもしかすると自分しかいない。私はその人形との会話を続けなければいけなかった。
「なぜヨンを殺すんですか? 彼と一体何が……」
「彼はトレントの血を宿している。……ヨン。ねえ彼の本当の名前はヨハン、そうでしょ?」
ウィルは生気のない、人形の顔をして言った。その言葉の意味の全てを私は理解できなかった。“トレントの血”というのは何のことだろう。
しかし彼が言い当てたヨハンという名前は確かにそうだ、彼の本当の名前だ。だから何だと言うのだ?
「だから……殺さなくちゃいけない。僕は……僕が、僕だから。トレントの血……真の後継者はこの僕だ、他の誰にも渡さない……。僕が、ヨハンだから。二人も要らないんだ。ねえジュリ、分かるでしょう? 君は僕の友達だから……」
その言葉は次第に形を崩していくようだ。……どう見てもおかしい、今の彼は正常じゃない……そのコードが何か致命的な不具合を起こしている。
そんな彼を前にして、背筋が凍りつくような気さえした。私は返事をすることも、身じろぎひとつもできないでいた。
次第に理解する。私が、ウィルを何も殺さなくてもいいじゃないかと訴えた時のパウルの態度を。こんな状態のウィルに会ったのなら諦めたくもなるだろう……、ことが穏便に済むような気配は到底ないし、生かしておくことさえ危険に思えてしまうのも無理はない。
「ヨンの居場所を教えてよ、ジュリ。どうして隠すの? 君もヨンの味方なの? 僕よりもあの偽物を選ぶの?」
ウィルの言葉が、幼い顔に浮かんだその冷めきった剣幕が、殺気に似た気配と共に迫ってくる。……恐ろしかった。こんな人形を前にして、私に何ができるというのだろう。
ただその気配は確実に濃くなっていた。考える時間なんてそうないと、さすがに私だって直感した。
今のウィルにこれまでの理屈は通用しない。きっと平気で私のことだって殺してしまう、そんな直感が。
今はパウルもヨンもいない。襲われても応戦はできない。戦力になる存在は今……目の前で眠っているフェリアだけだった。そう思い至れば迷ってる暇もなかった。どうなるかなんて分からない、だけど……。
「フェリア、起きて……!」
私は必死の思いで、彼女の額に手を伸ばしていた。
既に看護の必要な怪我人の数は少なく、施療所の働き手も数人が交代で入る程度で、常駐する者はいなくなった。
ただ任務がなくともアルドは甲斐甲斐しく施療所に通い、医療行為をするとも限らず患者や看護師と世間話をしているらしかった。
彼自身の病院は、まだ開院というわけにはいかない。早く準備を進めたらいいものを……なんて傍から見て思ってしまうが、どうにも彼は悠長だった。
そして私はというと、施療所の多忙の佳境が過ぎ去るのとほとんど同時にヨンとパウルが飛び出していったものだから、アルドの元へ取り残され、できる範囲で彼の手伝いをしながら、彼と医術や魔法の勉強を共にしていた。
戦いが始まる前からアルドには医術のことを教えてもらおうと思っていたし、アルドも魔法を学びたがっていた。その知識の交換は当然興味深く、新しい知識を開いていく刺激に満ちていた。
……はずなのだが、それなのにどうしても、ヨン達がいないことがぽっかりとした虚しさのように感じられて……その一週間の時間の長さと言ったらありはしなかった。フェリアまで連れて行ってしまうなんてあんまりだ。
最初にアルドから聞かされた説明では、パウルが何者かに命を狙われているらしく、それに他の人を巻き込みたくないからヨンとフェリアだけを連れて出ていったと、そんな話だった。
あまりに突然のことに唖然とした私を、アルドは慰めるように言ったのだ、その言葉を今でもはっきり憶えている。
「大丈夫だ、ヨハンは絶対にジュリさん、あなたの元へ帰ってくると約束してくれた。その間にあなたが他の男にとられやしないかなんて心配していたぞ。いや、父親ながら全く気付かなかったがあなた達はそういう仲だったんだな。もう結婚の約束までしているのか?」
まるで当然の事実かのようにそんなことを言うのだからひっくり返ってしまったものだ。
いや、私の記憶の限りではそうハッキリとそんな仲になった覚えはない。確かに、ただの仲間や友人と言うには近かったようなことも、あったかもしれないけど。
だけどヨンがアルドにはそんなことを口に出して言ったのかと思うと、もしかすると彼にとってはすっかりその気だったのかもしれない。そんなこと、一度も私本人には言ってくれなかったのに。
彼のことだ、そんなのわざわざ言わなくても分かるだろう、なんていうつもりだったのだろうか。そんな言葉を一方的に残して置いていかれるなんて……本当にあんまりだった。
勉強の他にやることも少なかったせいで、空いた時間にはずっと悶々とヨンのことを考えていた。好きなら好きだと、ひと言でも言葉にしてくれればよかったのに。それなら私だってもっと……勇気を出すこともできただろうに。そんな恨みっぽいことを思いながら、その分焦がれる思いは募っていった。
そして一週間の後に、彼は約束通り私の元へと帰ってきた。それまでの時間に募らせた思いはまるで弾けたように、私はその姿を見て言葉さえ失ってしまったものだ。そして私をその腕の中に受け入れて、やっぱり彼は何一つ言葉にすることはなく……。
ああ、また思い出してしまっている。男の人と唇を重ねるなんて私にとっては初めての経験だったのだ、その感触はあまりに強烈に記憶に残ってしまった。
しかしそんな甘美とも言える記憶を、じっくりと反芻して味わっている余裕はすぐに吹き飛んでいく。彼らが帰って来ると同時にもたらしてきた報は……それまで遠のいてさえ感じていた、魔道人形を巡る騒動だったのだ。
フェリア、ウィル、そしてその親であるミョーネのこと。彼らをとりまいていた残酷なまでの歴史には、私も無関係ではいられなかった。
ミョーネが作った精巧な人形ウィルを引き連れ、人形を利用して盗賊行為を働く男、ガロン。彼がウィルを従えた経緯は詳しく分からないが、ウィルは私やフェリアにとっては幼い頃の記憶の一部だ。……家族と言ってもいい。
魔道人形という存在の痛ましさは私だって理解しているつもりだ。だけど、それでもあのウィルがそんな恐ろしい行いに加担させられているという事実は受け入れるだけでも耐え難かった。
ガロンの行いは許せない。考えただけで私だって憎しみのような感情を抱いてしまう。それを始末すると意気込むパウルの気持ちには共感できてしまった。
だけど現状そのガロンを“父”などと仰ぐウィルをそこから救い出すことはできるのだろうか……。考えても胸はざわつくばかりだ。
ミョーネはウィルを我が子のように愛おしんで扱っていた。ウィルにとっても、ミョーネを母と信じて疑っていなかっただろう。……だけど当然、そこに父の存在は不在だ。その歪さが、人形の作られた心に開いた穴だとでも言うのだろうか。
しかしミョーネには夫がいた。一度目の結婚の相手は分からないが、二度目にはトレンティアの王子、パウル・イグノールと結婚をしていたはずだ。
その夫婦関係は破局に終わったが、パウルのこれまでの語り口を考えるなら、単純な不仲だったとも思えない。彼は確かにミョーネを“本気で愛した”と言ったし、現にそれを追うようにしてズミへ渡ってきている。
その夫へ対するミョーネの感情はどんなものだったのだろうか。既に本人が亡くなっている今、想像することしかできない。
だけど、ウィルの目は青い。そこに想定されている“父”の存在はきっと……、なんて思い至ってしまって、思わず目眩がするような気さえした。
パウルは……、全てを知ってしまっているとすれば、ウィルをどうするつもりなのだろうか。それを追求する勇気が私にはなかった。
思い詰めたまま、ただ所在なく時間を過ごしていた。
ヨンとパウルはやはり朝から出かけてしまった。私がついていったところで何の力にもならないだろう。いつものことだけど、待つことしかできない無力な自分が歯痒い。
勉強も手につかなくて、休憩と自分に言い聞かせてやってきた食卓で、放心したように座り込んでいた。
そこへ静かな足音を立てて訪れる者があった。何気なく視線をやると、穏やかな表情を浮かべたアルドが立っていた。
「ジュリさん、大丈夫か? 顔色が悪い……あまり眠れてもいないんじゃないか?」
そう言ってアルドは、温めたらしいミルクをコップに入れて持ってきた。私は少しだけ背筋を伸ばした。
「せ、先生。今日は施療所には……?」
「今日はまあ、いいかなって」
アルドはのんきそうな声で言うが、その気遣いを見るに、きっと分かりやすく悩んでいる私を心配してくれているのだろう。
ありがとうございます、と小さく言って、まるで当たり前のように差し出されたミルクを受け取った。
何気ない仕草で食卓を挟んで私の斜め前あたりに腰掛けて、アルドも同じように入れてきたミルクを飲み始める。
「私には話の全部は分からないが、あなたも大変な思いをしているのだな。あまり思い詰めないように……」
いつものように優しい言葉をかけてくれる。温かいミルクを喉に流して、そんな彼の声を聞いているだけで少し癒やされる思いがする。
「ま、まあ……、考えてても仕方がないことなんですけど。やっぱり不安は不安で……すみません」
しどろもどろに言いながら、なぜか変な謝罪の言葉が出てくる。そんな私を見てアルドは可笑しそうに小さく笑った。
「そうだよな、どう頑張っても不安で仕方がない時はある。どうしようもないときもある。私で力になれるのならなりたいが、きっとそうもいかないのだろう。だけど悩むのは、あなたが一生懸命生きている証拠だ。大丈夫、ミュロス様は見てくださっているから……」
彼と過ごした時間はまだそう長くはないが、それでもとっくに分かってしまうほど……、それは彼の口癖だった。ミュロス様が見てくださっていると。決まり切ったようなその文句にはそれだけで謎の安心感がある。
しかしアルドはそこで、ころりと表情を不安そうに変えた。
「……念の為聞くけど、その悩みというのは、ヨハンとのことではない?」
そんなことを聞かれて、思わずミルクをむせこみそうになった。
「そ、それは、違います」
か細い声で言った。むしろヨンとの仲は順調で、なんて言葉は浮かぶだけで、口には出さなかったけど。
「そうか、それならいいんだが。いやあのヨハンが恋人を作るなんて未だに信じられなくて……、女性と上手くやっていけるところが想像もつかない。いや、私だって今まで五年間も彼と離れていたんだ、その間にあいつも成長したんだなあ……」
そうしみじみと感慨に耽る様子で言った。私までなんだか恥ずかしくて、思わず顔に血が昇るのを感じる。
だけど私だってヨンとは幼馴染なわけではない。五年も前のヨンの姿なんて想像もつかなかった。
アルドはヨンの育ての親だから、当たり前だがヨンの子どもの頃のことを知っているだろう。そう思うと、なんとなく興味が湧いてきた。
「ヨンは……、子どもの頃はどんな子だったんですか」
そんな風に話を振る。ウィルやガロンのことで栓のない悩みに頭を痛ませているよりかは、気分を紛らわせるためにいい話題だとも思った。
アルドはどこか楽しそうに、しかし遠くを見る目になって穏やかな笑顔を浮かべた。
「まあ今とそんなに変わらないと思うけどな。赤ん坊の頃からやんちゃというか暴れん坊で……、目を離したらすぐにどこかへ這っていってしまうし、物は散らかすし言うことは聞かないし、一度泣き出すともうなだめてもすかしてもちっとも収まらなくて……」
随分と子育てには苦労したらしく、その言葉はすらすらと彼の口から流れ出るようだった。その様子を想像して、思わず頬が緩む。
「言葉を喋りだすといよいよ負けん気で、何でも大人の真似をしたがって、無鉄砲で、言う事は聞かないし。外で遊ぶようになるとそれはもう大暴れで、鳥や虫を追いかけてどこまでも走っていくから本当に大変で、やっぱり言うことは聞かないし、他の子どもと喧嘩はするし、木登りが好きで、無茶して落っこちるなんてことも片手で数えられるような回数じゃなくて、兵士になる前から生傷が絶えず……」
想像すればするほど、なるほど確かに今とあんまり変わらないかもしれない、なんて気がしてきた。
「だけど驚くほど聡明な子でもあった。読み書きを教えると好き好んで薬草図鑑を読んでいたし、弓を教え始めた時は本当に親が困るぐらい熱心で、夜も寝ない勢いで練習を続けて、同じ年頃の子どもの誰よりも早く獲物を仕留めてくるようになった。それだけ優秀で、しかも負けん気な子だったから余計に……、戦争が始まった後に受けたいじめはひどかったのだろうな。刃物を出してきて刃傷沙汰を起こしかけたことだって何度もあった」
そう振り返った声は切なそうだった。いよいよ今のヨンに近付いてきたようだ。
「……そう思えば、あの頃と比べると今は少し丸くなったぐらいだな。あの歳で兵士になんかなって、どれほどの経験をしたことかと思うと苦しいが……、その中でもいい出会いがあったことはありがたい。……あの子の傍にいてくれてありがとう、ジュリさん」
唐突に私の名前を呼んで微笑んだ。思わずどきりとして背筋を伸ばす。
……礼を言われるようなことはない。傍にいるというほど傍にいたわけでもないし、彼が何を考えているのかなんて私にはちっとも分からなくて、戦いではもちろん、そうでない時だって私が彼のためにしてやれたことなんてそういくつもないだろう。
だけどアルドの穏やかな言葉を否定するのもなんだか違う気がして、私はそれを受け止めて微笑んだ。あまり力になれてる気はしないけど、それでも、そんな私のことをヨンは大事にしてくれているのだから。
アルドの話を聞いていると、なんだかむしょうにヨンのことが愛おしく感じられてきた。今彼はパウルと共に任務に出かけているが、戻ってきたら……、また二人きりになれるタイミングを見計らって、少し甘えてみようかな、なんていたずらな心が浮かんでくる。
そうして話しているうちに、温かいミルクはすっかり胃の中に入ってしまっていた。体の中も温まって、何も問題は解決していないというのに、妙にほっとしたような、そんな安心に包まれる。アルドの気遣いにはいつも助けられてしまう……。
もし……、もしもいつか、ヨンと私が結婚する、なんてことになれば、この人とも家族になるのか、なんてそんな思いが頭の端をよぎっていった。そんなことはまだ到底現実味がないけど。
考えてみれば結婚なんて普通は親同士で話を決めるものだ。とっくに戦争で両親を失っている私はどうすればいいのだろう。ヨンだってアルドがいるとはいえ、生みの親はいないのだからどういう手続きを踏むべきなのかはいまいち分からない。きっと彼だって分かってない。
しかし何であれまだ戦争の渦中だし、ヨンは兵士という身分である以上、家庭を持って落ち着けるような状態でもないだろう。そんな話はまだ、ずっと遠いところのものだ。
そんなことを考えている時、少し遠くで奇妙な物音が鳴ったのが聞こえた。
恐らく廊下の奥……、病院ではなくて住居部分のどこかから……それは大きな音だった。
思わず視線を上げた先で、きょとんとした顔のアルドと目が合う。一瞬耳に引っかかっただけの音は、はっきりと何なのかは分からない。何か甲高く、ものがぶつかり合うような、破裂するような……不吉な音なような気はした。
「……な、なんだろう」
アルドが不安そうに呟く。病院の方から聞こえた音ではないし、到底扉を開くような音でもなかった。穏やかな客人ということは少なくともなさそうだ。
パウルもヨンもいない間に、何か敵性のあるものがやってきたのだろうか。そんな不安が急に押し寄せて背中がひやりとした。
しかし戦力といえば、また眠らされたままのフェリアがパウル達の寝室にいるはずだ。いざとなれば彼女の起動を私がやるしかない。そう思い至り、私は勇気を振り絞って立ち上がった。
もし敵の類が来ているのなら……、今この家を、アルドを守る手を打てるのは自分しかいないのだ。
少し足を急がせてその部屋へと向かった。一緒に様子を見に来るつもりらしく、アルドもそれについてくる。何が起こったのか分からない状態で一人で動くのは不安で仕方がない、この際アルドが来てくれるだけでもありがたかった。
そしてフェリアが眠っている部屋の扉を開け、しかしそこにあった景色を見て私は息が止まるような心地がした。
招かざる客は、まさにその部屋へ侵入してきていたのだ――その硝子窓を破壊した出入り口から。先程の音はどうやら窓が破壊された音だったようだ。
砕けた硝子の破片の中にゆらりと立ったその姿を見て、思わず息を呑む。幼く、小柄な少年の姿がそこにあった。まるで純真に見えるあどけない無表情、その両目に揺れるのは碧色の瞳……。
「……ウィル」
私は彼の名前を呟くように呼んだ。彼はゆっくりと部屋を見回すように首を回して、床に寝かされているフェリアを見下ろし、次に入口に立ち尽くしている私に視線を向けてきた。
「……トレント……の。トレントの血の気配を追ってきた。この術は……フェリアか。ジュリ、君もここにいたんだね」
ぽつりぽつりと零すように言った、その声は穏やかだった。窓を力ずくで破ったことは感心できないが、ただちに私達に危害を加えてくる様子はないらしい。
……それもそのはずだ、ウィルにとってはフェリアも、そして私も“家族”のうち、彼の中では味方に分類されているはずだ。
そして彼はたった一人でここにいるように見える。近くにはガロンも、他の魔道人形の姿も見当たらない。
「ねえ、どうしてフェリアは寝ているの? 久しぶりに会ったのに……」
ウィルは眠っているフェリアの元にひたひたと歩き、そこに屈み込んだ。私は少し緊張を高めながらも、同じようにそちらに近付く。途中で、強張った顔のまま立っているアルドを振り向いた。
「えっと、ウィルはフェリアの弟にあたる魔道人形です。大丈夫、今は……危険もないでしょう」
そうアルドに向かって説明すると、彼もゆっくりと緊張を緩めていったようだ。それに釣られるようにしてウィルもアルドの顔を見たが、特に関心もないのか、何も言わず視線を逸らした。
ウィルはフェリアの魔術が停止されていることを察したのか、その額へと手を伸ばした。途端にぱちと小さく不適合反応が起こる。
「……これ、普通の術じゃないな。書き換えられてる? ジュリ、フェリアを起こしてよ」
ウィルはもどかしそうに言ってこちらに言ってきた。「え」なんて私は戸惑った声を上げる。
……確かフェリアが今眠っているのは、ウィルを目の前にすると不具合を起こすからだという話だ。彼の言葉に従うわけにはいかなかった。
「……すみません、それは私にもできません」
そう言って私は小さく首を振った。ウィルは人形だ、言われたままの言葉を受け取る以外に、疑ったりすることはできないはずだ。
「できない? フェリアを眠らせたのはジュリじゃないの? ……やっぱりパウル……なのか」
呟くようにパウルの名前を呼んだ、その声には何の感情も乗っていないようだ。
「ねえ、ジュリ。ヨンという男のことを知ってる?」
そして唐突にそう聞いてきた。私は眉を寄せてウィルを見つめた。
……何か様子がおかしい、そんな直感を覚えた。ウィルと話すのは当然久しぶりだ、そうはっきりとした確信があるわけではなかったが……。昔はこんなふうに、自分から何かを喋ることは滅多にない人形だった。
それが、なぜかは分からないがヨンの存在を気にして、まるで自分の意思を持っているかのように問うてくる……その姿の不自然な様に胸がざわつく。
「ヨンが……どうかしましたか?」
不安に思いながらもそう聞き返すと、彼のあどけない青い瞳が、刺すように私を見据えた。
「知っているんだね。居場所を教えて欲しい。僕はあいつのところへ行かなきゃ……」
「居場所って……、今は出かけてていないですけど。ヨンに会いに行くなんて、一体どうして……」
更にそう尋ねる。ウィルは変わらない無表情で、あどけなくも聞こえる少年の声で、はっきりと答えた。
「殺す」
その重々しい答えを。思わず私は息を詰まらせる。アルドも同じだっただろうか。
……分からない、なぜウィルがそんなことを言うのか。彼の中のコードもまた、私にとっては未知のものだ。
自分から喋っているところさえ稀な、あどけないばかりだった人形が、まさか人を殺すなんて、そんな言葉を発する理由が全く分からない。
はっきりしていることはともかく、ヨンを殺すなどという目的を果たさせるわけには当然いかないし、かといって相手は魔道人形だ、私達が力ずくで阻止できることでもない。可能であるなら説得して思いとどまらせなければいけなかった。
その先へ踏み込んでいくことに当然とてつもない不安が伴った。だけど、今彼を止められるのはもしかすると自分しかいない。私はその人形との会話を続けなければいけなかった。
「なぜヨンを殺すんですか? 彼と一体何が……」
「彼はトレントの血を宿している。……ヨン。ねえ彼の本当の名前はヨハン、そうでしょ?」
ウィルは生気のない、人形の顔をして言った。その言葉の意味の全てを私は理解できなかった。“トレントの血”というのは何のことだろう。
しかし彼が言い当てたヨハンという名前は確かにそうだ、彼の本当の名前だ。だから何だと言うのだ?
「だから……殺さなくちゃいけない。僕は……僕が、僕だから。トレントの血……真の後継者はこの僕だ、他の誰にも渡さない……。僕が、ヨハンだから。二人も要らないんだ。ねえジュリ、分かるでしょう? 君は僕の友達だから……」
その言葉は次第に形を崩していくようだ。……どう見てもおかしい、今の彼は正常じゃない……そのコードが何か致命的な不具合を起こしている。
そんな彼を前にして、背筋が凍りつくような気さえした。私は返事をすることも、身じろぎひとつもできないでいた。
次第に理解する。私が、ウィルを何も殺さなくてもいいじゃないかと訴えた時のパウルの態度を。こんな状態のウィルに会ったのなら諦めたくもなるだろう……、ことが穏便に済むような気配は到底ないし、生かしておくことさえ危険に思えてしまうのも無理はない。
「ヨンの居場所を教えてよ、ジュリ。どうして隠すの? 君もヨンの味方なの? 僕よりもあの偽物を選ぶの?」
ウィルの言葉が、幼い顔に浮かんだその冷めきった剣幕が、殺気に似た気配と共に迫ってくる。……恐ろしかった。こんな人形を前にして、私に何ができるというのだろう。
ただその気配は確実に濃くなっていた。考える時間なんてそうないと、さすがに私だって直感した。
今のウィルにこれまでの理屈は通用しない。きっと平気で私のことだって殺してしまう、そんな直感が。
今はパウルもヨンもいない。襲われても応戦はできない。戦力になる存在は今……目の前で眠っているフェリアだけだった。そう思い至れば迷ってる暇もなかった。どうなるかなんて分からない、だけど……。
「フェリア、起きて……!」
私は必死の思いで、彼女の額に手を伸ばしていた。
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