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後日章 サーシェ、無量の命と光へ
171話 ひとときの別れに
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ズミ王国は再興、トレンティア人のルーツをも持つ新王ヨハン・アルティーヴァと、ギルバート亡き後即位したパウル・イグノール陛下の間で改めての講話が結ばれ、トレンティアとズミは友好国としての道を再び歩み出す。
そんなニュースが大きく飾ったベルタスの新聞には、両王の似顔絵が大きく華やかに描かれていた。本物より随分と大人っぽく描かれたな、なんてその時は思ったものだ。
記念に保管していたその新聞紙も、いつの間にか随分と古くなった。額縁に入れて保存することにしたが、飾るのもなんだかおかしなものだ。研究室の引き出しの奥に閉まっておくことにする。
その日、僕は学会での研究発表を終えてひと息をついている所だった。部屋で休んでいると、学者仲間が呼びにくる。
「ブランドルさん、イグノール陛下がお呼び。応接室」
そんな軽々しい呼び出しを受けて、僕は学会ホールの応接室へと向かった。
僕が学会に出ると時々あの陛下が顔を出しにくるのは、もう仲間たちも慣れたことだった。
「イグノール陛下! 来てくださったのですね、ありがとうございます」
そう挨拶をして深く礼をするのも慣れたものだ。
イグノールは今日も従者を一人だけ連れて、王族というには随分と庶民的な服装で、だらりと椅子に座っていた。手元で何か本を読んでいたようだが、僕の顔を見てそれを閉じる。
「ああ、どうも。今日の発表もなかなか見応えがあったな。東方ではマナと呪物が混同されていたってのは興味深い話だった。植物学の方に広げてみるともっと面白い話が出てきそうだ」
「あ、ありがとうございます。植物学ですか……、あまり調べたこともなかったですね」
「私も専門外であまり詳しくないんだがな。おさらいがてら、今入門書を読み返していたところなんだ。この著者が私のお気に入りでね……」
「エルド・レーヴァーさんですか。陛下がそう仰るのなら間違いはありませんね。憶えておきます」
「まあ、五年前に亡くなってしまったが、優秀な学者だった。時々私も墓には参っているんだ」
「そうなんですね……ああそうだ、すみません。ご挨拶はできなかったんですが私も先月の陛下の発表は聞かせていただいて……」
「先月? ああ、あのズミ魔道の……。あれはまあ、あの場でも言ったが発表したのは私だが、主になって書いてくれたのは妻だ。恥ずかしがり屋で人前に出たがらないものだから。感想があれば聞いておくが」
「ええ、ズミ魔道については私もまだまだ浅学で……全部が新しい知識で……とにかくよかったです」
イグノールはにやりと楽しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、伝えておくよ。私もこれからしばらくズミに渡ることになったんでね、向こうでしっかり勉強に励むよ。君ともしばらく会えなくなるし今日は挨拶に」
「それはわざわざありがとうございます。本当にいつもよく目をかけていただいて……陛下には頭が上がりません」
「礼ならズミの王様に……ああ、それもこれから会いに行くから伝えておくよ。彼のおかげで君のような若く優秀な学者に出会えて、私も幸運な限りだ」
いつもと似たような挨拶を交わす。これからズミに向かうという彼の話を聞いて、僕はぼんやりとだけ思う。僕もいつか行きたいな、と。
……いくら一時の友人だからって、気さくに国王に会えることはないのかもしれないけど。
「……なあ、アルバート・ブランドル君。いつかさ……」
ふとイグノールは声色を変えて呼んできた。何か含みのあるような、躊躇いがちな声……。
「はい?」
「いつか……。うーん……、いつか、君もズミに来るといい」
少しだけ言葉に迷って、イグノールはからりと笑った。
それを見て僕も笑う。……僕にも彼にも、きっとまだまだ、これからの時間がある。
いつか、いつか……、そうして約束を重ねて、紡いでいくんだろう。
「はい。アルティーヴァ陛下がお好きな、トレントの葉を山ほどお土産に持っていきます」
「それはいい。また洗濯物と一緒になくすかもしれないからな」
変な冗談を交わしながら、僕達はまた、それぞれの言葉と向き合っていく。
今日も晴れ渡った秋空の下、王冠もマントもつけずに、鼻歌を歌いながら歩くベルタスの街道は実に心地が良い。従者のヘルマンは呆れたような表情を浮かべていた。
「ご機嫌ですねえ」
「久々のズミ行きだ、お前も元気出していけよ。荷造りとか馬車の手配とか済んだのか?」
「ええと、馬車と宿は手配して……、荷造りもだいたいは……」
「というかお前も家族に挨拶しとけよ。俺についてくる気なら当分はズミから戻ってこれないぞ」
「えっと、ちなみにどれぐらい滞在されるつもりで……?」
「さあ、一年か二年か、もっと長いかも。あんまりちゃんと決めてない」
「自由ですねえ……」
「まあお前は好きな時に帰っても別にいいけど……」
「そんなあ、冷たいこと言わないでくださいよ、いつまでもご一緒しますって!」
従者との抜けたやりとりをしながら、私は自宅への道を歩く。
最低限の仕事だけをして王位を放り投げてから早四年、我が身ながらこれほど自由なものはない。王城から離れた閑静な屋敷をもらい受け、愛しい妻と二人ゆったりと過ごしながら好きなだけ魔道の研究に打ち込める日々……。
しかし夫婦と言えども、すれ違いも絶えないものだ。
家に帰ると、私とは違ってストレスを溜めに溜めた妻が、今にも空を飛んでいきそうな勢いでそわそわと動き回っていた。
「ただいま……」
「おかえり! 挨拶済んだ!? もう行く!? 出発する!?」
彼女の心はとっくに黒い森を越えてはるか遠くへ飛んでいるようだった。
「まだ。あとカディアル家と国王夫婦に顔を出す」
そう答えると、リョーネはがくと項垂れてソファに座り込んでしまった。
私は宥めるように、その隣に腰掛けて頭を撫でてやった。美しい髪は長く伸び、ズミの女服を着込むのももうすっかり馴染んでいる。
「そんな慌てるなよ。ズミは逃げやしないから」
「一秒でも早く帰りたい。やっぱりこんな街で過ごすのは私には無理だよ、ミョーネの気持ちが痛いほど分かる」
「女の格好してても何も言われないだろ」
「女の格好以前の問題だよ! 髪が黒いだけで目立つ目立つ! 頭を隠しててもズミの服着てるだけで目立つ! だからってトレンティア人の服なんか息苦しくて着てられないし、食べ物は分からないし、文字も読めないし、神殿もないし……」
……まあ、不便は多いだろう。離れたくない一心でトレンティアでの同居を承諾させたものの、さすがに永住は無理があったらしい。
ズミに帰れないなら離婚させていただきます、なんて言われてさすがの私も折れることになった。もっとも、ズミでしばらく充電させたらまたこちらへ連れ去ってやろうとは画策しているが……。
頭を撫でていると気持ちも落ち着くらしく、しばらくするとしゅんとしてただ体を預けてきた。やがて張り合うみたいにして彼女も私の髪を弄ってくる。
「あ、白髪。増えてきたんじゃない? 最近」
「俺も歳だからなあ。お前は俺より歳上のくせに、いつまでも黒くて綺麗だが……」
「これは染めてるから。君も黒染めしてみる? 黒髪のパウルも素敵だと思うけど」
「生え際から金髪になるじゃん。余計白髪っぽくて嫌だ」
お互いの髪を弄り合いながら、やがて流れるように口付けをする。
しかし唇を離しても彼女まだ物欲しそうに擦りついてくる。もう夕刻ではあるが食事前である、まったくせっかちな女だ。
二人だけなのだから気兼ねすることもないが……しかしそれはそうとして、さすがに四十を過ぎると下半身の元気がなくなってくるもので、少し億劫である。
こればっかりは若い夫婦が羨ましいな、なんて思ってしまったりする。誤魔化して話題を変えることにした。
「まあ、ラズミルに戻るにはちょうどいいタイミングだ。こないだ手紙が届いたんだが、ヨハンのとこに三人目が生まれたらしい。今度は男だって。また顔を見に来いって言ってたよ」
「もう三人目? ころころ産むねえ。その度国境越えてわざわざ顔を見に行く君も律儀だけど」
「ズミ王からの要請だ、トレンティアの王族として無下にはできん」
「じゃあ早く出発しよう。さっさと残りの挨拶済ませてきてよ」
そう急かされて、私は翌日も引き続き挨拶回りに出かけることになった。
その日は訪ねる先が偉い人の所なので、きちと正装を着てグリスに馬車を走らせる。少し自由な気分が損なわれてしまう。
フォス・カディアル家を訪ねると、他にもちょうど挨拶に来ている者があったらしい。
「これは……ブライアン殿下。今日もお元気なことで」
従者達と共に庭で遊んでいる様子の幼い王子に、私は恭しく跪いた。
彼はまだ私の顔を憶えてはいないらしく、びくりとして護衛騎士の後ろに隠れてしまった。
「殿下、イグノール陛下ですよ。ほら、ご挨拶を」
自身の後ろに逃げた王子に、騎士がそう困ったように笑うが、ブライアンはどうにも人見知りな性格らしく、おどおどとして小さく挨拶を言っただけだった。
可愛らしい王子を見ながら、私達はゆるりと雑談を交わす。
「はは、すっかり殿下に懐かれているな、ハルク」
「ええ、本当にありがたいことに……。今日も実は私の用事だったんですが、殿下が付いてくると仰って聞かなくて。陛下はどうされたのです?」
「これから私はズミに渡ることになってね、しばらく国を離れるんで、挨拶にと」
「ズミに? それはいいですね。アザルに会ったらよろしく言っておいてください」
「ああ、お前もいつか来れるといいな」
「殿下がもう少し大きくなられたら……親善の挨拶に向かうこともあるでしょうかね」
そう微笑むハルクもすっかり凛々しい青年だ。王子の護衛騎士として働いている彼とは、会う機会もあまりない分、見るたびにでかくなっている気がする。
事前に何も言わずに訪ねたものだから、使用人が慌てて接待をし始める。やがて通された応接間で、こちらもきちと正装を着た当主が呆れ顔でやってきた。
「陛下! またあなたは何も言わずにフラッとやってきて……、本当に身軽な方ですね」
「今更固いこと言うなよ。さっさと挨拶を済ませてこいと妻が急かすものでね……」
「王位を退かれたとは言え、王族には違いないのですよ、もう少し自覚と礼節を……」
くどくどと小言を連ねるのは全く変わってない。適当に聞き流しながら茶を飲んでいると、ジャックもやがて諦めてため息をついた。
「それで、ズミに渡るとお聞きしました。どれほど滞在するご予定で?」
「リョーが満足するまで、かな?」
「ものすごく曖昧ですね……。住まいはラズミルに?」
「ああ、ヨハンに言って準備してもらっている。お前も暇ができたら遊びに来いよ」
「まったく、ご兄妹揃って気ままな……。エレアノール様も今はズミにおられるそうなので、会ったら早く帰って来るよう説得しておいてくださいよ」
「あいつほど自由奔放じゃないよ。もうベルタスに帰る気なんてないんじゃないか? ほんとにあっちこっち旅行ばっか行って……。まあ、ジャックが寂しくて会いたがっていると伝えておくよ」
そう冗談を言うと、ジャックはゆらりと表情を暗くして黙ってしまった。たぶん冗談にならなかったんだろう。
「そういえば全然会わないが、カルロスも元気にしているか?」
「仕事でしか会いませんが相変わらず……あれも勝手気ままで気まぐればかり起こして……」
そう愚痴を言い出すのもやっぱり相変わらずだ。まあ、皆変わりなし、というのはいいことだ。
くれぐれもエレアノール様によろしく、と重ね重ね言ってジャックは挨拶を終えた。
また馬車に揺られて一番億劫な挨拶先である王城を訪ねる。
しかし王婿ロード殿下はフォス・カディアル家の当主と違って、融通の効く賢明な御仁だ。事前の連絡なしに突然訪ねても、予定さえ空いていれば快く対応してくれる。
「これは……先王陛下。本日もご機嫌麗しいようで」
王城の仰々しい応接室で顔を合わせて、彼はまだ若い顔で美しく笑顔を作る。うむ、皆変わりなしというのはいいことだ。
「突然の訪問で申し訳なく思うよ。イザベラ陛下は謁見か?」
「いえ、今は宮殿で休まれています。大事なお体ですのでね……」
「ああ、懐妊されているんだったか。二人目? 三人目? なんだっけ」
「実子としては二人目です」
「そうか。私は当分ズミに渡るから、その子の聖血の儀を執り行えないのは少し残念だな」
「ええ、私としても残念です。エルフィンズ家の中でもあなた様ほど腕の確かな技術者はいらっしゃらないと聞きますので……」
「買いかぶりだよ。アーサーなんかも十分優秀な魔法技師だ、赤子の聖血の儀ぐらい失敗せずにやってくれるさ。後は任せる」
「さようですか。ズミに渡られるという話は聞き及んでいましたが……いよいよ寂しくなりますね」
相変わらず白々しいことを言うので、私も意地悪を言ってやる。
「ロード殿下から、ズミによろしく言っておく相手はいないか? ティファがどうしているか気にならないか?」
ロードはしかし、完璧な作り笑顔で笑い飛ばした。
「知らない名前ですね。アルティーヴァ陛下によろしくお伝えください」
まったく、白々しさもここまで貫くと本物だ。ほとほと感心して、私はそれ以上の会話を諦めた。
ともかく挨拶回りを終えた私は帰宅し、今すぐにでも飛び立とうとしている妻に尻を叩かれながら出発の準備をした。同行者は妻リョーネと、そして従者ヘルマンの二人だけだ。先王陛下の旅立ちとしては馬鹿みたいに呆気ない。
屋敷の入口で使用人からは見送りを受けて、ヘルマンの運転で馬車が走り出す。流れていくベルタスの……故郷の景色を、今日も壮麗に聳える聖樹の姿を、しばらくの見納めにと目に焼き付けて。
そんなニュースが大きく飾ったベルタスの新聞には、両王の似顔絵が大きく華やかに描かれていた。本物より随分と大人っぽく描かれたな、なんてその時は思ったものだ。
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その日、僕は学会での研究発表を終えてひと息をついている所だった。部屋で休んでいると、学者仲間が呼びにくる。
「ブランドルさん、イグノール陛下がお呼び。応接室」
そんな軽々しい呼び出しを受けて、僕は学会ホールの応接室へと向かった。
僕が学会に出ると時々あの陛下が顔を出しにくるのは、もう仲間たちも慣れたことだった。
「イグノール陛下! 来てくださったのですね、ありがとうございます」
そう挨拶をして深く礼をするのも慣れたものだ。
イグノールは今日も従者を一人だけ連れて、王族というには随分と庶民的な服装で、だらりと椅子に座っていた。手元で何か本を読んでいたようだが、僕の顔を見てそれを閉じる。
「ああ、どうも。今日の発表もなかなか見応えがあったな。東方ではマナと呪物が混同されていたってのは興味深い話だった。植物学の方に広げてみるともっと面白い話が出てきそうだ」
「あ、ありがとうございます。植物学ですか……、あまり調べたこともなかったですね」
「私も専門外であまり詳しくないんだがな。おさらいがてら、今入門書を読み返していたところなんだ。この著者が私のお気に入りでね……」
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「まあ、五年前に亡くなってしまったが、優秀な学者だった。時々私も墓には参っているんだ」
「そうなんですね……ああそうだ、すみません。ご挨拶はできなかったんですが私も先月の陛下の発表は聞かせていただいて……」
「先月? ああ、あのズミ魔道の……。あれはまあ、あの場でも言ったが発表したのは私だが、主になって書いてくれたのは妻だ。恥ずかしがり屋で人前に出たがらないものだから。感想があれば聞いておくが」
「ええ、ズミ魔道については私もまだまだ浅学で……全部が新しい知識で……とにかくよかったです」
イグノールはにやりと楽しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、伝えておくよ。私もこれからしばらくズミに渡ることになったんでね、向こうでしっかり勉強に励むよ。君ともしばらく会えなくなるし今日は挨拶に」
「それはわざわざありがとうございます。本当にいつもよく目をかけていただいて……陛下には頭が上がりません」
「礼ならズミの王様に……ああ、それもこれから会いに行くから伝えておくよ。彼のおかげで君のような若く優秀な学者に出会えて、私も幸運な限りだ」
いつもと似たような挨拶を交わす。これからズミに向かうという彼の話を聞いて、僕はぼんやりとだけ思う。僕もいつか行きたいな、と。
……いくら一時の友人だからって、気さくに国王に会えることはないのかもしれないけど。
「……なあ、アルバート・ブランドル君。いつかさ……」
ふとイグノールは声色を変えて呼んできた。何か含みのあるような、躊躇いがちな声……。
「はい?」
「いつか……。うーん……、いつか、君もズミに来るといい」
少しだけ言葉に迷って、イグノールはからりと笑った。
それを見て僕も笑う。……僕にも彼にも、きっとまだまだ、これからの時間がある。
いつか、いつか……、そうして約束を重ねて、紡いでいくんだろう。
「はい。アルティーヴァ陛下がお好きな、トレントの葉を山ほどお土産に持っていきます」
「それはいい。また洗濯物と一緒になくすかもしれないからな」
変な冗談を交わしながら、僕達はまた、それぞれの言葉と向き合っていく。
今日も晴れ渡った秋空の下、王冠もマントもつけずに、鼻歌を歌いながら歩くベルタスの街道は実に心地が良い。従者のヘルマンは呆れたような表情を浮かべていた。
「ご機嫌ですねえ」
「久々のズミ行きだ、お前も元気出していけよ。荷造りとか馬車の手配とか済んだのか?」
「ええと、馬車と宿は手配して……、荷造りもだいたいは……」
「というかお前も家族に挨拶しとけよ。俺についてくる気なら当分はズミから戻ってこれないぞ」
「えっと、ちなみにどれぐらい滞在されるつもりで……?」
「さあ、一年か二年か、もっと長いかも。あんまりちゃんと決めてない」
「自由ですねえ……」
「まあお前は好きな時に帰っても別にいいけど……」
「そんなあ、冷たいこと言わないでくださいよ、いつまでもご一緒しますって!」
従者との抜けたやりとりをしながら、私は自宅への道を歩く。
最低限の仕事だけをして王位を放り投げてから早四年、我が身ながらこれほど自由なものはない。王城から離れた閑静な屋敷をもらい受け、愛しい妻と二人ゆったりと過ごしながら好きなだけ魔道の研究に打ち込める日々……。
しかし夫婦と言えども、すれ違いも絶えないものだ。
家に帰ると、私とは違ってストレスを溜めに溜めた妻が、今にも空を飛んでいきそうな勢いでそわそわと動き回っていた。
「ただいま……」
「おかえり! 挨拶済んだ!? もう行く!? 出発する!?」
彼女の心はとっくに黒い森を越えてはるか遠くへ飛んでいるようだった。
「まだ。あとカディアル家と国王夫婦に顔を出す」
そう答えると、リョーネはがくと項垂れてソファに座り込んでしまった。
私は宥めるように、その隣に腰掛けて頭を撫でてやった。美しい髪は長く伸び、ズミの女服を着込むのももうすっかり馴染んでいる。
「そんな慌てるなよ。ズミは逃げやしないから」
「一秒でも早く帰りたい。やっぱりこんな街で過ごすのは私には無理だよ、ミョーネの気持ちが痛いほど分かる」
「女の格好してても何も言われないだろ」
「女の格好以前の問題だよ! 髪が黒いだけで目立つ目立つ! 頭を隠しててもズミの服着てるだけで目立つ! だからってトレンティア人の服なんか息苦しくて着てられないし、食べ物は分からないし、文字も読めないし、神殿もないし……」
……まあ、不便は多いだろう。離れたくない一心でトレンティアでの同居を承諾させたものの、さすがに永住は無理があったらしい。
ズミに帰れないなら離婚させていただきます、なんて言われてさすがの私も折れることになった。もっとも、ズミでしばらく充電させたらまたこちらへ連れ去ってやろうとは画策しているが……。
頭を撫でていると気持ちも落ち着くらしく、しばらくするとしゅんとしてただ体を預けてきた。やがて張り合うみたいにして彼女も私の髪を弄ってくる。
「あ、白髪。増えてきたんじゃない? 最近」
「俺も歳だからなあ。お前は俺より歳上のくせに、いつまでも黒くて綺麗だが……」
「これは染めてるから。君も黒染めしてみる? 黒髪のパウルも素敵だと思うけど」
「生え際から金髪になるじゃん。余計白髪っぽくて嫌だ」
お互いの髪を弄り合いながら、やがて流れるように口付けをする。
しかし唇を離しても彼女まだ物欲しそうに擦りついてくる。もう夕刻ではあるが食事前である、まったくせっかちな女だ。
二人だけなのだから気兼ねすることもないが……しかしそれはそうとして、さすがに四十を過ぎると下半身の元気がなくなってくるもので、少し億劫である。
こればっかりは若い夫婦が羨ましいな、なんて思ってしまったりする。誤魔化して話題を変えることにした。
「まあ、ラズミルに戻るにはちょうどいいタイミングだ。こないだ手紙が届いたんだが、ヨハンのとこに三人目が生まれたらしい。今度は男だって。また顔を見に来いって言ってたよ」
「もう三人目? ころころ産むねえ。その度国境越えてわざわざ顔を見に行く君も律儀だけど」
「ズミ王からの要請だ、トレンティアの王族として無下にはできん」
「じゃあ早く出発しよう。さっさと残りの挨拶済ませてきてよ」
そう急かされて、私は翌日も引き続き挨拶回りに出かけることになった。
その日は訪ねる先が偉い人の所なので、きちと正装を着てグリスに馬車を走らせる。少し自由な気分が損なわれてしまう。
フォス・カディアル家を訪ねると、他にもちょうど挨拶に来ている者があったらしい。
「これは……ブライアン殿下。今日もお元気なことで」
従者達と共に庭で遊んでいる様子の幼い王子に、私は恭しく跪いた。
彼はまだ私の顔を憶えてはいないらしく、びくりとして護衛騎士の後ろに隠れてしまった。
「殿下、イグノール陛下ですよ。ほら、ご挨拶を」
自身の後ろに逃げた王子に、騎士がそう困ったように笑うが、ブライアンはどうにも人見知りな性格らしく、おどおどとして小さく挨拶を言っただけだった。
可愛らしい王子を見ながら、私達はゆるりと雑談を交わす。
「はは、すっかり殿下に懐かれているな、ハルク」
「ええ、本当にありがたいことに……。今日も実は私の用事だったんですが、殿下が付いてくると仰って聞かなくて。陛下はどうされたのです?」
「これから私はズミに渡ることになってね、しばらく国を離れるんで、挨拶にと」
「ズミに? それはいいですね。アザルに会ったらよろしく言っておいてください」
「ああ、お前もいつか来れるといいな」
「殿下がもう少し大きくなられたら……親善の挨拶に向かうこともあるでしょうかね」
そう微笑むハルクもすっかり凛々しい青年だ。王子の護衛騎士として働いている彼とは、会う機会もあまりない分、見るたびにでかくなっている気がする。
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ともかく挨拶回りを終えた私は帰宅し、今すぐにでも飛び立とうとしている妻に尻を叩かれながら出発の準備をした。同行者は妻リョーネと、そして従者ヘルマンの二人だけだ。先王陛下の旅立ちとしては馬鹿みたいに呆気ない。
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