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第六話 愛蘭(あいらん)と花緑青の後宮
消えゆく色 ― 病の側室
◆ ◆ ◆
図画省に呼び出された翌朝。
愛蘭は、まだ人影の少ない回廊を歩いていた。
障子越しに差し込む光は淡く、晩春の気配を含んでいる。
胸の奥に、昨夜から消えない予感があった。
「――入れ」
劉原水(りゅう・げんすい)の声に促され、愛蘭は室内へ足を踏み入れた。
几帳面に整えられた机。
積み上げられた文書。
そして、その向こうで静かに立つ男。
「急に呼び立ててすまない」
「いえ」
愛蘭は小さく首を振った。
「昨日の件だが……」
劉原水は、声を落とす。
「後宮の側室の一人、宋 翠香(そう・すいこう)が、原因不明の病に伏している」
その名を聞き、愛蘭はわずかに眉をひそめた。
宋翠香。
中位の側室ながら、皇帝の覚えもよく、控えめで争いを好まぬことで知られている女性だ。
「医官は?」
「全員、首を振った。
脈が弱くなっている。微熱もあるが、だが――原因が病名が不明だ」
劉原水は、しばし言葉を探すように間を置いた。
「日ごとに衰弱している」
「……」
「眠りが浅く、頭痛と吐き気を訴え、
近頃は光を見るのもつらいそうだ」
愛蘭の胸に、嫌な感触が走る。
(それは……病というより――)
「私は後宮には入れない」
劉原水は、はっきりと告げた。
「だが君なら、女性絵師として入れる。
宋側室の『容態記録用の写生』という名目だ」
「……調べてほしい、ということですね」
「ああ」
彼の目が、まっすぐ愛蘭を射抜く。
「絵師の目で見てほしい。後宮ならではの怪しさがないか。
――色、匂い、空気。
医官が見落としたものを」
愛蘭は、静かに頷いた。
◆ ◆ ◆
後宮の奥。
宋翠香の居室は、思いのほか静かな場所にあった。
「こちらでございます」
案内役の侍女が、低い声で告げる。
襖を開いた瞬間、
愛蘭の足が、わずかに止まった。
(……この色)
壁一面が、柔らかな花緑青(はなろくしょう)に塗られている。
穏やかで、目に優しい緑。
一見すると、心を落ち着かせる色彩だ。
だが――
(違う)
胸の奥で、警鐘が鳴る。
愛蘭は、そっと室内に足を踏み入れた。
宋翠香は、寝台に横たわっていた。
顔色は白く、唇の色が薄い。
「……絵師、ですか……」
かすれた声。
「はい。失礼いたします」
愛蘭は形式通りに挨拶しながら、視線を室内に巡らせる。
調度品。
香炉。
絹の帳。
――そして、壁。
(間違いない)
光の当たり方で、わずかに鈍い輝きがある。
天然の緑青にはない、独特の発色。
(これは……)
愛蘭は、息を詰めた。
印象派の画家たちの間で好まれた色(パリスグリーン)だ。
フラン王国のアカデミーで学んだ記憶が、鮮明によみがえる。
――美しいが、危険な色。
――鮮やかさの代償に、毒を宿す顔料。
宋翠香の顔に、ふと視線を戻す。
青白い肌。
目の下の隈。
かすかな震え。
(長く、この部屋にいたのね……)
◆ ◆ ◆
愛蘭は、写生の準備をしながら、さりげなく壁に近づいた。
袖の内に忍ばせた小さな紙片。
筆先で、ほんのわずかに壁面をなぞる。
――粉を採取する。
(……これを持ち帰れば)
胸の内で、静かに呟く。
写生は短時間で切り上げた。
「本日は、これで」
「……ありがとうございます……」
宋翠香の声は、弱々しかった。
部屋を出る直前、愛蘭は振り返る。
美しい緑の壁。
人を癒すために選ばれたはずの色。
(――でも、この色は、人を蝕む)
◆ ◆ ◆
翌日。
図画省の一室で、愛蘭は採取した顔料を差し出していた。
「これは……」
劉原水が、目を細める。
「花緑青に見えますが、フランでは、
通常――パリスグリーンと呼ばれている色です」
「まさかそれは……毒なのか」
「はい。昨夜、ネズミの食べ物に含ませたところ……確認できました」
愛蘭は、はっきりと言った。
「ヒ素を含む顔料です。
フラン王国のアカデミーでは、毒の緑と呼ばれています。
室内装飾への使用は、すでに禁止されている危険物です」
劉原水の表情が、硬くなる。
「長期間、密閉された空間で使えば……」
「揮発し、少しずつ体を侵します。
頭痛、吐き気、衰弱。
宋側室の症状と、一致します」
沈黙。
やがて、劉原水が低く問う。
「――誰が、そんなものを使った」
愛蘭は、視線を落とした。
「それを、これから調べるのは原水様のお仕事では?」
後宮で、偶然を考えるのは、あまりにも善良すぎる考え方だ。
誰かがこの色を選んだ。
その場所も、時期も、誰かの陰謀なのか? それとも偶然なのか?
――そして、誰かが“知っていて”使ったのか? なんのために! 目的は。
後宮絵師・愛蘭の仕事は、
再び、命の輪郭へと踏み込んでいく。
◆ ◆ ◆
図画省に呼び出された翌朝。
愛蘭は、まだ人影の少ない回廊を歩いていた。
障子越しに差し込む光は淡く、晩春の気配を含んでいる。
胸の奥に、昨夜から消えない予感があった。
「――入れ」
劉原水(りゅう・げんすい)の声に促され、愛蘭は室内へ足を踏み入れた。
几帳面に整えられた机。
積み上げられた文書。
そして、その向こうで静かに立つ男。
「急に呼び立ててすまない」
「いえ」
愛蘭は小さく首を振った。
「昨日の件だが……」
劉原水は、声を落とす。
「後宮の側室の一人、宋 翠香(そう・すいこう)が、原因不明の病に伏している」
その名を聞き、愛蘭はわずかに眉をひそめた。
宋翠香。
中位の側室ながら、皇帝の覚えもよく、控えめで争いを好まぬことで知られている女性だ。
「医官は?」
「全員、首を振った。
脈が弱くなっている。微熱もあるが、だが――原因が病名が不明だ」
劉原水は、しばし言葉を探すように間を置いた。
「日ごとに衰弱している」
「……」
「眠りが浅く、頭痛と吐き気を訴え、
近頃は光を見るのもつらいそうだ」
愛蘭の胸に、嫌な感触が走る。
(それは……病というより――)
「私は後宮には入れない」
劉原水は、はっきりと告げた。
「だが君なら、女性絵師として入れる。
宋側室の『容態記録用の写生』という名目だ」
「……調べてほしい、ということですね」
「ああ」
彼の目が、まっすぐ愛蘭を射抜く。
「絵師の目で見てほしい。後宮ならではの怪しさがないか。
――色、匂い、空気。
医官が見落としたものを」
愛蘭は、静かに頷いた。
◆ ◆ ◆
後宮の奥。
宋翠香の居室は、思いのほか静かな場所にあった。
「こちらでございます」
案内役の侍女が、低い声で告げる。
襖を開いた瞬間、
愛蘭の足が、わずかに止まった。
(……この色)
壁一面が、柔らかな花緑青(はなろくしょう)に塗られている。
穏やかで、目に優しい緑。
一見すると、心を落ち着かせる色彩だ。
だが――
(違う)
胸の奥で、警鐘が鳴る。
愛蘭は、そっと室内に足を踏み入れた。
宋翠香は、寝台に横たわっていた。
顔色は白く、唇の色が薄い。
「……絵師、ですか……」
かすれた声。
「はい。失礼いたします」
愛蘭は形式通りに挨拶しながら、視線を室内に巡らせる。
調度品。
香炉。
絹の帳。
――そして、壁。
(間違いない)
光の当たり方で、わずかに鈍い輝きがある。
天然の緑青にはない、独特の発色。
(これは……)
愛蘭は、息を詰めた。
印象派の画家たちの間で好まれた色(パリスグリーン)だ。
フラン王国のアカデミーで学んだ記憶が、鮮明によみがえる。
――美しいが、危険な色。
――鮮やかさの代償に、毒を宿す顔料。
宋翠香の顔に、ふと視線を戻す。
青白い肌。
目の下の隈。
かすかな震え。
(長く、この部屋にいたのね……)
◆ ◆ ◆
愛蘭は、写生の準備をしながら、さりげなく壁に近づいた。
袖の内に忍ばせた小さな紙片。
筆先で、ほんのわずかに壁面をなぞる。
――粉を採取する。
(……これを持ち帰れば)
胸の内で、静かに呟く。
写生は短時間で切り上げた。
「本日は、これで」
「……ありがとうございます……」
宋翠香の声は、弱々しかった。
部屋を出る直前、愛蘭は振り返る。
美しい緑の壁。
人を癒すために選ばれたはずの色。
(――でも、この色は、人を蝕む)
◆ ◆ ◆
翌日。
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「これは……」
劉原水が、目を細める。
「花緑青に見えますが、フランでは、
通常――パリスグリーンと呼ばれている色です」
「まさかそれは……毒なのか」
「はい。昨夜、ネズミの食べ物に含ませたところ……確認できました」
愛蘭は、はっきりと言った。
「ヒ素を含む顔料です。
フラン王国のアカデミーでは、毒の緑と呼ばれています。
室内装飾への使用は、すでに禁止されている危険物です」
劉原水の表情が、硬くなる。
「長期間、密閉された空間で使えば……」
「揮発し、少しずつ体を侵します。
頭痛、吐き気、衰弱。
宋側室の症状と、一致します」
沈黙。
やがて、劉原水が低く問う。
「――誰が、そんなものを使った」
愛蘭は、視線を落とした。
「それを、これから調べるのは原水様のお仕事では?」
後宮で、偶然を考えるのは、あまりにも善良すぎる考え方だ。
誰かがこの色を選んだ。
その場所も、時期も、誰かの陰謀なのか? それとも偶然なのか?
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