記憶喪失の司祭は罪人を飼う【R18BL】

堀川渓

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序章

雨夜の出会い

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 叩きつけるような豪雨の中、セレスは無我夢中で山を駆けていた。

 真夜中の山道は、一寸先も見えないほどの深い闇に包まれている。

「はぁっ、はぁっ……」

 肺が焼けるように熱く、息をするたびに喉から口腔にかけて血の味が広がる。

 激しい疲労と飢餓感に何度も意識が遠のきそうになるが、しかしセレスは足を止めるわけにはいかなかった。

 背後から迫ってくる複数の気配、ぬかるんだ地面を踏みしめる不規則で不安定な足音、鼻腔をツンとつく腐敗臭。

 何より、人の血肉を喰らいたいという渇望を孕んだ低い唸り声が、セレスの精神を蝕む。

 ーー屍人の群れだ。司祭による祈りの言葉や正しい埋葬を経ずに野に捨てられた遺体は、魂の救いを得られないまま、食肉への欲望だけを抱えた悲しき怪物へと成り果ててしまう。

(あぁ、なんて痛ましく、哀れな存在……)

 今まさに自分が襲われんとしているのに、セレスが胸に抱くのは、屍人たちへの恐怖や嫌悪ではなく深い憐憫の心であった。

 セレスは、聖職者だった。身に纏う宗教者の衣服、首から下げるのは十字の光をモチーフとしたペンダント……なによりその胸に溢れる清廉な哀しみが証明している。

 聖属性魔法の使い手、教会に所属する司祭。しかし、本人にそれ以上のことは分からなかった。

 セレスは、記憶を失っていた。

 覚えているのは、言葉と少しの常識、そして自身が人から「セレス」という名で呼ばれていた微かな記憶だけ……。

 そのセレスという名さえも、本当に己の名前であるという確証が持てない。

 自分を自分たらしめる記憶が見つからないことに、セレスは気が狂いそうなほどの心細さで胸が押しつぶされそうであった。

(ここは、どこで……今がいつなのか、私は誰なのか。分からない……何一つ、覚えていない……!!)

 胃袋が空腹で捻れるように痛む。ただ一歩前に足を出すだけの動作さえ、気が遠くなりそうなほど億劫で。

 せめて道を照らす光だけでもと、聖杖ーー所謂、聖属性魔法の使い手専用の魔法の杖ーーの柄を握りしめ、かすれた声で呪文を唱える。

 しかし、どれほど必死に祈っても、小指の先ほどの小さな光がふっと現れては儚く消えるだけで、足元を照らすことさえ叶わない。

 飢餓と疲労、雨に濡れ芯まで冷えた身体……極限状態のセレスには、小さな光一つ灯せるほどの魔力すら残っていなかったのだ。

 背後の屍人達が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。弱りきったセレスを捕らえ、肉を喰らおうと迫ってくる。

「……っはぁ、はぁっ……!!」

 セレスは死に物狂いで走った。星が見えず、位置も方角も分からない中、濁った呻き声からただ必死に逃げ惑った。

 そんな苦しい時間を、どれ程耐えた頃だろうか。

 滝のように降りつける雨、水分を含んで泥濘と化した地面に足を取られたセレスは、ついに突き出た木の根に爪先を引っかけてしまった。

 前のめりに傾いたセレスの身体は、そのまま地面に勢いよく叩きつけられる。

「あがっ……!!」

 顔面を泥水に濡れた斜面に打ちつけ、激しく咳き込む。それと同時に、泥混じりの冷たい雨水がじわじわと服に染み込んできて、泣きたくなるほどの惨めな心地に呆然とした。

(もう、駄目だ。)

 水分を吸って重くなった衣服が身体に張り付き、ずっしりと全身にのし掛かる。立ちあがろうにも、手足が震えて力が入らず、身動きが取れない。

 ーーセレスは、その瞬間諦めの境地に達した。否、心が折れてしまったのだ。

 ぐったりと座り込んだまま、唸り声の聞こえる方へ哀愁の眼差しを向ける。気配が目と鼻の先まで迫ってくると、その所々腐り落ちて骨のあらわになった痛々しい身体を目にすることができた。

 自分に向けて歪な動作で手を振り上げる屍人に、セレスは無力感と絶望の中で静かに瞼を閉じ、指を組んで祈りを捧げた。

 悲しき屍人達の底知れぬ飢えに食い殺される運命を覚悟した——その瞬間だった。

「——浄化光線ピュリファイ・レイ!!」

 閉じた瞼の皮越しにも分かるほど強い光に、辺り一帯が包まれたのは。

 第三階位聖属性魔法、浄化光線……それは、魔物や屍人などの穢れに侵されてしまった存在を強い浄化の光で焼き払う強力な魔法だ。

 耳をつんざくような屍人達の断末魔と共に、先ほどまでセレスを追い詰めていた濃い死臭と殺意が光の奔流に流されていく。

 恐る恐る、瞼を開くと、その光の中にいたのは聖杖を右手に握りしめ立つ一人の老父だった。

 司祭服を身に纏い、すっと背筋を伸ばして立つその厳かな姿は、その時のセレスの目には神像と見まがうばかりに神々しく写った。

「……立てますか、君。ここを真っ直ぐ突っ切っていけば、山を降りたところに小さな教会があります。そこに逃げ込みなさい」

 ——それが、大司教ジルベールとの出会いだった。
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