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序章
美男の司祭
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――すんでのところで老父に助けられ、屍人の群れから逃げ延びたセレスが辿り着いたのは、ミハニア村という小さな山村だった。
ニクラス王国の国境近くに位置する峻険な山々の麓、豊かな自然に囲まれたその村には、古びているが隅々まで手入れの行き届いた小さな教会があって。
あの嵐の夜、セレスを救った老父――ジルベールは、かつて王都の中央教会で大司教という重職を務めていた人物であり、現在は高齢を理由に一線を退きこの辺境の山村で七人の孤児を育てながらその小さな教会の司祭として静かに暮らしを営んでいたのだ。
名前も出自も分からない記憶喪失の青年を、ジルベールは温かく迎え入れてくれた。
あの嵐の夜からひと月が経ち、セレスは教会の司祭として、ジルベールの手伝いをしながら日々を過ごしている。
「セレスさま、ピアノ弾いてー‼︎」
「ええ~~っ、セレスさまはこっちでお絵かきするんだよ」
「ちがうよ、ご本の読み聞かせだよ‼︎」
柔らかな太陽の光が天窓から降り注ぐ聖堂に、子供達の賑やかな声が響く。セレスは両腕の袖を左右からひっぱられて、困ったように眉を下げながら微苦笑を浮かべた。
セレスがやってきたばかりの頃は、得体の知れない青年に警戒心を抱いていた子供たちだったが、たおやかで美しく、心優しいセレスに心を開き懐くのに、そう時間はかからなかった。
腰まで届くブロンドベージュの髪は絹糸のように滑らかで、真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下には、彫刻のように整ったかんばせがある。
長い睫毛に縁取られた瞳は、うららかな春空を映したような澄んだ青色をしていて。
白雪のように透き通る肌色も相まって、彼が微笑むだけで周囲の空気がシンと清められるようだった。
「こらこら、喧嘩しないで。順番に、ですよ」
セレスが穏やかに微笑んでたしなめる。その柔らかで心地の良い声音は、子供達の繊細な心にすっと浸透して、波立つ感情を静めるのだ。
「――やれやれ、この歳になると、何をするにも時間がかかって仕方ありませんよ」
遊び疲れた子供達が教会奥の居住スペースにて昼寝を始めた頃、丁度外で墓場の清掃をしていたジルベールが戻ってきた。
彼は暖炉の傍らにある椅子にゆったりと腰掛けると、疲労の滲む深いため息を漏らす。
「お疲れ様です、ジルベール様。午後の業務は私が引き受けますから、お休みになって下さい」
小鍋で温めておいたミルクをカップに淹れて渡し、セレスもすぐ側の椅子に腰掛ける。
ジルベールはそのしゃんとした背筋と張りのある声で若く見られがちだが、今年で七十八になるという。近頃は足腰の痛みに顔をしかめることも多く、セレスはそんな彼を献身的に支えていた。
「助かりますよ、セレス。貴方が来てから、子供達は随分と明るくなりました。今までは教会の仕事に追われて、子供達に寂しい思いをさせてばかりでしたから……」
ジルベールは静かに一口、ホットミルクを飲み、ほっと息をつく。
「感謝しなければならないのは私の方です。子供達の笑顔には、すごく元気を貰っていますから」
セレスはすっと目を細めて口元をほころばせた。記憶がない、自分が何者か分からないという不安や心細さも、子供達の無邪気な笑顔と溢れる生命力に触れているときだけは、温かく和らぐのを感じるのだ。
ふと寝室の方に目線をやると、寝台の上で身を寄せ合ってすやすやと眠る子供達の穏やかな寝顔が視界に映る。
ここにいる子供達は皆、戦火や貧困で家族を失った悲しい過去を背負っている。それでも明日を信じて懸命に生きていこうとする幼い命達を、セレスは愛おしく思っていた。
「私たちはこの子達を……守らなければいけません、なんとしてでも」
神妙な声音でジルベールが呟くのに、セレスは無言で頷く。窓の外で風に揺れてざわめく木々を見つめるセレスの瞳には、深い愁いが宿っていた。
「……今夜あたり、来るかも知れませんね」
―――――
ミハニア村の穏やかな表情は、陽が沈むとともに一変する。
「――来ましたよ、セレス」
夜のとばりが降りてしばらく経った時、耳の奥でキィィン……という高い音が響いた。それと同時に、ジルベールが静かに聖杖を握りしめて立ち上がる。
夜の闇が深まるにつれて、教会一帯の空気は凍てつくように張り詰め、静かな眠りの場である墓地は戦場へと変貌する。
今、この国では「屍人」の増殖が深刻な社会問題となっていた。国境の山々に遺棄された遺体や戦争で回収されなかった骸の数々が、人の血肉を求めて彷徨う救いなき亡者になり果て、群れを成して人里を襲っているのだ。
ミハニア村において、その防波堤となっているのがジルベールの教会と墓地だった。村の居住区と山々の間に挟まるところに位置する教会は、山から下りてくる屍人たちが真っ先に立ち寄る場所だ。
埋葬されている遺体を食らおうと、あるいは生きた村人達の血肉を求めて、数多の屍人たちが暗闇から這い出てくる。
「前回の襲撃は五日前でしたか。やってくる屍人の数は変わらないのに、年々間隔が狭まってきていますね」
「……ジルベール様、お身体は大丈夫ですか? もしお辛いのでしたら、今夜は私一人だけでも」
二人連れだって教会の外に出ると、既に屍人たちが近くまで来ているのか、鼻腔をつく深いな死臭が風に乗って漂ってきた。ジルベールは杖を地面に突くと、静かに首を横に振る。
「……お気遣いありがとうございます。しかし、貴方一人に任せてのんびり休んでいるなんてのは性に合わないのです。今この町を守れるのは、私と貴方……二人きりしかいないのですから」
老いて掠れた声に宿る、揺るぎない使命感。セレスはその覚悟の重さに、胸が締付けられるような思いがした。
「くれぐれもご無理は……なさらないでくださいね」
「はは、そんなに心配するほど私は弱って見えますか。一時は国一の術者と謳われた私も、ずいぶん衰えたものだ……」
闇に目が慣れてくると、少し離れた茂みの向こうでゆらゆらと不気味な黒い影がうごめいているのが見えた。
聖杖の柄を握る手が緊張に震え、手のひらがじっとりと汗ばむ。幾度となく襲撃の夜を越してきたセレスだったが、いつになってもこの戦いに慣れることなどできなかった。
―――今宵も、救いなき死者達との戦いが始まる。
ニクラス王国の国境近くに位置する峻険な山々の麓、豊かな自然に囲まれたその村には、古びているが隅々まで手入れの行き届いた小さな教会があって。
あの嵐の夜、セレスを救った老父――ジルベールは、かつて王都の中央教会で大司教という重職を務めていた人物であり、現在は高齢を理由に一線を退きこの辺境の山村で七人の孤児を育てながらその小さな教会の司祭として静かに暮らしを営んでいたのだ。
名前も出自も分からない記憶喪失の青年を、ジルベールは温かく迎え入れてくれた。
あの嵐の夜からひと月が経ち、セレスは教会の司祭として、ジルベールの手伝いをしながら日々を過ごしている。
「セレスさま、ピアノ弾いてー‼︎」
「ええ~~っ、セレスさまはこっちでお絵かきするんだよ」
「ちがうよ、ご本の読み聞かせだよ‼︎」
柔らかな太陽の光が天窓から降り注ぐ聖堂に、子供達の賑やかな声が響く。セレスは両腕の袖を左右からひっぱられて、困ったように眉を下げながら微苦笑を浮かべた。
セレスがやってきたばかりの頃は、得体の知れない青年に警戒心を抱いていた子供たちだったが、たおやかで美しく、心優しいセレスに心を開き懐くのに、そう時間はかからなかった。
腰まで届くブロンドベージュの髪は絹糸のように滑らかで、真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下には、彫刻のように整ったかんばせがある。
長い睫毛に縁取られた瞳は、うららかな春空を映したような澄んだ青色をしていて。
白雪のように透き通る肌色も相まって、彼が微笑むだけで周囲の空気がシンと清められるようだった。
「こらこら、喧嘩しないで。順番に、ですよ」
セレスが穏やかに微笑んでたしなめる。その柔らかで心地の良い声音は、子供達の繊細な心にすっと浸透して、波立つ感情を静めるのだ。
「――やれやれ、この歳になると、何をするにも時間がかかって仕方ありませんよ」
遊び疲れた子供達が教会奥の居住スペースにて昼寝を始めた頃、丁度外で墓場の清掃をしていたジルベールが戻ってきた。
彼は暖炉の傍らにある椅子にゆったりと腰掛けると、疲労の滲む深いため息を漏らす。
「お疲れ様です、ジルベール様。午後の業務は私が引き受けますから、お休みになって下さい」
小鍋で温めておいたミルクをカップに淹れて渡し、セレスもすぐ側の椅子に腰掛ける。
ジルベールはそのしゃんとした背筋と張りのある声で若く見られがちだが、今年で七十八になるという。近頃は足腰の痛みに顔をしかめることも多く、セレスはそんな彼を献身的に支えていた。
「助かりますよ、セレス。貴方が来てから、子供達は随分と明るくなりました。今までは教会の仕事に追われて、子供達に寂しい思いをさせてばかりでしたから……」
ジルベールは静かに一口、ホットミルクを飲み、ほっと息をつく。
「感謝しなければならないのは私の方です。子供達の笑顔には、すごく元気を貰っていますから」
セレスはすっと目を細めて口元をほころばせた。記憶がない、自分が何者か分からないという不安や心細さも、子供達の無邪気な笑顔と溢れる生命力に触れているときだけは、温かく和らぐのを感じるのだ。
ふと寝室の方に目線をやると、寝台の上で身を寄せ合ってすやすやと眠る子供達の穏やかな寝顔が視界に映る。
ここにいる子供達は皆、戦火や貧困で家族を失った悲しい過去を背負っている。それでも明日を信じて懸命に生きていこうとする幼い命達を、セレスは愛おしく思っていた。
「私たちはこの子達を……守らなければいけません、なんとしてでも」
神妙な声音でジルベールが呟くのに、セレスは無言で頷く。窓の外で風に揺れてざわめく木々を見つめるセレスの瞳には、深い愁いが宿っていた。
「……今夜あたり、来るかも知れませんね」
―――――
ミハニア村の穏やかな表情は、陽が沈むとともに一変する。
「――来ましたよ、セレス」
夜のとばりが降りてしばらく経った時、耳の奥でキィィン……という高い音が響いた。それと同時に、ジルベールが静かに聖杖を握りしめて立ち上がる。
夜の闇が深まるにつれて、教会一帯の空気は凍てつくように張り詰め、静かな眠りの場である墓地は戦場へと変貌する。
今、この国では「屍人」の増殖が深刻な社会問題となっていた。国境の山々に遺棄された遺体や戦争で回収されなかった骸の数々が、人の血肉を求めて彷徨う救いなき亡者になり果て、群れを成して人里を襲っているのだ。
ミハニア村において、その防波堤となっているのがジルベールの教会と墓地だった。村の居住区と山々の間に挟まるところに位置する教会は、山から下りてくる屍人たちが真っ先に立ち寄る場所だ。
埋葬されている遺体を食らおうと、あるいは生きた村人達の血肉を求めて、数多の屍人たちが暗闇から這い出てくる。
「前回の襲撃は五日前でしたか。やってくる屍人の数は変わらないのに、年々間隔が狭まってきていますね」
「……ジルベール様、お身体は大丈夫ですか? もしお辛いのでしたら、今夜は私一人だけでも」
二人連れだって教会の外に出ると、既に屍人たちが近くまで来ているのか、鼻腔をつく深いな死臭が風に乗って漂ってきた。ジルベールは杖を地面に突くと、静かに首を横に振る。
「……お気遣いありがとうございます。しかし、貴方一人に任せてのんびり休んでいるなんてのは性に合わないのです。今この町を守れるのは、私と貴方……二人きりしかいないのですから」
老いて掠れた声に宿る、揺るぎない使命感。セレスはその覚悟の重さに、胸が締付けられるような思いがした。
「くれぐれもご無理は……なさらないでくださいね」
「はは、そんなに心配するほど私は弱って見えますか。一時は国一の術者と謳われた私も、ずいぶん衰えたものだ……」
闇に目が慣れてくると、少し離れた茂みの向こうでゆらゆらと不気味な黒い影がうごめいているのが見えた。
聖杖の柄を握る手が緊張に震え、手のひらがじっとりと汗ばむ。幾度となく襲撃の夜を越してきたセレスだったが、いつになってもこの戦いに慣れることなどできなかった。
―――今宵も、救いなき死者達との戦いが始まる。
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