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いなくなる夜
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「……もう、限界かもしれない」
その一言で、クロの手が止まった。
缶ビールのプルタブを開けかけたまま、彼はゆっくりと顔を上げる。
テーブル越しの遥は、いつになく穏やかな表情をしていた。
まるで、すでに泣き終わった人の顔だ。
「は? なにが」
「全部。待つことも、許すことも。……もう、疲れた」
クロは苦笑した。
「またそれ? お前さ、ほんと面倒くさいよな。俺が帰ってきただけでもありがたく思えって」
「うん、そうかもね。
でも――“ありがたい”って思うことに、限界があるんだ」
その声に、いつもみたいな怒りも棘もなかった。
淡々としているのに、妙に重く響く。
クロはその“静けさ”が怖くて、思わず言葉を荒げた。
「だったらどうすんだよ? 出てくのか? 俺を置いて?」
遥はわずかに俯き、微笑んだ。
「……うん。そうする」
椅子を引く音が、夜の部屋に乾いた。
その音を合図に、クロの胸の奥で何かが軋む。
「待てよ」
クロは手を伸ばした。
だが、遥はその手をそっと避けた。
触れられる前に、一歩、下がる。
その距離が、永遠に届かないもののように思えた。
「ねぇクロ。俺、飛べないけど……歩けるんだ。
だから、もう少しだけ、自分の足で進んでみたい」
クロは唇を噛んだ。
言い返す言葉が見つからない。
喉まで出かかった「行くな」が、声にならない。
ただ見送るしかできなかった。
玄関のドアが開く。
外の冷気が流れ込み、遥の髪を揺らした。
その横顔は、泣いていないのに悲しかった。
「クロ。……ありがとう。
ほんとは、ちゃんと好きだったよ」
ぱたん、と扉が閉じる。
その瞬間、世界から音が消えた。
--
冷たい風が頬を刺す。
遥は無意識のうちに歩き続けていた。
街灯の下を通り抜けるたび、影が伸びたり縮んだりする。
まるで、自分の存在が薄れていくみたいだった。
足元を見つめると、アスファルトに小さな涙のしみが落ちていた。
泣いているつもりはなかったのに、いつの間にか頬が濡れている。
「……バカだな、俺」
呟きながら、ポケットの中の鍵を握る。
クロと同じ部屋の鍵。
まだ温もりが残っているような気がして、手放せなかった。
(ほんとは、もっと優しくできたかもしれない)
(でも、優しくしたら、また縋ってしまう)
そんな考えがぐるぐる回る。
信号が青になっても、渡る気になれない。
背中に、もう誰も追ってこない気配だけが広がっていた。
---
一方その頃、クロはまだ玄関の前に立ち尽くしていた。
時間が止まったように。
冷たい空気の中、遥の残り香だけが微かに漂っている。
部屋に戻ると、いつもの景色がそこにあった。
けれど――何もかもが違って見えた。
テーブルの上には、遥が畳んでおいたクロのコート。
キッチンには、作りかけの味噌汁。
ソファの端には、遥がよく読んでいた文庫本。
それが開かれたままになっていた。
クロはそのページを指でなぞりながら、かすかに笑った。
「……ほんとに、いなくなっちまったんだな」
その声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
胸の奥が、痛い。
痛いのに、涙が出ない。
ただ、何かが空洞のように抜け落ちていく。
(なんであんな言い方、したんだろう)
(どうして、掴まなかったんだ)
(お前が“いなくなる”なんて、考えたことなかった)
クロはゆっくり床に座り込み、掌を見つめた。
ほんの数分前まで、そこに確かにいた温もりが、
いまはどこにもない。
窓の外では夜が明けかけている。
淡い光がカーテンの隙間から差し込み、
クロの頬に落ちた。
ようやく、その光の中で――ひとすじの涙がこぼれた。
「……帰ってこいよ、遥」
声は震えていた。
その声を聞く者は、もういない。
その一言で、クロの手が止まった。
缶ビールのプルタブを開けかけたまま、彼はゆっくりと顔を上げる。
テーブル越しの遥は、いつになく穏やかな表情をしていた。
まるで、すでに泣き終わった人の顔だ。
「は? なにが」
「全部。待つことも、許すことも。……もう、疲れた」
クロは苦笑した。
「またそれ? お前さ、ほんと面倒くさいよな。俺が帰ってきただけでもありがたく思えって」
「うん、そうかもね。
でも――“ありがたい”って思うことに、限界があるんだ」
その声に、いつもみたいな怒りも棘もなかった。
淡々としているのに、妙に重く響く。
クロはその“静けさ”が怖くて、思わず言葉を荒げた。
「だったらどうすんだよ? 出てくのか? 俺を置いて?」
遥はわずかに俯き、微笑んだ。
「……うん。そうする」
椅子を引く音が、夜の部屋に乾いた。
その音を合図に、クロの胸の奥で何かが軋む。
「待てよ」
クロは手を伸ばした。
だが、遥はその手をそっと避けた。
触れられる前に、一歩、下がる。
その距離が、永遠に届かないもののように思えた。
「ねぇクロ。俺、飛べないけど……歩けるんだ。
だから、もう少しだけ、自分の足で進んでみたい」
クロは唇を噛んだ。
言い返す言葉が見つからない。
喉まで出かかった「行くな」が、声にならない。
ただ見送るしかできなかった。
玄関のドアが開く。
外の冷気が流れ込み、遥の髪を揺らした。
その横顔は、泣いていないのに悲しかった。
「クロ。……ありがとう。
ほんとは、ちゃんと好きだったよ」
ぱたん、と扉が閉じる。
その瞬間、世界から音が消えた。
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冷たい風が頬を刺す。
遥は無意識のうちに歩き続けていた。
街灯の下を通り抜けるたび、影が伸びたり縮んだりする。
まるで、自分の存在が薄れていくみたいだった。
足元を見つめると、アスファルトに小さな涙のしみが落ちていた。
泣いているつもりはなかったのに、いつの間にか頬が濡れている。
「……バカだな、俺」
呟きながら、ポケットの中の鍵を握る。
クロと同じ部屋の鍵。
まだ温もりが残っているような気がして、手放せなかった。
(ほんとは、もっと優しくできたかもしれない)
(でも、優しくしたら、また縋ってしまう)
そんな考えがぐるぐる回る。
信号が青になっても、渡る気になれない。
背中に、もう誰も追ってこない気配だけが広がっていた。
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一方その頃、クロはまだ玄関の前に立ち尽くしていた。
時間が止まったように。
冷たい空気の中、遥の残り香だけが微かに漂っている。
部屋に戻ると、いつもの景色がそこにあった。
けれど――何もかもが違って見えた。
テーブルの上には、遥が畳んでおいたクロのコート。
キッチンには、作りかけの味噌汁。
ソファの端には、遥がよく読んでいた文庫本。
それが開かれたままになっていた。
クロはそのページを指でなぞりながら、かすかに笑った。
「……ほんとに、いなくなっちまったんだな」
その声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
胸の奥が、痛い。
痛いのに、涙が出ない。
ただ、何かが空洞のように抜け落ちていく。
(なんであんな言い方、したんだろう)
(どうして、掴まなかったんだ)
(お前が“いなくなる”なんて、考えたことなかった)
クロはゆっくり床に座り込み、掌を見つめた。
ほんの数分前まで、そこに確かにいた温もりが、
いまはどこにもない。
窓の外では夜が明けかけている。
淡い光がカーテンの隙間から差し込み、
クロの頬に落ちた。
ようやく、その光の中で――ひとすじの涙がこぼれた。
「……帰ってこいよ、遥」
声は震えていた。
その声を聞く者は、もういない。
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