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「あなたにいただいた桃。そろそろ冷えた頃かしら。むいてくるわ、ちょっと待ってて」
 
 利奈はアトリエを出ていった。大きなXが刻み込まれた扉を開けて。
 
 俺はあらためてアトリエの様子を見まわした。作業台に大きなが載っている。昔のままだ。優也が、まだ誰もやったことのないブレンドで、まだ誰も見たことのない新しい色を生み出すために、草木や鉱物、土などを、必死になってすりまわしていたすり鉢だった。

 通常そういった染料は衣料や木工の染め物に使われるのだが、それを絵画に応用しようという優也なりのこころみだった。
 
 懸命けんめいな優也の姿が目に浮かぶ。手にマメができた。手首が腱鞘炎けんしょうえんになった。そのたびに子供のように「痛い痛い」と大騒ぎしていたっけ。
 
 華奢きゃしゃで小柄で色白で、大人しくて真面目で神経質で、少年のように綺麗な目をした男だった。年は二十歳をすぎていても、優也は少年そのものだった。
 
 西側の壁には、二つ折りのハシゴが横向きに立てかけてある。あれも当時のままだった。アトリエにハシゴは場違いな気もするが、これも優也のチャレンジの一環だった。

 ハシゴに上って上から見下ろす。静物も、人物も、すべて上からスケッチする。誰も見たことのない新しい構図。それを優也は探していた。新しい何かを生み出すために、真面目に真摯しんしに本気になって、優也は絵画に取り組んでいた。
 
 優也だけではない。表現は違っても、ここにいた六人誰もがそうだった。あがきながら、もがきながら、芸術という、いにしえの悪魔と新しい武器を使って格闘していた。

 しかし所詮しょせんは学生たちの芸術コミュニティごっこ。はたから見れば俺たちは、いつまでも夢から覚めない、芸術家気取りの子供の集団にすぎなかっただろう。
 
 新規、前衛、型破り。いくら発想が斬新であっても、世間がそれを認めなければ意味はない。エキセントリックなイロモノあつかい。時代の波間に消えるしかない。

 新人賞、コンテスト、コンクール。俺たちにとってその壁は、高く、厚く、固かった。壊せない、飛び越せない、乗り越えられない壁だった。俺のミステリーも優也の絵画も真利亜の写真も亜沙美のシナリオもダメだった。まったく通用しなかった。
 
 十文字がデザインした小物や家具は、ネット販売でぽつりぽつりと売れることもあったけれど、工房こうぼうに所属していないので量産が利かない。オリジナリティが強すぎて、デザイン図面もメーカーに売れない。商売というには程遠かった。
 
 芸術の神々から未知の世界への招待状を手渡されていたのは利奈だけだった。その現実に気づくのが遅すぎた。

 利奈だけは卒業を前にして、順調にオーディションの合格を勝ち取っていった。大手有名タレント事務所、映画、演劇、ドラマへの出演権。

 まだまだ端役はやくにすぎず、セリフも多くはなかったが、いずれどこかへと広がっていく、どこかへ通じる扉の前に、彼女が一人立っているのは間違いのない事実だった。

 奇をてらう必要はない。ギミックなどいらない。世界に名をせた多くの女優がそうであるように、存在そのものがオリジナル。利奈もたたずんでいるだけで、足の爪先つまさき、鼻の先、毛の先までもが女優だった。
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