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第二章 侯爵家の舞踏会と図書室での密会

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 桜子はそっとドアノブに手をかけた。
 真鍮しんちゅうのノブに鍵はかかっていない。
 音がしないようにゆっくりと回し、ドアを押す。

 明かりはついていない。
 ドアの隙間から光が漏れるのを恐れて、付けていないのだろう。

 桜子は半分ほどドアを開けたところで、すばやく部屋のなかに滑り込んだ。

 天音は本棚の前に立っていた。
 手に持っていた本を書棚に戻すと、ゆっくりと桜子に向かって歩いてくる。

 背の高いアーチ型の窓から月光が射しこみ、臙脂色の絨毯に窓枠がうっすらと影を落としている。
 
「桜子」
 腕を取られ、あっという間に天音の腕に包み込まれた。

 この瞬間を待ち望んでいた。
 
 抱きしめられ、彼の体温や鼓動を肌身に感じ、桜子の孤独は一瞬で癒される。

 ふたりで過ごしたのはたったの2回。
 それも、ほんの短い間だけ。

 それでも、桜子の心はすっかり天音のものだった。

 天音は腕のなかの桜子を一旦解放し、唇に笑みを浮かべた。

「桜子は知っている? この部屋の仕掛け」
「仕掛け? いいえ」
「俺も最近、偶然知ったんだが」

 天音はそういうと、左手の書棚の前に立った。
 そこは引き違いの棚になっていて、書棚が重なっている。

「実はここが引き戸になっているんだよ。その奥に部屋があるんだ」

 天音は正面の書棚から本を一冊抜き出し、そこにあった取っ手に手をかけた。
 
 すると棚が横にスライドし、奥から隠し部屋が現れた。

「まあ、知らなかった」
「趣味人の伯爵らしい仕掛けだな」

 天音は桜子に、中に入るように促した。

 押し入れを少し広くしたほどの空間だ。
 
 入って右側の壁面は作りつけの書棚。

 それ以外には、木製のライティングデスクと飴色の皮の寝椅子が置かれている。

 そして、寝椅子の横の小さなサイドテーブルには、アールヌーボー調のシェードライトが置かれ、やわらかな光を放っていた。

 デスクの上の壁面に金縁の小さな額縁があり、倫敦の風景を描いた銅版画が飾られていた。


 天音は寝椅子の、肘掛のあるほうに桜子を座らせ、自分もその横に腰を下ろした。

「馬丁が『お嬢様だけを乗せて帰ってきた』と言っていたから」
「ええ、舞踏会なんて全く面白くないんですもの。早々に帰りたくなってしまって」

 天音は少し首をかしげて、桜子を見つめ、言った。

「男たちにちやほやされなかった?」
「そんなこと、少しもありませんでしたわ」

 ふと、高志の尊大な眼差しを思い出したが、すぐに頭から追いやった。

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