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第四章 避暑地の別荘

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 吉田家では7月の半ばから8月の末まで、日光の別荘で過ごす決まりとなっていた。

 父、母、桜子と、それぞれのお付きの使用人、その他厨房や下働きの者を入れて総勢三十名。
 
 使用人の一部は準備のために先に旅立つ。
 そのなかには、天音も加わっていた。


 汽車と馬車を乗り継ぎ、ようやく夕方近くに到着した。

 別荘の扉の前で馬車から降りると、避暑地ならではの冷涼な風が桜子を迎えた。

 ほんの少し、旅の疲れを忘れさせてくれるような心地よさだ。


 それから二、三日は、特に何事もなかった。
 食事をして、少し近辺を散歩するだけの、退屈な日々。

 桜子は、東京よりも天音と会える機会があるのではないかと、密に期待していた。

 けれど別荘では、屋敷にいるときよりも、さらに敏子が目を光らせていたので、美津に天音宛の文を預けるのさえ、ままならなかった。

 
 そして、その日は唐突にやってきた。
 
 別荘に来て一週間が経った日の夕食時、食後の葡萄を食べ終えると、父が桜子に告げた。

「明日、細谷のご子息がお見えになる。そのつもりで支度をしておきなさい」

「細谷のご子息?」

「高志君だ。連隊の演習場がこの近くらしくてね。休みを取ってこちらに見えるということだ」
「……わかりました」

 それ以上、何も聞かずに桜子は部屋に下がった。

 今まで一度も高志さんが訪ねてくることなんてなかったのに。

 舞踏会での、高志の不躾な視線を思い出す。

 まるで品定めするような……

 まさか。
 桜子は嫌な予感に捉われた。

***

 翌朝、朝の支度を終えると、地元の髪結いがやってきて、桜子の艶やかな髪を和服に合うようにすばやく結い上げた。

 それから、女中たちが桜子に夏用の絽の振袖を着つけた。

 鮮やかな水色の地に柄はさまざまな夏の花をあしらった花筏。
 帯は黒地に金糸と銀糸を用いた流水紋。

 普段着にしては格の高い着物に、桜子は自分の予感が当たったことを悟り、落胆した。 
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