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第三章 溢れる想い、深まる苦悩

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「お仕事の最中でしたのに。申し訳ありません」

「謝ることはない。妻の一大事に、おちおち仕事なんてしていられないよ」


 一目散に梅子に駆け寄っていった忠明は、ようやく桜子がいることに気づき、決まりが悪そうに頭をかいた。

「いや、桜子さん、いらしたんだね。失敬。取り乱したところをお見せしてしまったね」
「いいえ、ご心配されるのが当然ですもの」

 姉に秘密を打ち明けて、少し気が楽になったと思ったけれど。

 姉夫婦の仲睦まじい様子を見て、自由に会うことすらままならない自分たちとの違いを嫌というほど感じて、いっそう気が塞いでくるのを、自分ではどうすることもできなかった。
 
「ねえ、忠明さん。英語のできる秘書を探しているとおっしゃっていたわよね」

「そうなんだよ。帝大の後輩に声をかけたりしているんだが、なかなか適任が見つからなくてね」

「吉田の家丁のひとりに、英語のよくできる人がいるそうなんだけど、ね」
 姉はわたしの顔を見て、話すように促した。

「はい。父に付いている者なのですが、翻訳ができるほど英語に精通しているようなんです。それを知って、彼に家丁の仕事をさせておくのは、とてももったいない気がして」

「家丁に? 本当かい?」
 忠明さんは疑わしげに眉を寄せた。

 それから、桜子の顔を見て、申し訳なさそうに告げた。

「うーん。僕が探しているのは、海外とのシビアな取引に負けないほどの専門的知識を持つ人物なんだ。申し訳ないけど、大学で経済のことを学んでいないと難しいかな」

 忠明はあからさまに気落ちした桜子の肩をぽんと叩いた。
「そのうち時間を取って、お義父上にその家丁のこと、訊いてみるよ」
 
 気休めだとわかっていたけれど、桜子は「はい」と頭を下げた。


 しばらくして母が戻ってきたので、桜子は三人に挨拶し病室を後にした。

 帰りの馬車のなかで、桜子はずっと黙ったまま、車窓から街を眺めていた。
 
 天音の語学の才は、桜子にとって絶望的なこの恋の、唯一の希望だった。

 けれど、忠明は、天音が家丁だと聞くと、詳しい話を聞こうともしなかった。

 忠明一人が悪いのではない。
 
 わたくしたちの間に立ちはだかる身分差という問題は、それだけ根が深いものなのだ。

 その現実を突きつけられ、桜子の悩みは深まる一方だった。
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