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第七章 桜降る春に

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〈三年後〉

 天音の子を出産してから、二回目の春がやってきた。

 今、桜子は、京都郊外の山里にある小さな寺の離れに、娘と美津と三人で暮らしていた。
 
 この辺りの桜は京都市内より開花が遅い。

 けれど四月も二十日をすぎ、さすがに昨日あたりから散り始めていた。


 三歳になった娘は、春子と名づけた。
 天音に似て、目鼻立ちのはっきりした可愛らしい面立ちだ。
 
 
「かあさま、おんも、いきたい」

 おかっぱ頭に御所車模様の赤い着物をきた春子は、赤い鼻緒の草履を履き、玄関先で待っていた。

 早く行きたくて、待ちきれない様子だ。

「じゃあ、桜のお花のところに行きましょうか。もうすぐ、伯父様と伯母様が来られるお時間ですから、お迎えをかねて」

 これから、梅子と忠明がやってくることになっていた。

 忠明は念願の貿易会社を立ち上げ、主に日本の工芸品を欧米に輸出する仕事に携わっていた。
 今回の京都訪問も仕事絡みらしい。

 姉から家族で京都に行くので、そのついでに桜子のところも訪ねたいと連絡をもらっていた。


 桜子は春子の小さくてふっくらした手を取って、歩きだした。

 寺の門を出て、石段を降りたところに小川が流れており、川沿は桜並木になっていた。
 
 春風が吹くたびに、花びらがいっせいに舞い散り、川面を埋めている。

「さくら、さくら」

 桜の下で、春子が歌いながら花びらと遊んでいると、こちらに向かってくる家族連れがあった。

 姉と義兄だ。
 春子より一歳年上の従兄、忠嗣も一緒だ。

 忠明は帽子を取って頭を軽く下げた。

「はるちゃーん」
 名前を呼んで、手を振っているのは、桜子の姉の梅子だ。

「馬車から二人が見えたので、そこで降りたんだよ」と忠明がにこやかに話しかけてきた。
 
「お義兄様、お姉様、遠いところをはるばるお疲れ様でした」

「いいえ、こちらこそお邪魔様。のどかで良いところね」

 梅子との話に気を取られ、目を離した隙に、春子が転んでしまった。

「ふぅ……うぇっ……?」
「まあ、はるちゃん」

 泣き声を聞きつけ、桜子は慌てて駆け寄った。

 けれど、姉夫妻の後ろを歩いていた男性が、桜子がそばに行くより先に、春子を抱き上げた。

 急に高く持ちあげられて驚いた春子は、ぴたっと泣き止んだ。
  
「あ、すみま……せ……。えっ?」  

 桜子はその、栗色の髪をした男性を目にして、言葉を失った。

「桜子」

 この声。
 ひとときも忘れることはなかった。

「天音……どうして……」

 天音は梅子に春子をそっと手渡し、桜子の前に立った。 

 そして、感に堪えない面持ちで桜子を抱きすくめた。

「迎えに来たんだ。あの時、約束しただろう?」
「天音……」
 
 ずっと、もうずっと焦がれていた天音の腕に包まれているのに、なかなか実感がわいてこない。

 このような夢を、何度も見ていたから。
 再会した天音が抱きしめてくれる夢を。
 目覚めると消えてしまう、甘くて切ない夢を。


 まず頬をつねるべきだろうか。
 これが現実であると、確かめるために。
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