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第六章 別離

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 母は桜子の手を取った。

「赤ちゃんができたとわかったとたん、桜子はもう母親の顔になっていたわ。それでわかったの。貴女は心の底から天音を好いていたのだと。それなら、どうしても生ませてあげたいと、強く思ったのよ」
「お母様……」

「あのね、桜子」
 母はまるで女学校の友人の一人のように、若々しく華やいだ様子で語りはじめた。

「わたくしにも、生涯を共にしたいほど、好いたお方があったの」

 桜子は驚きに目を見開いて、母を見つめた。

「そうなのですか。まったく存じあげませんでした」
「それはそうよ。今、初めて話すのだから」

 母は話を続けた。

「まだ京都にいたころだけれど、とてもお慕いしている方がいらしたの。その方も使用人だったから、貴女たちと同じ立場だったわ」

 お互い想いあっているだけの、清らかな恋だったそうだ。
 
「けれど、お父様との縁談が持ち上がって。しばらくは泣き暮らしたけれど、諦めるしかなかった。桜子と違って、両親に逆らってその人と一緒に逃げるなんて考えもしなかったもの」

 時代は変わったのね、と母は小さくため息をもらした。

「でもね。お父様と結婚したことを後悔したことはありませんよ。可愛い娘たちに恵まれたし。そりゃ嫁いだばかりのころは京都の彼が恋しくて。その寂しさを埋めようと頻繁に舞踏会に顔を出していたわ」

 そうしているうちに、本当に楽しくて、舞踏会や晩餐会が大好きになってしまったのだけれど、と言い、ほんのり顔を赤らめた。
 
 母にそんな過去があったなんて。
 舞踏会に通いつめているのも、たんに享楽的な性格だからとしか、考えたことがなかった。
 
 女中たちに娘を預けっぱなしで、夜通し、遊びに夢中になっている。
 桜子はそんな母にずっと反感を抱いていた。

「授かった命は大切にしなければならないわ。それが好いたお人の子ならなおさら」

「お母様、本当にありがとう」

「女はけっして男の都合のためだけに生きる人形ではないものね。桜子にそれを教えられた気がするわ」
 そう言って、母は優しい笑みを浮かべた。

 鼻の奥がツンと痛くなってきて、桜子はそっと目頭を押さえた。

「そうと決まれば、早いうちがいいわね。お父様のお気が変わったら、また大変だから。来週にでもお発ちなさい。とりあえず女中をひとりつけてあげるから」
 そう言うと、母は隣室に控えていた女中を呼んだ。

 そして……
 おずおずと桜子の前に進み出てきたのは、美津だった。

「今、屋敷の女中の数が足りないのよ。だから美津に頼んだの。新しい子を探すより手っ取り早いし、桜子も気心が知れているだろうし」

「美津!」
 桜子は彼女に駆け寄った。

「お嬢様……申し訳ありませんでした」
 美津は目に涙を溜めたまま、深く頭を下げた。

「美津がもっとうまくごまかせたら、こんなことには……」

 桜子は美津を優しく抱きしめた。
「謝るのはこっちのほうだわ。ごめんなさい。美津。貴女を巻き込んでつらい目に合わせてしまって」
「お嬢様……」

 美津を離すと、今度は母に駆け寄り、目いっぱいの感謝を示した。
「ありがとう、お母様、本当に……」

 今度は母が桜子を抱きしめる番だった。

 そして、彼女は桜子の背中をあやすように優しくたたいた。
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