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第七章 桜降る春に
三
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***
その宵は、美津の心尽くしの夕食を皆で一緒にいただいた。
食事は大変おいしく、久しぶりに会った姉との会話も楽しかった。
けれど、なによりも、桜子は天音が今ここにいることのありがたみを噛みしめていた。
桜の下で天音に抱きしめられた瞬間、三年間の苦労は一気に霧散した。
本当にこんな日が訪れるなんて……
桜子はもちろん、天音と再会できる日を心の底から待ち望んでいた。
でも、それが夢でしかないと分かってもいた。
天音との愛の証は、愛娘の春子となって、この手の内に残った。
それで充分ではないかと思うようになってきた矢先だった。
天音がまた自分の目の前から消えてしまうのではないか。
そんな不安に囚われ、つい彼の姿を目で追ってしまう。
天音も同じ気持ちだったのかもしれない。
何度も目が合い、その度に少し照れくさそうな顔で微笑んでいたから。
春子も、あっという間に天音になついた。
「あなたの“とうさま”よ」と言っても、まだ幼すぎて理解はしていないようだ。
けれど、春子も天音が現れるのを待ち望んでいたように、ずっと彼のそばを離れようとしなかった。
そんな春子を天音は可愛くて仕方がないといった顔で見つめている。
食事のあとも、春子は天音の膝の上でずっとはしゃいでいたが、そのうちに眠ってしまった。
「寝床に連れて行こう。案内してくれるかい」
「ええ」
春子を抱いた天音と桜子が立ち上がると、姉が声をかけてきた。
「わたくしたちもそろそろ休むことにしますわ。忠嗣も長旅で疲れたみたいなので」
「そうですわね。お姉様、何かおわかりにならないことがあれば、美津に尋ねてください」
皆はたがいに挨拶をし、それぞれの部屋に下がっていった。
***
春子の寝床は美津の部屋にある。
天音は春子が目を覚まさないようにそっと、小さな布団に下ろした。
心配するまでもなく、春子はぴくりともせず、すやすや眠っている。
「お客様がいらっしゃることなんて、ついぞなかったので、はしゃぎすぎて疲れてしまったのでしょうね」
美津が微笑ましそうに、春子を見やる。
あまりにも可愛らしい春子の寝顔に、天音と桜子もしばらく唇に笑みをたたえて見入っていた。
「では美津、お休みなさい」
「はい、お休みなさいませ」
自室に戻ると、桜子は箪笥から男物の浴衣を出し、天音に渡した。
「どうぞ湯上りにお召しになってください」
「これは?」
「わたくしが縫いました。まだ春子がお腹にいるとき、よく眠れない時期があって。天音を想ってこの浴衣を縫っているときだけ心が安らいだの。縫い上げたら、貴方に会えるような気がして」
天音は、濃紺地の縞柄の浴衣を手にとり、しばらく感慨ぶかげに眺め、それから広げて腕を通した。
「ぴったりだな」
桜子は、洋服の上から浴衣を羽織った天音を見て微笑んだ。
天音が手を伸ばし、桜子もうっとりとその腕に抱かれた。
「長いこと、待たせてしまったね」
天音は桜子の髪に顔を埋め、つぶやいた。
「でも来てくれた」
「ああ。正直、諦めそうになったことが何度もあった。でもそんなときは桜子を思い浮かべて、自分を励ましたよ」
「よかった。天音が諦めてしまわなくて。ありがとう……本当に」
「それを言うのは俺の方だ。まさか、娘に会えるなんて思いもしなかった。たった一人で、よく春子を守ってくれたね。並大抵のことじゃなかっただろう」
「ええ。でも母が尽力してくださったの。ここに住む算段もしてくださって」
「そうか。では、伯爵夫人にもお礼を言わなければならないな」
その宵は、美津の心尽くしの夕食を皆で一緒にいただいた。
食事は大変おいしく、久しぶりに会った姉との会話も楽しかった。
けれど、なによりも、桜子は天音が今ここにいることのありがたみを噛みしめていた。
桜の下で天音に抱きしめられた瞬間、三年間の苦労は一気に霧散した。
本当にこんな日が訪れるなんて……
桜子はもちろん、天音と再会できる日を心の底から待ち望んでいた。
でも、それが夢でしかないと分かってもいた。
天音との愛の証は、愛娘の春子となって、この手の内に残った。
それで充分ではないかと思うようになってきた矢先だった。
天音がまた自分の目の前から消えてしまうのではないか。
そんな不安に囚われ、つい彼の姿を目で追ってしまう。
天音も同じ気持ちだったのかもしれない。
何度も目が合い、その度に少し照れくさそうな顔で微笑んでいたから。
春子も、あっという間に天音になついた。
「あなたの“とうさま”よ」と言っても、まだ幼すぎて理解はしていないようだ。
けれど、春子も天音が現れるのを待ち望んでいたように、ずっと彼のそばを離れようとしなかった。
そんな春子を天音は可愛くて仕方がないといった顔で見つめている。
食事のあとも、春子は天音の膝の上でずっとはしゃいでいたが、そのうちに眠ってしまった。
「寝床に連れて行こう。案内してくれるかい」
「ええ」
春子を抱いた天音と桜子が立ち上がると、姉が声をかけてきた。
「わたくしたちもそろそろ休むことにしますわ。忠嗣も長旅で疲れたみたいなので」
「そうですわね。お姉様、何かおわかりにならないことがあれば、美津に尋ねてください」
皆はたがいに挨拶をし、それぞれの部屋に下がっていった。
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春子の寝床は美津の部屋にある。
天音は春子が目を覚まさないようにそっと、小さな布団に下ろした。
心配するまでもなく、春子はぴくりともせず、すやすや眠っている。
「お客様がいらっしゃることなんて、ついぞなかったので、はしゃぎすぎて疲れてしまったのでしょうね」
美津が微笑ましそうに、春子を見やる。
あまりにも可愛らしい春子の寝顔に、天音と桜子もしばらく唇に笑みをたたえて見入っていた。
「では美津、お休みなさい」
「はい、お休みなさいませ」
自室に戻ると、桜子は箪笥から男物の浴衣を出し、天音に渡した。
「どうぞ湯上りにお召しになってください」
「これは?」
「わたくしが縫いました。まだ春子がお腹にいるとき、よく眠れない時期があって。天音を想ってこの浴衣を縫っているときだけ心が安らいだの。縫い上げたら、貴方に会えるような気がして」
天音は、濃紺地の縞柄の浴衣を手にとり、しばらく感慨ぶかげに眺め、それから広げて腕を通した。
「ぴったりだな」
桜子は、洋服の上から浴衣を羽織った天音を見て微笑んだ。
天音が手を伸ばし、桜子もうっとりとその腕に抱かれた。
「長いこと、待たせてしまったね」
天音は桜子の髪に顔を埋め、つぶやいた。
「でも来てくれた」
「ああ。正直、諦めそうになったことが何度もあった。でもそんなときは桜子を思い浮かべて、自分を励ましたよ」
「よかった。天音が諦めてしまわなくて。ありがとう……本当に」
「それを言うのは俺の方だ。まさか、娘に会えるなんて思いもしなかった。たった一人で、よく春子を守ってくれたね。並大抵のことじゃなかっただろう」
「ええ。でも母が尽力してくださったの。ここに住む算段もしてくださって」
「そうか。では、伯爵夫人にもお礼を言わなければならないな」
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