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本編
マリアンヌの願いと王の謝罪
しおりを挟む「今戻ったよ、マリアンヌ」
フェリクス様が持って来たのは、夕食と湯殿を終えた後だった。
ミシェルや執事の話では、王太子としてフェリクス様は現国王の仕事の半分をこなしているらしい。
(それだけ多忙で、毎朝の鍛練も欠かさず行っているのに、私との時間も作ってくれているなんて……)
きっと疲れている筈。
本当はすぐにでも身体を休めた方がいい。
そう思うけれど。
(今は少しでも長く、貴方と過ごしたい)
こんな身勝手な私を知ったら、フェリクス様はどう思うのだろう。
「おかえりなさいませ、フェリクス様。お務め、お疲れ様です」
「……っ」
私がそう言うと、フェリクス様が顔を赤くして言葉を詰まらせた。
そうしてすぐに、蕩けるような甘い笑みを向けてくれるものだから、私の心臓が否応なしに高鳴ってしまう。
「こんな風にマリアンヌに出迎えてもらえるなんて、夢のようだよ」
「………お、大袈裟です、フェリクス様」
「すごく癒される。ありがとう、マリアンヌ」
「私は、何も……」
フェリクス様に視線を向けていた私は、次の瞬間、目を見開いて息を呑んだ。
フェリクス様が私のすぐ近くまで歩を進めると、徐にゆっくりと両手を広げて見せたのだ。
「おいで、マリアンヌ」
――――嗚呼。
その笑みは、その甘い声音はズルいです。
私はぎゅっと自身の胸の辺りで右手を握り締めながら、まるで引き寄せられるかのように、一歩一歩進み、フェリクス様の腕の中へと身を寄せた。
ぎゅう。
フェリクス様が、私を包み込むように抱き締めるものだから。
身体が、胸の内が、ぽかぽかと温かい。
そして降ってくる、甘く低い囁き。
フェリクス様の銀の髪が、頬に触れて、擽ったい。
「……朝の続きをしてもいいだろうか?」
私がコクリと頷くと、フェリクス様は嬉しそうに瞳を細めた。
腰を優しく抱かれたまま、二人でソファーへと腰を下ろす。
私は恥ずかしくて、フェリクス様の顔がなかなか見れず、彼の胸に顔を埋めてしまっていた。
「マリアンヌ」
期待してはいけない。
自惚れてはいけない。
私は彼に相応しくない。
何度も何度も頭の中で、そう繰り返して。
なのに。
「私は、幼い頃からずっとずっと君だけを見ていた。君を慕っていた。今も、そうなんだ。……笑ってくれていいよ」
「そんな、笑う、なんて……」
「今も、君が好きだ、マリアンヌ。君を愛してる」
「……っ」
心臓が張り裂けそう。
「君が離さないでと望んでくれるなら、私はもう二度と君を離さないと誓う。……マリアンヌ。私は、私がずっと欲しいのは、君だけだ」
「フェリクス、さま……」
「どうか、私の傍に居て欲しい。私に、君を守らせて欲しい。愛してる、マリアンヌ。どうか、愚かな私に慈悲を。」
身体が、震える。
期待しちゃ駄目なのに。
自惚れちゃ駄目なのに。
私は、相応しくないのに。
フェリクス様の背中に、恐る恐る両腕を回して、私は自分でも信じられない事を口走っていた。
「……愛して、下さっているのなら……」
「うん?」
「私を、抱いて下さい」
フェリクス様が身体を強張らせて、驚いたように目を見開いて固まった。
「マリアンヌ……?何を……ああ、もしや勘違いさせてしまったのかな。私が、君を欲しいと言ったから。すまない。そういうつもりで言った訳じゃないんだ。無理はしないでいい。私も、君にそんな……」
「勘違いなんかじゃありません」
「……っ」
「……抱けませんか?こんな……穢れた女など……」
「違う!君は穢れてなんかいない!!」
「なら、どうか抱いて下さい」
フェリクス様が困惑し、戸惑いを見せる中、私は更に言葉を募らせた。
「……綺麗に、して下さい」
「!」
「どうか、慈悲を。フェリクス様。身勝手な私の願いを、どうか……」
声が震えてしまう。
今でも、恐ろしいけれど。
どうか、抱いて欲しい。
他には何も望まないから。
全てを貴方で塗り替えて。
忘れたいこと全部。
嫌なこと全部。
怖いこと全部。
痛くても構わない。
貴方なら。
フェリクス様なら。
私を、こんな穢れてしまった私を、今でも愛して下さっているのなら。
怖い。
だけど、それ以上に。
「お願いします、フェリクス様」
愛する人に抱かれたという、夢を見させて欲しい。
……………………
…………
数時間前の事。
王太子宮、客室にて。
フェリクス様が戻ってくるのを待っていた私のもとへ、ある方が訪れた。
フェリクス様の父親でもある、この国の王。
オスヴィクス国王陛下だ。
急な国王の訪問に、私は心臓が飛び出そうになるほど驚いた。
急いで臣下の礼を取ろうとするも、今の私は平民なのだから、平伏かと考えて動きを止めると、陛下は右手を上げてそれを制した。
「そのような事はせずともよい。此度はそなたに謝りに来たのだ」
陛下の言葉に、私の思考が停止する。
わざわざ陛下自ら足を運び、謝りに……?
「愚息の婚約破棄の件もそうだが、余はそなたとヤデル伯爵との婚姻を止められなかった。そなたの生家であるヴィラント侯爵家へは、忠告していたのだがな」
――――え?
「……忠告、ですか?」
「そうだ。当事はまだ、愚息が魅了の魔法にかかっていたとは誰にも分からなかった。だが、明らかに様子がいつもと違う。始まりは政略結婚としての婚約だったが、アレはそなたとの婚姻を自ら望んでいたからの。だからこそ、ヴィラント侯爵家へはすぐにそなたを嫁がせるような事は止めておくようにと忠告していた。……だが、あの者達は潔癖過ぎた。婚約破棄されたという事実だけを受け止めて、彼等はそなたをヤデル伯爵のもとへ早々に嫁がせてしまったのだ。一度聖教会で受理されてしまった婚姻を覆す事は、王家であっても難しい」
「……存じております」
聖教会は、千年前に魔王を倒した救世主の縁者が創設したと言われている。歴史が長く、独立した機関であり、古くから王家と対等な立場で協力関係にあるが、対等な立場であるが故に此方からの一方的な申し入れなどは受け入れて貰えないのだ。
特に婚姻関係はきちんとした理由や証明出来る確たる証拠、本人達の意思が無ければ、外部からの申し入れは問答無用で却下されてしまう。
勿論、夫である者から殴られた怪我であったり、妻に浮気された等、何か証拠となるものさえあれば、片方だけの意思でも離縁出来るけれど。
それをするには、直接当事者である者が聖教会へ出向く必要がある。
(私はずっと監禁されていたから……)
それに結婚したばかりの頃は、ヤデル伯爵の罪となる確たる証拠が何も無かった。
陛下は苦々しい顔をしながら、話を続ける。
「今更何を言っても、時を戻す事は出来ん。……魅了の魔法は脅威だ。しかし、それを未然に防ぐ事が出来なかった事は愚息だけの罪ではない。すまなかった、マリアンヌ嬢」
「……いえ……」
「そして重ねて詫びよう。現段階では、魅了の魔法を防ぐ為の方法が確立されていない。それ故に、魅了の魔法の事は機密事項となっている。……愚息とこの先を共にするつもりであるなら、そなたは更に辛い思いをするだろう。すまないな」
「……いえ、王として正しい判断だと思います。対処方法が確立されていない現時点で魅了の魔法の事を公表する事は、不安と混乱を招き、誰もが疑心暗鬼となり、最悪、国が傾く恐れがあります。私一人と、全ての国民。王としてどちらを優先させるべきか、考えるまでもありません」
「…………聞きしに勝る聡明ぶりだ」
「そして、恐れながら申し上げます、陛下」
「聞こう」
「……私は…………私は、フェリクス様には相応しくありません」
一瞬の静寂。
オスヴィン陛下は、ほんの少し青い瞳を細めて、「……そうか」と小さく呟いた。
「必要なものは全て用意させよう。それが、そなたの望みであるならば」
「ありがとう存じます、陛下」
「……そなたのこれからの人生に、幸多からんことを願う」
そうして、陛下は王太子宮にある客室から静かに去っていった。
* * *
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