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第1話 帰還者の日常
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目を覚ましたとき、天井に走る細いひびが最初に視界に入った。
東群市の古い集合住宅。築四十年を越えているが、雨漏りはしない。妹と二人で暮らすには、十分すぎるほどだ。
「……朝か」
久瀬アラタは静かに上半身を起こし、時計を見る。午前五時半。
ダンジョンに潜る日としては、ちょうどいい時間だった。
顔を洗い、台所に立つ。昨夜の残りのご飯を軽く温め、卵を焼く。特別なことはしない。火を通しすぎないようにだけ気をつける。それだけだ。
「おはよ」
背後から、少し眠そうな声がした。
振り返ると、パジャマ姿のミオが立っている。
「早いな」
「今日もダンジョン?」
アラタはうなずいた。それ以上、言葉は続かない。
ミオもそれ以上は聞かなかった。
二人の間には、説明しない約束がある。
危ないかどうか。怖くないか。――そういう話は、もう何度もした。そのたびに、何も変わらなかった。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
それだけでいい。
玄関を出る前、アラタは一瞬だけ立ち止まり、ミオの方を見る。
彼女はエプロンを着け、フライパンを洗っていた。いつもの朝だ。
――帰る場所がある。
それだけで、十分だった。
◇
東群第七ダンジョンは、市の北側にある。
外見は、巨大な穴だ。直径三十メートルほど。縁には金属製の柵と監視設備が並んでいる。
「久瀬アラタ。ソロ、ですね」
受付の女性が端末を操作しながら言った。
探索者管理機構――通称EMB。ダンジョンを管理する半公的組織だ。
「はい」
「ランクA。入坑許可出します」
女性は一瞬、画面に表示された数値を見て、眉をひそめた。
「……魔力測定、まだ更新されてませんね」
「壊れたままです」
事実を言っただけだ。
女性は困ったように笑い、端末を閉じた。
「では、気をつけて」
アラタは軽く頭を下げ、ダンジョンへと足を踏み入れた。
中に入った瞬間、空気が変わる。
湿り気を帯びた冷気。遠くで何かが動く気配。
――懐かしい。
そんな感想が浮かんだ自分に、アラタは小さく苦笑した。
ここは異世界ではない。だが、似ている。似すぎている。
かつて、彼は勇者だった。
召喚され、剣を持たされ、戦い、魔王を倒した。
英雄と呼ばれた。
その結末が、死だった。
目を開けたとき、彼は赤子で、泣いていた。
意味もわからず、声を上げていた。
――二度目の人生。
それが、久瀬アラタという青年だった。
◇
第一階層は静かだった。
低級魔物――ゴブリンに似た小型種が二体。動きは鈍い。
アラタは武器を抜かない。
一歩踏み込み、手刀で首を打つ。それだけで魔物は崩れ落ちた。
「……やっぱり、弱いな」
独り言が漏れる。
この世界の魔物は、総じて力が抑えられている。人類が対応できるよう、どこかで調整されているようにも感じた。
素材を回収し、奥へ進む。
第三階層。第四階層。
周囲の壁に刻まれた傷跡を見るたび、アラタの脳裏に、別の景色が重なる。
血。炎。仲間の叫び。
――思い出すな。
今は勇者ではない。
探索者だ。
そして、兄だ。
魔物の群れを殲滅し、階層を抜ける。
時間はまだ午前中だ。
ダンジョン内で休憩を取り、水を飲む。
心拍数は平常。息も乱れていない。
「……これで、Aランクか」
自嘲ではない。
ただの事実確認だった。
魔力測定器は、彼を測れない。
触れた瞬間にエラーを起こし、最悪の場合、内部が焼き切れる。
だから彼のスキル欄は「不明」のままだ。
それを、不満に思ったことは一度もない。
強さは、証明するものじゃない。
生き残るために、使うものだ。
◇
ダンジョンを出たとき、空はまだ明るかった。
受付で報酬を受け取り、簡単な報告を済ませる。
その途中、声をかけられた。
「久瀬アラタさんですね」
振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。
柊カナエ。EMBの職員だ。
「少し、お話を」
「手短にお願いします」
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「魔力測定の件です」
「直りません」
即答だった。
柊は苦笑する。
「ええ。ですので……別の方法を検討しています」
「必要ありません」
アラタはそう言い、歩き出した。
柊は追ってこない。
――関わると、面倒だ。
それが正直な感想だった。
◇
夕方、アラタは帰宅した。
玄関を開けると、香ばしい匂いがする。
「おかえり」
「ただいま」
ミオは笑った。
それを見て、アラタは少しだけ安心する。
今日も、無事に帰れた。
それだけで、十分だった。
――世界一は、まだ遠い。
だが、彼は歩き続ける。
帰る場所を、守るために。
東群市の古い集合住宅。築四十年を越えているが、雨漏りはしない。妹と二人で暮らすには、十分すぎるほどだ。
「……朝か」
久瀬アラタは静かに上半身を起こし、時計を見る。午前五時半。
ダンジョンに潜る日としては、ちょうどいい時間だった。
顔を洗い、台所に立つ。昨夜の残りのご飯を軽く温め、卵を焼く。特別なことはしない。火を通しすぎないようにだけ気をつける。それだけだ。
「おはよ」
背後から、少し眠そうな声がした。
振り返ると、パジャマ姿のミオが立っている。
「早いな」
「今日もダンジョン?」
アラタはうなずいた。それ以上、言葉は続かない。
ミオもそれ以上は聞かなかった。
二人の間には、説明しない約束がある。
危ないかどうか。怖くないか。――そういう話は、もう何度もした。そのたびに、何も変わらなかった。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
それだけでいい。
玄関を出る前、アラタは一瞬だけ立ち止まり、ミオの方を見る。
彼女はエプロンを着け、フライパンを洗っていた。いつもの朝だ。
――帰る場所がある。
それだけで、十分だった。
◇
東群第七ダンジョンは、市の北側にある。
外見は、巨大な穴だ。直径三十メートルほど。縁には金属製の柵と監視設備が並んでいる。
「久瀬アラタ。ソロ、ですね」
受付の女性が端末を操作しながら言った。
探索者管理機構――通称EMB。ダンジョンを管理する半公的組織だ。
「はい」
「ランクA。入坑許可出します」
女性は一瞬、画面に表示された数値を見て、眉をひそめた。
「……魔力測定、まだ更新されてませんね」
「壊れたままです」
事実を言っただけだ。
女性は困ったように笑い、端末を閉じた。
「では、気をつけて」
アラタは軽く頭を下げ、ダンジョンへと足を踏み入れた。
中に入った瞬間、空気が変わる。
湿り気を帯びた冷気。遠くで何かが動く気配。
――懐かしい。
そんな感想が浮かんだ自分に、アラタは小さく苦笑した。
ここは異世界ではない。だが、似ている。似すぎている。
かつて、彼は勇者だった。
召喚され、剣を持たされ、戦い、魔王を倒した。
英雄と呼ばれた。
その結末が、死だった。
目を開けたとき、彼は赤子で、泣いていた。
意味もわからず、声を上げていた。
――二度目の人生。
それが、久瀬アラタという青年だった。
◇
第一階層は静かだった。
低級魔物――ゴブリンに似た小型種が二体。動きは鈍い。
アラタは武器を抜かない。
一歩踏み込み、手刀で首を打つ。それだけで魔物は崩れ落ちた。
「……やっぱり、弱いな」
独り言が漏れる。
この世界の魔物は、総じて力が抑えられている。人類が対応できるよう、どこかで調整されているようにも感じた。
素材を回収し、奥へ進む。
第三階層。第四階層。
周囲の壁に刻まれた傷跡を見るたび、アラタの脳裏に、別の景色が重なる。
血。炎。仲間の叫び。
――思い出すな。
今は勇者ではない。
探索者だ。
そして、兄だ。
魔物の群れを殲滅し、階層を抜ける。
時間はまだ午前中だ。
ダンジョン内で休憩を取り、水を飲む。
心拍数は平常。息も乱れていない。
「……これで、Aランクか」
自嘲ではない。
ただの事実確認だった。
魔力測定器は、彼を測れない。
触れた瞬間にエラーを起こし、最悪の場合、内部が焼き切れる。
だから彼のスキル欄は「不明」のままだ。
それを、不満に思ったことは一度もない。
強さは、証明するものじゃない。
生き残るために、使うものだ。
◇
ダンジョンを出たとき、空はまだ明るかった。
受付で報酬を受け取り、簡単な報告を済ませる。
その途中、声をかけられた。
「久瀬アラタさんですね」
振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。
柊カナエ。EMBの職員だ。
「少し、お話を」
「手短にお願いします」
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「魔力測定の件です」
「直りません」
即答だった。
柊は苦笑する。
「ええ。ですので……別の方法を検討しています」
「必要ありません」
アラタはそう言い、歩き出した。
柊は追ってこない。
――関わると、面倒だ。
それが正直な感想だった。
◇
夕方、アラタは帰宅した。
玄関を開けると、香ばしい匂いがする。
「おかえり」
「ただいま」
ミオは笑った。
それを見て、アラタは少しだけ安心する。
今日も、無事に帰れた。
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