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私が夏井いつき先生に感謝した話
しおりを挟む去年の秋、祖父が死んだ。
理由は脳の病気だ。
脳の細胞が死んでいってどんどん上手く体を動かせなくなって最後を迎えるらしく、聞くだけで恐ろしい病気だ。
今から書くのはそんな祖父が亡くなるまでの話。
東北で生まれた私の家族構成から話すと、母ひとりに一個上の姉ひとりの3人暮らしで、近くに住む農家の祖父と祖母が父と母のような存在だった。
もちろん実母もいるのだが、母は朝から夜まで仕事に行っていてほぼ祖父と祖母の家に5歳くらいから中学あがるまでほぼ住んでいたようなものだ。
小学生の頃は朝起きて自分の家から学校へ行き、帰りは祖父の家へ帰りご飯を食べ、そして夜の9時頃に母が車で迎えに来て一緒に家へ帰って寝る。
もはや実の家が帰って寝るだけのホテルのような感じだった。
まだ幼く、祖父と祖母よりまだ母の温もりが恋しくて、迎えに来る1、2時間まえから母が迎えに来る車の音をまだかまだかと待っていた覚えがある。
そして帰って母がひとり晩酌をする時の肴を姉と2人でねだっていたものだ。
なぜそんな生活だったのかと言うと、母の働いている時間、祖父と祖母に面倒を見てもらうことが実の父親と離婚し、私たち2人を引き取るための条件でもあったらしい。
しかし問題は起こった。
私の母は三人兄弟で長女長男そして母の順で、その長男には保育士の嫁と3人の子供がいた。
そして祖父の家には既にその長男家族が住んでおり、いわゆる二世帯住宅である。
そして私たち姉妹が世話になる事は承知済みで賛成だったと思う。
その頃までは。
その長男の子供たち3人とは歳が近いのでたくさん遊んで、みんなでご飯を食べ、そして同じ小学校に通い、同じ家に帰ってくる。
もはや子供5人の大家族である。
長男と長男の嫁は仕事なので、ご飯は農家で家に帰るのが早い祖母が作ってくれた。そんな生活の初めの数年は良かった。
みんな優しかった。
しかし長男の嫁は変わっていった。
ただでさえ手がかかる子供3人に、さらに血の繋がりのない子2人もいるのだ。
誰でもフラストレーションは溜まるし、私たちに我慢できないこともあったのだろう。
なにより祖父と祖母は長男の子供3人より私たち姉妹に天塩をかけるようになっていた。
そして、長男の嫁は思い描いていた理想の生活とは違っていく生活をだんだんと許容できなくなっていったと思う。
次第に私たち姉妹に冷たくなっていった。
元々、長男の嫁は祖父と祖母とはあまり仲が良くなく結婚を反対されていた。
なぜかと言うと、私も大人になり聞かされたが長男の嫁は昔で言う゛部落゛出身で土地柄や周りの目を重んじる祖父からしたら自分の大切な息子と結婚なんて考えられないことだったからだ。
今でこそそんな偏見を私はあまり見たことが無く、そんな事をしていたりする人がいたら迷わずその人と距離を置く。しかし昔は部落差別が当たり前でだからこそ時代が流れるにつれ大きな問題になり、改善され、今ではあまり聞かなくなっているのだろうと思う。
しかし恋愛の力とは凄いものだ。
長男は親子の縁を切ってもいいから結婚するとまで言ったので流石に…という事で結婚したらしい。
話を戻すと、長男の嫁につられて長男まで夫婦揃って私たちに話しかけなくなったり素っ気なくなっていった。
家は2世帯だったので私たち姉妹は祖父と祖母の部屋にずっといるようになった。
祖父と祖母も心配させまいと「ここがおまえたちの家だからね。」と事あるごとに言っていた。
きっと祖父と祖母と長男と長男の嫁でも話し合いはあったのだろう。
いつの間にか夜ご飯も祖父と祖母の部屋になり、祖父と祖母と私たち4人で食べるようになった。
そして今までみんなでご飯を食べていたリビングでは長男と嫁の子供3人の暖かい家庭が溢れていた。
そして時は流れて私は小学生4年生、姉は5年生くらいになった頃
2人でご飯も作れるしお風呂もつけれるしで
もう祖父と祖母の家には行かなくなって行った。
家に二人でいることの方が何も言われないし、そのまま寝れるし、楽だったからである。
漫画をよんで好きな時にご飯食べてゲームして…
たまに祖父と祖母が来たが「洗濯物を畳め。部屋を綺麗にしろ」など言われていたので正直煙たがっていた部分はある。
そんな生活が私が高校1年、姉が高校2年の時まで続いた。
その頃に何があったかというと姉が不登校になり、彼氏の家に泊まりびたりで帰ってこなくなったり、アパートから引っ越したりしたからだ。
引っ越した家は祖父が買ってくれた。
それがずっと祖父の願いでもあったらしい。
祖父と祖母の家から徒歩40分とけっこう離れているがこぢんまりとしていていい家だ。
そしてその頃には長男は嫁と別居状態。
祖父と祖母、そして周りの関係がこじれにこじれ切っていたらしい。
子供が大きくなってから離婚するのだろうと時間の問題だった。
そして私は18歳の時、就職で上京した。
いま思うと恥ずかしいし、あまり言いたくないが、
その時いた同じ高校の3つ上の彼氏について行ったのだ。
母親からは「あんたの人生だから」と自称放任主義らしく見送られ、
祖父と祖母からは軽く反対されたが理解してもらい。。
せっかく引っ越した家の私の部屋は1年ほどしか使わなかった。
ちなみに姉は高校卒業後、市内に引っ越し、専門学校に入るが1ヶ月で辞めた。
入学費やその他もろもろの資金はパァ
なぜ辞めたかというのは明確な理由は分からないが姉はわがままで人間関係でこじれることが多いのでそのあたりの理由かなと思っている。
正直今でも姉にかかったお金と私にかかったお金があまりに違いすぎると母に愚痴っている。(笑)
私が20歳の頃、新卒で入った仕事を辞めた。
理由は上司が嫌い、お金が安い、仕事がキツイ、の三拍子が揃ってしまったからだ。
ちなみ当時の上司はよくある苗字で藤原さんと言うのだが
「セクハラ、モラハラ、フジハラ」と自分で言って許された気になっていたのか知らないがとりあえず仕事が出来る人らしくいくら総務に言ってもなおらなかったし、むしろ「我慢してください。」のスタンスだったのでムカついていたし、更に
子持ちの人はそこでは給料が足りず朝新聞配達をして会社にやってきたり、元から給料は低いのに更に1年で500円ぽっちの昇給。
まぁやりがい搾取という言葉がとても似合う会社だった。
後悔といえばもっと早くに辞めていなかったこと。
良かったことといえば一生物の人間関係を作れたこと。
そして5年付き合った彼氏と別れたが地元には戻らなかった。
別れたのはもちろん落ち込んだが、その後務めた会社で半年後に一回り上の彼氏が出来ることになる。
次に務めた会社は大手の派遣だった。
そこでその彼氏が出来た。
その仕事は派遣だったので期間更新の1年で辞めた。
そして脈絡のない話のようだがオーストラリアに1年留学した。
これは前の会社の時から考えていてお金が溜まって、荷物も同棲しているから預かってもらって…とすぐ行ける状態だったからだ。
そしてオーストラリアに行く前、年上の彼氏からプロポーズされた。
向こうとしては心配だろうし、首輪をつけるようなものだったのだろう。
私は保留。という言葉を出した。だって何があるかわからないから。
この判断は後々功を奏した。
ただ保留にした理由も他にあって、この彼氏と付き合ってすぐに私の地元に深刻な事件か起きてしばらく会社を休み、地元に帰らなければならない事があった。
本当に深刻でその時彼氏には泣いて相談したりと辛かったのを覚えている。
そして1ヶ月程地元に滞在してそして帰ってきて、まぁ、カップルがする行為をしたのだが次の朝。
なんだか喉が痛い。熱がある。おかしい。
それを彼氏に伝えると「俺も」と返事が帰ってきて、季節性の風邪かなーなんて思っていたら、用心深い彼氏が病院に行ってきたらしく私に申し訳なさそうに「病院いっておいで」と言うから何かなと思ったら、
なんと性病だった。
問い詰めると私が実家で大変だった時に風俗にいったらしくそこで感染。
そしてめでたく私はそれで会社をやすみ皆勤賞もパァ
単純な表現だがほんとうにムカついた。人間性を疑った。
まぁそんなこんなでプロポーズは保留にしたのだった。
そしてオーストラリアへ。
語学学校にも通い楽しかった。楽しかった。
海外だし性も解放!とは自分の性格上ならなかったがほんとう色々な国の人とであい価値観は覆された。
そんな楽しい留学が半年たった頃。
祖父に病気が見つかった。
命をかける手術が控えているらしく、そこで一旦私は飛行機を探して探してすぐさま帰国。
帰国し、祖父にサプライズで帰ったのでとても驚いていた。
「夢枕かと思った」と言われたのを覚えている。
そして手術は成功。1ヶ月後にまたオーストラリアへ戻った。
留学中も母にLINEはしていたがLINEもメールも使えない祖父と祖母には1週間に1回は電話していた。
国際電話は高いのでLINEの3分の無料電話。これは本当に助かった。
そしてまた半年経ち帰国。
その頃には彼氏にはなんの愛情も感じ無くなっていた。
申し訳ない話だが。愛とは時間が経つと無くなっていって愛のフィルターを通さないありのままの相手が見えた。
そこには仕事で輝いていた年上の冷静で素敵な彼氏ではなく、
性病を移した12個上の割り勘の陰キャが私の目に映っていた。
すぐ別れた。
でも同棲していたので次の家を探すやらなんやらでまた違う県に寮付きの仕事に就いた。
そこも派遣だった。
週に1度祖父と祖母に電話をするのは変わらなかった。
そこの仕事はまぁ可も不可もなくたんたんと半年で契約更新せずに辞めた。
そして満了金が入ったので海外に旅行に行こうと考えていた矢先、
祖父が危篤になった。
相当まずい状況らしくめったに電話をかけない母親から泣きながら状況を説明された。
あと2週間でエジプト旅行というところだった。入金も済ませたのでキャンセル料の4万だけ取られて本当は国際線に乗るつもりが国内線でまた地元へ。
今思えばすぐに帰ってよかった。
祖父はその後2週間後に亡くなった。
私にとっては父であった祖父。
涙はたくさん出たが、でもここ1年くらいはずっと辛そうだったから楽になって良かったという気持ちで半々だったが涙は止まらない。
そして辛いのは祖母、生涯の伴侶である祖父を亡くし、葬式が終わってもしばらくはずっと悲しんでいた。
そして私も仕事を辞めてタイミングも丁度良かったのでしばらくは心配で祖母の家で暮らしていた。
祖母の家では以前の暖かい家庭はそこには無く
祖母とその息子の長男の2人だけの家になっていた。
長男の子供たちは自立して家を出ていっていた。
長男の嫁と長男は色々あったらしくそれを子供たちも察し、長男の嫁に着いたりでなんだがギスギスしているように見えた。
そんな祖母とその息子の2人の家に私はすることも無いし、遺品整理などで毎日通っていた。
そこでお昼も食べて夜も食べてそれなりに楽しかったが祖母は落ち込んでいたままだった。
たまたま夜に付けていたテレビで祖母が好きだった俳句をやっていた。
それが夏井いつき先生との出会いだった。
夏井いつき先生はズバッと言う事が面白く、俳句を全く知らない私でも楽しめた。
祖母も基本NHKしか見なかったが木曜の7時だけこの夏井いつき先生がでるバラエティを見ていた。
久しぶりに祖母がふふふと1人で笑っていたのを見た。
そこから時間も薬になり、なんとなく祖父がいたような日常に戻って言った気がする。
祖母との合言葉「毎週よる木曜7時から」これがどれほど部屋を明るくした事か。
そしてこの自伝?備忘録を書くきっかけなった手紙を夏井いつき先生に送った。
そんな感謝を伝えた手紙を最後に載せてこの話を終わりにしようと思う。
初めてこんな長文を書いて見苦しい部分もあったただろうが、ここまで読んでくださった皆様にも感謝を。
~夏井いつき先生、そして出演者の方々へ
最近身内に不幸があり、祖母と暮らし始めました。
今、80を超える祖母の息抜きの時間と言えば夜6時頃からのテレビです。
元々からテレビをたくさん見るような祖母ではなかったのですが、大黒柱であった祖父が亡くなった事で、今までと比べテレビを見るようになりました。
祖父はよくテレビを見る人で「~曜日は歌番組があるけんね」「8時から~番組が始まる」など新聞の番組欄を見ずとも毎週放送している番組は覚えており、それを祖母は一緒に見て、
祖母の唯一の趣味、俳句の番組であるプレバトも祖父が祖母のために曜日も時間も覚えてテレビをつけていたものでした。
祖父が亡くなってしばらくは悲しみに暮れる時間もなくバタバタしていたのでテレビを見る暇もなく、
落ち着いた頃には近所の公民館で唯一、月開催されていた俳句教室も先生が歳ということもあり中止となり、祖母はまるっきり俳句から離れた時間が続きました。
そこから少しして遺品整理や色々な役所での手続きが高齢の祖母1人では厳しいだろうと思い、私が一緒に暮らし始めました。
一緒に暮らし始めた最初はテレビを付けず、祖母の家は山奥の田舎ですので車が近くを通る音、様々な手続きの書類をまとめる音、そして少しの話声だけが響くような家でした。
ある日ふと、テレビをつけた時に祖母があっ!と声を出しました。
画面にはたくさんの芸能人が並び、綺麗な着物を着た先生と呼ばれる人が言葉の添削を芸能人の方と面白おかしくやりとりしていました。
私は俳句を学生の頃の教科書に載っていた1つ2つしか知らず、プレバトがどんな番組かも、俳句がどんなものかも恥ずかしながら全く知らない人生を生きてきました。
祖母がテレビに興味を示している姿を久々に見た私は「そういえば俳句好きだったっけ」と思い出す記憶が遠いほどに祖父が無くなってからの祖母は無気力だったのだと、
それほどに苦しかったのだとテレビをみて笑っている祖母が嬉しくもあり、悲しくもありました。
それからは「毎週木曜よる7時から」というのを合言葉にし、カレンダーにメモ、前日に祖母に声をかけたりと見忘れないよう様々な工夫をしました。
今のわたしはといいますと少し家が落ち着いたというのもありまして神奈川県にきています。自分のやりたい事をするため、と言って具体的な年数は祖母には言ってはいませんが1年だけ神奈川で好きなことしたり、お金を貯めたりして(祖母に自動ブレーキ付きの車を買うことが目標です)実家に帰ろうと思っています。
離れた今は母や叔母がほぼ毎日祖母の家に行っているようで安心しております。
最後に長くなりましたが、夏井いつき先生、そして出演者の皆様方、スタッフさま、ほかのたくさんの関係者様
感謝をしてもしきれません。
ありがとうございます。
これからも楽しく拝見させていただきます。
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