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しおりを挟む二人がショッピングモールを出たのは、日が傾いて色を濃くし始めた夕暮れだった。
行き先は違くても、二人とも駅のロータリーからバスに乗って帰る。
撫子たちが並んで駅に向かっていると、少し先で誰かの声が響いた。男と思われる低い声はわずかに荒立っていて、前の通行人たちは騒ぎが起きていると思われる場所を避けたように足早に駅に向かっていた。
隣にいた四条と思わず眼を合わせつつ二人が進んでいくと、途中で数人の女性がかたまって心配そうに騒ぎに眼を向けていた。彼女たちの後ろを通り際に釣られて撫子も眼を向けると、そこには若い男女が向かい合っていた。男はひどく苛立った様子で声を荒げ、女性は及び腰ながらなにか言い返している。
「美南ちゃん……?」
見慣れた姿に思わず立ち止まる。撫子の呟き、四条も足を止めて「磯山……?」と驚いた。
みんなが巻き込まれたくないと静かに行き過ぎて行くので、二人の声は結構ハッキリ届いた。
「なんで急に嫌だなんていうんだよ。俺は美南のためを思って言ってるんだぞ? お前にはそんなヒラヒラしたガキっぽい服じゃなくて、もっと大人っぽくて落ち着いたのがいいって」
「でも、私はこういう服のほうが好きなの……今までは先輩の好みに合わせてきたけど、やっぱり自分の好きな服が着たい」
美南は両手を胸の前で合わせ、声を振り絞った。それに対し、相手の男はうんざりした様子で自身の髪をかき回してため息をつく。
聞こえた言葉に、あれが美南の年上の彼氏なのだと撫子は察した。
男はゆるやかなカーブのある茶髪と垂れた目尻のせいで優しげに見える。が、甘い風貌とは一転してその口調は随分ときつく思えた。
どうやら言い合いの原因は、前に美南が言っていた彼女の服装に関することらしい。
(あんな言い方しなくてもいいのに……)
ムッと撫子の口角が落ちた。自分の恋人が好きな服を着たいと言っているのだから、あんなふうに邪険にしなくてもいいのに。
「……そんなにこの服って似合わないかな?」
二人の間にはピリピリした空気が流れていたが、ふいに美南が悲しそうに眼を伏せた。
今日の彼女は薄桃色のワンピースを着ていた。裾と袖口に白いレースが段になってついた可愛らしい雰囲気のものだ。丈が長く、細身でスラリと背の高い美南にはよく似合っている。けれど、恋人である彼は不満らしい。
「お前だって自分の顔見たことあるだろ? せっかく美人なんだから、そんなヒラヒラしたガキみたいなスカート履くなよ」
美南の悲しみになんて気づく素振りもなく、男はやれやれと困り果てた顔で吐き捨てた。
美南の瞳が、傷ついたように揺れた。そっと噛みしめられた唇を見た途端、撫子はたまらない気持ちになって、二人を止めようかと迷う眼の前の女性たちを追い越して走った。背後から名前を呼ばれた気がしたが、撫子には肩を丸めて震える友人の姿しか眼に入っていなかった。
美南を背中に庇うように割り込むと、男は訝しげに眉をひそめて撫子を見た。美南はいるはずのない友人の姿に眼を丸くする。
「なっちゃん……? なんでここに?」
背後からの声に答える前に、撫子は恐怖で竦む足を叱咤して自分よりも大きな男をきっと睨み上げた。
「美南ちゃんの彼氏さんですよね? 自分の恋人が必死に訴えてるのにそんな言い方ないじゃないですか」
「は? なんだお前、急に割り込んできて」
「同じ高校の友人です。美南ちゃん、前から悩んでたんですよ。恋人なら相手が笑顔で過ごしてくれるのが一番ですよね? どうして受け入れてあげないんですか?」
グッと厳しい眼差しに見下ろされて反射的に体が震えそうになる。けれど、撫子はどうにか美南が彼の視界から隠れるように立ち、顎を引いて見据えた。
そんな撫子の様子に、男は不快そうにさらに顔を歪めた。
「受け入れるって……好きなのと似合うのは別だろ? 美南に似合う服は俺が一番よく分かってる。今までだって美南は言うこと聞いてたのに急に今日になって、って……」
そこでなにかに気づいたように男がじろりと撫子を見た。
「まさかお前が余計なこと言ったのか? おい美南、お前この男と浮気してんじゃねーだろうな!?」
撫子の背中を追い越して投げた男の怒気に、撫子も美南もびくりと肩を震わせた。慌てて顔を上げた美南は勢いよく首を振る。
「ち、ちが! なっちゃんは友達だもん! そんなんじゃないよ」
再び男の視線が撫子に戻ると、ジロジロと頭から足の爪先まで検分するように見回した。
身を乗り出すように覗き込まれ、咄嗟に足元から湧く恐怖をなんとか耐え抜く。
「たしかに顔はいいほうかもしれねえけど……こんななよっちいのがいいのか? なんだ美南。お前好み変わった?」
不躾に撫子の顎を捉えようと伸びてきた手に、ひゅっと恐怖で喉が鳴った。逃げたい。反射的に思ったが、背後に美南がいるのだ。逃げちゃダメだ。
――撫子くんだっけ。
また、あの日の男の声が耳の奥を撫でる。ゾワリと背筋が粟立って撫子がぎゅっと眼を閉じたとき――。
「おい。やめろよ」
「なっ! 今度はなんだよ!」
狼狽えた男の声に眼を開けると、撫子を庇うように立つ四条の背中が広がっていた。撫子に触れようとした男の手首を強く握り、四条は険しく男を睨めつける。
先日も同じように助けられたばかりだ。あの時の安堵を思い出し、撫子の体から力が抜けた。
「たく、なんなんだよ。美南も美南で反抗するし、知らねー男が入ってくるし」
四条の手を強引に振り払った男だったが、掴まれた手が痛むのかもう一方で手でさすりながらよたよたと後ずさる。
「おい美南、あとで連絡すっからな! 電話出ろよ!」
捨て台詞のように吐き捨てた男は、様子を窺っていた野次馬を睨んで道を開けさせると駅の構内に消えていった。
当事者の片方がいなくなったので、騒ぎを気にしていた観衆もバラバラと散っていく。撫子は震える喉で息を整え、崩れそうになる体を持ちこたえながら美南を振り返った。
「美南ちゃん」
大丈夫だった? と、続けようとしたのだが――。
「なっちゃん! 大丈夫!?」
それよりも早く、美南に両肩を掴まれて顔を覗き込まれた。その勢いに驚いたものの、あんな眼に合っても撫子のほうを気にかけてくれる友人の優しさに胸が温かくなる。
「俺は男だから大丈夫だよ。でも美南ちゃんは女の子でしょ? 彼氏って言っても大きい声出されたら怖かったよね……大丈夫?」
「うん。ビックリはしたけど私は大丈夫だよ。それよりなっちゃんだよ。だって、なっちゃん……」
そこで美南は口ごもった。心配そうに見上げてくるので、撫子は平気だよと言わんばかりにニコリと返した。
(俺、そんなに心配されるほどなよなよしく思われてるのかな……?)
ちょっぴり心外に思って、でもすぐに自分でも納得した。まあ確かにひょろいし頼りなく見えるだろう。しかし庇いに入った側が気遣われるというのも、男として恥ずかしいものがある、と内心で苦笑した。
美南は撫子の笑顔に安心したのか、それ以上問いかけては来なかった。
一緒に助けに入ってくれた四条にも美南は頭を下げた。二人に向かって、すぐそこのコンビニでお礼を……というので、大したことはしてないと四条が首を振る。
「そうだよ。お礼なんて気にしないで。友達助けるのは当然だし、美南ちゃんだって俺が困ってたら助けてくれるでしょ?」
「えー……なっちゃんが困るような場面がほぼないじゃん。いっつも私とか咲恵ちゃんが助けられてばっかりだもん」
口をとがらせ、不満そうだ。
「本当に気にしないで。それより美南ちゃん、帰るところだったんじゃないの? 時間大丈夫?」
陽もほとんど沈んで、地平線のほうには橙の名残がわずかに見えた。薄暗い中で、駅の時計台をみた美南は「あっ」と焦燥を見せる。
「いけない! 今日は六時までに帰らなきゃいけなかったの」
本当は今すぐにでも電車に飛び乗りたいだろうに、助けられた手前、大したお礼も出来ていない状況では帰りにくいのだろう。撫子たちと駅とを交互に見て慌てる美南に、二人は苦笑して早く行くよう促した。
「ごめんねえ! 今度ぜったいお礼するからー!」
大きく手を振りながら、美南は駅の階段を上っていた。彼女の姿が見えなくなってほっとすると、忘れていた恐怖がぶり返された。
さっきまでは美南の手前、気を張っていたが、それがなくなったせいだ。けれど、隣にはまだ四条がいる。
動揺を気取らせないよう、撫子は何食わぬ顔で自分たちも解散しようと呼びかけた。が、なぜか四条はじっと撫子を見下ろしたまま動かない。
そして、不意に撫子の手を引いて駅から一番離れたロータリー沿いのベンチに連れて行く。
眼を白黒させていると、両肩を押されて無理矢理座らされた。正面に立った四条をなにがなんだか分からない撫子が困惑して見上げると、「手」と短く言われた。
「手?」
「磯山の前じゃ隠してたけど、ずっと震えてたぞ」
指摘されて自分の手を見下ろすと、確かに小さく震えていた。もう気づかれているのに、咄嗟に背後に回して隠してしまった。
遅れて、今さら隠す必要がないのだと悟った。普段のヘラヘラした軽い笑い顔で眉を落とす。あまり真剣に捉えて欲しくなかった。
「ごめん。情けないよね、男なのにこんなに怖がりでさ……」
「怖がりっていうか……お前、もしかして男が怖いんじゃないか?」
いつだって直球な四条にしては珍しく、わずかに躊躇があった。しかし、やっぱり彼はオブラートで包むことをしないので、撫子が訊いて欲しくないことを的確に突いてきた。
肯定も出来ず、かといって嘘もつけずに言葉をなくした撫子は、俯いて肩を丸めた。
すると目線を合わせるように屈んだ四条が、ゆっくり手を伸ばした。それを俯いた視界で見ながら、不思議だなあと撫子はもう何度目かも分からないことを思った。
こうして四条が近くに来ても、触れようとしても、ちっとも怖くない。むしろ底冷えした恐怖よりも、ドキドキと体が温まるような気さえする。
なにをするんだろう、と撫子は静かに四条の手を見ていたが、撫子の手を取る直前、まるで怯えたように彼の手は一瞬だけ動きを止め、しかしすぐにそろそろと両手を握った。
優しく包むようなその力加減に、気遣いを感じて嬉しくなる。一方で、撫子の反応を観察するようにじっと見てくる瞳に据わりが悪かった。
咄嗟に否定できなかった時点で認めたも同然だ。けれど、諦め悪く言葉を探して視線を泳がせていると、ふいに四条と眼が合った。
薄暗くなった世界で、四条の瞳には心配するような光りがあって、それでストンと撫子は諦められた。
強ばっていた肩から力が抜け、縋るように、しかし拒否されるのも怖くて弱い力で手を握り返す。
「……男がダメっていうか、俺よりも大きい人がダメなの。子どものときのことが、忘れられなくて……。ああ、でも女の人はいくら大きくても大丈夫だから、やっぱり男が怖いっていうのが正しいか」
要領が悪い口ぶりに自分で笑ってしまう。そのまま誤魔化されてくれないかなと思ったが、上目遣いに見た四条はひどく真面目な顔で撫子の話を聞いていて、撫子はそれが嬉しいような困ったような気持ちになった。
「小さい頃、お母さんと付き合ってた男の人と家で二人になるときがあったんだ」
母と付き合っている男――。なんとも奇妙な言葉だが、四条は一瞬の動揺を目許に表しただけだった。
母が恋人を家に呼ぶことは頻繁ではなかったけれど、数人の男が幼い撫子の記憶に残っている程度にはあったことだ。ほとんどは一緒にご飯を食べたり、テレビを見たりといった平凡な時間を過ごす。男は長くても二、三時間で帰って行った。
そりゃ初めて知らない人が家に来たときは驚いたが、何度もあれば撫子も慣れる。どうせ大して長居せずに帰るし、母との時間がちょっと少なくなって面白くない。そんな程度のことだった。
あの日だっていつもと変わらず過ごすはずだったのだ。
その日、母と一緒に家に現れた男は、女性の中でも身長のある母よりもうんと高くて、ほどほどに厚みのある体をしていた。垂れた目尻が特徴の優しそうな面影は覚えている。
帰宅して早々に夕飯の準備で冷蔵庫を開けた母は、買い忘れに気づくと近所のコンビニまで行ってくると家を出た。
これもときどきあったことだから、撫子もまたかとしか思わなかった。
――こんにちは。撫子くんだよね?
見知らぬ人間と家に残された子どもだからか、それとも自分の恋人の子どもだからか。とにかく撫子は、男に喋りかけられたことに対して気を遣われているんだと思った。
相手は母の恋人で、迷惑をかけてはいけないとも思った。だから近づいてきたその人をあからさまに驚いたり、疑わしい眼で見てはいけないと。
「お母さんの恋人はいかつい顔立ちの人が多くてさ……俺はいつも怖がってお母さんの後ろばっかりついて回ってた。でも、その人は他と系統が違って……だからかな。そこまで怖いとも思わなかったんだ」
誰も見ていない小さなテレビの音が響くなか、フローリングの上で膝を抱えた撫子の隣に座って、男はいくつか質問を投げた。名前から始まって、年齢や好きな食べ物のこととかそんな大した意味もない質問たちだ。
撫子は小さな声で、でも必死に答えた。矢継ぎ早に訊かれ、うんうんと頭を悩ませながらなんとか答える。そのせいか男がピッタリとくっつくほど近くに来ていることに全然気づかなかったのだ。
「ほっぺに触られて、そこで初めて怖くなって距離を取ろうとしたの。でも、足を滑らせて上手く立てなくてさ。そのまま後ろに倒れちゃったら、その人が……俺の上に、覆い被さってきて……」
――大丈夫? 頭ぶつけなかった?
口ぶりは心配そうなのに、口角はひくひくと上がっていてにやけるのが隠しきれていなかった。さっきまでと同じはずの柔らかな目つきに、どうしてか鳥肌が立って撫子は声の出し方を忘れたみたいにパクパク口を動かした。
最初はぶつけた頭を心配するように髪を撫で、そうして子どもの頬を包んだ。
――撫子くんだっけ。女の子みたいな可愛い名前だね。まさか顔も可愛いなんて思わなかったなあ。
これで男の子なんだもんねぇ。と、糸を引くようなねばついた男の声に、身をよじって逃げようとしたときには、シャツの裾から手を入れられて肌を直接なで回されていた。薄い子どもの皮膚ごしに男の指があばらの感触を楽しむようにするするとのぼって来て、それが胸の頂きを遊ぶように撫でたとき、玄関が開いて母が帰ってきたのだ。
慌てたように身を引く男を目の端で捉えつつ、撫子は天井の白い照明に目が眩んでいた。自分がなにをされたのか、そのときの撫子は理解していなかった。
「どうしてもね、そのときのことが頭から離れないんだ。自分より大きい人に見下ろされたり、逆光で影に入ったりするとフラッシュバックしちゃって」
そこまで辿々しく話し終えた撫子は、一呼吸置いてから無理矢理に口角をひきあげ、顔を上げた。
「ごめんね! こんなことでいつまでも怖がってたらダメだよね。痛いこととかひどいことされた訳でもないのに、俺ってばほんと」
「今は怖くないか? 俺のことは平気か?」
言葉尻を攫うように訊かれて、せっかく作った笑顔が崩れた。一瞬で壊れた笑顔を、四条は最初から作り物だと分かっていたように痛ましい眼差しでみていた。
「俺だってお前より背も高いし、体格だっていいだろ……こうしてて怖くないか?」
繋がった二人の手を見て、四条が怯えや不安で睫毛を震わせたので、撫子は意外な気持ちになった。
こうして手を握ってくれたのは、確かに撫子の反応を見るためというのもあったが、一番は撫子の気持ちを落ち着かせようとしてくれたからだろうに。
四条が撫子を思ってしてくれたことなのに、それが撫子を怖がらせてはいないかと気に病んでいる。
そう思うと、撫子の胸がいっぱいになった。握り返す手の力を強くして、首を大きく振った。
「たしかに最初はビックリすることもあったけど、今はもう大丈夫。四条くんは子どもにも優しくし、それに悪いことをする人は子どもだろうとちゃんと叱る人だもん。正義感が強いから、絶対悪いことをしたりしない」
するりと口から出てきた言葉に、自分自身がハッとさせられた。四条のそばにいても平気なのは単純に慣れたからだと思っていたが、よく考えるとあの見守り活動のことがあったから警戒が緩くなっていたのだ。
撫子のキッパリとした物言いに、彼は安心したように眉間から皺を消した。それでもすぐに無遠慮に距離を摘めてくることはせず、「隣いいか?」とわざわざ訊いてからベンチに座る。
駅の向こうに薄らと見えていた夕暮れの温かさは消え、近くにあった街灯がチカチカと点滅しながら白く灯った。
ベンチからは少し離れているので、隣にいる四条の姿はぼんやりとしか見えない。ハッキリ顔が見えないからだろうか。見上げた影にトラウマを思い出し、腹の奥が恐怖で重くなった。そっと膝の上で拳を作りひっそりと耐える。
「香月はこんなことでって言ったけど、そんなふうに言うなよ。子どもが体の大きい大人を怖がるのは当然だ。しかも初めて会った相手で、無遠慮に体に触られるなんて……トラウマになったっておかしくない」
四条は普段よりもうんと優しい響きで言った。
暗闇の中でも、彼の横顔が苦い顔しているのが分かる。それは相手の男への嫌悪や侮蔑でもあり、情けないと自分を卑下する撫子へのもどかしさのようでもあった。
「あのさ……そのあと、母親はどうしたんだ?」
不意に出た母の言葉に、ドキリとして言葉に詰まった。
母がその男を家に連れてきたのは、六歳になる年の初秋のことだった。その後、そう経たずに撫子は母に捨てられた。
今度は、冬の冷たさと扉の向こうに消えた母の姿が脳裏を過る。
あの日の寒さを思い出して撫子が体を震わせると、四条はカッとなったように赤くした顔で身を乗り出した。
「まさかその男と付き合い続けたわけじゃないよな!?」
「そ、それはないよ! あれ以来その人と会った記憶はないから……」
訊ねられたのは、あの日母が帰ってきた時のことだと気づき、慌てて否定する。そうだ。四条は同じ年に撫子が捨てられたことなんて知らないのだから、訊いてくるはずがない。
「そっか。じゃあ、母親が助けてくれたんだな……」
それならよかった、とみるみるうちに勢いが萎んだ四条は、ふうと息をつきながら背もたれに寄りかかった。
そこまで一生懸命に気にかけてくれていることに嬉しさを覚えた。一方で、ふと「あれ?」と疑問に思う。
(そういえば、帰ってきたお母さんはどうしたんだっけ?)
慌てて離れた男の横顔は覚えているが、そのあとの記憶はひどく曖昧だった。子どもながらに自分が良からぬことをされたと遠からず分かっていて、多分錯乱していたのだと思う。
しかし、あれ以降その男に会うことはなかったので母は縁を切ったのだと思う。
(お母さんが追い出してくれたのかなあ……)
気づいたら男はいなかったので、きっとそうなのだろう。しかし内心で撫子は訝った。
いずれ捨てるほど愛情のない子どものために、愛している恋人との関係を破綻させるだろうか。
むしろ、子どもに手を出すような恋人に幻滅して別れたというほうが納得出来そうだった。
さすがに子を捨てるような人であっても、自身の母にはそれぐらいの倫理観があったと思いたい。
ふと撫子は、ぽっかり空いた記憶の中に密かな温もりがあることに気づいた。
あれだけ怖くて仕方がない出来事だったのに、どうしてかそれについて回るように微かな胸を温めるものがある。
今までフラッシュバックするたびに、すぐさま頭からだ追い出そうと必死になっていたので気づかなかった。
だが、今日のように鮮明に思い出し、記憶に浸ることでうっすらと感じたのだ。目を凝らさなければ気づかないほどの、けれど確かに存在する温かいもの。
(これは、なんだろう……)
撫子が覚えているのは翌日の朝からだった。母はいつも通り仕事に行って、一人で帰りを待っていた。つまり、いつもの日常が戻ってきた。
それ以外にハッキリと思い出せることはない。
もしかして自分はなにか大事なものを、この温もりの理由を忘れているんだろうか?
思い出せもしない曖昧で小さなきらめき。夜の星よりも小さいそれを、どうにか守ろうと自分の腕を胸で抱いた。陽の落ちた十月の夜風は、思っていたより冷える。
ぶるりと体を震わせ撫子に気づいた四条は、迷うように眼を揺らしてから不意に腕を伸ばした。
「え……?」
「……俺のことは平気だって言ったよな?」
肩を抱かれるように引き寄せられた撫子は、すとんと四条の肩に身をもたれた。一瞬だけ体が竦んだものの、すぐそばで四条の声が降ってきたからほっとして身を預けてしまう。
「寒いのか? それともまだ怖いか?」
「……両方」
子どもみたいに覚束ない口調で、撫子は自分でも気づかないうちにそう答えていた。
答えてから、撫子自身もそれを自覚した。母に捨てられたあの日からずっと、撫子の中には寒さと恐怖が巣くっていた。
捨てられた日の冬の冷たさが、真っ暗な中で帰りを待つ恐怖が、ずっとずっと胸の中に凍り付いて残ってる。黒いもやで覆い隠したって決してなくならない冷たさがそこにはあった。
額面通りに受け取った四条は、怖がらせないようにだろう……優しい手つきで撫子の肩をさすった。温めようと、宥めようとする彼の体温に、少しずつ少しずつ胸の中の氷が溶けていくようだった。
肩に回った四条の逞しい腕の力強さに安心する。ほっとした撫子はさらに体から力を抜き、四条の首元にすり寄るようにした。
「ずっと……ずっとね。怖くて寒いんだ」
言葉とともに、はらりと涙が一粒だけ滑り落ちた。たった一言吐き出しただけなのに、ずっと燻っていた黒いもやが少しだけ薄らいだ気がして呼吸が楽になった。
薄暗い中でも涙に目敏く気づいた四条は、腕の力を強くしてさらに二人の距離を縮めた。
厚みのある体の奥から、とくとくと速く動く鼓動を感じながらそっと眼を閉じた。
「お前、こんなときでも助けてって言わないんだな……」
もどかしそうに、どこか悔やむように言葉を噛みしめた声に、撫子はごめんね、と心の中で声を答えた。
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