【完結】花は一人で咲いているか

瀬川香夜子

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 二人でショッピングモールに行ったあの日、四条と駅で別れた撫子はバスに揺られて帰宅した。
 普段なら雅海とともに夕飯を作り終えている時間に帰宅した撫子はゆっくりと家のドアをくぐった。
 養父母や眞梨は、それを待ち構えていたように玄関戸の音に反応して廊下に飛び出てきた。
 あまりの勢いに、撫子はただいまも言えずに驚いて立ち尽くす。そんな撫子を見た雅海や尚紀は、ほっと声もなく安堵した。眞梨はパタパタと駆けてくると、手を引いて「ご飯出来てるよ! 今日は私が手伝ったの!」と嬉しそうに報告してくる。
 そのとき、四条に肩を抱かれてからずっと夢うつつのようだった撫子の感覚が、ようやく現実に戻ってきた。我に返り、今が何時なのか思い出して、サッと顔を青くさせた。
 連絡もなく手伝いをすっぽかし、悪びれもせずに帰宅するなんて――。
 手を引かれるがままリビングに連れ込まれる手前で慌ててブレーキをかけ、子どもたちの後ろをついてきていた雅海を振り返って頭を下げた。
「雅海さん、きょう遅くなってすみません……夕飯も手伝えなくて……」
 今までこんな失敗したことがないのに。怯えながらなんとか顔を上げて言うと、雅海はよく理解していない顔できょとりと瞬き、やがて声を立てて笑った。ようやく笑いが収まると、今度は控えめに口許を緩ませて言ったのだ。
「撫子くん、そんなことで謝らなくていいのよ。遅くっていっても、そんな大した時間じゃないし。高校生の男の子なんだもん。むしろもっと遊んでたっていいぐらいよ」
 クスリと細められた瞳に、幼い子どもの悪戯を叱るようなそんな温かな光を見た気がした。
 途端に胸がくすぐられたような、むずがゆい小さな衝動が体を伝う。無意識に手に力が入っていて、眞梨と繋いだままだと気づいて慌てて離す。けれど、眞梨はなぜかふにゃりと溶けたように笑んで今度は腕を組んできた。
 困惑する撫子に、雅海が指を一本突き立てて言い聞かせた。
「そもそも料理の手伝いだって、あんなに毎日頑張ってくれなくてもいいんだからね? ただでさえ勉強だって眞梨の世話だって大変だろうに家のことまでやってくれて……」
「私、べつにお兄ちゃんにそんなに迷惑かけてないもん」
「いっつも何かあるとお兄ちゃーんって泣きついてるでしょ」
 雅海が眞梨の額を指で小突くと、眞梨は大袈裟に痛がって撫子に言いつけた。それをみた雅海が叱って、でも最後には二人ともおかしそうに笑い出した。
「撫子くんが手伝ってくれるのは僕たちも助かるけど、それできみに負担をかけたいわけじゃないんだよ。そんなに頑張りすぎなくてもいいんだから」
 ずっと温かい眼で傍観していた尚紀が、母と娘を後目に穏やかに言った。
 今まで価値のない撫子を引き取ってくれた三人の役に立ちたくて、必死にあれこれ仕事を見つけては頑張ってきた。
 なのに、急に仕事を取り上げられたような淋しい心地になった。そんな言葉をかけられるとは思っていなくて、現実味がない。
 所在なく立ち尽くしている自分を、どこか遠くから眺めているような気分だった。
 一方で、そんな淋しさをじわじわと浸食するように温かい感情が広がっていき、それに背中を押されるように撫子はかろうじて頷いて答えた。
 その日は至れり尽くせりの一日だった。すでに用意されていた夕飯を四人で食べ、今日ぐらいはと一番風呂に入らせてもらって。洗濯物や洗い物の手伝いを申し出たが、先回りしたように三人が動いていてなにもやらせてもらえなかった。
 結局、手持ち無沙汰で随分と早い時間に部屋に引っ込んだのだ。
 そこで買ってきたパズルの存在を思い出す。
 今度の休みに時間をかけてやろうと思っていたが、さっそく開けてみるのもいいかもしれない。
 善は急げとばかりに箱を開けると、中身はシンプルなものだ。キーホルダーの金具と、バラバラのパズルのピース。完成形が球状だから、ピースは一つ一つが少したわんでいる。
 適当に一つを摘まんで手に取り、それに合う形のピースを探した。平面ではないので、組み合わせるときの力加減がなかなか難しい。弱すぎるとカチリとはまらないし、強すぎると行きすぎて外れてしまう。
 初めての繊細な作業にあくせくしている内に、どうにか半分ほど形が出来た。息をつきながら、撫子は額の汗を拭う仕草をする。
 そこで初めて、自分が時間も忘れて打ち込んでいたことに気づいた。ハッとして時計を見るが、まだまだ日付が変わるまで時間があった。
 まだ完成させてもいないのに、形の出来上がってきた夜空のパズルに、胸がいっぱいになるような満足感が溢れてきた。
(……四条くんがハマるのも分かるかも)
 単純作業だからこそ、なにも考えずに集中出来る。その時間が案外心地よい。
 一心不乱だったが、小休止を挟んだことでいい感じに気が緩んだ。残った少ないピースに眼を落としたとき、でも、と撫子は思い直した。
(四条くん、もう長いことやってないんだっけ……)
 ふいに昼間にみた四条のことを思い出した。わくわくした輝いた眼で店内を見渡した子どもみたいな顔と、そんな楽しさがすっかり消えて過去のことを呟く、陰りを帯びた眼差し。そして――。
 ――お前がいてくれたらって思ったよ。
 光を多く含んだ瞳が微笑む姿はとても眩しく感じた。
 その笑みの華やかと自分に注がれる瞳の温かさを思い出すと、胸が掴まれたような息苦しさを覚えた。
 それは辛く苦しいものではない。体の奥をぽかぽかさせるような、そんな心地よい甘い苦しみだ。
 眠りにつく直前の、温もりに溢れた布団の中のようなそんな夢うつつな気分になる。
 鼓動が体の中心で叫んでいると思うほど大きく高鳴って体を熱くさせた。
 その鼓動に急かされるようにパズルのピースをはめていき、ようやく最後のピースをはめこんだ。綺麗な球体を描く夜空を前にすると、夜のベンチで抱きしめられたあの瞬間が思い出された。
 震えた体を抱きしめられ、壊れ物に触れるような繊細な手つきで労られたあの瞬間。
 甘えるように彼の肩口にすり寄った頬を、そのときの彼の体温を思い返すように自分の手でさすってみる。
「……四条くん」
 ほうっとため息とともに無意識に零れた。その短い彼の名前に、焦がれるような切ない甘さが含まれていることに気づき、撫子の全身に鳥肌がたつようにぶわりと熱が回った。
「あ、あれ……? 俺って、まさか……」
 今しがた気づいてしまった自分の想いに、驚愕で心臓が口から飛び出そうだ。とっさに両手で口を覆い、騒がしい心臓と驚きの悲鳴を押し殺した。
 頭の中がなかなか整理できず、眼を白黒させてしばたたかせた。その間も学校やショッピングモールでの四条の色んな姿が蘇り、最後にあのベンチでの腕の力強さと囁くような優しい低い声音に返ってきてはまた一段と体が熱っぽくなった。
 じわりと額に汗が浮かぶほどで、もたつく足で窓を開けて秋の外気で冷やそうとパタパタと手で仰いだ。
 母が出て行った日のことを思い出すからと、撫子は夜空が好きじゃない。母以外の人に玄関から連れ出されて眼に入ったあの日の空は、真っ暗で宙に浮いたような心許なさと悲しみを溢れさせた。
 だから撫子は、母が出ていった日を思い起こさせる冬の冷えた空気と夜の空が嫌いだ。夜空を眼にせず生きていくなんて不可能だ。
 せめても、と自室で過ごすときは部屋の窓はすべてカーテンを閉め切って、絶対に開きはしなかった。
 なのに今は、夜風の涼しさが心地よかった。星が瞬く空を見て思い出すのは、小さなアパートを出た夜のことではなく、あの立体パズルの夜空と抱きしめられて四条の向こうに見た暗い空のこと。人生のどん底に落とされたあの日が、いつもより遠くに感じる。
 長らく自分の心の一部を凍らせていたあの日を、四条が塗り替えつつある。その事実が、この感情を否定できないものだと突きつけてきた。
「……俺、四条くんのこと好きなんだなあ」
 そよそよと夜風に吹かれながら囁いた言葉は、初めての恋情というものへのときめきと、決して叶わないことを理解する理性によってほんのりと涙の匂いを含んでいた。


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