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しおりを挟む道中、四条は撫子の不安を和らげるためにかたわいもない話をしてくれた。
そのおかげか、それとも一度感情を爆発させて思いっきり泣いたからか、撫子は冷静に考えられるようになっていた。
(俺への愛情故にじゃなかったとしても、ここまで育ててくれたのも優しくしてくれたのだって本当だもんね)
なら、それでいいじゃないか。と思えた。
面と向かって話をすることは怖くもあるが、雅海や尚紀がしてくれたことはなにも変わらない。
並んで香月の家に帰ると、眞梨が玄関戸に寄りかかるようにして俯いていた。撫子たちの足音で顔上げて二人を認めると、安心から眼を潤ませた。
少しだけ戸を開いて、中に向かって「お兄ちゃん帰ってきたー!」と叫び、すぐに駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、無事で良かった!」
飛びつくようにして抱きしめられ、撫子は妹の体がひどく冷えていることに気づいた。
(ずっと外で待ってたの……?)
さっきみたいに肩を落として俯き、じっと撫子の帰りを待っていたのだ。そう思うと胸がいっぱいになった。そうだ。眞梨がいる。
この子は撫子の母からの頼み事などなく、こうして兄だと慕ってくれている。こんなに家族のように接してくれている。
どうしてすぐに思い至らなかったんだ、と自分が情けなかった。
鼻を真っ赤にして泣く妹を、愛おしさのあまりぎゅっと抱きしめていると、玄関が勢いよく開き、そこから焦燥した雅海と尚紀が現れた。兄妹二人の姿にほっとし、次いで四条と眼が合って互いに戸惑いつつ会釈を交わした。
寒いでしょう、という雅海の言葉でみんなは家に入ることになった。
リビングはすでに片付けられていて、撫子が床に落としたはずのあの手紙だけがテーブルに置かれていた。撫子がそれに眼をやっていると、雅海があたふたと弁明でもするように言いかけ、すぐに四条がいることに気づいてもどかしそうに口を閉じた。
四条のパーカーの裾を摘まみながら言った。
「……その手紙のことで。お母さんのことで訊きたいことがあります。四条くんは全部知ってるから……一緒に聞かせて」
緊張のせいか改まった口調になってしまったが、二人は頷いてソファに誘導してくれて、眞梨も不安そうにしながら撫子の隣に座った。
四条も眞梨と反対の撫子の横に腰を下ろし、向かいに養父母たちが腰掛けた。
誰もがぎこちなく様子を窺うような空気の中、撫子がぽつりと自分を引き取ったのは母に頼まれたからですよね? と確認をとる。だが、即座に雅海が「違うの!」と悲鳴のように声を上げた。隣では、尚紀が真面目な顔で何度も頷いていた。
「たしかにあの日撫子くんちに行ったのは手紙がきっかけ。でも引き取るって決めたのは私たちよ」
身を乗り出してまで言葉を投げかける雅海はひどく必死な様子だ。誤解されていることがたまらなく辛いのだと言いたげに。
「私たちが何度も施設に会いに行ったの覚えてる?」
撫子は顎を引いて頷いた。
夜のアパートに養父母が来た日、撫子は警察から話を聞かれてそのまま児童養護施設に送られた。そこで生活する中で、雅美たちは頻繁に面会に訪れてくれたものだ。
「関わった手前放っておけなくて様子を見に行ってて……最初は引き取るつもりはなかったの。うちには小さい眞梨がいたし、ちゃんと育てられるか心配だったから」
「じゃあなんで……」
撫子が施設にいたのは三ヶ月程度だけだった。そんな短期間で気が変わるものだろうか。
正面の二人の視線がそろりと眞梨に向いた。見られた当人は、「わたし?」ときょとりと瞬いて自分を指さした。
「小さい頃の眞梨は結構やんちゃな子でね。私たちも手をやいてたのよ。でも、撫子くんてば私たちが職員の人と話してるときでもいつでも、眞梨が危なくないようにってちょこちょこ動くのについて回ってくれて……眞梨ってばすっかり撫子くんに懐いちゃってね」
「撫子くんにしがみついて帰らないってわがまま言ったり、朝になる度にお兄ちゃんのところ行こうってそればっかりだったよ」
「私たちもそんな二人見てたら、本当の兄妹みたいに見えてきてね。それでね、聞いたの。お兄ちゃんと家族になれるとしたら、眞梨はどうしたい? って」
そのときのことを思い出したのか、二人は顔を見合わせてクスリと微笑ましそうに笑った。
「そりゃもう良い笑顔で家族になりたいって」
「その頃には私たちも撫子くんのこと大好きになっちゃってたから、じゃあ撫子くんに家族になってくださいってお願いしようって」
――大好き。
その言葉は撫子の心の柔らかいところにストンと突き刺さった。
その頃から、撫子のことを好ましく……家族になりたいと思うほど好きでいてくれた。
本人の口から聞いた言葉だ。嘘なはずがない。
「だから沙織ちゃんに頼まれたから引き取ったわけじゃないんだよ」
分かってもらえたかと不安そうな二人に、撫子は嬉し泣きのような笑顔で頷いた。なんだ。そっか。最初から心配なんてしなくて良かったんだ。
そんな晴れ渡った気持ちのなか、撫子にふと疑問が湧いた。
「お母さんは俺のことなんてこれっぽっちも気にしてないと思ってたけど……なんで二人に手紙を出したりしたんだろう」
なにも言わず、仕事に出かけるような軽やかさで家を出ていった母だ。撫子を振り返りもせずに捨てていったのに、なんで手紙を出したりしたんだろうか。
捨てるほどに愛着もない子どもがどうなろうと、母には関係なかったはずなのに。
無意識のうちに過去への淋しさを抑えた撫子の光のない瞳に、雅海と尚紀は戸惑うように顔を見合わせた。そして、おずおずと雅海があの手紙の封筒を手にしてそこから写真を取り出した。
そこには撫子の子どものころが映っている。隣で四条や眞梨も身を乗り出して見ているのが分かった。しかし、雅海が見せたかったのはそれではないらしく、くるりと真っ白な裏面を見せた。そこには、母の文字でこう書かれていた。
――雅海姉ちゃんと尚紀くんのところなら、きっと幸せになれるから。
感情が乗った、勢いのある字だった。ボールペンで書かれたそれは、紙をえぐるように強く書かれたようで、表面がでこぼこしている。
意味をうまく読み取れず、唖然として文面を見下ろす撫子に、ふと雅海が言った。
「沙織ちゃんとは家が近所でね。私のほうが年上で、当時は小学生と高校生だったからあんまり会えなかったけど、結構仲が良かったのよ」
その頃から付き合っていた尚紀も交えて三人で遊ぶこともあったそうだ。詳しく聞くと、遊ぶというよりも、会えたときはどうにかして雅海が引き留めていたらしい。
「沙織ちゃん、いっつも傷だらけでね……はっきりとは言ってくれなかったけど、多分原因はご両親だと思う」
初めて聞く母の話に、撫子は驚きっぱなしだった。
だって撫子の知っている母は傷一つなんてなくて美しく、ニコニコ笑っていたり……自分の好きなように振る舞っていた強い女性だった。
「私もその頃は子どもで、どうしたらいいか分かんなくてとにかく沙織ちゃんが家にいる時間を減らそうって思って……そうしてるうちに懐かれちゃってね。私たちが付き合ってるのは知ってたから、ふとこんなこと言ってたの」
――雅海姉ちゃんたちの子どもに産まれてきたかったな。そしたら幸せになれたのに。
「これ読んだとき、それ思い出しちゃって……沙織ちゃん、そのときすっごく淋しいような、空っぽみたいな……そんな顔してたから、それが過って心配になっちゃって……それであの日、急いで県を跨いで撫子くんのところに行ったんだ」
あの日の夜。雅海があれだけ焦っていた理由も、必死に母の名前を呼んでいた理由も分かった。二人の中には、きっとその頃の傷だらけの母がずっといるからなのだ。
母のことを話す雅海、沈痛な面持ちだったが、ふと撫子を見ると目許を和らげた。
「でもね、私、あの子に家族が……撫子くんがいるって分かって嬉しかったの」
「えっ?」
「沙織ちゃん、自分に大事な人は出来ないだろうって言ってたから」
雅海の脳裏に浮かぶのは、膝を抱えたランドセル姿の沙織だった。
腕にも足にも傷がいくつもあって、沙織は自分を守るようにぎゅうっと体を小さくさせていた。
「わたしね、どうやって自分のことを守ろうってそればっかり考えてるの」
こんなわたしじゃ、きっと家族だって大事な人だって出来ないよね。だって自分のことが一番大事なんだもん。
子どもの沙織の瞳は淋しさに沈んでいたが、その奥にはどことなく諦めが見えた。一人で生きていくことを受け入れたような。そんな眼だったと雅海は思い返した。
「沙織ちゃん、撫子くんのこと大事に思ってたんだよ。幸せに鳴って欲しいってって思ってたんだよ……なのに手放しちゃって……なんでなのかなあ」
雅海の言葉尻はかすかに震えていた。雅海は潤んだ眼を誤魔化すように眉をへにゃりと下げて瞼を下ろした。
すんすんと、すすり泣くほどにはいかなくても、雅海はここにはいない母を想って瞼の下で泣いていた。きっと彼女の中にいる幼い母を思い出しながら。
それをぼんやり眺めながら、撫子はもしかして、と心の中で思った。撫子の中に母と別れたころの幼い自分が居座っているように、母の中にも子どもの時の傷ついた自分が、ずっとずっと住み続けていたのかもしれない。
母はどんな気持ちで撫子を産んだのだろう。どんな想いで、毎日接していたのだろう。
心が追いつかなくて、ぽかんと穴が空いたようになにも感じない。その穴に、母への行き場のない疑問が吸い込まれて消えていった。
――ねえ、お母さん……
その先の言葉を、撫子ははっきりと思い浮かべるよりも早く心の穴に放り投げて消していった。今、はっきりとそれを言葉にしてしまうと。気づいてしまうと、きっとみんなの前でみっともないところを見せてしまうと分かっていたから。
撫子が四苦八苦して心の整理をつけているうちに、雅海も落ち着いたらしい。ごめんね、と薄く笑って涙の名残を拭った。
そこで話し合いは終わりを告げた。粗方、聞きたいことも聞けて、二人も言うべきことは言ったらしい。数秒間、誰から動き出すか探るような気まずい空気が流れたが、尚紀が明るい口調で、
「もうこんな時間だから早くお風呂に入らなきゃね」
そういえばお腹もペコペコだ。と言うと、雅海や眞梨もそれに続いた。
撫子は表面だけ微笑みつつも、どうしても心の動きが鈍かった。そんな撫子のことをずっと見ていた四条は、そっと撫子の手に自分のものを重ねると、その腕を真上にぴんと上げて主張した。
「今日、こいつ俺んちに泊まらせてもいいですか? いろいろと整理する時間も欲しいでしょうし」
いつもの淀みもない真っ直ぐな声が広がり、三人は顔を見合わせてから気がかりそうに撫子を見て、そうしてこくりと頷いた。撫子は言われるまま制服から着替えて家を出るまで、どこか呆然と四人のやり取りを見ていた。
気づくと手には着替えの入った手提げバッグがあって、四条と手を繋いだまま夜道を歩いていた。早急な展開に眼が白黒していたが、やがて意識が追いついて「あれ?」と声を上げてしまう。
冬の冷気が漂う夜空の下には、人影なんて微塵もなくて二人だけの静かな空気が流れていた。
「なんで、俺のこと連れてきてくれたの……?」
まだどこか虚ろな撫子の問いに、四条は一度立ち止まって難しい顔をした。
「お前、ずっと顔真っ青だったぞ。手だって震えてた」
気づいてないのか、とでも言いたげに四条は眉をひそめる。そう言われて繋がった手を見下ろしたり、空いた片手で頬に触れてみたりするが、冬の寒さのせいか温度のない冷えた肌の感触だけしか分からなかった。
「なにも訊かずに連れ出したのは悪い。ただ、お前あそこにいたら無理しそうだったから……つい……」
「……ううん。ありがとう。三人の前じゃ、多分俺気を張ってたと思うし……きみと二人だけのほうが楽だから」
寒空のせいか靄がかかったみたいだった頭が少しずつ冴えていって、現実を認識していく。
――お兄ちゃん。帰ってくるよね?
家を出る直前、二人を引き留めるように言った眞梨の言葉が蘇った。両腕を背後に回し、不安を隠そうとしないソワソワした仕草で言われて、撫子は微笑んで頷いた。
(俺もあんなふうにお母さんに声をかけていたら、なにか変わってたのかな)
家を出ていく母の背中に、一度でいいから呼びかけていれば母は立ち止まってくれただろうか。出て行くのを躊躇してくれただろうか。家に帰ってきてくれただろうか。
どれだけ考えたってそんなの想像も出来なくて。でも、さっき手紙から見つかった母の本音をふまえるなら、その可能性もあったのかもしれないと思えた。
撫子の幸せを願うために並んだ言葉。つまり、母は撫子のことを嫌いだから、いらないから置いていったわけじゃなかった。
むしろ、撫子のことを愛していたからこそ――。
ようやくそこまではっきりと考えが至り、震える胸中に撫子は足を止めた。
「俺さ、お母さんに一度も言ったことなかった。好きも、愛してるも。行かないで、も」
アスファルトに落ちた言葉に、四条が悲痛そうに顔を歪めた。
なんとなく、自分も同じ顔をしているんじゃないかと撫子は頭の隅で思った。
馬鹿だなあ。吐き出した言葉の通り、撫子は嘲るように薄く笑った。歪に上がった口角の上を、涙が滑っていく。それを見た四条は、不意にポケットから携帯を出して、文字を打った。やがて再びポケットにしまい込み、どうしてか急に脇道に入った。
四条の家がある方角じゃない。むしろ反対の駅の通りに向かっている。
「ど、どこ行くの?」
「親には友達んち泊まるって行っておいた。前にお前んち泊まったことあるし、疑われずに了承された」
「じゃあ今俺たちはどこに……?」
そうこうしているうちに、駅前の大通りが近づいてきた。さすがに大きな道路だからか、この時間でも車の通りがまばらにある。けれど四条は、その通りまでは行かず、手前で路地を曲がった先の建物に向かった。
明るいネオンの照明に照らされたホテルの名前に、撫子はビックリして先を行く四条の背中に隠れるように張りついて囁いた。
「し、四条くん! ここって学生が来ていいの!?」
「私服だしバレないだろ。堂々としてろ」
たしかに四条は家を飛び出してきたからラフな服装だ。体格も相まって高校生には見えないかもしれない。撫子も家を出る直前に着替えたが、大丈夫だろうかと不安になる。規則やルールを破ったことがないからこそ、心臓が緊張でひっきりなしに鳴っている。
無人の受付で四条が部屋を取るのをハラハラしながら眺め、手を引かれるまま部屋に着いた。バレやしないかという緊張感だったが、部屋に入って人目にさらされる危険から逃れた途端、今度はべつの意味で心臓がバクバクし始めた。
(四条くんはどうして俺を連れてこんなところ……?)
性的なことに関して淡泊な撫子でも、ここを使う人がどういう目的で部屋を取るのかは理解している。それに自分たちは一応気持ちを通じ合わせた者同士なのだから。
部屋に入ってすぐのところで立ち止まったままの撫子とは反対に、四条は興味深そうに部屋の中を見渡していた。
「意外と普通の部屋と変わんないんだな」
「初めてきたの?」
「そりゃ当たり前だろ」
「なんだ……部屋の取り方とか、堂々としてるから慣れてるのかと思った」
内心でちょっぴりショックだったことを安堵して零すと、彼は心外だとばかりに口角を落とした。
「あんなの勘で選んだんだよ。大体付き合うのだって初めてなのに誰と行くんだよ」
頷くと、彼も誤解が解けてホッとした様子だ。四条は不意に両腕を広げると、「ほら」と促すように声を上げた。
「ここなら人目を気にしなくていいだろ。泣きわめいても、怒鳴り散らしてもいい」
(ああ……)
撫子は唐突に理解した。彼はこのために、撫子をここへ連れてきてくれたのだと。感激して、胸がいっぱいになった。
けれど、撫子は項垂れるように頭を下げてゆるゆると首を振る。
「怒れないよ。俺、勝手にお母さんのこと好きでいるのやめちゃったんだもん……」
母がどんな思いで自分を置いていったかなんて考えもしないで、孤独や淋しさに耐えきれないからという自分勝手な理由で母への愛情を忘れた。好きでいることをやめてしまった。そんな自分が、幸せを願って手放した母にどうして怒れるだろう。
待っていても来ないと思ったのか、四条はゆっくり距離を縮めた。そのままそっと腕を回されたので、撫子は力の入らない腕で押し返した。撫子の体を駆け巡るのは、自己嫌悪と後悔だ。
「俺、最低だよ。お母さんは俺のこと愛してくれてたのに、俺はお母さんへの愛を勝手に手放したんだ……」
「手放してなんかないだろ。お前はずっと母親のこと愛してたよ」
少し強引に引き寄せられ、撫子の体は簡単に抱きしめられた。
慰めの言葉を、撫子は聞きたくないと首を荒々しく振って拒否した。違う。自分は母への愛を捨てた。四条にもそう伝えるように。
いくら言ったって頑固に拒絶する撫子に、四条はやや乱暴に手を取って広いベッドまで連れて行った。ベッドに座らせて撫子の両肩を押さえると、声を張って言い聞かせた。
「気づいてなかっただけで、お前はずっと母親を愛してたんだよ。愛してくれない人を愛する意味はないって……一方的な関係ほど淋しいものはないって言うお前が、母親を愛したかったって言ったんだ。つまり、母親に愛して欲しかったってことだろ? 母親が愛してくれれば、自分も愛してるって言えるからだろ? 愛してるって言いたかったんだろ?」
まるで気づいていない撫子を憐れむように、四条は切実に呼びかけた。
「愛して……?」
「お前の言う愛したかったっていうのは、愛してるって言うのとなにが違うだよ?」
心の中の一番奥。長年、形を失うこともなく置き去りにするしかなかった言葉を、四条はいとも簡単に撫子の前に引きずり出した。
黒いもやが取り払われて、眼を逸らし続けてきた感情が溢れかえる。
――ねえ、お母さん……
子どもの声が、耳の奥に返ってくる。
――俺のこと、愛してる?
訊きたかったことは、たった一つ。
――俺ね、お母さんのこと愛してるんだよ。
本当に伝えたかった言葉だって、一つしかなかった。
「っ……俺、本当はずっと、お母さんのこと大好きだった」
「うん」
「本当は、ずっとずっと傍にいて欲しかった。ずっと一緒にいたかった」
「そうだよな。一緒が良かったよな」
「ふっ……っ~~~!」
「大丈夫だって。これからは大見得切って愛してるって言えるんだから」
声を殺して泣きじゃくる背中を、大きな手が叩いて慰める。大丈夫だ、大丈夫だ。何度も安心させるように同じ言葉が返ってきた。
「お前の母さんは今ここにいないけど、俺が傍にいる。俺じゃ力不足かもしれないけど、ずっと傍にいる」
だから大丈夫だと、力強い声が届いた。
「四条くんが力不足なんてあり得ないよ。俺、きみがいるから強くなれてるんだもん。四条くんが俺のこと愛してくれてるから、お母さんの手紙と向き合えた。雅海さんたちに愛されてないって思ったときも、四条くんに愛されてるなら怖くなくて、向き合うことが出来た」
母の代わりなんて誰もなれない。だからといって、撫子の中で四条の存在が母より劣るわけじゃない。
頬が濡れそぼったまま、撫子は捲し立てた。これだけ自分のなかで四条の存在が大きくなっているのに、それが本人に伝わっていない。そう思うと、もどかしくて仕方なかった。
力説された四条は、眼を瞠ったと思えば、少しずつ顔の温度を上げて真っ赤になった。
大きな手で口を覆うと、そのままくぐもった声で呟く。
「……お前は前にこんな自分にガッカリしたかって訊いたけど、本当は俺のほうがずっとお前に嫌われないかドキドキしてる」
「どうして?」
「……お前の母親に、嫉妬してるから」
「お母さんに?」
心底驚くと、四条は途端に面白くなさそうに口をへの字にした。
撫子の肩を押して、そのまま二人はベッドに倒れ込んだ。
仰向けに横たわる撫子の髪を、四条は馬乗りの姿勢でそっと耳によけた。
「お前は誰にだって優しいけど、心の柔らかいところには、そんなに大勢の人はいないだろ。その中でも母親は占めてる割合が違うだろ。それに、筋違いだろうけど、怒ってもいる。勝手にお前のことを捨てたんだから」
「でも、結局お母さんは俺を捨てたわけじゃなかった」
「お前からしたら一緒だろ。お前はその行動で傷ついたんだから。愛してるからってなにしてもいいわけじゃない……そのとき、俺が傍にいられたら良かったのに」
歯がゆそうに、四条は奥歯を噛みしめた。
「そしたら俺が慰めて、大事に大事に愛し続けるんだ。愛される価値がないなんて、絶対に言わせない」
「四条くん……」
あんまりに苦い顔で言うから、本心なのだとよく分かった。
涙と一緒に笑いがこみ上げてきた。
つい想像してしまったのだ。もし、あの冬の日に四条が目の前に現れていたらと――。
母親に捨て置かれた子どもを前に、彼はきっと言うだろう。「そんな母親は最低だ」と。
実の子どもの前だなんて気にもせず、四条は言うだろう。
それだけ聞いたら、撫子は母を想って反発すると思う。でも、彼はこうも言うのだ。――「だからお前は怒っていい」と。
きっと彼は、撫子が怒っても、淋しがっても、悲しくって泣いたって、それが撫子の権利だと受け入れてくれる。だが、自分がいらない子だから捨てられたと、撫子が自分を傷つけようとすると、急に正論で止めてくるのだ。
「いや、捨てたのは母親なんだから、悪いのはあっちだろ」
撫子の頭に、ふてぶてしい顔で言い放つ幼い四条が浮かんだ。
ありありと思い浮かぶ光景に、撫子はおかしくって笑いだした。
自分の笑い声と一緒に、胸の内で膝を抱えていた子どもが穏やかな表情で眠りにつくような、そんな気がした。肩の荷が降りたみたいに体が軽い。
そうだなあ。四条くんがあの時にいてくれたら、違ったかもしれないね。
声を立てて笑う撫子に、四条はひどく不服そうに「本気だからな」とつけ加えた。
「お前が泣いてると苦しくてしょうがない。その相手に怒りが湧いてしょうがないんだ……子どもの頃のお前を、俺が慰めてやりたかった」
吐息まじりの告白に、撫子は胸の詰まる思いがした。
(俺だって、子どもの頃の四条くんを慰めてあげたかったよ……)
叶わないことだって分かっているけれど、そう思わずにはいられない。きっと四条も、いま撫子が感じているこのもどかしさや悔しさを抱えているんだ。
両腕を四条の首に回してそっと引き寄せた撫子は、鼻先の触れ合う距離で囁いた。
「子どもの俺じゃないと、慰めてくれない?」
一瞬、しばたたいた瞳がキラリと光る。ふっと優しく笑うと、チークキスみたいに頬を合わせて耳に息を吹き込んだ。
「そんなことあるわけないだろ」
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