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雪原の紅い風
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年の暮れ、アダムス地区は街をランタンで飾りつける。起源は定かでないが、雪が多く曇りがちなこの季節にヴィルトゥム教を象徴する藤色のランタンで明るく街を照らすことで、神の庇護のもとに一年の疲れを慰労する、というのが目的だというのが有力な説だ。ランタンは教会が管理して、毎年十二月二十日に学徒らが街中に飾りつけている。そのため、十二月中旬のこの頃は、学徒らは講義も歌唱指導もない午前中に、ランタンが壊れていないか一つずつ確認をする作業を行っていた。
その時間を利用して、レオナルドとルイは、アルバートとジークに指導を受けている。アルバートからは主に中央教会という場所や、学徒歌劇の成り立ちや仕組み、これまでの題材についてなどを、ジークからは発声や歌い方などの通常の歌唱指導に加え、歌う際の心構えや喉の調子が悪い時の対処法などを広く教わっていた。
いつもはルイが先にジークの指導、その間にレオナルドがアルバートの指導を受けて、時間が来たら交換としていたのだが、出立を五日後に控えた今日は二人揃っての指導にするようアルバートから指示があり、先にジークの歌唱指導を受けていた。
「私で力になれているかな? ルカ先生がいてくださったら、本当はもっと良かったのだけれど」
指導を終えた後、ジークは二人をアルバートの部屋まで送りながらそう切り出した。
「僕はジーク先生が好きです。感覚に頼りすぎてないから」
ルイが淡々と答える。
「だから僕は先生じゃないって。ただまあ、僕の理屈に囚われがちなところが、うまくルイに合っているのなら良かった。レオナルドは? 大丈夫?」
「はい。僕も、ジークと歌っているととても楽しいから」
「そうか。僕も懐かしくてたまらないんだ。二人とも、来たばかりの頃をよく覚えているからさ、改めて歌声を聞くと、大きくなったもんだなって感慨深くて」
レオナルドが初めて教会に来た日、誰よりも先に声をかけてくれたのがジークだった。ブルダム訛りが恥ずかしくて最低限しか話さなかったレオナルドに、懲りずに何度も話しかけて、学徒らの輪に入れてくれたのも彼だ。レオナルドが寝付けずにいることに気がついて、狭いベッドで一緒に寝てくれたこともある。レオナルドが「ルカの助手になる」という夢を抱いたとき、彼は目標とすべき姿そのものだった。
「ジークのご飯、食べられなくなるのが寂しい」
レオナルドがジークの指を握る。数年ぶりに触れた指は細く、冷たい。
ジークがガブリエル卿の助手になってから、話す機会はめっきり減ってしまっていた。他の学徒らは夕食や炊き出しの調理の際にジークと関わりがあったが、調理場に入れないレオナルドは、日々の礼拝や食事をとる時に姿を見かける程度だった。そういうものだと分かっていたから寂しさを感じたことはなかったが、こうして改めて思い返すと胸に乾いた風が吹くようだった。
「中央は物の流行が早くてね、次々に新しい料理も生まれているんだ。きっと珍しい料理が食べられるはずだから、味を覚えておいで。帰ってきたら私が真似して作ってみるから、一緒に食べよう」
宥めるジークの言葉にレオナルドは一度頷いて、それから曖昧にジークの指を握り直す。
「……あの、僕も、作ってみたい。火は、まだ、どうか分からないけど、一緒に作ってみたい。いっつも皆、楽しそうだから」
このところ、レオナルドはいつもジークに甘えていた。指導の間、ジークと様々な話をするのが楽しかった。彼の前ではどうしても、九歳頃の、まだ兄弟のような関係だった頃の自分に戻ってしまうような感覚があった。
「そうだね。料理は火を使うばかりではないしね。帰ってきたら、一緒に作ろうか」
ジークはレオナルドの手をしっかり握ると、反対の手でルイの手も握った。ルイは怪訝な顔をしながら、しかしその手を振り払うことはない。
「そうだ、アルバート先生はどう? 手紙が届いた時は、随分と動揺されていたけれど」
「まだまだ、迷っているみたいですよ。まったく、考えあぐねたってどうにもならないのに」
呆れたようにため息をついて握った手を大きく振るルイに、ジークは
「ふふふ、それはどうだろう。アルバート先生は頭の使い方がかなりお上手だから」
と笑った。
「頭の使い方?」
「そう。自分の中にどう知識を増やして、どう蓄えて、どう引き出して組み立てればいいか、自分に一番合った方法をアルバート先生はよく理解してらっしゃるんだと思う。あらゆる可能性を考えて、その上で自分の感情も疎かになさらない」
「なんだか、よく知った風な口ぶりですね?」
「お若い頃、先生は考えていることを無意識に口に出しておられることがあってね。聞き耳を立てては、恐ろしい人が居たものだと思ったものさ」
大袈裟に首をすくめるジークに、二人は「へえー」と口を開ける。
「君達の味方には凄い人がついているんだよ。悲しいことも、辛いことも、悔しいこともあるかもしれないけれど、アルバート先生は、絶対にそれだけでは終わらせないから」
ジークが握った手に力を込めるから、レオナルドはその強さに寄りかかるように心を寄せた。
「凄く信じるじゃないですか、先生のこと」
ルイが口を尖らせると、少し下を向いて「うん」と言って、それから
「信じられるだけのお姿を、私はずっと見てきたからね」
と、二人と向かい合うように振り返ると立ち止まって、腰をかがめて目線を合わせた。
「レオナルド。ルイ。くどいけれど今日も言わせて。私も、ガブリエル卿も、アルバート先生も、学徒の皆も、二人のことが大好きだよ」
ジークは指導が始まってからというもの、毎日こうして伝えてきた。
「本当にくどいですよ。毎日言うじゃないですか」
ルイが飽き飽きと顔を背けるとジークはエヘヘと鼻を掻く。
「そうだよね。でも、後ろで傘をさしてくれている人がいるって分かったら、たとえ土砂降りの雨の中でも、道の脇に咲く花を見つけられるだろう?」
ジークは二人の肩をポンと叩くと、スタスタと歩き出した。二人が小走りでその背を追いかけると、ジークは意地悪そうに笑って早歩きで逃げる。馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも二人は子どものように笑って追いかけていった。
アルバートの部屋の前につくと、三人は息を整え、上がり切った頬を揉み解してからドアをノックした。
「失礼します。二人を連れてきました」
ジークはドアを押さえるだけで部屋には入らず、二人を中へ入れる。
「ジーク、ありがとう」
アルバートが椅子から立って礼を言うと、
「それでは、私はこれで」
と、ジークは礼をしてドアを閉めた。アルバートは「こちらへ」と二人を机の前に呼ぶ。
「私が、十年前に歌劇の脚本を書いた時に使っていたものです」
そう言って、アルバートはノートを一冊ずつ二人の前に差し出した。中には、一番から六十四番まで全ての教歌の歌詞と関連する教典の節、いくつもの解釈が細かく記されている。それはレオナルドが普段つけていたノートに似ていたが、しかしそれよりも遥かに情報の質も量も上回っていた。
「この十年の間に私が見聞きした解釈も加えながら写していたら時間がかかってしまって申し訳ない。これを貴方達に」
二人が受け取ったのを見ると、アルバートは椅子に座り一枚小さな紙を取り出した。
「試験自体は歌唱のみです。一人ずつ講堂に入っていき、正面で一曲歌って寮に帰る、それだけです。曲は当日の朝に指定されますが、大抵一番か三番か。あとは、第二次試験と関連した三十七番、三十八番あたりだと思います」
アルバートはさらさらとペンを走らせる。
「私は歌唱指導はできませんが、ジークがよくやってくれているでしょう? 彼は貴方達と声の質も近いし、何より勉強熱心だから、発声や歌い方などは彼を信じていれば大丈夫です。私のこれは参考程度に。演者に選ばれれば必要になることもあるかもしれませんが、試験に際しては特に難しく考えずに、……窓を割ることだけ考えていなさい」
目を上げたアルバートはルイと目を合わせると、何かを含んだように二人で小さく笑った。
「中央教会には、ウィリアムという人間がいるはずです。彼は信用していい。何かあったら、いや、何もなくても。とにかく着いたら早いうちに彼を探しなさい」
メモを二人の前に出すと、アルバートは椅子から立ち上がる。
「それから、着いたら毎日手紙を書くように。一行でも二行でも、何十枚になったっていいから、私か、ここの教会の皆宛に。何日分か手紙が溜まったら、一つにまとめて事務に預ければ送って貰えます。事務が信用ならなかったら、ウィリアムに預けるようにしなさい」
アルバートは戸棚から分厚い便箋の束を取り出すと、机に二束ズシンと置いた。彼は立ったまま、椅子の背もたれに手をかけて二人に向き合う。真剣な眼差しに、二人は小さく息をのんだ。
「この四か月は君達にとって、濃密で、窮屈で、様々なことを考える期間になると思います。面倒ごとに首を突っ込んでいったり、方々に手を出してみたりなんてしなくていいです。経験なんてものは、息をしているだけでついてきますから。君達は与えられた役割を、背伸びせず、自分に出来る分だけの力量で、着実に全うしなさい」
一言一言、ようく言い聞かせるように丁寧に渡される言葉は、無理に受け取ろうとしなくても耳から喉を通って体中にしみていく。
「そして必ず、私たちのもとへ帰ってくること。いいですね」
アルバートの黒の深い瞳にルイは「はい」と小さく頷いて答えたが、レオナルドはどうしてか鼻の奥がツンと痛くて、口を開いたら泣いてしまいそうで、首を深く縦に振ることしかできなかった。
アルバートは二人の様子に、それでいいと言うように頷いて表情を少し柔らかくした。
「そこに、かけなさい。これから話すのはウィリアム教に属する人間としてではなく、君達を数年見てきた大人としての私の意見です」
アルバートがベッドを指差すので二人が並んで腰かけると、彼は向かい合わせになるように椅子を持ってきて座った。
「今の中央教会は、君達にとって居心地の良い場所ではないと思う。何故君達が合格したのか、そこにどのような思惑があるのか、正直私には分からない。君達がどう考えているかは知らないが、私は、君達のどちらも演者に選ばれなければ良いと思ってる」
膝に手を置いて話すアルバートの姿勢がまるでうなだれるようで、レオナルドも思わず床に目を落とした。
「演者に選ばれたら中央教会の人間から反感を集めることは容易に想像できる。それならば制作班に回った方が余程良い。一番悪いのは二人が離れることだ。どちらかが演者、どちらかが制作なんてことになったら……」
アルバートは両手でゆっくりと口を覆う。人差し指が眼鏡のふちに触れてわずかに持ち上がる。
「私は、君達を行かせたくない」
眉根を寄せて溢した声は小さく、だから胸がキリキリと痛かった。アルバートに伸ばすには少し遠くて、ルイの握りしめた手にレオナルドは手を重ねた。
三人が三人ともそれぞれに俯いていた。心にも頭にも言葉なんて浮かばなくて、三度目に風が窓を叩いてようやく、アルバートが体を起こした。
「今の中央教会が、何もかも悪だとは言わない。ただ、彼らが『己が為に生きる』という我々の大切にする言葉の意味を履き違えているのが問題なんだ」
悔しそうに言うアルバートは、しかし、もう背を丸めない。
「人はそれぞれ価値観が少しずつ違う。その中で私達は、仲間意識を持ったり、差別意識を持ったりする。それは、起こり得て当然のことだ」
二人の目を交互に見ながらアルバートは諭す。
「中には、自分とは違うと感じた人間を攻撃するような人もいる。言葉で、力で、傷つけられることもあるかもしれない。そういう人とは心の内で距離をとって、決して真正面から向き合ってはいけないよ」
そう言って、アルバートはルイの手を取って目を合わせた。
「ルイは好戦的だから、売られた喧嘩は買わなくちゃ気が済まないかもしれないけれど、喧嘩をしては駄目だよ。君が立つべきは、彼らと同じ土俵じゃないんだからね」
ルイは口を尖らせて、頷かない。それでもアルバートは優しく微笑するだけで、次に、同じようにレオナルドの手を取って目を合わせた。
「レオナルドは優しいから、全ての言葉を受け入れようとするかもしれない。だけど、それも駄目だよ。いくら彼らが悲しい人だからって、同情も憐れみも持ってはいけない。君や、君の大切な人を傷つけるような相手を、愛する必要なんてないんだ」
出来るかどうか自信がなくて、だけど努力はしたくて、レオナルドはねじ巻き人形のようにぎこちなく頷く。それに応えるようにアルバートが頷いてくれたから、レオナルドは褒められたように感じて、はにかみながらもう一度頷いた。
アルバートは二人の手を真ん中に寄せると、その上から包み込むように手を重ねる。瞼を一度閉じて、そして開けた彼の目が優しさに溢れて厳しくて、二人はその目から視線を逸らせない。
「君達は君達自身を愛するんだ。向けられた悪意は打ち返さずに、そっとその場に置いておけばいい。傷ついたら、抱え込まないですぐに吐き出しなさい。お互いに愚痴るのでもいいし、紙に殴り書くのでもいいから。君達は、君達のために、間違った道を選ぶな」
強い言葉尻に、二人の足が思わずひくつく。
「いつだって、自分を誇れるように生きなさい。そうすれば、幸福の傍らで生きていけるから」
アルバートはそう言って手を離す。手の甲に残る温もりに、静謐なまじないがかかったようだった。
「どんな理由があったって、暴力をふるったり、暴言を吐いたり、見下したり、差別したりした態度を取ってはいけない。そんなことは何の解決にもならないし、自分を貶めるだけだ。どんな感情も自分の心から少しでも外に出してしまえば、もう無かったことにできない。後悔も罪悪感も死ぬまで消えることはないんだ。そんな思いを抱えたまま、誇りを持つことも、自分を心から愛することも出来ないだろう? 『己が為に生きる』というのは、そういうことだよ」
他者を憎いと思う自分を受け入れる苦しみに、レオナルドは覚えがあった。それは、夢が潰えたあの日から二ヶ月ばかりが経とうとしている今でもそうだ。ふとした時に、「ずるい」と、「羨ましい」と、「妬ましい」と、醜い感情が心に渦を巻く。そんな自分を自覚する度に悲しくなる。愚かな感情を受け入れるのは難しくて、しかし、苦しみながら「そう思っていてもいいんだ」と何度も何度も自分に言い聞かせれば、やがて心は波が引くように穏やかになる。
自分を受け入れることは苦しい。しかし、それでも誰も傷つけずに居られることは、確かな救いになる。浅ましい感情に任せて愚かな行動をとってしまわなければ、自分の誇りは守られるから。誇りは支えだ。心に僅かな余裕を作ってくれる。そうすれば、息をするのも少し苦しくなくなる。
「悪意を持ってしまうことは仕方のないことだよ。そういう自分を責める必要はない。だけど、それを心から出して相手に向けるのは、絶対に正しくない。分かってくれるね」
アルバートの言葉にレオナルドは頷いたが、ルイは鋭い目で
「泣き寝入りしろ、ってことですか」
と刺々しく返した。
「違う。泣きながら、それでも誇りを持って待つんだ」
「何を」
「機を。君達が受けた仕打ちを、君達が無かったことにしなければ、救われる時は来る」
「本当に来るの。いつ。僕は短気だ。そんなに長くは待てない」
「いつとは言えない。こればかりは巡りあわせだから。それでも、必ず来る」
「どうしてそう言い切れるの」
「考えていることがある。としか、今は言えない」
肝心な事を言わないアルバートにルイは苛立ちを隠さず、しかしアルバートもレオナルドも黙っていると、次第に表情から険しさが抜けていった。「はぁ……」とため息をついて、ルイは足を組む。
「僕が何かすることで先生が考えていることが実現に近づいて、ただ待つだけの日々を少しでも早く終わらせられるなら、僕は喜んで手を貸しますけど」
ルイの言葉にアルバートは頼もしそうに口角を上げて頷いて、それから摯実な目を向けた。
「もしも何かあったら、できるだけ詳細に記録を残してほしい。日時、状況、その場にいた者の名前、どんな言葉、行動を何度ぶつけられたか」
「証拠にするわけだ」
「ああ。それから、中央教会以外の人間が君達二人だけということは考えづらい。他にもいるだろうから、彼らにも協力を仰げると嬉しい。……もちろん、その人となりを見極めてからだけど」
「分かった」
ルイが頷くのを確認すると、アルバートはレオナルドにも目を向けた。
「レオナルド。無理にとは言わないが、君にも記録を残してもらいたい。詳細に書けば書くだけ、どちらに非があるか一目で見て分かるようになる。書くことで傷ついた自分をきちんと自覚して、その上で自分は間違っていないと思えれば、君の心にも少し余裕が生まれるはずだ」
レオナルドがゆっくりと頷くと、
「いいかい。何もなければそれに越したことはないんだ。わざと火種を作るようなことは絶対にしないと約束して」
と、アルバートは小指を立てて二人の前に出した。二人それぞれに指を切ると、アルバートは「いい子だ」と低く慈愛に満ちた声で二人を褒める。
なんとなく、堪らなくなってレオナルドはアルバートに抱きついた。寂しいわけでも嬉しいわけでもなく、言葉が見つからない感情が、アルバートの温もりと混ざって溶けていく。アルバートはレオナルドの腰を自分の右腿に乗せると、ルイに向かって左腕を広げた。
「ルイも、おいで」
「嫌ですよ、なんでそんな。僕、レオナルドみたいに可愛くないし」
つっけんどんな態度を取るルイに、アルバートはもう一度
「おいで」
と穏やかに声をかける。ルイはそっぽを向いたまま、しかしやがて左の腕をおずおずと伸ばした。アルバートはその手を取るとスッとルイの体を引き寄せて左腿に乗せる。
「重たくないの」
「重たいのが良いんだ。君達がここにいるって分かるから」
ルイは「ふーん」と気のない返事をして、それからギュッと胸に胸を押しつけた。
誰かの脈を打つ音が聞こえる。言いようのない不安と、自分達を信じたい気持ちがまぜこぜになって、泣いてしまいそうになるのを三人とも堪えていた。苦しくて、苦しくて、苦しくて温かい。風が窓を打つ音は、もう誰にも聞こえなかった。
その時間を利用して、レオナルドとルイは、アルバートとジークに指導を受けている。アルバートからは主に中央教会という場所や、学徒歌劇の成り立ちや仕組み、これまでの題材についてなどを、ジークからは発声や歌い方などの通常の歌唱指導に加え、歌う際の心構えや喉の調子が悪い時の対処法などを広く教わっていた。
いつもはルイが先にジークの指導、その間にレオナルドがアルバートの指導を受けて、時間が来たら交換としていたのだが、出立を五日後に控えた今日は二人揃っての指導にするようアルバートから指示があり、先にジークの歌唱指導を受けていた。
「私で力になれているかな? ルカ先生がいてくださったら、本当はもっと良かったのだけれど」
指導を終えた後、ジークは二人をアルバートの部屋まで送りながらそう切り出した。
「僕はジーク先生が好きです。感覚に頼りすぎてないから」
ルイが淡々と答える。
「だから僕は先生じゃないって。ただまあ、僕の理屈に囚われがちなところが、うまくルイに合っているのなら良かった。レオナルドは? 大丈夫?」
「はい。僕も、ジークと歌っているととても楽しいから」
「そうか。僕も懐かしくてたまらないんだ。二人とも、来たばかりの頃をよく覚えているからさ、改めて歌声を聞くと、大きくなったもんだなって感慨深くて」
レオナルドが初めて教会に来た日、誰よりも先に声をかけてくれたのがジークだった。ブルダム訛りが恥ずかしくて最低限しか話さなかったレオナルドに、懲りずに何度も話しかけて、学徒らの輪に入れてくれたのも彼だ。レオナルドが寝付けずにいることに気がついて、狭いベッドで一緒に寝てくれたこともある。レオナルドが「ルカの助手になる」という夢を抱いたとき、彼は目標とすべき姿そのものだった。
「ジークのご飯、食べられなくなるのが寂しい」
レオナルドがジークの指を握る。数年ぶりに触れた指は細く、冷たい。
ジークがガブリエル卿の助手になってから、話す機会はめっきり減ってしまっていた。他の学徒らは夕食や炊き出しの調理の際にジークと関わりがあったが、調理場に入れないレオナルドは、日々の礼拝や食事をとる時に姿を見かける程度だった。そういうものだと分かっていたから寂しさを感じたことはなかったが、こうして改めて思い返すと胸に乾いた風が吹くようだった。
「中央は物の流行が早くてね、次々に新しい料理も生まれているんだ。きっと珍しい料理が食べられるはずだから、味を覚えておいで。帰ってきたら私が真似して作ってみるから、一緒に食べよう」
宥めるジークの言葉にレオナルドは一度頷いて、それから曖昧にジークの指を握り直す。
「……あの、僕も、作ってみたい。火は、まだ、どうか分からないけど、一緒に作ってみたい。いっつも皆、楽しそうだから」
このところ、レオナルドはいつもジークに甘えていた。指導の間、ジークと様々な話をするのが楽しかった。彼の前ではどうしても、九歳頃の、まだ兄弟のような関係だった頃の自分に戻ってしまうような感覚があった。
「そうだね。料理は火を使うばかりではないしね。帰ってきたら、一緒に作ろうか」
ジークはレオナルドの手をしっかり握ると、反対の手でルイの手も握った。ルイは怪訝な顔をしながら、しかしその手を振り払うことはない。
「そうだ、アルバート先生はどう? 手紙が届いた時は、随分と動揺されていたけれど」
「まだまだ、迷っているみたいですよ。まったく、考えあぐねたってどうにもならないのに」
呆れたようにため息をついて握った手を大きく振るルイに、ジークは
「ふふふ、それはどうだろう。アルバート先生は頭の使い方がかなりお上手だから」
と笑った。
「頭の使い方?」
「そう。自分の中にどう知識を増やして、どう蓄えて、どう引き出して組み立てればいいか、自分に一番合った方法をアルバート先生はよく理解してらっしゃるんだと思う。あらゆる可能性を考えて、その上で自分の感情も疎かになさらない」
「なんだか、よく知った風な口ぶりですね?」
「お若い頃、先生は考えていることを無意識に口に出しておられることがあってね。聞き耳を立てては、恐ろしい人が居たものだと思ったものさ」
大袈裟に首をすくめるジークに、二人は「へえー」と口を開ける。
「君達の味方には凄い人がついているんだよ。悲しいことも、辛いことも、悔しいこともあるかもしれないけれど、アルバート先生は、絶対にそれだけでは終わらせないから」
ジークが握った手に力を込めるから、レオナルドはその強さに寄りかかるように心を寄せた。
「凄く信じるじゃないですか、先生のこと」
ルイが口を尖らせると、少し下を向いて「うん」と言って、それから
「信じられるだけのお姿を、私はずっと見てきたからね」
と、二人と向かい合うように振り返ると立ち止まって、腰をかがめて目線を合わせた。
「レオナルド。ルイ。くどいけれど今日も言わせて。私も、ガブリエル卿も、アルバート先生も、学徒の皆も、二人のことが大好きだよ」
ジークは指導が始まってからというもの、毎日こうして伝えてきた。
「本当にくどいですよ。毎日言うじゃないですか」
ルイが飽き飽きと顔を背けるとジークはエヘヘと鼻を掻く。
「そうだよね。でも、後ろで傘をさしてくれている人がいるって分かったら、たとえ土砂降りの雨の中でも、道の脇に咲く花を見つけられるだろう?」
ジークは二人の肩をポンと叩くと、スタスタと歩き出した。二人が小走りでその背を追いかけると、ジークは意地悪そうに笑って早歩きで逃げる。馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも二人は子どものように笑って追いかけていった。
アルバートの部屋の前につくと、三人は息を整え、上がり切った頬を揉み解してからドアをノックした。
「失礼します。二人を連れてきました」
ジークはドアを押さえるだけで部屋には入らず、二人を中へ入れる。
「ジーク、ありがとう」
アルバートが椅子から立って礼を言うと、
「それでは、私はこれで」
と、ジークは礼をしてドアを閉めた。アルバートは「こちらへ」と二人を机の前に呼ぶ。
「私が、十年前に歌劇の脚本を書いた時に使っていたものです」
そう言って、アルバートはノートを一冊ずつ二人の前に差し出した。中には、一番から六十四番まで全ての教歌の歌詞と関連する教典の節、いくつもの解釈が細かく記されている。それはレオナルドが普段つけていたノートに似ていたが、しかしそれよりも遥かに情報の質も量も上回っていた。
「この十年の間に私が見聞きした解釈も加えながら写していたら時間がかかってしまって申し訳ない。これを貴方達に」
二人が受け取ったのを見ると、アルバートは椅子に座り一枚小さな紙を取り出した。
「試験自体は歌唱のみです。一人ずつ講堂に入っていき、正面で一曲歌って寮に帰る、それだけです。曲は当日の朝に指定されますが、大抵一番か三番か。あとは、第二次試験と関連した三十七番、三十八番あたりだと思います」
アルバートはさらさらとペンを走らせる。
「私は歌唱指導はできませんが、ジークがよくやってくれているでしょう? 彼は貴方達と声の質も近いし、何より勉強熱心だから、発声や歌い方などは彼を信じていれば大丈夫です。私のこれは参考程度に。演者に選ばれれば必要になることもあるかもしれませんが、試験に際しては特に難しく考えずに、……窓を割ることだけ考えていなさい」
目を上げたアルバートはルイと目を合わせると、何かを含んだように二人で小さく笑った。
「中央教会には、ウィリアムという人間がいるはずです。彼は信用していい。何かあったら、いや、何もなくても。とにかく着いたら早いうちに彼を探しなさい」
メモを二人の前に出すと、アルバートは椅子から立ち上がる。
「それから、着いたら毎日手紙を書くように。一行でも二行でも、何十枚になったっていいから、私か、ここの教会の皆宛に。何日分か手紙が溜まったら、一つにまとめて事務に預ければ送って貰えます。事務が信用ならなかったら、ウィリアムに預けるようにしなさい」
アルバートは戸棚から分厚い便箋の束を取り出すと、机に二束ズシンと置いた。彼は立ったまま、椅子の背もたれに手をかけて二人に向き合う。真剣な眼差しに、二人は小さく息をのんだ。
「この四か月は君達にとって、濃密で、窮屈で、様々なことを考える期間になると思います。面倒ごとに首を突っ込んでいったり、方々に手を出してみたりなんてしなくていいです。経験なんてものは、息をしているだけでついてきますから。君達は与えられた役割を、背伸びせず、自分に出来る分だけの力量で、着実に全うしなさい」
一言一言、ようく言い聞かせるように丁寧に渡される言葉は、無理に受け取ろうとしなくても耳から喉を通って体中にしみていく。
「そして必ず、私たちのもとへ帰ってくること。いいですね」
アルバートの黒の深い瞳にルイは「はい」と小さく頷いて答えたが、レオナルドはどうしてか鼻の奥がツンと痛くて、口を開いたら泣いてしまいそうで、首を深く縦に振ることしかできなかった。
アルバートは二人の様子に、それでいいと言うように頷いて表情を少し柔らかくした。
「そこに、かけなさい。これから話すのはウィリアム教に属する人間としてではなく、君達を数年見てきた大人としての私の意見です」
アルバートがベッドを指差すので二人が並んで腰かけると、彼は向かい合わせになるように椅子を持ってきて座った。
「今の中央教会は、君達にとって居心地の良い場所ではないと思う。何故君達が合格したのか、そこにどのような思惑があるのか、正直私には分からない。君達がどう考えているかは知らないが、私は、君達のどちらも演者に選ばれなければ良いと思ってる」
膝に手を置いて話すアルバートの姿勢がまるでうなだれるようで、レオナルドも思わず床に目を落とした。
「演者に選ばれたら中央教会の人間から反感を集めることは容易に想像できる。それならば制作班に回った方が余程良い。一番悪いのは二人が離れることだ。どちらかが演者、どちらかが制作なんてことになったら……」
アルバートは両手でゆっくりと口を覆う。人差し指が眼鏡のふちに触れてわずかに持ち上がる。
「私は、君達を行かせたくない」
眉根を寄せて溢した声は小さく、だから胸がキリキリと痛かった。アルバートに伸ばすには少し遠くて、ルイの握りしめた手にレオナルドは手を重ねた。
三人が三人ともそれぞれに俯いていた。心にも頭にも言葉なんて浮かばなくて、三度目に風が窓を叩いてようやく、アルバートが体を起こした。
「今の中央教会が、何もかも悪だとは言わない。ただ、彼らが『己が為に生きる』という我々の大切にする言葉の意味を履き違えているのが問題なんだ」
悔しそうに言うアルバートは、しかし、もう背を丸めない。
「人はそれぞれ価値観が少しずつ違う。その中で私達は、仲間意識を持ったり、差別意識を持ったりする。それは、起こり得て当然のことだ」
二人の目を交互に見ながらアルバートは諭す。
「中には、自分とは違うと感じた人間を攻撃するような人もいる。言葉で、力で、傷つけられることもあるかもしれない。そういう人とは心の内で距離をとって、決して真正面から向き合ってはいけないよ」
そう言って、アルバートはルイの手を取って目を合わせた。
「ルイは好戦的だから、売られた喧嘩は買わなくちゃ気が済まないかもしれないけれど、喧嘩をしては駄目だよ。君が立つべきは、彼らと同じ土俵じゃないんだからね」
ルイは口を尖らせて、頷かない。それでもアルバートは優しく微笑するだけで、次に、同じようにレオナルドの手を取って目を合わせた。
「レオナルドは優しいから、全ての言葉を受け入れようとするかもしれない。だけど、それも駄目だよ。いくら彼らが悲しい人だからって、同情も憐れみも持ってはいけない。君や、君の大切な人を傷つけるような相手を、愛する必要なんてないんだ」
出来るかどうか自信がなくて、だけど努力はしたくて、レオナルドはねじ巻き人形のようにぎこちなく頷く。それに応えるようにアルバートが頷いてくれたから、レオナルドは褒められたように感じて、はにかみながらもう一度頷いた。
アルバートは二人の手を真ん中に寄せると、その上から包み込むように手を重ねる。瞼を一度閉じて、そして開けた彼の目が優しさに溢れて厳しくて、二人はその目から視線を逸らせない。
「君達は君達自身を愛するんだ。向けられた悪意は打ち返さずに、そっとその場に置いておけばいい。傷ついたら、抱え込まないですぐに吐き出しなさい。お互いに愚痴るのでもいいし、紙に殴り書くのでもいいから。君達は、君達のために、間違った道を選ぶな」
強い言葉尻に、二人の足が思わずひくつく。
「いつだって、自分を誇れるように生きなさい。そうすれば、幸福の傍らで生きていけるから」
アルバートはそう言って手を離す。手の甲に残る温もりに、静謐なまじないがかかったようだった。
「どんな理由があったって、暴力をふるったり、暴言を吐いたり、見下したり、差別したりした態度を取ってはいけない。そんなことは何の解決にもならないし、自分を貶めるだけだ。どんな感情も自分の心から少しでも外に出してしまえば、もう無かったことにできない。後悔も罪悪感も死ぬまで消えることはないんだ。そんな思いを抱えたまま、誇りを持つことも、自分を心から愛することも出来ないだろう? 『己が為に生きる』というのは、そういうことだよ」
他者を憎いと思う自分を受け入れる苦しみに、レオナルドは覚えがあった。それは、夢が潰えたあの日から二ヶ月ばかりが経とうとしている今でもそうだ。ふとした時に、「ずるい」と、「羨ましい」と、「妬ましい」と、醜い感情が心に渦を巻く。そんな自分を自覚する度に悲しくなる。愚かな感情を受け入れるのは難しくて、しかし、苦しみながら「そう思っていてもいいんだ」と何度も何度も自分に言い聞かせれば、やがて心は波が引くように穏やかになる。
自分を受け入れることは苦しい。しかし、それでも誰も傷つけずに居られることは、確かな救いになる。浅ましい感情に任せて愚かな行動をとってしまわなければ、自分の誇りは守られるから。誇りは支えだ。心に僅かな余裕を作ってくれる。そうすれば、息をするのも少し苦しくなくなる。
「悪意を持ってしまうことは仕方のないことだよ。そういう自分を責める必要はない。だけど、それを心から出して相手に向けるのは、絶対に正しくない。分かってくれるね」
アルバートの言葉にレオナルドは頷いたが、ルイは鋭い目で
「泣き寝入りしろ、ってことですか」
と刺々しく返した。
「違う。泣きながら、それでも誇りを持って待つんだ」
「何を」
「機を。君達が受けた仕打ちを、君達が無かったことにしなければ、救われる時は来る」
「本当に来るの。いつ。僕は短気だ。そんなに長くは待てない」
「いつとは言えない。こればかりは巡りあわせだから。それでも、必ず来る」
「どうしてそう言い切れるの」
「考えていることがある。としか、今は言えない」
肝心な事を言わないアルバートにルイは苛立ちを隠さず、しかしアルバートもレオナルドも黙っていると、次第に表情から険しさが抜けていった。「はぁ……」とため息をついて、ルイは足を組む。
「僕が何かすることで先生が考えていることが実現に近づいて、ただ待つだけの日々を少しでも早く終わらせられるなら、僕は喜んで手を貸しますけど」
ルイの言葉にアルバートは頼もしそうに口角を上げて頷いて、それから摯実な目を向けた。
「もしも何かあったら、できるだけ詳細に記録を残してほしい。日時、状況、その場にいた者の名前、どんな言葉、行動を何度ぶつけられたか」
「証拠にするわけだ」
「ああ。それから、中央教会以外の人間が君達二人だけということは考えづらい。他にもいるだろうから、彼らにも協力を仰げると嬉しい。……もちろん、その人となりを見極めてからだけど」
「分かった」
ルイが頷くのを確認すると、アルバートはレオナルドにも目を向けた。
「レオナルド。無理にとは言わないが、君にも記録を残してもらいたい。詳細に書けば書くだけ、どちらに非があるか一目で見て分かるようになる。書くことで傷ついた自分をきちんと自覚して、その上で自分は間違っていないと思えれば、君の心にも少し余裕が生まれるはずだ」
レオナルドがゆっくりと頷くと、
「いいかい。何もなければそれに越したことはないんだ。わざと火種を作るようなことは絶対にしないと約束して」
と、アルバートは小指を立てて二人の前に出した。二人それぞれに指を切ると、アルバートは「いい子だ」と低く慈愛に満ちた声で二人を褒める。
なんとなく、堪らなくなってレオナルドはアルバートに抱きついた。寂しいわけでも嬉しいわけでもなく、言葉が見つからない感情が、アルバートの温もりと混ざって溶けていく。アルバートはレオナルドの腰を自分の右腿に乗せると、ルイに向かって左腕を広げた。
「ルイも、おいで」
「嫌ですよ、なんでそんな。僕、レオナルドみたいに可愛くないし」
つっけんどんな態度を取るルイに、アルバートはもう一度
「おいで」
と穏やかに声をかける。ルイはそっぽを向いたまま、しかしやがて左の腕をおずおずと伸ばした。アルバートはその手を取るとスッとルイの体を引き寄せて左腿に乗せる。
「重たくないの」
「重たいのが良いんだ。君達がここにいるって分かるから」
ルイは「ふーん」と気のない返事をして、それからギュッと胸に胸を押しつけた。
誰かの脈を打つ音が聞こえる。言いようのない不安と、自分達を信じたい気持ちがまぜこぜになって、泣いてしまいそうになるのを三人とも堪えていた。苦しくて、苦しくて、苦しくて温かい。風が窓を打つ音は、もう誰にも聞こえなかった。
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