雨は藤色の歌

園下三雲

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雪原の紅い風

27.

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「人が多いねぇ」
「そうだね。晴れていたらもっとかと思うとゾッとするね」
「ふふ、今日が雨で良かったのかもね」

 突き当りを曲がってもアダムスの休日のような人の多さに、レオナルドとルイは手を繋いだ。道の真ん中を歩く勇気は二人には無く、かといって道の端を歩けば店の前に並ぶ何かを壊してしまいそうで、どうにも中途半端な場所を二人は小さくなって歩いていく。道を行く人が誰もやけに大きく見えて、すれ違うたびに心がしぼんでいく心地だった。

「レオナルド。僕、喉渇いた」

 遠目に本屋と薬屋の看板が見えてきたところで、ルイはふとレオナルドの手を引いた。じっと目を見つめるルイにレオナルドは何か思い当たって、顔をほころばせる。

「買っていく? ジークのおすすめ!」
「察しが良くて助かるよ。多分、あそこじゃないかと思うんだ」

 ルイは目的の屋台までズンズンと進んでいくと、
「チョコレート二つください」
と、慣れたように注文し、代金を支払う。

「熱いから気をつけな」
「ありがとう」

 カップに注がれたチョコレートから湯気が立っている。二人は雨が入らないように手でカップに蓋をした。

「ちょうど空いてる。そこで飲んでいこう」

 屋台の脇には傘のついた丸い小さな机と椅子がいくつかあり、屋台から一番離れた傘に二人は入る。他人との距離が確保されたからか随分と傘の中は落ち着いた。他の客の話し声は微かに聞こえてくる程度で、それも傘を打つ雨音で気にならない。

 どちらともなく二人で目を合わせると、カップを少し持ち上げて、それから口をつける。

「美味しい!」
「甘いね。美味しい。僕はもう少し苦くてもいいかも」

 ジークは二人が旅立つ前にいくつか中央教会の近くの美味しい店を教えてくれていて、このチョコレートの屋台はそのうちの一つだ。豆や温度、カップの材質まで店主がこだわって売っているので、他の店よりも値段は高いが味は格別なのだという。

 熱いのでゴクゴクとは飲めなかったが、二人はチビチビとチョコレートを飲んでは幸せそうな顔を浮かべている。特に何も話さなかったが、二人は美味しいという感情を共有して、安心した穏やかな時間を過ごしていた。

「あのさ。ちょっと、僕の昔の話を聞いてもらってもいい?」

 半分ほど飲み進めた辺りでルイは口を開いた。レオナルドは「うん」と頷いて座り直す。

「いいよ、そんな改まらなくても」
とルイが笑うので、レオナルドも照れたように笑った。

「僕とノアはさ、アダムスに来る前、ニーゲルにいたんだ。分かる? 北東の外れの田舎町」
「一年の半分が冬だっていう山岳地帯?」
「そう。ニーゲル自体は何十年も前から国の中にあったんだけど、山の高い場所で暮らしてた先住民が町に下りてきたのはほんの十五年前なんだ。僕の父とノアの父は、先住民の中でリーダーのような役割をしててね、何の因果か僕とノアは生まれた日も近かったから、ほとんど兄弟みたいにずっと一緒にいた」

 懐かしむルイの顔が今まで自分の知っている彼の顔と少し違うように見えて、レオナルドはもう一度座り直した。

「四歳くらいから教会に遊びに行くようになってね。じいちゃん、って呼んでたから名前は分からないんだけど、おっとりしたその人がお菓子用意してくれてたからさ、それ目当てに行ってたんだ」

 ルイは言いながら苦笑いを浮かべる。

「じいちゃんは色んな本を読み聞かせてくれたり、文字を教えてくれたりした。僕たちも先住民に伝わるお伽噺なんかをじいちゃんに話して聞かせて、じいちゃんがそれを本にしてくれることもあったな。ほら、先住民は文字を使ってなかったからさ、もちろん本も無くて」

 ルイのその記憶が美しいものだということがレオナルドにはハッキリと伝わってきて、心がポッと温かくなる。教会の書庫でよく顔を合わせるのがルイやノアだったことを思い返し、「じいちゃん」という人とのその経験が一つのきっかけでもあったのだろうと感じた。

「まあ、そんなこんなで楽しくやってたんだ。時折、旅の人が教会に泊まることもあって、その人達も面白い話をよく聞かせてくれた。今思えばあの人達も藤色のローブを着てたから、視察か何かで来てたヴィルトゥム教の人だったんだろうね」

 ルイがチョコレートを飲んだのに合わせて、レオナルドも一口飲む。なんとなく飲むタイミングがつかめずにいたチョコレートは丁度良いぐらいに冷まって、ゴクリと大目に飲み込むと喉が少しザラッとした。

「六歳になるかならないかの春だったと思う。じいちゃんが体調を崩しがちになって、中央から教師が派遣されてきたんだ。じいちゃんとも、旅しに来る人ともまるで違う、忌々しい奴だったよ」

 言葉は鋭く棘だらけなのに、ルイの表情が歪むことはない。だからこそ、レオナルドの胸は不安にざわめいた。

「最初の一ヶ月はすごい良い奴だと思ったんだ。若いから一緒に鬼ごっこしてくれたし」

 悲しみとも憎しみとも、呆れとも諦めとも違う、ルイから伝わってくる感情の名前をレオナルドは知らなかった。ただ深く傷ついているのだけは如実に分かって、しかしどうしたらいいのか分からなくてレオナルドはカップを握る手に少し力が入った。

「じいちゃんが教会の仕事が出来なくなってから、そいつの化けの皮はどんどん剥がれてきた。機嫌の良い日は気持ち悪いくらい笑顔振り撒いてお菓子も飲み物も余るだけくれるけど、機嫌の悪い日はすぐ怒鳴り散らしてさ。旅の人が来てる時は異様に愛想よく振る舞ってたけど」

 ルイはグッとチョコレートを飲み干した。

「教会には皆、だんだん寄りつかなくなった。僕とノアも教会は楽しい場所じゃなくなって行くのをやめてた時期もあったんだけどさ。面白い本がいっぱいあるのは教会だったし、じいちゃんの様子も心配でさ、結局通ってたんだ」

 そこまで言って、ルイはやっと視線を落とす。表情が陰った。雨が傘を打つ音が大きくなる。

「なんてことない日だったと思う。そいつの機嫌がすこぶる悪かったってこと以外は。きっかけは何だったか覚えてないんだ。ただ、じいちゃんを見舞った帰りにそいつにばったり会って、何か話して、そしたらいきなりそいつが激高して」

 ルイの手に力が入る。彼の体の強ばりにはレオナルドも覚えがあった。

「ノアが、胸倉掴まれて、壁に叩きつけられて。ノア、動かなくなって。あいつの目が僕に向かって、キッと睨まれて、僕こわくて動けなくて。だけど、ノアを傷つけられたのが許せなくて、何か文句を言ったんだ。そしたら殴られて、だけど僕だって引けなくて、それでもう一回殴られて」

 ルイの息が上がる。レオナルドはカップを机に置いて、ルイの手にそっと手を重ねた。

「頭がグラグラして、そろそろ危ないかなって思った時、教会のドアが開いて声がした。旅の人が訪ねて来たんだ。あいつは僕を離して入口に向かっていった。僕は、多分、安心したのかな、旅の人がいる間は乱暴されないから。その場で気を失ったんだ」

 ルイの口調はすぐに落ち着いて、それから、なんてこと無いような表情で
「ね、その旅の人って、誰だと思う?」
と、レオナルドに問い掛けた。

「僕が知ってる人?」
「じゃなきゃ訊かないよ」
「そうだよね。……それが、ルイとノアがアダムスへ来た時の話なら、五年前のことだよね。あの時は確かルカ先生とアルバート先生が別々に研修に行かれて、なのに一緒に帰っていらして、二人を連れてきたんだよね」
「そう。どっちでしょう」
「なんとなく、ルイとノアの態度から見て、アルバート先生っぽい気がするんだけど、どうだろう?」
「ふふ、正解。後から聞いたら、教会の外の道まで僕らの声が聞こえてて、急いで教会のドアを開けたんだって」

 可笑しそうにルイが笑う。その意味がいまいち分からなくて、レオナルドは眉頭を少し上げた。

「あいつは倒れてる僕らのこと、お互いに喧嘩したんだってアルバート先生に説明したらしいけど、すぐに嘘だって分かったって。僕らの手当も結局アルバート先生がしてくれたらしい。目が覚めてから話を聞かれてさ、黙ってる筋合いもないから今までのこと全部話したんだ。そしたらすぐに町の大人を数人教会に集めて、何か話し合って、その日のうちに中央に手紙を出してた」

 ルイは、もう入っていないカップを仰いでズズッと啜る。

「僕らのケガが治って、中央から手紙が返ってきて、あいつが居なくなって、それからもアルバート先生はニーゲルの教会にいてくれた。じいちゃんは随分憔悴して病気が余計悪化しちゃってさ、だけど僕とノアとアルバート先生とで部屋に見舞いに行くと前みたいに色々話してくれた。だから僕らも町中駆け回って面白い話を見つけてきては話してたんだ」

 五年前といえばルイとノアはまだ七歳位だろう。どんな気持ちで過ごしていたのだろうかと想像して、しかしレオナルドには霞さえ掴めない。

「二週間もしないでじいちゃんは死んじゃったけどさ、どうも寝ながら旅立ったみたいなんだ。いつも見てた穏やかな顔でいたからさ、本当に死んだのかなって感じもしたくらい。葬儀だとかなんだとか、諸々の儀式は全部アルバート先生が取り仕切ってやってくれた」

 雨が小降りになって、ルイの声がよく聞こえてくる。

「何日か後には隣町の教会から二人、中央教会から一人、先生が来た。あいつとは違う、どこかじいちゃんを思い出させるような穏やかな顔の人たちだったよ。だけど、僕らはどうしても怖かった。アルバート先生には何度も話を聞いてもらってたし、あいつと新しく来た三人が同じだなんて思わなかったけど、それでも怖かった。教会は大好きなのに、怖くて怖くて仕方なかった」

 ルイの自分を嘲るような表情に、レオナルドは重ねた手に力を込めた。「その気持ち、ちゃんと分かるよ」と言葉にしなくても伝わってほしいと願った。

「アルバート先生がニーゲルに来てから一か月以上が経って、先生もそろそろ帰らなきゃならなくて、そしたら先生が言ったんだ。私と一緒にアダムスに来るか、って」

 アルバートのその申し出は、自分にとってのあの日のルカのようなものだろうかとレオナルドは感じた。レオナルドにとってルカが未来を示す光だったように、ルイとノアにとってはアルバートが道を示す光だったのだろう。

「正直家族はあんまりいい顔しなかったよ。だけどノアと頑張って説得してさ、先生になってニーゲルに戻ってくる、って約束して、アルバート先生と三人で町を出たんだ。で、その帰り道にばったりルカ先生と会って、一緒にアダムス教会に向かったってわけ」

 ルイはそう言うと、重なった手を返して、レオナルドの手を優しく握った。

「まあ、何が言いたいかというとね、僕とノアは中央教会の人間を全くもって信用してないってことなんだよ。全員が全員あいつみたいなやつだとは思わないけどさ、やっぱり中央教会の人間ってだけで嫌な感情はどうしても浮かぶんだ。ノアは第一次試験の時から手を抜いて絶対に合格しないようにしてたくらいだしね」
「そうだったの?」
「そうだよ。まあ、手抜きがばれてアルバート先生には課題を出されたみたいだけどね」
「知らなかった」

 目を丸くするレオナルドに、「誰にも言ってないもん」とルイは笑う。

「僕は九十六点を取ってしまったわけだけど、別に中央教会に乗り込んでやろうと思って猛勉強したとかそういうことじゃないよ。僕だって中央教会と関わらずに生きていけるならそうしたかったし。でも、僕らは今、中央教会に向かってる」
「うん」
「中央教会に僕らの敵がいないだなんて、そんな生温いことは思ってない。少なからず敵はいるよ、必ず。向こうが僕らに攻撃を仕掛けてくるかどうかは分からないけど」

 二人の間にピリッと緊張感が走る。どちらともなく手を握り直す。

「僕は正直、自信がない。平静を保っていられる自信も、嫌味を言い返さない自信も。だから、もしもの時は僕を止めてくれるかな、レオナルド」

 ルイの強い真剣な目に、レオナルドは残っていたチョコレートを一気に飲み干すと、力強く手を握り返した。

「分かった。ルイの誇りのために、ちゃんと止める。でも、僕はきっと心の中で『やれやれ! もっと言ってやれ!』って、ずっとルイの背中を押してると思う」
「ハハハ! うん。心の中で、ずっと僕の一番の味方でいて」

 ルイの言葉にレオナルドは一瞬ポカンとして、
「味方でいるのは、心の中だけじゃないよ?」
と返した。ルイもつられてポカンとして、それから何かを理解して一度頷く。

「そうだね。僕も、レオナルドの味方」
「うん」

 キュッキュッと手を握り合えば、その分だけ緊張が和らいで、互いの心が近づいていくような気がした。

「それじゃあ、そろそろ行こうか」

 二人はカップを屋台の店主に返すと、雨の弱まった道を歩きだす。体の内側からポッポポッポと滾る熱が、まるで「勇気」という名を持つように感じていた。
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