雨は藤色の歌

園下三雲

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花乱る鳥籠

51.

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「三人とも、お疲れ様。座り心地が悪いかもしれないけれど、そこに並んで掛けて貰えますか」

 アルバートはそう言って自身のベッドを指した。三人で腰かけても余裕があったが、緊張からかなんとなく三人はピッタリとくっついて座った。アルバートは彼らの前に椅子を持ってきて、向き合うように座る。

「これから君達と今日の休憩時間にあったことについて話をします。私は君達にいくつか質問をしますが、答えるのが辛かったら無理に答えようとしないで構いません。話を聞いているだけでも辛いようなら、すぐに教えること。絶対に無理をしないで。いいね?」

 アルバートが努めて気持ちを落ち着かせて言う。その配慮は自分達の為のものだと分かるのに、それに応えなければならないことに三人とも少し苦しさを持って頷いた。

「まず、テオドール君。あの場にいた三人の名前は分かりますか?」
「いえ、すみません。近づく前に逃げられてしまったのでハッキリとは……」
「謝らなくても構いませんよ。君はレオナルドを守ろうとしてくれたのでしょう?」

 アルバートが優しく言うと、テオドールは少し表情を和らげる。

「あの時、君はどうしてレオナルドの危険に気付けたのですか?」
「レオナルドと一緒にトイレに行った子が一人で帰ってきて、レオナルドはどうしたのかと尋ねたら三人と話をしていると答えたので……。あ。彼なら、その、レオナルドと一緒にトイレに行った子なら、三人の名前が分かるはずです」
「そうか。ありがとう。その子に話を聴く機会は持てそうですか?」
「明日もあの子達と稽古の予定なので、大丈夫だと思います」
「では明日の稽古前か、休憩中に、その子を私に紹介してください。私はどうも子ども受けしないので、出来れば君に手伝ってもらえると助かるのですが」
「はい。私でお力になれるなら、何でも仰ってください」

 アルバートはテオドールに「ありがとう」と言ってから、レオナルドに視線を移す。

「レオナルド。これから三つ、君に質問します。『はい』か『いいえ』で答えなさい」

 アルバートが三本指を立ててみせる。

「君がその子と別れた時に話していた三人と、私達が見た三人は同じ人ですか?」
「はい」

 ゆっくりと確認していく。レオナルドは肺が押しつぶされそうに痛かったが、しかし弱い所を見せたくなくて、強い眼差しでアルバートを見つめた。

「私達が見た時、君は壁際で三人に取り囲まれているようでしたが、彼らに何か言われたり、されたりしましたか?」
「はい」

 大丈夫。大丈夫。そう言い聞かせる。

「何を言われたのか、何をされたのか、私達に話すことは出来ますか?」
「……はい」

 レオナルドは徐に首を縦に振った。

「ありがとう。それじゃあ、ゆっくりでいいから、教えてくれますか?」

 力が入って上がった肩を下ろすように一度深く息を吐いて、それからレオナルドは記憶を追うように目を下げた。

「トイレを出たところで彼らに呼び止められました。あの子に、お姉さんって呼ばれてたのを聞かれてて、あの人達にもお姉さんって呼ばれて、それがたまらなく気持ち悪くて。早く帰らないといけないからって言ったら、道を塞がれたんです。子ども達と最初に話した時のことを見られてたみたいで、僕と仲良くするにはこうしなきゃいけないのかなって、股を、触られて。逃げようとしたんだけど腕を押さえつけられて逃げられなくて、頬を弱く叩かれて、そしたらテオドールの声が聞こえて、あの人達は逃げていきました」

 自分の声が他人の物のように聞こえて、その言葉の持つ不快な色が耳を汚していく。

「そう。嫌なことを思い出させてごめんね。話してくれてありがとう」

 レオナルドは小さく首を振る。腿の上で握りしめていた手に、震える小さな手が重なる。

「ルイ?」

 アルバートが声をかける。ルイは静かに涙しながら、レオナルドよりもずっと辛そうだった。

「ルイ。辛いなら無理をしないで」
「レオナルドと、一緒にいる。もう離れない。ずっとそばにいる」

 ルイはレオナルドの手を握っていない方の手で涙を拭うと、キッと何かを睨みつけて宣言する。それは恐らく自分自身への誓いと戒めだった。そうさせてしまったことがレオナルドの喉をきつく締めて、息が出来なくなりそうだった。

 アルバートはルイを心配そうに困ったように見て、それから一度目を閉じた。

「レオナルド。私との約束は覚えていますね?」

 アルバートは厳しい表情でレオナルドを見据える。

「ここは、君にとって安全な場所じゃない。荷物を纏めて、アダムスに帰りますよ」
「違う……!今日はたまたま」
「たまたまでも何でも、こんな事が一度でも起きてはならないんですよ」
「でも! ちゃんとテオドールもルイも助けに来てくれたから大丈夫だし」
「そうですね。助けに来てくれました。でも、君が乱暴されるのを、防ぐことは出来なかった」

 譲らないアルバートに、
「それは僕が! ――今日のは私の落ち度です。もうレオナルドを一人にしない。私がレオナルドを守ります」
とテオドールがレオナルドの背に手を置いて訴える。

「僕だってレオナルドを守る」

 ムキになってルイも続く。

「二人の気持ちはとても嬉しいですよ。嬉しいけれど、気持ちだけではどうにもならない。テオドール君だって、レオナルドといつも一緒に稽古があるわけではないでしょう。離れることだってあるはずです」
「だからその時は僕が!」
「ルイ。君は年の割に随分しっかりしていますよ。賢いし、心が強いし、頼りがいがある。だけど君は十二歳だ。力自慢なわけでもない。ここはアダムスとは違う。君より年上の学徒がたくさんいる。いくら君でも彼らには敵わない」

 冷静に言うアルバートにルイは何も返せない。

「レオナルド。君は友に恵まれたね。でも、だからこそ君は帰らなければならない。君がここにいたい理由を私はまだ聞かせてもらっていないけれど、それが例えばつまらない意地やただの我儘なら、それは彼らの君を守りたいという気持ちに到底見合うものではないよ」

 アルバートらしからぬ真っすぐなきつい物言いに、重苦しい静寂が流れた。

「つまらなく、ないです……」

 小さな声が、誰かに届く前に消えた。ふるふると小刻みに、レオナルドの手が、腕が、足が震える。

「意地だけど、つまらなくないです! 僕は僕のためにここにいたい。僕はここでヴィルをやり遂げて、僕は僕に報いたいんだ」

 涙を湛えた目を見開いて、レオナルドは叫んだ。

「七年間、人生や生まれてきた意味まで懸けてひたすら追いかけてきた夢は叶わなかった。悲しくて悲しくて、今だってずっと悲しくて。今の僕は、あの日のシェーベルと一緒。貰うつもりのないものを貰ってしまったの。君なら相応しいって、期待をかけられて。だから、逃げ出したりしたくない。辛くても、辛いって思いたくない。愚痴だって言いたくない。ヴィルをやるつもりが無かったなんてことは隠し通して、やり遂げたい。ヴィルになりたかった人が夢を重ねられるような輝いたヴィルでありたい。そういう自分の姿だけが、きっと僕を救ってくれるから」

 何も考えなくても、言葉が勝手に溢れてきた。自分の知らない自分が心の中で言葉を生み出してくれているような感覚だった。

「救われたい。救われたいの。もう叶わない夢に悲しみばかり募らせるのは終わりにしたい。テオドールが、ルイが、自分のために僕を守りたいって言うのなら、僕だって僕のために、僕を救うためにここにいたい。ちゃんとヴィルをやり遂げて、僕が僕に報いることが出来るまで、僕はアダムスには帰らない!」

 言い切って、レオナルドはハァハァと息を乱れさせる。譲れない、譲りたくない自分の本当の願いに気が付いたから、レオナルドはアルバートから目を背けない。

「どうして、君はそう極端なんだ……」

 アルバートが力なく背を丸めて口元に手をやる。

「君は理想が高すぎる。そして無理すればその理想が叶えられてしまえるだけの能力があるから困るんだ。どん底を知っているせいで痛みや悲しみに鈍いし。すぐ自分を蔑ろにするし。頑固だし。まだほんの子どもなのに、責任感ばかり強くて――」

 眉根を寄せて目を閉じるアルバートの口から言葉が止まらない。

「怒ってる……?」

 レオナルドがおどおどと訊くと、
「怒ってるよ。怒ってるに決まってるだろ、この我儘っ子。何が一番腹立たしいって、君が君を救うために、私は君に何もしてあげられないってことだ」
と泣きそうな顔をアルバートはレオナルドに向けた。初めて見る弱々しく感情を露わにする彼の姿に、レオナルドは一瞬固まる。

「そんなこと、そんなことない。だって、僕の心を最初に守ってくれたのはアルだよ。吐き気がするほど自分が愚かしいと思っても、アルがくれた言葉が僕を僕でいさせてくれた。湖の景色も、アルの言葉も歌声も、全部そのまま僕の心に残ってる。心の中にその光があるから、僕は僕がどこに立ってるのか分かるんだ」

 焦る心のままにレオナルドは言い募る。あの日見た光を、深い闇の中で貴方が自分を導いてくれたのだと、どうやったら伝わるだろうか。

「だからアル――」
「言わないで」

 アルバートがレオナルドの口を手で塞ぐ。

「言わないで、レオ。そんな所までルカに似ないで」

 唐突に出てきた人の名に、「ルカ先生……?」とレオナルドは戸惑う。

 アルバートの腕はそのままレオナルドの首に回って、息がしづらい程に強くその胸に顔を押し付けられた。

「そんな朧な光に縋らなくても、ずっと私の傍にいたら良い。アダムスには悪意をもって君を傷つける人は居ない。救われたいと願わなくてもいいくらい、私が、アダムスの皆が、君を愛するから。だから帰ろう、レオ」

 温かい腕の中で、自分を呼ぶ声に悲しみと愛が底なしに深く聞こえた。

 幸福だった。幸福で幸福で幸福で、しかし首を縦に触れない自分がレオナルドは苦しかった。悲しい。寂しい。ずっと抱きしめられていたいのに、その背に手は回せない。

(ごめん。ごめんね、アル……)

 レオナルドは心の内で謝りながら、決して涙は流さなかった。自分の外へ出してしまうのが勿体なかった。この幸福とともに、涙さえ心の中に留めおいておきたかった。

 少しして、アルバートはレオナルドから体を離す。

「ルイ。ルイは、アダムスに帰る気はある……?」

 頬に涙の筋を残したまま、アルバートは床に膝をついてルイを見上げた。

「ごめん。僕は、ここにいたい。レオナルドがここにいるならレオナルドを守るためにここにいたいし、そうでなくても、僕は、始めたことは最後までやりたい。オースリエルは、誰にも渡したくない」

 ルイもまた目を潤ませながら、しかしその手はもう震えない。

「そうか。ルイは、頼れる人はいるの? ルイを守ってくれる人はいる?」
「リヴィがいる。ジョンも、ディランも。それに、そこのテオドールだって。一番は、レオナルドが僕を頼りにしてくれたら、それだけで僕は強くなれるんだけど……」

 言いづらそうにルイが言うと、アルバートは物悲し気に微笑んだ。

「テオドール君。君は主役だ。ただでさえすべきことが多くて大変だろう。その上、他人を守るなんて負担が大きくはないか?」

 次にアルバートはテオドールに目を向ける。

「私の役はリトゥムハウゼです。ヴィルを、民を、守りたいと努力した人です。だからこうして実際に、レオナルドを、ルイを、守りたいと思えるのは、何にも代えがたい巡り合わせだと感じています。僕にとって二人の存在は、少しも負担ではありません」

 テオドールは静かに、しかし揺るがずに言う。

「しかし君は、この劇が終わってからもここで生きていかなくてはならない。例えばレオナルドやルイを庇ったら、周囲の目が厳しいものになるようなことは少なからずあるのだろう?」
「構いません。目の前に傷つく人がいる時に何もしないでいることの方が、よほど苦しいと私は知っています。誰に何を言われても、私は私が正しいと思う道を選びます。敬愛するウィリアム先生がそうしているように、私も信念のままに為すべきことを為す私でありたい。そういう私を誇って生きていきたいから」

 そう真剣に言ってから、
「あ、でも、もしもどうにもならなくなったら、その時はウィリアム先生と一緒にアダムスに行かせてください」
と、テオドールはわざと軽い口調で付け足す。

「……ハハ。分かりました。敵わないな」

 アルバートは小さくため息をつくと、レオナルドに向き直った。

「レオナルド。本当に、アダムスに帰るつもりは無いんだね」

 再度の問い掛けに、レオナルドは「うん」と確かに頷く。アルバートは肩を落として、レオナルドの膝に手を置いた。

「今回だけ。君の我儘をきくよ。君を無理に連れ帰ったら、君の心もルイの心も、きっと今よりも空しくなってしまうのだろうと思うから」

 仕方なさそうに言ってから、アルバートはムッと怒ったような表情をつくってレオナルドとルイを見る。

「劇が終わるまでだよ。君の無茶を許すのはこれで最後だ。劇が終わってアダムスに帰ったら、レオナルドもルイも、アダムスの全員で滅茶苦茶に甘やかしてしまうから覚悟していなさい」
「甘やかすの? 僕は言うこと聞かないで我儘を通したのに」

 レオナルドが小首を傾げた。

「レオナルドは特にそうだけれど、二人とも、もっと自分への愛に気づくべきなんだよ。頭では理解していても、それが実感を伴っていないからこういうことになる。今は分からないかもしれないけれど、帰ったらすぐにうんざりするほど実感するはずだ。だからそれまでは、ヴィルとオースリエルを頑張りなさい。後悔しないように」

 レオナルドとルイは「はい」と声を合わせて頷いて、それから二人で抱き合った。頑張れと言われたことが、どうしようもないくらいに嬉しかった。

 アルバートは今度、テオドールの前に移動する。

「テオドール君。レオナルドとルイのこと、頼まれてくれるか」

 アルバートの頼みに、テオドールは
「勿論です」
と力強く返事した。

「すまない。君だって、本当はまだ守られるべき立場にあるのに」
「誰かを守ろうとすることで、守られる心もあります」
「君にそれを言われると寂しいな」

 アルバートが言うと、テオドールがクスリと笑う。

「寂しいと言ってくださるなら、先生も私を呼び捨ててください。テオドール君、だなんて、距離を感じます」

 何処か拗ねたように言うテオドールに、アルバートは優しく微笑みかける。

「テオドール」

 アルバートが呼ぶと、テオドールは「はい」とはにかんだ。愛おしさに思わずアルバートが腕を広げると、少しの動揺と好奇心に動かされて、テオドールはその腕の中に身を寄せる。

「たまには、大人の人に慈しまれながら抱きしめられるのも良いですね」

 テオドールの後頭部に、アルバートは左手をそっと添える。

「色々なことが落ち着いたら、何もなくてもアダムスにいらっしゃい。私だけでなく、いつでも皆、歓迎します」

 はい、と答えるテオドールの声が震えて聞こえて、レオナルドとルイはその背に被さるようにくっついた。

 四人は大きな団子のように抱き合って、まるで藤棚の下で羽を休める鳥のように、時間を報せる鐘の音が鳴るまでずっとそうしていた。
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