黒しっぽ様のお導き

宮藤寧々

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8、久方振りの旦那様

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「まあ、どうしましょう」

 旦那様が帰って来るなんて、予想していませんでした——なんて、言ってはいけませんね。
 お飾りとはいえ、私達は夫婦なのですから。

 旦那様はハーキュリー伯爵の当主であるし、モーリスと話もあるのでしょう。
 お飾り妻のことは、ついでなのかもしれません。

「先触れの内容から、もう近くまで来ているとのことです!」
「奥様は早く寝室へ!」
「モーリス、旦那様が気分よく過ごせるように、いいお茶を淹れて差し上げてね。それから——」
「それは私達に任せて!」
 慌てるモーリス達に背を押され、私は急いで寝室に入りました。
 私の格好は、少し皺が入ったお仕着せで。
 こんな姿を見られたら、旦那様が驚いてしまいますものね。

『病弱』だと思っていたお飾り妻が、実は健康で、色々と問題のある女だったなんて、旦那様に知られてしまったらと思うと・・・・・・胸がずきりと痛みます。

 私は寝台に腰掛けて、時間が過ぎるのを待つことにしました。


「・・・・・・奥様は、調子が悪く・・・・・・」
「見舞いの品を渡すだけだ」

 外からは、少し言い争う声——
 どうやら、旦那様とモーリスが此方へ来ているようです。
 モーリスは頑張って止めようとしてくれているみたいですが、旦那様のお気持ちは変わらないようです。
 ・・・・・・ああ、こんな不束者に気を使わせて申し訳ありません。

「ま、まあ、どうしましょう」
 まさか、旦那様が寝室に来るなんて・・・・・・。
 私は自分を隠すように寝台のシーツに包まりました。
 遊んでいると勘違いしたのか、茶色と白い毛の混じった子猫も中に入ってきます。
 丸まる姿はとても微笑ましくて可愛いのですが、大きくなる足音を聞いていると、素直に堪能できない状況です。

 こつ、こつ、と足音は迫り・・・・・・私の部屋の前でぴたりと止まったようです。
 そして——

「トリーシャさん、いるだろうか」
 いつかに聞いたことのある、そっと響くノックの音と、私を呼ぶ声——

 久方振りにお聞きする旦那様の声は穏やかで、私を気遣う様子まで感じられて・・・・・・。
 義務で結婚しただけの妻に、そこまでしていただくことに、とても申し訳なく感じます。
 私は、仮病を使っているわけですし。

「寝ているのか?」
 旦那様は尚も声を掛けてくださいますが、私は何と答えてよいか分からず、ただ膝を抱えることしかできませんでした。

 少しの間、静かな時間が流れて——

「見舞いだけ、受け取ってくれ」
 そんな言葉と共に、扉の鍵が開けられました。
 まあ、どうしましょう・・・・・・まさか、旦那様が鍵を持っていたなんて・・・・・・私のこんな醜い顔を見られでもしたら・・・・・・。

 シーツの中でぎゅっと目を瞑る私の耳には、扉を開ける音と、すぐ閉まる音・・・・・・あら?
 そして、遠ざかっていく足音が聞こえました。

「どういうことでしょう・・・・・・?」
 シーツから顔を出して室内を見渡しますが、旦那様の姿は何処にもありません。
 扉も、同じように固く閉ざされていて・・・・・・。

「あら、何かしら?」
 その時、私は扉の所に見慣れない物を見つけました。
 つやつやとした黄色い生地の、小さな小袋・・・・・・近付いて、手に取ると、ふんわりと優しい香りが漂ってきます。
 この香りは・・・・・・金木犀ですね。
 旦那様は、サシェをお見舞いに持って来てくださったようです。

『貴女が心安らげるといいのだが。好みに合わなければすまない』
 小さなメモまで添えられていて・・・・・・旦那様、このような気遣いまで・・・・・・。

 このようなお優しい旦那様を騙していることが、非常に申し訳なく、私は思わず窓の下で跪きました。
「主よ、どうか愚かな私をお許しください」


 暫く祈り続け、目を開けると、外には旦那様らしき人影が。
 屋敷から出て、一人で正門へと向かう姿は——どこか、危うげに見えました。
 騎士様らしく、ぴんと伸びた背筋や、長い脚できびきびと歩く姿は逞しいのですが・・・・・・少し、ふらついている時もあるような・・・・・・?

 そんな旦那様に、飛びつく塊がありました。
 茶色くて、ふわふわの毛並みをした、大きめの猫です。
 その体からは予想できない跳躍力で、旦那様の胸に飛び込んで・・・・・・まるで、犬みたいです。

 旦那様はそれを受け止めつつも、勢いに負けて尻餅をついて・・・・・・ああ、うちの猫が申し訳ありません。
 でも、猫を抱える旦那様の、ふと見えた横顔は、子どものような、朗らかな笑顔で——
 その顔をちらりと見た時、私は不意に恥ずかしくなって、窓から顔を背けました。
 旦那様・・・・・・凛々しいだけじゃ無く、あんなお顔をされる時もあるなんて・・・・・・。

 暫くすると、旦那様は既に去って行った後のようで、私の視界には先程の猫だけが残りました。


 旦那様の面会も、秘密がばれずに凌ぐことができましたが——

 私はその後、旦那様の様子を思い出してはそわそわしたり、あの笑顔を思い出しては胸がいっぱいになったりと、落ち着かない日々を過ごしていました。
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