黒しっぽ様のお導き

宮藤寧々

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17、一歩ずつ踏み出して

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 踏み締める足元は、泥濘や枯草が纏わりついて。
 私と同じように歩く人達の憂鬱そうな呟きも聞こえますが――

 曇り空の合間から少し覗く日差しのように、私の心は少しだけ明るくなっていました。


 ブライアン様から騎士服を預かって二日——
 久し振りに雨が止んだため、私はハーキュリー伯爵邸を出て王宮に向かっていました。

 空気は湿った匂いがして、まだ雨の時の残滓を感じられますが。
 外を歩くと、思っていたよりも寒くなくて、洗濯が捗りそうだと嬉しくなっちゃいます。

 私は騎士服が入った包み等を入れた籠を大事に抱えながら、乗合馬車の隅っこに腰掛けました。
 室内で乾かす他無かったのですが、温かい部屋で丁寧に皺を伸ばしたので、それなりに綺麗になったはずです。
 これを早く、ブライアン様に届けたい・・・・・・でも、直接渡すのは恥ずかしくて・・・・・・。

 どうしようと悩みながらも、私はまずハンナさんの元へ向かうことにしました。
 雨の間に溜まっていた仕事があるかもしれません。


 王宮の洗い場へ到着すると、案の定、働いているハンナさんの姿がありました。

「おはよう、フローレ! 風邪ひいてなかったかい?」
 私が声を掛けると、ハンナさんは大きな声で返してくれます。
 その間も、手は絶えず洗い桶をかき回していて・・・・・・よく笑い、よく怒り、よく喋り、よく働くハンナさんは、本当に生気に満ち溢れています。

「は、はい・・・・・・肩掛けまで、ありがとうございました」
 私はお借りしていた肩掛けを近くの台に置きました。
 目の粗い、毛糸で編まれた大きな肩掛け・・・・・・使い込まれているようでしたので、ハンナさんが長らく愛用しておられたものだったのでしょう。
 そんな大事な物を、私なんかのために貸してくださり、本当に感謝しかありません。
 せめてものお礼に、騎士服と同じように洗って乾かしておいたのです。

「あ、あと・・・・・・うちの者とお菓子を焼きましたので、よかったらお礼に・・・・・・」
 今朝はエイダとビスケットをたくさん焼いたのです。
 ハンナさんの好きな蜂蜜を添えたら、お茶の時間に楽しめると思いまして。

「そりゃあ助かるよ! 今日は忙しくなるからね、あんたも腹が空くだろうよ」
 そうやって朗らかに笑うハンナさん・・・・・・その笑顔を見ていると、私も元気が湧いてきます。
 私も袖を捲り、洗濯に取り掛かることにしました。

「また王宮騎士団の人員が入れ替わったらしくてね・・・・・・」
 洗ったシーツを干しながら、ハンナさんの言葉に耳を傾けます。

「王妃様のお気に入りを虐めていた奴らを市中に出して、また見た目の良さげな奴らを新しく探してきたんだとよ。若い娘達はそいつらの訓練を見に行くんだって騒いじまって・・・・・・」
 今日は誰もお手伝いに来なかったのは、それが理由だったのですね。

 それにしても、麗しい騎士様達を次々と雇い入れる王妃陛下・・・・・・一体、どんな御方なのでしょう?
 ブライアン様・・・・・・王妃陛下の覚えが良いことは素晴らしいのですが、お辛い目に合ってないといいのですが・・・・・・。


 雨の日に溜まっていた洗濯物を干して、乾いた小物を引き上げて、空いた隙間に別の洗濯物を干して――
 ハンナさんと休む間もなく働き続け、ひと段落したのは、お昼を少し過ぎた頃でした。

 お茶とビスケットで休憩してから、私は乾いた洗濯物を配りに行くことにしました。
 調理場、女性用の宿舎、宮殿内の倉庫・・・・・・そして、騎士隊の宿舎。
 その時に、ブライアン様へ騎士服をお返しするつもりなのです。

 うう・・・・・・宿舎へ近付く度に、体が震えてきてしまいます。
 早く、騎士服をお渡ししたい、とは思っているのですが・・・・・・ブライアン様とお顔を合わせるのは緊張してしまいます。
 結婚してから、この醜い顔を見せてはいないので、私が書類上の妻だとは分からないはずですが・・・・・・。


 宿舎の前に着くと、女性達の姿が見えました。
 私と変わらないぐらいの年齢のようで、私のようなお仕着せを纏っておりました。
 皆様も、お仕事の途中でしょうか?
 お顔が険しくて、近寄り難い雰囲気を感じます・・・・・・。

「あら、あんた、何?」
 私に気付いた一人が、此方に声を掛けて来られました。
 うう・・・・・・目つきが鋭くて、直視できない・・・・・・。

「あの・・・・・・お洗濯を届けに・・・・・・」
 顔を隠すように洗濯物を入れた籠を掲げると、皆様方が息を呑む音が聞こえました。

「そ、そうなの? 私が代わりに渡しておくわ」
「いえ、私が」
 私の手から籠を取ると、数人で引っ張り合うようにして縁を持ってくださります。
 そうやって、早足で宿舎の中へ入って行く女性達の後ろ姿を、私は見送ることしか出来ませんでした。

 あの籠の中には、宿舎のシーツやクロスの他、ブライアン様の騎士服も入っています。
 袋に名前を添えているので、誰か届けてくれるでしょう。
 直接お渡しできないのは、少し、残念だった気がしますが・・・・・・私の顔を見せるわけにはいかなかったので、これが一番良かったのでしょう。


 目的を達成できて晴れやかなような、少し心残りがあるような――
 そんな複雑な気持ちを抱えながら、私は宮殿の廊下を歩いていました。

 ハンナさんに配達が完了したことを報告して、洗い場の掃除をしたら、今日のお仕事は終わりです。
 旦那様がお元気にしていらっしゃるか、少し、気になりますが・・・・・・それは、モーリスに頼んだ方が安全でしょう。
 もし、旦那様が、屋敷に帰ってくる日が分かるのなら、旦那様が安らげるように、いいお茶を探しておきましょうか。


 少し、気の緩みがあったのでしょう。
 のんびりと廊下を歩いていた私は、後ろの足音に気付きませんでした。

「そこの黒髪の君、待ってくれ」
 背後の声に、私は足を止めます。

 おそらく、若い男性の声。
 そして、何度か聞き覚えのある声・・・・・・背筋を汗が伝う感触を覚えます。

「私の隊服を洗ってくれた方だろう?」
 ・・・・・・そうです。
 低く、落ち着いた、優しい声色――ブライアン様の声です。

 ブライアン様が、私のすぐ後ろにいるなんて・・・・・・顔を見られるのが恐ろしくて、振り返ることが出来ませんでした。

「聞きたいことがあるのだが――」
「ご、ごめんなさぁい!」

 気が付いた時には、私は逃げるように走り出していました。
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