降りしきる黄金の雫は

はぎわら歓

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検査の結果、癌が完治していた。完治というよりもすっかり無くなってしまっていた。医者はもちろんのこと驚かないものは誰もいなかったが、僕は桂さんが全て持って行ってくれたのだと知っている。
半月もすると僕は以前よりも健康になっていて来月には仕事に復帰する。

庭の金木犀は手に持つとホロホロと崩れチリとなってしまった。しかしベッドに残された小さな花弁は残っていて僕はそれを全てかき集め瓶に収めた。中にはあの実を入れて。

庭先でなくなった金木犀の跡を眺めながら瓶の中の花の香りを嗅いでいると先輩がやってきた。
「芳樹、調子はどうだ?」
「いいですよ。すこぶる」
身体の調子は本当にいい。これが健康ということなのだと実感するくらいだ。それでも桂さんを失った悲しみと、残った実が僕を複雑な気分にさせている。
「ほんと不思議だな。その金木犀」
「ええ。どうしてこんな事になったのか全く分かりません」
「あとさ、お前にはいい人がいただろ。鉢合わせたことはなかったが。もう来ないのか」
「いい人――」
桂さんの姿が目に浮かび、涙があとからあとから湧いてくる。
「ああ、すまん。泣かすつもりじゃなかったんだ」
「いいんです――聞いてもらえますか?僕と彼の話を」


僕は今、岡田先輩と飛行機に乗っている。中国の桂林市に向かうためだ。桂さんとの話を岡田先輩にすると驚いた表情をしたが作り話だとも嘘だとも思わないと言ってくれた。胸騒ぎと金木犀の香り、そして金木犀の花に抱かれているように横たわっている僕を目の当たりにしたからだそうだ。
更にもう一つ不思議なことがあった。
この夏に植木職人の林田さんのお父さんが老衰で亡くなった。大往生ということで親戚一同、悲しみを引きずることはなかったようだ。新盆の墓参りに行ったとき、墓に椎の実がやはり椎の葉っぱの上こんもりと乗せられ供えられてあった。林田さんは、まさかと思ったが一応持ち帰り仏壇に供えると、翌朝綺麗に無くなっていたということだ。
「林田さんのおやっさんも、お前も木の精に愛されたんだな。きっと」

桂さんの話をした後、先輩は「その実、どうするんだ?」と尋ねてきた。
どうしたらよいのかわからないと言うと、先輩は金木犀の故郷である、中国の桂林市に植えたらどうだろうかという提案をしてくれた。桂林市は2500年も前から金木犀を栽培しているらしく、50万本前後の金木犀が植えられている。開花の時期には目の前が黄金色に染まりそうだ。そこへ実を植えるのだ。
僕たちの実がひとりぼっちにならないように。仲間や番う(つがう)相手がいるところへと。

「先輩が中国語が得意だなんて知りませんでしたよ」
「あれ? 大学で専攻してたの知らなかったか?」
「うーん。ラグビーで目立ってましたし、中国語を披露してもらう機会がなかったですからねえ」
「よーし、まだまだ時間もあることだし、少し披露しといてやるか」
にっこり笑って先輩は何か小声でささやき始めた。

――在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝…… ( 天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう)

「そ、それは――」
桂さんを思い出すと涙が溢れる。
「あ、え、どうした、いきなり」
「その、歌。桂さんも歌ってたんです」
「そうか――すまなかったな」
「いえ、こちらこそ、せっかくの先輩の中国語が」
「いいんだ」
先輩はポケットからハンカチを差し出し、僕に渡すと窓の外の景色を見始めた。
「なあ芳樹。桂さんのことは忘れなくていいし、愛したままでもいい。そのままでいいから、ちょっと俺の方も向いてくれないかな。
こうやって桂林でもどこでも一緒に行かないか?」
「先輩――」
窓の下には靄のかかった林と尖った山々が見えると機内に歌が流れ始めた。
「綺麗な歌ですね。意味は分からないけど」
「ラブソングだよ、現代の。何千年経っても誰かを想う気持ちは変わらないものなんだろうな」
「そう――なんですね」
桂さんは僕を想ってくれていたからこそ、病を引き受けて旅立った。僕には先輩がいるからだと思ったのだろうか、それとも樹木医としての僕を惜しんでくれたのだろうか。
人でないものが人を愛し命を奪う話はあるが、彼は崇高な樹木だった。欲望を最後まで彼は持つことがなかったのだ。それが少し恨めしくも寂しくもある。
感傷に浸っている僕に先輩は明るく「そろそろ到着だぞ」と声を掛ける。
「はい!」
今、あなたの故郷に行きます。
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