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街の風、鳴らない音
声にならない“ありがとう”
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4月7日。
いつもなら、美咲の誕生日を祝う日だった。
朝、目が覚めても、部屋に花はなかった。
ケーキも、プレゼントも、用意していなかった。
前の夜まで覚えていたのに、当日になって何もできなかった。
気づいたのは、冷蔵庫を開けた瞬間、貼ってあったメモ。
「今日、夜は職場の人と食事行ってくるね」
その下に、小さく、**「あ、今日わたし誕生日だ」**と書かれていた。
心臓を指先で握られるような感覚がした。
やってしまった、と思った。
それでも、即座に謝ることも、メッセージを送ることもできなかった。
なぜか――言葉が浮かばなかった。
“ごめん”でも、“忘れてたわけじゃない”でもない。
本当に言いたかったのは、“ありがとう”だった。
でもその言葉が、どこにも見つからなかった。
夕方、駅前の花屋に立ち寄った。
淡いピンクのガーベラを数本と、小さなカスミソウを束にしてもらう。
ラッピングされた花束を手に持っても、手応えはなかった。
美咲の好みは知っている。だけど、今さら渡してどうなる?
夜、部屋に戻ると、誰もいなかった。
テーブルの上に残されたメモだけが、妙に整った字で置かれていた。
「今日は帰れないかも。明日には戻る。遅れてごめん。」
その文面に、怒りも悲しみもなかった。
ただ、事務的な報告のような温度。
俺は花束を、部屋の片隅に置いた。
包装も解かず、花瓶も用意せずに、ただ床に立てかけた。
そして、ギターを抱えた。
コードを一つ鳴らしたが、音はやけに軽く響いた。
音楽を始めたばかりの頃、美咲が俺の曲を聴いて泣いたことがある。
「こんな歌、誰にも歌えないよ」って言ってくれた。
そのときの笑顔が、記憶の奥に薄く残っている。
――今の俺の歌に、あの頃の何かは残ってるだろうか。
翌朝、目が覚めても、美咲はまだ帰っていなかった。
スマホに通知はなく、LINEの未読はそのまま。
気づけば、丸一日、まともな会話をしていない。
キッチンの隅に置いたままの花束は、少しだけしおれていた。
ガーベラの花びらが、ほんのわずかに端から茶色く変わり始めている。
水に挿すだけでも違ったはずなのに、それすらできなかった自分がいた。
テーブルに座り、ノートを開く。
新曲の歌詞の一節が空白のまま残っている。
> 「君に何を渡せば、まだ笑ってくれるだろう」
その一行だけが、ページの中心にぽつんとある。
答えは書けなかった。
ペンを握っても、紙はただ白いままだった。
過去のページをめくると、美咲のことを思いながら書いた歌詞が並んでいた。
初ライブの後に書いた一曲、
夜中にふたりでアイスを食べた日を歌詞にした一節、
喧嘩して仲直りした翌日に作った、ぎこちないラブソング。
あの頃の歌は、ちゃんと“誰か”に向かって鳴っていた。
今は違う。
誰に届けたいのかも、自分で分からなくなっていた。
それでも、歌をやめようとは思えなかった。
音が鳴らなくなったら、自分が自分じゃなくなる気がした。
インターホンが鳴いた。
時計は午前11時。
思わず玄関に走ると、そこにいたのは美咲――ではなく、配達員だった。
届いたのは、美咲あての小さな段ボール。
受け取りのサインをして、その箱をリビングのテーブルに置いた。
何気なく宛名ラベルを見ると、差出人には男性の名前が書かれていた。
――“藤原 颯”。
嫌な予感が、喉元までせり上がる。
手は自然にスマホへ伸びていた。
Twitterを開き、テンペストのアカウントを検索する。
最新ツイートには、彼の写真。
スタジオでピースサインをする姿の隣に――
あの、見覚えのあるスカートの柄。
画面を閉じた。
スマホを裏返して、ゆっくり目を閉じた。
取り戻せないものがあると、初めて認めた気がした。
夕方、美咲は何事もなかったかのように帰ってきた。
玄関の扉が開く音、コツンとヒールのかかとが鳴る。
その音を聞いた瞬間、体が自然にこわばった。
「ただいま」
「……おかえり」
たったそれだけの会話で、空気が凍った。
キッチンに置きっぱなしだった花束に、美咲はふと目をやった。
しおれかけたガーベラ。
何も言わず、何も触れず、彼女はそれを通り過ぎた。
俺も言葉を発しなかった。
“今さら”という言い訳が、喉の奥で蓋をしていた。
夕食はそれぞれ別にとった。
同じ部屋にいても、もう完全に“別の時間”を生きている。
ギターを触る気にもなれず、ただノートを開いた。
そこには、今日の午後に書き足した一行がある。
「ありがとう」が、届くうちに言えばよかった。
ただ、それだけ。
タイトルもサビもない、たった一行の歌詞。
でも、今の自分のすべてだった。
夜になっても、美咲は花束に触れようとしなかった。
テレビを見ながら、ビールを飲み、スマホをいじり、
まるで“何も見ていない”かのようにふるまっていた。
たまに笑うその顔が、誰に向けたものなのか、もうわからなかった。
「次のライブ、行けるかわかんないや」
ふと、美咲が言った。
「その日、シフト入るかもで。まだ確定じゃないけど」
「……そっか」
何も聞き返さなかった。
どこで、誰と、何をしているのか――
もう、それを詮索する権利すら、自分にはないような気がしていた。
部屋の電気を落としたあと、ベッドに横たわった彼女の背中は遠かった。
俺は眠れずに、ノートをめくり続けた。
どのページにも、“過去の俺”がいた。
でも、今の俺は、どこにもいなかった。
最後のページを開く。
そこに、新しいタイトルだけを書き加えた。
「叫べ、まだ終わりじゃない」
音には、まだ何も乗っていなかった。
でも、その言葉だけが、確かに心に残っていた。
いつもなら、美咲の誕生日を祝う日だった。
朝、目が覚めても、部屋に花はなかった。
ケーキも、プレゼントも、用意していなかった。
前の夜まで覚えていたのに、当日になって何もできなかった。
気づいたのは、冷蔵庫を開けた瞬間、貼ってあったメモ。
「今日、夜は職場の人と食事行ってくるね」
その下に、小さく、**「あ、今日わたし誕生日だ」**と書かれていた。
心臓を指先で握られるような感覚がした。
やってしまった、と思った。
それでも、即座に謝ることも、メッセージを送ることもできなかった。
なぜか――言葉が浮かばなかった。
“ごめん”でも、“忘れてたわけじゃない”でもない。
本当に言いたかったのは、“ありがとう”だった。
でもその言葉が、どこにも見つからなかった。
夕方、駅前の花屋に立ち寄った。
淡いピンクのガーベラを数本と、小さなカスミソウを束にしてもらう。
ラッピングされた花束を手に持っても、手応えはなかった。
美咲の好みは知っている。だけど、今さら渡してどうなる?
夜、部屋に戻ると、誰もいなかった。
テーブルの上に残されたメモだけが、妙に整った字で置かれていた。
「今日は帰れないかも。明日には戻る。遅れてごめん。」
その文面に、怒りも悲しみもなかった。
ただ、事務的な報告のような温度。
俺は花束を、部屋の片隅に置いた。
包装も解かず、花瓶も用意せずに、ただ床に立てかけた。
そして、ギターを抱えた。
コードを一つ鳴らしたが、音はやけに軽く響いた。
音楽を始めたばかりの頃、美咲が俺の曲を聴いて泣いたことがある。
「こんな歌、誰にも歌えないよ」って言ってくれた。
そのときの笑顔が、記憶の奥に薄く残っている。
――今の俺の歌に、あの頃の何かは残ってるだろうか。
翌朝、目が覚めても、美咲はまだ帰っていなかった。
スマホに通知はなく、LINEの未読はそのまま。
気づけば、丸一日、まともな会話をしていない。
キッチンの隅に置いたままの花束は、少しだけしおれていた。
ガーベラの花びらが、ほんのわずかに端から茶色く変わり始めている。
水に挿すだけでも違ったはずなのに、それすらできなかった自分がいた。
テーブルに座り、ノートを開く。
新曲の歌詞の一節が空白のまま残っている。
> 「君に何を渡せば、まだ笑ってくれるだろう」
その一行だけが、ページの中心にぽつんとある。
答えは書けなかった。
ペンを握っても、紙はただ白いままだった。
過去のページをめくると、美咲のことを思いながら書いた歌詞が並んでいた。
初ライブの後に書いた一曲、
夜中にふたりでアイスを食べた日を歌詞にした一節、
喧嘩して仲直りした翌日に作った、ぎこちないラブソング。
あの頃の歌は、ちゃんと“誰か”に向かって鳴っていた。
今は違う。
誰に届けたいのかも、自分で分からなくなっていた。
それでも、歌をやめようとは思えなかった。
音が鳴らなくなったら、自分が自分じゃなくなる気がした。
インターホンが鳴いた。
時計は午前11時。
思わず玄関に走ると、そこにいたのは美咲――ではなく、配達員だった。
届いたのは、美咲あての小さな段ボール。
受け取りのサインをして、その箱をリビングのテーブルに置いた。
何気なく宛名ラベルを見ると、差出人には男性の名前が書かれていた。
――“藤原 颯”。
嫌な予感が、喉元までせり上がる。
手は自然にスマホへ伸びていた。
Twitterを開き、テンペストのアカウントを検索する。
最新ツイートには、彼の写真。
スタジオでピースサインをする姿の隣に――
あの、見覚えのあるスカートの柄。
画面を閉じた。
スマホを裏返して、ゆっくり目を閉じた。
取り戻せないものがあると、初めて認めた気がした。
夕方、美咲は何事もなかったかのように帰ってきた。
玄関の扉が開く音、コツンとヒールのかかとが鳴る。
その音を聞いた瞬間、体が自然にこわばった。
「ただいま」
「……おかえり」
たったそれだけの会話で、空気が凍った。
キッチンに置きっぱなしだった花束に、美咲はふと目をやった。
しおれかけたガーベラ。
何も言わず、何も触れず、彼女はそれを通り過ぎた。
俺も言葉を発しなかった。
“今さら”という言い訳が、喉の奥で蓋をしていた。
夕食はそれぞれ別にとった。
同じ部屋にいても、もう完全に“別の時間”を生きている。
ギターを触る気にもなれず、ただノートを開いた。
そこには、今日の午後に書き足した一行がある。
「ありがとう」が、届くうちに言えばよかった。
ただ、それだけ。
タイトルもサビもない、たった一行の歌詞。
でも、今の自分のすべてだった。
夜になっても、美咲は花束に触れようとしなかった。
テレビを見ながら、ビールを飲み、スマホをいじり、
まるで“何も見ていない”かのようにふるまっていた。
たまに笑うその顔が、誰に向けたものなのか、もうわからなかった。
「次のライブ、行けるかわかんないや」
ふと、美咲が言った。
「その日、シフト入るかもで。まだ確定じゃないけど」
「……そっか」
何も聞き返さなかった。
どこで、誰と、何をしているのか――
もう、それを詮索する権利すら、自分にはないような気がしていた。
部屋の電気を落としたあと、ベッドに横たわった彼女の背中は遠かった。
俺は眠れずに、ノートをめくり続けた。
どのページにも、“過去の俺”がいた。
でも、今の俺は、どこにもいなかった。
最後のページを開く。
そこに、新しいタイトルだけを書き加えた。
「叫べ、まだ終わりじゃない」
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でも、その言葉だけが、確かに心に残っていた。
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