叫べ、まだ終わりじゃない

おくなみ

文字の大きさ
9 / 132
街の風、鳴らない音

声にならない“ありがとう”

しおりを挟む
4月7日。
 いつもなら、美咲の誕生日を祝う日だった。

 朝、目が覚めても、部屋に花はなかった。
 ケーキも、プレゼントも、用意していなかった。
 前の夜まで覚えていたのに、当日になって何もできなかった。
 気づいたのは、冷蔵庫を開けた瞬間、貼ってあったメモ。

「今日、夜は職場の人と食事行ってくるね」

 その下に、小さく、**「あ、今日わたし誕生日だ」**と書かれていた。

 心臓を指先で握られるような感覚がした。
 やってしまった、と思った。
 それでも、即座に謝ることも、メッセージを送ることもできなかった。

 なぜか――言葉が浮かばなかった。

 “ごめん”でも、“忘れてたわけじゃない”でもない。
 本当に言いたかったのは、“ありがとう”だった。
 でもその言葉が、どこにも見つからなかった。

 夕方、駅前の花屋に立ち寄った。
 淡いピンクのガーベラを数本と、小さなカスミソウを束にしてもらう。
 ラッピングされた花束を手に持っても、手応えはなかった。

 美咲の好みは知っている。だけど、今さら渡してどうなる?

 夜、部屋に戻ると、誰もいなかった。
 テーブルの上に残されたメモだけが、妙に整った字で置かれていた。

「今日は帰れないかも。明日には戻る。遅れてごめん。」

 その文面に、怒りも悲しみもなかった。
 ただ、事務的な報告のような温度。

 俺は花束を、部屋の片隅に置いた。
 包装も解かず、花瓶も用意せずに、ただ床に立てかけた。

 そして、ギターを抱えた。
 コードを一つ鳴らしたが、音はやけに軽く響いた。

 音楽を始めたばかりの頃、美咲が俺の曲を聴いて泣いたことがある。
 「こんな歌、誰にも歌えないよ」って言ってくれた。
 そのときの笑顔が、記憶の奥に薄く残っている。

 ――今の俺の歌に、あの頃の何かは残ってるだろうか。

翌朝、目が覚めても、美咲はまだ帰っていなかった。
 スマホに通知はなく、LINEの未読はそのまま。
 気づけば、丸一日、まともな会話をしていない。

 キッチンの隅に置いたままの花束は、少しだけしおれていた。
 ガーベラの花びらが、ほんのわずかに端から茶色く変わり始めている。
 水に挿すだけでも違ったはずなのに、それすらできなかった自分がいた。

 テーブルに座り、ノートを開く。
 新曲の歌詞の一節が空白のまま残っている。

 > 「君に何を渡せば、まだ笑ってくれるだろう」

 その一行だけが、ページの中心にぽつんとある。
 答えは書けなかった。
 ペンを握っても、紙はただ白いままだった。

 過去のページをめくると、美咲のことを思いながら書いた歌詞が並んでいた。
 初ライブの後に書いた一曲、
 夜中にふたりでアイスを食べた日を歌詞にした一節、
 喧嘩して仲直りした翌日に作った、ぎこちないラブソング。

 あの頃の歌は、ちゃんと“誰か”に向かって鳴っていた。

 今は違う。
 誰に届けたいのかも、自分で分からなくなっていた。
 それでも、歌をやめようとは思えなかった。
 音が鳴らなくなったら、自分が自分じゃなくなる気がした。

 インターホンが鳴いた。
 時計は午前11時。
 思わず玄関に走ると、そこにいたのは美咲――ではなく、配達員だった。

 届いたのは、美咲あての小さな段ボール。
 受け取りのサインをして、その箱をリビングのテーブルに置いた。

 何気なく宛名ラベルを見ると、差出人には男性の名前が書かれていた。

 ――“藤原 颯”。

 嫌な予感が、喉元までせり上がる。
 手は自然にスマホへ伸びていた。
 Twitterを開き、テンペストのアカウントを検索する。
 最新ツイートには、彼の写真。
 スタジオでピースサインをする姿の隣に――
 あの、見覚えのあるスカートの柄。

 画面を閉じた。
 スマホを裏返して、ゆっくり目を閉じた。

 取り戻せないものがあると、初めて認めた気がした。

夕方、美咲は何事もなかったかのように帰ってきた。
 玄関の扉が開く音、コツンとヒールのかかとが鳴る。
 その音を聞いた瞬間、体が自然にこわばった。

 「ただいま」
 「……おかえり」

 たったそれだけの会話で、空気が凍った。

 キッチンに置きっぱなしだった花束に、美咲はふと目をやった。
 しおれかけたガーベラ。
 何も言わず、何も触れず、彼女はそれを通り過ぎた。

 俺も言葉を発しなかった。
 “今さら”という言い訳が、喉の奥で蓋をしていた。

 夕食はそれぞれ別にとった。
 同じ部屋にいても、もう完全に“別の時間”を生きている。
 ギターを触る気にもなれず、ただノートを開いた。

 そこには、今日の午後に書き足した一行がある。

「ありがとう」が、届くうちに言えばよかった。

 ただ、それだけ。
 タイトルもサビもない、たった一行の歌詞。
 でも、今の自分のすべてだった。

 夜になっても、美咲は花束に触れようとしなかった。
 テレビを見ながら、ビールを飲み、スマホをいじり、
 まるで“何も見ていない”かのようにふるまっていた。

 たまに笑うその顔が、誰に向けたものなのか、もうわからなかった。

 「次のライブ、行けるかわかんないや」
 ふと、美咲が言った。
 「その日、シフト入るかもで。まだ確定じゃないけど」
 「……そっか」

 何も聞き返さなかった。
 どこで、誰と、何をしているのか――
 もう、それを詮索する権利すら、自分にはないような気がしていた。

 部屋の電気を落としたあと、ベッドに横たわった彼女の背中は遠かった。
 俺は眠れずに、ノートをめくり続けた。
 どのページにも、“過去の俺”がいた。
 でも、今の俺は、どこにもいなかった。

 最後のページを開く。
 そこに、新しいタイトルだけを書き加えた。

「叫べ、まだ終わりじゃない」

 音には、まだ何も乗っていなかった。
 でも、その言葉だけが、確かに心に残っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異世界の花嫁?お断りします。

momo6
恋愛
三十路を過ぎたOL 椿(つばき)は帰宅後、地震に見舞われる。気付いたら異世界にいた。 そこで出逢った王子に求婚を申し込まれましたけど、 知らない人と結婚なんてお断りです。 貞操の危機を感じ、逃げ出した先に居たのは妖精王ですって? 甘ったるい愛を囁いてもダメです。 異世界に来たなら、この世界を楽しむのが先です!! 恋愛よりも衣食住。これが大事です! お金が無くては生活出来ません!働いて稼いで、美味しい物を食べるんです(๑>◡<๑) ・・・えっ?全部ある? 働かなくてもいい? ーーー惑わされません!甘い誘惑には罠が付き物です! ***** 目に止めていただき、ありがとうございます(〃ω〃) 未熟な所もありますが 楽しんで頂けたから幸いです。

君までの距離

高遠 加奈
恋愛
普通のOLが出会った、特別な恋。 マンホールにはまったパンプスのヒールを外して、はかせてくれた彼は特別な人でした。

〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー

i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆ 最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡ バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。 数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

2月31日 ~少しずれている世界~

希花 紀歩
恋愛
プロポーズ予定日に彼氏と親友に裏切られた・・・はずだった 4年に一度やってくる2月29日の誕生日。 日付が変わる瞬間大好きな王子様系彼氏にプロポーズされるはずだった私。 でも彼に告げられたのは結婚の申し込みではなく、別れの言葉だった。 私の親友と結婚するという彼を泊まっていた高級ホテルに置いて自宅に帰り、お酒を浴びるように飲んだ最悪の誕生日。 翌朝。仕事に行こうと目を覚ました私の隣に寝ていたのは別れたはずの彼氏だった。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

【完結】指先が触れる距離

山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。 必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。 「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。 手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。 近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。

処理中です...