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キャバレー ピンクヘルパー
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五年前にヘルパー二級の資格を取ったのはこれから介護の仕事が増えるよと姉の薦めだった。
「どうして介護の仕事が増えるの?」
「十年後には年寄りばっかりになるからさ、そんなことも分からないのかお前は」
男勝りの姉はこれから介護職が必要になると世間の噂から一早くヘルパー二級の資格を取った。そして緑区のホームに勤めるようになった。それが半年もしないうちに辞めてしまった。
「どうしたの姉さん?」
「割に合わない、きつい、汚い仕事の割に金がめちゃ安い。お前も止めたほうがいいいぞ」
「どうして?もう受講してるよ。助成金ももらってるし今更止められない」
「まあ資格だけ取ってても損はない。失業していざとなったら食い繋ぎにはなるだろう」
その食い繋ぎがやって来た。会社が倒産した。バブルが弾けてもワークシェアリングしながら持ちこたえていた会社が出勤した朝に潰れていた。昨日の帰りには笑って挨拶していた事務のおばさん達も誰も来ていない。私物は全て持ち帰っていた。親族経営だから前日からの作戦通りの倒産だった。僕には車のローンがあった。貯えもない、貯えるほどもらっていなかった。姉と二人暮らしでマンションの家賃から光熱費一切を割勘である。食費はそれぞれ自分持ち。僕も来年二十八歳になる平成十年の秋だった。
「建築屋は大手じゃなきゃ安心出来ないな。お前んとこみたいな三十人足らずの会社じゃ危機には太刀打ちできない」
ヘルパー辞めてから元のホステス業に戻っていた姉が言った。
「姉さんの付き合いで建設会社の人はいない、いたら紹介して欲しいな」
「お前資格は?二級建築管理技士?駄目だそれじゃ、石投げれば二級に当たる。どんな資格も一級じゃなきゃ認めてくれない」
建設業界はどこも低迷していた。金が無けりゃ家を建てない、直さない。建物造らなきゃ建築屋要らない。
「姉さん、僕ヘルパーやってみようかな」
「ヘルパーも二級じゃ給料安いぞ、介護そのものが査定低いからな。その割に仕事きついぞ。お前他人のお尻拭けるか。うんこべったりついた年寄りのお尻拭けるか?」
「僕は免許あるから運転業務を希望している」
「お前は運転だけで身体介護はやらないつもりか?そんなことはきれいごとだよ。チームで動くんだからやらざるを得ない。それが出来なきゃホームは採用しないよ。お前みたいな介護ど素人は腐るほどいるんだ。みんなとりあえず生きていく上での保険の資格だよ。勤め先を首になったときの腰掛け的な一時しのぎだよ。でもこれから年寄り増えるからな、給料安いけど仕事は増える」
僕は想像した。寝たきりの年寄りのおむつを取り替える作業。慣れるものなのだろうか。自分の便が指についても汚く感じるのに他人の尻を拭くことが出来るだろうか。やはり運転手希望であちこちを当たった。寮完備で三食付き、手取十六万。好きなビールを止めれば一日に掛かる生活費ゼロ円。マンション確保のために五万は姉に支払う。光熱費は使わないから不要。一年我慢すれば単純計算だが百二十万円貯金出来る。
「場所はどこだ?」
「福島のいわき市」
「お前がヘルパーねえ、まあやるだけやってみな。半年は我慢しろよ」
「ああ、姉さんの記録半年は抜くつもりさ」
ホステスの仕事もあまり順調じゃない様子だった。姉さん曰く、建築業が暇だと夜の商売も連動するらしい。会社勤めも経費が落ちないらしい。人の金ならいくらでも飲む連中だが自分の財布からは出さない。それでよく会社が持つもんだと不思議がっていた。
「それじゃ行って来ます。姉さん飲み過ぎないようにね」
姉が嬉し涙を眠気で誤魔化した。荷物は姉から借りた大きなボストンバッグひとつ、着替えと日常必需品を詰め込んだ。いわきの街は大きくてこれなら何でも揃うと安心していたが乗り込んだバスに三十分揺られて下車した所は林の中の路の行き止まりだった。バス停に介護ホーム『桃色黄昏』と小さな看板がある。まだ夕方だからその看板を見つけることが出来た。夜なら全く気が付かない。看板には矢印があり林道を歩いた。車一台がやっと通れる幅員である。轍以外は草が伸びている。右側の轍は水溜りがある。バス停からもう二十分歩いたが建物らしきものが見当たらない。陽は完全に沈み灯が無ければ歩けない。前からライトを上向きにした車が来た。避けるには林に入らなければならない。
「何処にえぐんだべこんな時間に?」
運転手が気付いてくれた。
「介護ホーム、桃色 黄昏」
「なに?ももいろたそがれだ?演歌のよこはまたそがれみたいにこくんじゃない」
「じゃあれは何と発音すればいいんですか?」
「あれはピンクトワイライトと読むんだぞい、それくらい分からないべ?」
誰が読んでも桃色黄昏でカタカナで尋ねる者はいないと思う。
「道順を教えて欲しいんですけど」
「轍、あんたから見て右側を歩いて十分」
目途がついた。
「ありがとうございます」
歩き出すと「おい」と声が掛かった。
「ほんじぇ終わりじゃない、この時間帯猪の通る獣道になっているから左側の轍をえぐんだべ」
よく分からない。右の轍が獣道だから左を行けと言っているのだろうか。
「十分ぐらい歩くと地蔵があるからそれを右方向に進むんだべ」
「分かりました。十分ぐらい左の轍を歩くと石の地蔵さんがあるからそこを右方向に進めば介護ホームピンクトワイライトに行き当たるんですね」
「誰が石の地蔵って言った。瀬戸物の地蔵だ、こんなちゃっこいやつ」
運転手の男は手で大きさを表現した。三十センチに満たない。
「ホームの所長が道標に置いたもんだ。そこを右に曲がり五分ほど行くとまた地蔵があるからそれを左にまがるんだべ」
整理しないと分からなくなってきた。左側の轍を十分歩いて行くと瀬戸物の地蔵があるからそこを右に曲がる。五分ほど歩くとまた地蔵があるからそこを左に曲がる。
「今度の地蔵さんはどういう材質ですか?」
僕はシャレのつもりで訊いてみた。
「地蔵は大概石だべ、石以外にあるなら見てみてい。さっきは区別するためにあえて瀬戸物と伝えたんだ」
シャレは完全に外れた。
「左に曲がると見えるんですね?」
車の中で大笑いしている。助手席から女の笑い声がする。
「そこの路をしばらく行くと校門がある。そうだなあ歩きなら十分掛るかなあ」
十分、五分、十分で二十五分、ここまで二十分、四十五分の道程じゃ徒歩じゃきつい。それでも先が見えたことに安心した。
「ありがとうございます」
「ほんじぇにしゃホームに何の用があるのかね?」
「僕はヘルパーなんです。明日から桃色黄昏で働くことになっています」
説明する義務もないが丁寧に道案内してくれたので正直に話した。
「それじゃあんたは横浜から来た三上さんかね?」
運転手は僕の名前を知っていた。
「はい、でもどうして僕の名前を?」
「どうしたもこうしたもあるけぇ、俺はあんたを迎えにえぐところだぞい」
「それじゃあなたはホームの方ですか?」
「今野と申すっぺない。ここで待っててくだっしょ、明美ちゃん送ったらすぐに戻るから」
軽トラは走り去った。さっきまでの問答はなんだったのだろうか。僕が鈍いのか運転手がとぼけていたのか。まあどっちでもいい。僕は暗闇の中左側の轍を歩いた。運転手の今野さんの説明通りに歩いていると後ろからクラクションを鳴らされた。パッシングをしている。
「どうぞ」
僕は助手席に乗ろうすると今野さんは指を後ろに立てた。
「後ろ、はい」
ボストンバッグを投げ入れ軽トラの荷台に乗り込んだ。なんか生臭いしコバエが飛んでいる。暗いからよく見えないが僕の横に何かが横たわっていた。猪が多いから恐らく車と衝突して絶命した猪だろうと思った。校門を入ると確かに学校である。二階建て木造建築、都会ではすっかり消えてしまった校舎である。軽トラは体育館の前で停まった。
「お疲れ様だぁ~所長室に案内しっべないよ」
体育館から渡り廊下を歩いて昇降口で止まった。
「おらおらおらおらおら~」
一階の廊下を車椅子が物凄いスピードで駆け抜けていった。
「外から中に入る時は必ず一旦停止すること、階段下りる前にも一旦停止して確認する」
今野さんはそれだけ言って廊下を渡り階段を上り始めた。僕もボストンバッグを担いで後に続いた。
「おらおらおらおらおら~」
廊下を渡り切るとさっきの車椅子が戻って来た。
「さあここだぁ~、ひとつだけ注意しておきっしょ。所長はヘルパー一級だぁ~わい」
今野さんは笑って階段を下り始めた。
「今野さん、軽トラの荷台に転がっているシート掛けたの、あれ何ですか?妙に生臭かった」
「あれはね、あっはっはっは」
答えないで行ってしまった。所長室をノックする。返事がない。引き戸を開けた。
「今晩は、横浜から来た三上です」
返事がないので灯が見える方に進んだ。
「わっ」
後ろからのっぺらぼうのお面を付けた女が現れた。僕を脅したつもりだろうが所長が歓迎の悪戯だろうとすぐに気付いた。
「今晩は初めまして」
僕がのっぺらぼうに挨拶すると「何だつまんない」とその面を外した
「わわっぁ」
お約束のつもりで驚いたのが面白くないようだった。いい女なら冗談で通じるがのっぺらぼうよりずっと迫力のある面相だった。齢は還暦ぐらい、太っちょで首無し、顏は化粧が濃くて本物のパーツが読み取れない。ピンクのナース服はミニで大きなパンツが膝まである。どうしてもセクシーじゃない。
「改めまして横浜から来た三上博と申します」
「あんた独り者?」
「ええまあ」
「あたしも独り者、所長の吉田珠子ヘルパー一級、こっち来て」
僕は後に続いた。恐らく教室を改造したのだろう、間仕切りがあり一番奥の部屋に通された。
「ここは元理科室ですか?」
「よく分かったわねえ、あんた催眠術師?」
多分超能力者と言い間違えている。奥の棚にフラスコとビーカーが並んでいる、ここが学校であるなら理科室以外考えられない。
「いや何となくそんな気がしたので」
「そうでしょ、それが催眠術師なのよ。自分じゃ分からない才能かもしれないわよ。延ばした方がいいわ、このホームで延ばしたらいいわ」
今日は間違えを指摘しない方がいい。でも衝撃的な出迎えだったせいかすごく温かい人に感じた。
「ヘルパーの寮はこの二階、あなたの部屋は一昨日亡くなった明美さんの部屋を使っていただきましょうか、まだ死んだときのまま片付けていないからちょうどいい、博君にお願いしましょうか。日当たりのいい、最高の部屋よ」
いくら日当たりが良くても一昨日死んだヘルパーの部屋は気がひけた。それもそのまま手付かずのままだと言う。そう言えば運転手の今野さんが明美ちゃんを送って来ると言っていた。助手席から女の笑い声がしたが別の明美ちゃんであることを祈った。
「ヘルパーさんは何人いらっしゃるんですか?」
「ヘルパーはあなたを入れて十人、患者は二十五人、一人で2.5人の世話をする割合、まあ家庭で両親を面倒看ると思えば楽よ、その上お給料がいただける。親孝行しながらお金をもらえるなんて最高の幸せを掴んだわねあなたは、この道楽者が」
道楽者?幸せを掴んだ僕が道楽者、よく分かんないけどまあいいや。
「朝食は何時でしょうか?寝坊してもいけないし」
「好き好きよ」
「好き好き?」
「そう好き好き。まあ他のヘルパーさんから徐々に教わればいいわ」
僕は所長室を出て長い板張りの廊下を歩いた。学校の教室にはトイレがない。だから夜中でも階段を下りて昇降口の横のトイレを利用するしかない。
僕は一昨日死んだばかりの明美さんの部屋に入った。教室を半分に間仕切りした広い部屋は確かに日当たりが良さそうだった。半分は畳敷きでもう半分は昔の教室のままである。明かりを点けると窓ガラスいっぱいに虫が張り付いた。電気を消してボストンバッグから小さな蛍光灯を出して点けた。和室には布団が敷いてあり掛布団が半分捲れた状態。明美さんは寝床で死んだのかもしれない。他に布団らしきものはない。風呂場は一階だと言う。シャワーを浴びたいが面倒臭い。睡魔に襲われた。仕方なく明美さんの死の床に潜り込んだ。ひんやりとした敷布団の触れ心地が『いらっしゃい』と言っているように感じた。
周りのざわめきで目が覚めた。運動場の方が騒がしい。寝返りを打つと女の人が枕元に正座していた。驚いて跳び起きた。ピンクのナース服はミニ、所長よりは少し若いが遜色ない。ただ痩せているから皺が目立つ。姉が齢を取るとこんな感じになるような気がした。
「気持ちよさそうに寝ていたから起こさなかったの」
「びっくりしました。いつからここに?」
「約一時間、三時間待っても起きなければ首絞めて起こすように駒子所長に言われたの、だって駒子所長はヘルパー一級だもの」
僕は布団から出ようにも出れなかった。男には朝勃起がある。鎮めなければ布団から出れない。
「すいませんが出て行ってもらえますか、着替えますから」
そう言いながら倅に治まるよう念じていたが一向に言うことを聞かない。
「私は最上米子、ヘルパー二級、あなたは?」
僕は半身起こした。
「僕は三上博と申します。今日からこの桃色黄昏でお世話になります。右も左も分からないけど宜しくご指導お願いします」
「右も左も分からないの?右、左、あなたから見て」
米子さんは僕から見て右に指差し、続いて左に指を差した。僕は物の例えで話したつもりだが彼女の解釈は間違っていない。
「下で待ってます」
米子さんは立ち上がりスリッパを履いた。屈むと白いパンツが丸見えになった。治まりかけた僕の倅がまた反応した。こっちを向いて笑った米子さんの欠けた前歯でさっと治まった。正直者の倅でよかった。
階段を下りると「危ない」と声を掛けられ立ち止まった。
「おらおらおらおらおら~」と例の車椅子が通過した。
「もうちょっと待って、戻って来るから」
おばさんだけどきれいな女の人だった。やはりピンクのナース服はミニ、白っぽいタイツを穿いていた。もし寝床に座って待ってくれていたのが米子さんではなくこの女性なら倅も喜んだに違いない。車椅子が走り去った。
「僕は今日からお世話になる三上博と申します。よろしくお願いします」
「私は園田薫子ヘルパー二級です。こちらこそよろしくお願いします」
「すいませんが今の車椅子の方は?」
「座っている方が高田さん、押している方が二宮さん、仲がいいのよ。こっちから戻れば十五分は安心だから」
僕は園田薫子さんの後に続いた。
「すいませんが朝食はどうすればいいのでしょうか?」
「好き好きよ」
米子さんにも同じことを言われた。
「好き好き?」
「そう好き好き。野菜は畑から好きな物を、卵も鶏舎から好きなだけ取り放題、米と小麦粉は倉庫から好きなだけどうぞ」
「だから好き好き?」
「そう好き好き。ありがたいご指導です、だって駒子先生はヘルパー一級ですから」
薫子さんは『ルーム紅』のドアをノックして入った。
「おいで、みんなに紹介するから」
薫子さんが声を掛けてくれた。
「おはようございます」
作業中のヘルパーが僕に集中した。
「みなさん紹介します、今日から仲間入りした三上博さんです。さあ自己紹介してください」
僕は名前と年齢と簡単な経歴を伝えた。すると拍手が起きた。ヘルパーさんと患者さんが盛大な拍手で迎えてくれた。こんな経験は、まだ上下関係の発生しない小学二年生のとき、作文コンクールで優秀作品に選ばれた時以来である。駒子所長が患者を紹介すると言ってついて回った。
「患者さんはあなたの家族になる人、ヘルパーさんはあなたの友達になる人。家族と友人と仲良くやるのよ」
駒子所長は昨夜の服装と同じだった。後にパンツが大きいのはおむつをしているからだと分かった。
「このホームにいる方々はほとんど認知症、車椅子を含めて自分で移動できる人は十五人、寝た切りの人が十人、あなたに担当になってもらう患者さんは寝た切りの後藤さんと清水さん、それから車椅子の加藤さん。今から紹介しますからね」
後藤さんは例えが悪いけど海獣のセイウチに近い身体つきだった。
「ばふっ」
後藤さんが息を吐いた。
「お腹空いたのね後藤さん、すぐに準備するからね」
「ブヒョ」
これも息を吐いたのかと思ったが屁だった。
「おーくちゃいくちゃい」
駒子所長の赤ちゃん言葉が似合わない悪臭を発している。気体がこれじゃ固体はどうなのか考えると恐ろしかった。
「彼はほとんど生きていると言う意識は持っていないの。ただ食べて排泄するだけ。女だと三人がかりで横向きにするの。あなたなら一人で出来そうね」
どういう作業内容かすぐに分かった。このセイウチの尻を拭うことである。姉に言われたことを想い出した。『お前他人の尻が拭けるか?』と。
「駒子所長、すいませんけど運転業務はないでしょうか?」
僕は思い切って訊いてみた。
「どうして?あなたの理由が訊きたいの」
この人の尻が拭けないからですと言ったらどうなるだろうか。首になるかもしれない。
「さっきも言ったでしょ、患者さんは家族、あなたのおじいちゃんおばあちゃんよ。家族の下の世話が出来ないの?本来は家族がするものをお金をいただいてヘルパーが代わりにやるの。だから患者さんはヘルパーの家族なの、分かる?」
駒子所長は僕の質問を知っていた。「はい」と答えてしまった。
「清水さん、体調はどう?」
清水さんは笑って頷いた。
「今度清水さんの担当になった三上博君、若い男の子よ」
清水さんは笑って頷くだけだった。
「手間の掛からないおばあちゃんよ」
加藤さんはグラウンドに出ていた。畑作業をしているヘルパーと患者を見て笑っていた。
「加藤さん、今度担当になってもらう三上博君です」
加藤さんが僕に敬礼した。僕も敬礼で帰した。
「貴様は何処の部隊に所属しとる?」
僕は意味が分からなくて駒子所長に助けも求めた。
「いいのよ、あなたが思うことを伝えなさい、あなたが新人だからふざけてるのよ」
そう言われても下手をしたら怒られそうである。
「横浜部隊から来ました」
「そうかね、横浜はどうだね、こんなに静かじゃないだろう」
そう言ってまた畑仕事を見入っていた。こうして僕のホーム桃色黄昏の暮らしは始まった。僕の直属の上司は今朝枕元に座っていた米子さんになった。分からないことはやる前に米子さんに聞くことと念を押された。条件食事付きは好きな食材を好きなだけ畑から捥ぎ取り、好きに料理して食べて良し。確かに食事付きだが手調理とは思わなかった。それでも肉以外の食材は手に入る。肉も猪と鹿なら地元猟師の差し入れがある。今野さんは猪を吊るして上手に捌いていた。ホームの裏に川が流れていてそこで小魚が釣れた。天然のアユも釣れて塩焼きにすると最高だった。キャンプみたいで楽しい事ばかりのようだが、やはり他人の下の世話をするのは一向になれない。特に僕がセイウチと渾名を付けた後藤さんは体重が百キロ超で寝た切り、脳は食べる事だけに反応している。食べるから出る物も大量で大きなおむつに収まり切れない時がある。寝返りを打たないと床ずれが起きる。おむつを替えるタイミングで寝返りをさせる。
「ブヒュヒュビヒュリョ」
お尻を拭いている時に屁をする。それが飛んで顔に付く。『おじいちゃんだ、僕のおじいちゃんだ、家族として当たり前の身内の下の世話をしながら月に一度給料がいただける。こんな道楽者はいない』駒子所長の言葉を想い出しそれを念仏のように唱えながら後藤さんの下の世話を日に三回熟している。
「博君、所長室にすぐ行って、駒子所長がお呼びです、だって駒子所長は一級よ」
ヘルパーまとめ役の篠塚恵子さんに言われてすぐに向かった。
「そこへ座って」
駒子所長に笑みがない。白塗りに目鼻口のパーツが縁どられているが毎日微妙に違う。今日は唇が凄く厚い。
「なんでしょうか?」
「私のおっぱいを揉んでちょうだい」
駒子所長はだらんと垂らした。僕は根元の方を掴んで軽く揉んだ。ふくらはぎや二の腕と変わらない感触。まるでエロくない。
「もっと先っぽ」
先っぽとは乳首である。僕は指で転がした。
「ああん、ああん、感じる、もういいわ、これ以上続けると博君が狼に変身しても困るから」
そう言ってだらんとしたおっぱいをナース服の中にずどんと落とし込んだ。僕は狼になりません、いやすいませんけどなれません。
「私が感じたの分かる?」
確かに演技じゃないような気がした。僕も恋人はいないが経験は数度ある。
「はい、なんとなく」
「齢を重ねても女は男にならないの。清水さんは今年古希、寝た切りだからって物じゃないのよ」
「僕はそんな風に見ていません。駒子所長から言われたように患者さんは家族、ヘルパーは友人として考えてます。まだ完全じゃないけどそう考えて仕事しています」
確かにつらいが患者を物として扱ったことなない。
「あなたが下のお世話をするとき、清水さんの敏感なとこに触れるのをあなたは気付いていましたか?」
そこまで考えていなかった。お尻をきれいに拭き取ることに専念していた。その時清水さんが女であることなど意識していない。
「あなたはまだ二十代、年寄りにならなければ分からないことがたくさんある。女は一生女なの、男も一生男でしょ。感性は薄れても無感じゃないのよ。いいわね」
駒子所長に注意を受けて反省した。清水さんを物としては見ていないが女としても見ていなかった。辛い思いをさせたかもしれない。微妙なところは薫子先生にお願いしよう。それにしても駒子所長の身を挺しての説得には恐れ入った。僕は所長室を出てグラウンドにいる加藤さんの所に行く。
「加藤さん、駒子所長に説教を喰らいました」
「そりゃしょうがない、駒子所長は一級だからな」
ヘルパーも患者もみんな駒子所長に対して一級を持ち出す。
「そうですよね、僕は二級だから」
「何を叱られた青年、空みたいに青いことか、それとも雲みたいに白いことか、どっちだ?」
加藤さんと話していると考えていることがばからしくなる。スケールの違いというか、僕一人が気を付ければいいことで雲の白にも届かないし、空の青など彼方の世界だった。
「いやもうどうでもいいんです。僕がしっかりと意識すれば解決することです。さすが駒子所長は一級ですね」
やっと使い方が分かった。
「そうさ、そういうもんだ」
「ところで加藤さんはいつからこのホームにいらっしゃるんですか?」
加藤さんは畑作業を見ている。運転手の今野さんが収穫した野菜を軽トラに積んでいる。
「おおーい」
今野さんが気付いて里芋の葉の向こうから手を振った。
「おおーい」
僕が手を振り返すと笑った。軽トラが里芋の葉の上を滑るように走っている。
「どうして介護の仕事が増えるの?」
「十年後には年寄りばっかりになるからさ、そんなことも分からないのかお前は」
男勝りの姉はこれから介護職が必要になると世間の噂から一早くヘルパー二級の資格を取った。そして緑区のホームに勤めるようになった。それが半年もしないうちに辞めてしまった。
「どうしたの姉さん?」
「割に合わない、きつい、汚い仕事の割に金がめちゃ安い。お前も止めたほうがいいいぞ」
「どうして?もう受講してるよ。助成金ももらってるし今更止められない」
「まあ資格だけ取ってても損はない。失業していざとなったら食い繋ぎにはなるだろう」
その食い繋ぎがやって来た。会社が倒産した。バブルが弾けてもワークシェアリングしながら持ちこたえていた会社が出勤した朝に潰れていた。昨日の帰りには笑って挨拶していた事務のおばさん達も誰も来ていない。私物は全て持ち帰っていた。親族経営だから前日からの作戦通りの倒産だった。僕には車のローンがあった。貯えもない、貯えるほどもらっていなかった。姉と二人暮らしでマンションの家賃から光熱費一切を割勘である。食費はそれぞれ自分持ち。僕も来年二十八歳になる平成十年の秋だった。
「建築屋は大手じゃなきゃ安心出来ないな。お前んとこみたいな三十人足らずの会社じゃ危機には太刀打ちできない」
ヘルパー辞めてから元のホステス業に戻っていた姉が言った。
「姉さんの付き合いで建設会社の人はいない、いたら紹介して欲しいな」
「お前資格は?二級建築管理技士?駄目だそれじゃ、石投げれば二級に当たる。どんな資格も一級じゃなきゃ認めてくれない」
建設業界はどこも低迷していた。金が無けりゃ家を建てない、直さない。建物造らなきゃ建築屋要らない。
「姉さん、僕ヘルパーやってみようかな」
「ヘルパーも二級じゃ給料安いぞ、介護そのものが査定低いからな。その割に仕事きついぞ。お前他人のお尻拭けるか。うんこべったりついた年寄りのお尻拭けるか?」
「僕は免許あるから運転業務を希望している」
「お前は運転だけで身体介護はやらないつもりか?そんなことはきれいごとだよ。チームで動くんだからやらざるを得ない。それが出来なきゃホームは採用しないよ。お前みたいな介護ど素人は腐るほどいるんだ。みんなとりあえず生きていく上での保険の資格だよ。勤め先を首になったときの腰掛け的な一時しのぎだよ。でもこれから年寄り増えるからな、給料安いけど仕事は増える」
僕は想像した。寝たきりの年寄りのおむつを取り替える作業。慣れるものなのだろうか。自分の便が指についても汚く感じるのに他人の尻を拭くことが出来るだろうか。やはり運転手希望であちこちを当たった。寮完備で三食付き、手取十六万。好きなビールを止めれば一日に掛かる生活費ゼロ円。マンション確保のために五万は姉に支払う。光熱費は使わないから不要。一年我慢すれば単純計算だが百二十万円貯金出来る。
「場所はどこだ?」
「福島のいわき市」
「お前がヘルパーねえ、まあやるだけやってみな。半年は我慢しろよ」
「ああ、姉さんの記録半年は抜くつもりさ」
ホステスの仕事もあまり順調じゃない様子だった。姉さん曰く、建築業が暇だと夜の商売も連動するらしい。会社勤めも経費が落ちないらしい。人の金ならいくらでも飲む連中だが自分の財布からは出さない。それでよく会社が持つもんだと不思議がっていた。
「それじゃ行って来ます。姉さん飲み過ぎないようにね」
姉が嬉し涙を眠気で誤魔化した。荷物は姉から借りた大きなボストンバッグひとつ、着替えと日常必需品を詰め込んだ。いわきの街は大きくてこれなら何でも揃うと安心していたが乗り込んだバスに三十分揺られて下車した所は林の中の路の行き止まりだった。バス停に介護ホーム『桃色黄昏』と小さな看板がある。まだ夕方だからその看板を見つけることが出来た。夜なら全く気が付かない。看板には矢印があり林道を歩いた。車一台がやっと通れる幅員である。轍以外は草が伸びている。右側の轍は水溜りがある。バス停からもう二十分歩いたが建物らしきものが見当たらない。陽は完全に沈み灯が無ければ歩けない。前からライトを上向きにした車が来た。避けるには林に入らなければならない。
「何処にえぐんだべこんな時間に?」
運転手が気付いてくれた。
「介護ホーム、桃色 黄昏」
「なに?ももいろたそがれだ?演歌のよこはまたそがれみたいにこくんじゃない」
「じゃあれは何と発音すればいいんですか?」
「あれはピンクトワイライトと読むんだぞい、それくらい分からないべ?」
誰が読んでも桃色黄昏でカタカナで尋ねる者はいないと思う。
「道順を教えて欲しいんですけど」
「轍、あんたから見て右側を歩いて十分」
目途がついた。
「ありがとうございます」
歩き出すと「おい」と声が掛かった。
「ほんじぇ終わりじゃない、この時間帯猪の通る獣道になっているから左側の轍をえぐんだべ」
よく分からない。右の轍が獣道だから左を行けと言っているのだろうか。
「十分ぐらい歩くと地蔵があるからそれを右方向に進むんだべ」
「分かりました。十分ぐらい左の轍を歩くと石の地蔵さんがあるからそこを右方向に進めば介護ホームピンクトワイライトに行き当たるんですね」
「誰が石の地蔵って言った。瀬戸物の地蔵だ、こんなちゃっこいやつ」
運転手の男は手で大きさを表現した。三十センチに満たない。
「ホームの所長が道標に置いたもんだ。そこを右に曲がり五分ほど行くとまた地蔵があるからそれを左にまがるんだべ」
整理しないと分からなくなってきた。左側の轍を十分歩いて行くと瀬戸物の地蔵があるからそこを右に曲がる。五分ほど歩くとまた地蔵があるからそこを左に曲がる。
「今度の地蔵さんはどういう材質ですか?」
僕はシャレのつもりで訊いてみた。
「地蔵は大概石だべ、石以外にあるなら見てみてい。さっきは区別するためにあえて瀬戸物と伝えたんだ」
シャレは完全に外れた。
「左に曲がると見えるんですね?」
車の中で大笑いしている。助手席から女の笑い声がする。
「そこの路をしばらく行くと校門がある。そうだなあ歩きなら十分掛るかなあ」
十分、五分、十分で二十五分、ここまで二十分、四十五分の道程じゃ徒歩じゃきつい。それでも先が見えたことに安心した。
「ありがとうございます」
「ほんじぇにしゃホームに何の用があるのかね?」
「僕はヘルパーなんです。明日から桃色黄昏で働くことになっています」
説明する義務もないが丁寧に道案内してくれたので正直に話した。
「それじゃあんたは横浜から来た三上さんかね?」
運転手は僕の名前を知っていた。
「はい、でもどうして僕の名前を?」
「どうしたもこうしたもあるけぇ、俺はあんたを迎えにえぐところだぞい」
「それじゃあなたはホームの方ですか?」
「今野と申すっぺない。ここで待っててくだっしょ、明美ちゃん送ったらすぐに戻るから」
軽トラは走り去った。さっきまでの問答はなんだったのだろうか。僕が鈍いのか運転手がとぼけていたのか。まあどっちでもいい。僕は暗闇の中左側の轍を歩いた。運転手の今野さんの説明通りに歩いていると後ろからクラクションを鳴らされた。パッシングをしている。
「どうぞ」
僕は助手席に乗ろうすると今野さんは指を後ろに立てた。
「後ろ、はい」
ボストンバッグを投げ入れ軽トラの荷台に乗り込んだ。なんか生臭いしコバエが飛んでいる。暗いからよく見えないが僕の横に何かが横たわっていた。猪が多いから恐らく車と衝突して絶命した猪だろうと思った。校門を入ると確かに学校である。二階建て木造建築、都会ではすっかり消えてしまった校舎である。軽トラは体育館の前で停まった。
「お疲れ様だぁ~所長室に案内しっべないよ」
体育館から渡り廊下を歩いて昇降口で止まった。
「おらおらおらおらおら~」
一階の廊下を車椅子が物凄いスピードで駆け抜けていった。
「外から中に入る時は必ず一旦停止すること、階段下りる前にも一旦停止して確認する」
今野さんはそれだけ言って廊下を渡り階段を上り始めた。僕もボストンバッグを担いで後に続いた。
「おらおらおらおらおら~」
廊下を渡り切るとさっきの車椅子が戻って来た。
「さあここだぁ~、ひとつだけ注意しておきっしょ。所長はヘルパー一級だぁ~わい」
今野さんは笑って階段を下り始めた。
「今野さん、軽トラの荷台に転がっているシート掛けたの、あれ何ですか?妙に生臭かった」
「あれはね、あっはっはっは」
答えないで行ってしまった。所長室をノックする。返事がない。引き戸を開けた。
「今晩は、横浜から来た三上です」
返事がないので灯が見える方に進んだ。
「わっ」
後ろからのっぺらぼうのお面を付けた女が現れた。僕を脅したつもりだろうが所長が歓迎の悪戯だろうとすぐに気付いた。
「今晩は初めまして」
僕がのっぺらぼうに挨拶すると「何だつまんない」とその面を外した
「わわっぁ」
お約束のつもりで驚いたのが面白くないようだった。いい女なら冗談で通じるがのっぺらぼうよりずっと迫力のある面相だった。齢は還暦ぐらい、太っちょで首無し、顏は化粧が濃くて本物のパーツが読み取れない。ピンクのナース服はミニで大きなパンツが膝まである。どうしてもセクシーじゃない。
「改めまして横浜から来た三上博と申します」
「あんた独り者?」
「ええまあ」
「あたしも独り者、所長の吉田珠子ヘルパー一級、こっち来て」
僕は後に続いた。恐らく教室を改造したのだろう、間仕切りがあり一番奥の部屋に通された。
「ここは元理科室ですか?」
「よく分かったわねえ、あんた催眠術師?」
多分超能力者と言い間違えている。奥の棚にフラスコとビーカーが並んでいる、ここが学校であるなら理科室以外考えられない。
「いや何となくそんな気がしたので」
「そうでしょ、それが催眠術師なのよ。自分じゃ分からない才能かもしれないわよ。延ばした方がいいわ、このホームで延ばしたらいいわ」
今日は間違えを指摘しない方がいい。でも衝撃的な出迎えだったせいかすごく温かい人に感じた。
「ヘルパーの寮はこの二階、あなたの部屋は一昨日亡くなった明美さんの部屋を使っていただきましょうか、まだ死んだときのまま片付けていないからちょうどいい、博君にお願いしましょうか。日当たりのいい、最高の部屋よ」
いくら日当たりが良くても一昨日死んだヘルパーの部屋は気がひけた。それもそのまま手付かずのままだと言う。そう言えば運転手の今野さんが明美ちゃんを送って来ると言っていた。助手席から女の笑い声がしたが別の明美ちゃんであることを祈った。
「ヘルパーさんは何人いらっしゃるんですか?」
「ヘルパーはあなたを入れて十人、患者は二十五人、一人で2.5人の世話をする割合、まあ家庭で両親を面倒看ると思えば楽よ、その上お給料がいただける。親孝行しながらお金をもらえるなんて最高の幸せを掴んだわねあなたは、この道楽者が」
道楽者?幸せを掴んだ僕が道楽者、よく分かんないけどまあいいや。
「朝食は何時でしょうか?寝坊してもいけないし」
「好き好きよ」
「好き好き?」
「そう好き好き。まあ他のヘルパーさんから徐々に教わればいいわ」
僕は所長室を出て長い板張りの廊下を歩いた。学校の教室にはトイレがない。だから夜中でも階段を下りて昇降口の横のトイレを利用するしかない。
僕は一昨日死んだばかりの明美さんの部屋に入った。教室を半分に間仕切りした広い部屋は確かに日当たりが良さそうだった。半分は畳敷きでもう半分は昔の教室のままである。明かりを点けると窓ガラスいっぱいに虫が張り付いた。電気を消してボストンバッグから小さな蛍光灯を出して点けた。和室には布団が敷いてあり掛布団が半分捲れた状態。明美さんは寝床で死んだのかもしれない。他に布団らしきものはない。風呂場は一階だと言う。シャワーを浴びたいが面倒臭い。睡魔に襲われた。仕方なく明美さんの死の床に潜り込んだ。ひんやりとした敷布団の触れ心地が『いらっしゃい』と言っているように感じた。
周りのざわめきで目が覚めた。運動場の方が騒がしい。寝返りを打つと女の人が枕元に正座していた。驚いて跳び起きた。ピンクのナース服はミニ、所長よりは少し若いが遜色ない。ただ痩せているから皺が目立つ。姉が齢を取るとこんな感じになるような気がした。
「気持ちよさそうに寝ていたから起こさなかったの」
「びっくりしました。いつからここに?」
「約一時間、三時間待っても起きなければ首絞めて起こすように駒子所長に言われたの、だって駒子所長はヘルパー一級だもの」
僕は布団から出ようにも出れなかった。男には朝勃起がある。鎮めなければ布団から出れない。
「すいませんが出て行ってもらえますか、着替えますから」
そう言いながら倅に治まるよう念じていたが一向に言うことを聞かない。
「私は最上米子、ヘルパー二級、あなたは?」
僕は半身起こした。
「僕は三上博と申します。今日からこの桃色黄昏でお世話になります。右も左も分からないけど宜しくご指導お願いします」
「右も左も分からないの?右、左、あなたから見て」
米子さんは僕から見て右に指差し、続いて左に指を差した。僕は物の例えで話したつもりだが彼女の解釈は間違っていない。
「下で待ってます」
米子さんは立ち上がりスリッパを履いた。屈むと白いパンツが丸見えになった。治まりかけた僕の倅がまた反応した。こっちを向いて笑った米子さんの欠けた前歯でさっと治まった。正直者の倅でよかった。
階段を下りると「危ない」と声を掛けられ立ち止まった。
「おらおらおらおらおら~」と例の車椅子が通過した。
「もうちょっと待って、戻って来るから」
おばさんだけどきれいな女の人だった。やはりピンクのナース服はミニ、白っぽいタイツを穿いていた。もし寝床に座って待ってくれていたのが米子さんではなくこの女性なら倅も喜んだに違いない。車椅子が走り去った。
「僕は今日からお世話になる三上博と申します。よろしくお願いします」
「私は園田薫子ヘルパー二級です。こちらこそよろしくお願いします」
「すいませんが今の車椅子の方は?」
「座っている方が高田さん、押している方が二宮さん、仲がいいのよ。こっちから戻れば十五分は安心だから」
僕は園田薫子さんの後に続いた。
「すいませんが朝食はどうすればいいのでしょうか?」
「好き好きよ」
米子さんにも同じことを言われた。
「好き好き?」
「そう好き好き。野菜は畑から好きな物を、卵も鶏舎から好きなだけ取り放題、米と小麦粉は倉庫から好きなだけどうぞ」
「だから好き好き?」
「そう好き好き。ありがたいご指導です、だって駒子先生はヘルパー一級ですから」
薫子さんは『ルーム紅』のドアをノックして入った。
「おいで、みんなに紹介するから」
薫子さんが声を掛けてくれた。
「おはようございます」
作業中のヘルパーが僕に集中した。
「みなさん紹介します、今日から仲間入りした三上博さんです。さあ自己紹介してください」
僕は名前と年齢と簡単な経歴を伝えた。すると拍手が起きた。ヘルパーさんと患者さんが盛大な拍手で迎えてくれた。こんな経験は、まだ上下関係の発生しない小学二年生のとき、作文コンクールで優秀作品に選ばれた時以来である。駒子所長が患者を紹介すると言ってついて回った。
「患者さんはあなたの家族になる人、ヘルパーさんはあなたの友達になる人。家族と友人と仲良くやるのよ」
駒子所長は昨夜の服装と同じだった。後にパンツが大きいのはおむつをしているからだと分かった。
「このホームにいる方々はほとんど認知症、車椅子を含めて自分で移動できる人は十五人、寝た切りの人が十人、あなたに担当になってもらう患者さんは寝た切りの後藤さんと清水さん、それから車椅子の加藤さん。今から紹介しますからね」
後藤さんは例えが悪いけど海獣のセイウチに近い身体つきだった。
「ばふっ」
後藤さんが息を吐いた。
「お腹空いたのね後藤さん、すぐに準備するからね」
「ブヒョ」
これも息を吐いたのかと思ったが屁だった。
「おーくちゃいくちゃい」
駒子所長の赤ちゃん言葉が似合わない悪臭を発している。気体がこれじゃ固体はどうなのか考えると恐ろしかった。
「彼はほとんど生きていると言う意識は持っていないの。ただ食べて排泄するだけ。女だと三人がかりで横向きにするの。あなたなら一人で出来そうね」
どういう作業内容かすぐに分かった。このセイウチの尻を拭うことである。姉に言われたことを想い出した。『お前他人の尻が拭けるか?』と。
「駒子所長、すいませんけど運転業務はないでしょうか?」
僕は思い切って訊いてみた。
「どうして?あなたの理由が訊きたいの」
この人の尻が拭けないからですと言ったらどうなるだろうか。首になるかもしれない。
「さっきも言ったでしょ、患者さんは家族、あなたのおじいちゃんおばあちゃんよ。家族の下の世話が出来ないの?本来は家族がするものをお金をいただいてヘルパーが代わりにやるの。だから患者さんはヘルパーの家族なの、分かる?」
駒子所長は僕の質問を知っていた。「はい」と答えてしまった。
「清水さん、体調はどう?」
清水さんは笑って頷いた。
「今度清水さんの担当になった三上博君、若い男の子よ」
清水さんは笑って頷くだけだった。
「手間の掛からないおばあちゃんよ」
加藤さんはグラウンドに出ていた。畑作業をしているヘルパーと患者を見て笑っていた。
「加藤さん、今度担当になってもらう三上博君です」
加藤さんが僕に敬礼した。僕も敬礼で帰した。
「貴様は何処の部隊に所属しとる?」
僕は意味が分からなくて駒子所長に助けも求めた。
「いいのよ、あなたが思うことを伝えなさい、あなたが新人だからふざけてるのよ」
そう言われても下手をしたら怒られそうである。
「横浜部隊から来ました」
「そうかね、横浜はどうだね、こんなに静かじゃないだろう」
そう言ってまた畑仕事を見入っていた。こうして僕のホーム桃色黄昏の暮らしは始まった。僕の直属の上司は今朝枕元に座っていた米子さんになった。分からないことはやる前に米子さんに聞くことと念を押された。条件食事付きは好きな食材を好きなだけ畑から捥ぎ取り、好きに料理して食べて良し。確かに食事付きだが手調理とは思わなかった。それでも肉以外の食材は手に入る。肉も猪と鹿なら地元猟師の差し入れがある。今野さんは猪を吊るして上手に捌いていた。ホームの裏に川が流れていてそこで小魚が釣れた。天然のアユも釣れて塩焼きにすると最高だった。キャンプみたいで楽しい事ばかりのようだが、やはり他人の下の世話をするのは一向になれない。特に僕がセイウチと渾名を付けた後藤さんは体重が百キロ超で寝た切り、脳は食べる事だけに反応している。食べるから出る物も大量で大きなおむつに収まり切れない時がある。寝返りを打たないと床ずれが起きる。おむつを替えるタイミングで寝返りをさせる。
「ブヒュヒュビヒュリョ」
お尻を拭いている時に屁をする。それが飛んで顔に付く。『おじいちゃんだ、僕のおじいちゃんだ、家族として当たり前の身内の下の世話をしながら月に一度給料がいただける。こんな道楽者はいない』駒子所長の言葉を想い出しそれを念仏のように唱えながら後藤さんの下の世話を日に三回熟している。
「博君、所長室にすぐ行って、駒子所長がお呼びです、だって駒子所長は一級よ」
ヘルパーまとめ役の篠塚恵子さんに言われてすぐに向かった。
「そこへ座って」
駒子所長に笑みがない。白塗りに目鼻口のパーツが縁どられているが毎日微妙に違う。今日は唇が凄く厚い。
「なんでしょうか?」
「私のおっぱいを揉んでちょうだい」
駒子所長はだらんと垂らした。僕は根元の方を掴んで軽く揉んだ。ふくらはぎや二の腕と変わらない感触。まるでエロくない。
「もっと先っぽ」
先っぽとは乳首である。僕は指で転がした。
「ああん、ああん、感じる、もういいわ、これ以上続けると博君が狼に変身しても困るから」
そう言ってだらんとしたおっぱいをナース服の中にずどんと落とし込んだ。僕は狼になりません、いやすいませんけどなれません。
「私が感じたの分かる?」
確かに演技じゃないような気がした。僕も恋人はいないが経験は数度ある。
「はい、なんとなく」
「齢を重ねても女は男にならないの。清水さんは今年古希、寝た切りだからって物じゃないのよ」
「僕はそんな風に見ていません。駒子所長から言われたように患者さんは家族、ヘルパーは友人として考えてます。まだ完全じゃないけどそう考えて仕事しています」
確かにつらいが患者を物として扱ったことなない。
「あなたが下のお世話をするとき、清水さんの敏感なとこに触れるのをあなたは気付いていましたか?」
そこまで考えていなかった。お尻をきれいに拭き取ることに専念していた。その時清水さんが女であることなど意識していない。
「あなたはまだ二十代、年寄りにならなければ分からないことがたくさんある。女は一生女なの、男も一生男でしょ。感性は薄れても無感じゃないのよ。いいわね」
駒子所長に注意を受けて反省した。清水さんを物としては見ていないが女としても見ていなかった。辛い思いをさせたかもしれない。微妙なところは薫子先生にお願いしよう。それにしても駒子所長の身を挺しての説得には恐れ入った。僕は所長室を出てグラウンドにいる加藤さんの所に行く。
「加藤さん、駒子所長に説教を喰らいました」
「そりゃしょうがない、駒子所長は一級だからな」
ヘルパーも患者もみんな駒子所長に対して一級を持ち出す。
「そうですよね、僕は二級だから」
「何を叱られた青年、空みたいに青いことか、それとも雲みたいに白いことか、どっちだ?」
加藤さんと話していると考えていることがばからしくなる。スケールの違いというか、僕一人が気を付ければいいことで雲の白にも届かないし、空の青など彼方の世界だった。
「いやもうどうでもいいんです。僕がしっかりと意識すれば解決することです。さすが駒子所長は一級ですね」
やっと使い方が分かった。
「そうさ、そういうもんだ」
「ところで加藤さんはいつからこのホームにいらっしゃるんですか?」
加藤さんは畑作業を見ている。運転手の今野さんが収穫した野菜を軽トラに積んでいる。
「おおーい」
今野さんが気付いて里芋の葉の向こうから手を振った。
「おおーい」
僕が手を振り返すと笑った。軽トラが里芋の葉の上を滑るように走っている。
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