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労災調査士『ファイル22 墜落(レッコ)』 5 

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「藤ちゃんもなんでこんな早く退院しちゃったんだろうなあ、もっとじっくり静養してりゃあよかったんだ、どうせ家帰ったって動けねえんだからよ、みてみろ、三日分の手間賃と医者代もらってチョンだぞ。後どうすんだ、一月も家でごろごろしてたって誰も飯食わしてくれねえっていうの」
 今更言ってもどうにもならない捨て台詞を、田中がしらけムードを駄目押しした。
「まったくだ、でもそういういい男なんだよ藤ちゃんて、迷惑かけんのが嫌なんだ、誰も迷惑だなんて思ってねえのによう」
 山崎が田中に付け加えた。
「なんで労災にしないんだ?」
 岡田が誰もが思う疑問を口にした。
「やっぱり、事務所も次の仕事を取るためにマイナス点を減らしたいんでしょう、それにこの現場大赤字だから、これ以上のトラブルは避けたいんじゃないの」
 織田が岡田に答えた。
「だけど好きで怪我してるわけじゃねえからなあ誰だって、藤ちゃんなんて大竹の仕事五十年やってんだろう、ふざけてるよな」
 五十年間大手ゼネコン大竹工業の仕事を二和建設を通して貢献してきた藤木ですらこの扱いである。その五分の一にも満たない自分が怪我しても仲間すら振り向いてくれないのじゃないだろうかと岡田は思った。
「だったら辞めるしかねえよ、文句があるならさっさと辞めちゃえばいいんだよ、誰も止める人はいねえから、昔からこういう会社なんだから、専務にばかやろうぐらい言って辞めればいいんだ、それ以外にねえよ、その代わり二和では金輪際働けないって覚悟しなきゃならないけどな」
 極論ではあるが正論である。居心地が悪ければ辞めればいいのだ。織田が言ったように辞めるという選択肢は職人一人一人が持っている。そのカードはいつでも使える。しかし仕事を失う不安が胸の奥深くに隠してしまうのであった。親方の一撃で岡田が撃沈した。田中と山崎はひどく不快に感じた。いや二人だけではない、織田班の職人全員がそう感じた。親方という立場はやはり職人サイドではなく、会社側、事務所側の人間であるのだと。

(七)

 高品が打ち合わせから帰ってきた。
「それじゃあみんな、B棟の屋上に集まってくれるかい。課長と倉田さんが検証するから、うちの番頭さんも来てる」
 屋上には既に竹垣労務課長とB棟担当の倉田、それに二和建設の長井の息子、義男が事故現場で待っていた。義男は事務所の職員より職人達の到着が遅いのに腹を立て、不快な顔を露にしていた、それを織田に向けた。
「えーっ揃いましたか、では周知会を始めましょう、みなさんご苦労様です、現場も後わずか、追い込みで忙しいところ、まあ二時間ぐらいでしょう、事故の検証を含め、再発の防止、まあこれからのマンション施工のモデルとなる現場ですから、こういう事故が増えてくる可能性がありますのでね、みなさんだけではなく、管理するうちとしても、事前に対処出来るような、まあ対策を検討する意味で、重要な検証となりますのでね、辛抱して最後まで付き合ってください。じゃあまず倉田さん、当日事故に関連した作業内容を細かく説明してください」
 竹垣は静かに、丁重に、職人達に焦りを与えないようにやさしく言った。竹垣は本社勤務で事故の検分には必ず出向く切れ者である。
「はい、まず当事者は鳶で、足場を架ける最中の事故でした」
「うん、それは分かっています。どこの部分に、何故足場が必要だったか説明してくれませんか?」
「はい、塔屋(屋上などの上に突出した建物、エレベーターのモーター部分を格納するための建物)部分の目地違いを補修するための足場です」
「エレベーター周りもこの三角屋根もやはりPCですよね、三角屋根はエレベーター部分より後に施工されたものですね?」
「そうです、エレベーター周りはかなり前に施工しましたが、南北の合わせ目部分がずれてまして、その部分の目地を合わせるというのが目的でした」
「南北面というと、ここからだと三角屋根の上の左側ですね、施工図見せてください」
「施工図と言いますと?」
「施工図ですよ、施工図、足場の」
「足場の図面はありません」
「どういうことですかそれは?」
「はい、あのう、本来足場を考えていなかった場所ですので、そのう、ありません」
 倉田が情けなさそうに言った。
「ありませんて、そりゃあ困るな、地上十八階の上の塔屋の足場を架けるのにありませんじゃ困るよ君、えっ、本来必要としない作業であったが、PC盤の施工ミスで足場が必要になったのでしょう、ということはPCが企画通りに出来ていれば足場は必要なかった、すなわち墜落事故はなかった。かかるコストも削減出来た。そういうことですよね、事故に遭った鳶さんは、失敗した作品の責任をとったわけだ」
 倉田は照れ笑いなのか苦笑いなのか自慢の顎鬚を掻いている。
「倉田さん、笑っている場合ではありませんよ、職人さんに任せるのもいいでしょう、難しい足場だから職人さんの方がよっぽど簡素で機能的な足場をかけてくれるでしょうが、相談してそれを絵にしないと駄目ですよ。あなた方は作業手順を私が来るたびに説明するじゃないですか、材料の荷揚げはどういう方法で、誰がどのポジションにつくか、先行親綱は設置出来るのか、どうやってどこに親綱を張るのか、しっかりとマニュアルを作成して私に説明してくれたじゃありませんか。それがどうして一番危険な場所ではないのですか?忙しいのはただの言い訳ですよ、命がかかっている仕事ですからね」
 倉田の顔は完全に下を向いてしまい、いちいち尤もな竹垣の話に反応出来なくなっていた。
「あっある、あります、図面あります。倉田さん」
 竹垣と倉田の間に山崎の若い衆である関野が割って入った。関野は安全バンドの後ろに付けてある皮の腰袋から小さく折られた一枚の紙切れを出した。それは倉田がメモ用紙に簡単に書いた絵であった。絵というよりマンガであった。三角屋根の上にボールペンで碁盤の目のように、たて横の線を書き殴ったものである。これは倉田が場所を説明するために、休憩室でさっと書いて山崎に渡したのだった。山崎は場所だけ確認すれば図面などいらなかった。このような足場がこの現場のあちこちで架けられていて、全て急を要する作業であり、監督が図面を描く時間的余裕もないし、また複雑な場所が多く、職人に任せていたのが現状であった。 場所を説明するために書かれたそのマンガは、休憩が終わり、山崎は机の上にそのままにしておいたのを、関野が忘れたと勘違いし、自分の腰袋に入れたのであった。関野は得意満面であったが、気の利かない関野に倉田も織田も渋い顔をしていた。
「ほら、これ一昨日休憩室で書いてくれたじゃん」
 そう言うと関野は、折目が切れ掛かっているA四サイズの薄汚れた紙を開いた。
「富士山ですか?」
 竹垣が寂しそうに言った。倉田は情けない表情で自分で書いた三角屋根のマンガを見つめていた。
「まあ、これは私が預かっておきましょう、事務所に戻ってから職員集めてじっくりやりましょう」
 倉田がさらにうな垂れた。
「親方、よかったですね、図面捨てなくて、倉田さんも面目立ちましたね」
 関野が、ドジを功績と勘違いして、満面の笑みで山崎に言った。
「ばかったれ」
 山崎は竹垣の死角で関野を一喝した。だが声は全員に届いた。
「えーでは検証始めましょうか、昨日この作業に携わった方は?三人ですか?」
「事故に遭われた藤木さんとで四人です」
「あっはい、この作業のリーダーは?」
「私です。山崎と言います」
「はい、ご苦労様です。それでは塔屋南北面の目地違いを直す作業にあたってどういう足場を考えていたのでしょうか?」
 山崎は前に出て説明を始めた。
「材料を十八階までロングエレベーターで荷揚げし、そこからは階段を担いで揚げました」
「材料の拾いは山崎さんが?図面はないわけですからねえ」
「はい、倉田さんから場所と作業内容は前日に確認していましたので、私が拾いました」
「そのメモはありますか?」
「いえ、それほどの数ではないので記憶していました」
「いつも図面なしで?」
 山崎は倉田を庇って嘘を吐いても吐き通すことは無理だと察し、図面のないことをはっきり言った。
「そうですね、躯体が建ち上がり、補修工事になってからは担当から正式な図面をいただいたことはありません」
「補修工事はいつも山崎さんが担当ですか?」
「そうですね、このグループで回り切れない仕事量がある場合は、職長の織田、もしくは高品が臨時班を結成してあたっています」
「どうです、図面がないと?」
「はっきり言わせてもらいますと、こういうある意味特殊な足場の場合、必要ありません、勝手に描かれても逆にやりづらくなるだけですから」
「的を射ない図面なんてない方がいいと?」
「はっきり言えばそういうことです。まあ時間的な余裕があり、担当から『図面描くから立ち会ってくれ』と指示されて、私達の意見が取り入れられた場合は別ですけど」
「それ以外はちんぷんかんぷんなマンガを渡されても困る?」
 倉田が苦笑いしている。
「労務課長、私の個人的な意見を言わせてもらえば、二十四時間体勢で動いているこの現場で今、そういう指示体制を守っていくのは無理があるように思うんですが。倉田さんを庇うわけではありませんが、まず図面を描く時間なんてないでしょう、上の人に補修箇所を指摘され、それを一両日中に是正する。どの職人も手一杯で、急に手配しても段取りがつかない、増員すればどうということはないが、金の出どこがはっきりしないからどちらも敬遠する。うちだけじゃない、こんな小さな作業でもそれに関係する職方は五業者あるいはそれ以上あります。お互いに時間のロスをしないように綿密に連絡を取り合う。その手の工事があちこちで発生しています。倉田さんもうちだけの、架設だけの担当ならいいけどそういう状況じゃないし、だいたい、この現場のどこに何の材料が残っているかなんて、職員は誰も把握していないでしょう、ある材料を有効に使い、運搬費等の無駄を省くようにとは織田職長からも厳しく指示されてますし、その通りだと思ってそうしてます」
「だから図面は必要ないとおっしゃりたい?」
「必要ないではなくてその余裕がないんです」
「余裕がないから事故が起きてもかまわない?」
「それは飛躍し過ぎじゃありませんか労務課長」
「図面があれば作業手順が説明出来る。手順通り作業を進めれば必ず先行親綱を設置する。命綱をかけていれば少なくても下まで転げ落ちずにすんだ。怪我の程度は運不運があるでしょうが、手順通りに進めていて、命綱に救われたのなら、誰の過失もありません。しっかりした安全施設を提供して、それを面倒がらずに確実に使用して滑ったのならしょうがないでしょう、しかし手順を無視して、一,二跳んで四と間を抜かしたとき、そこに事故が発生する確率が非常に高い。私は一応専門化ですからデーターを調べたり、また、このように検証に立ち会うことも頻繁にあります。ひとつひとつを検証していくと必ず手順の間引きがあります、手順を決めるのには図面がなければ不可能なんです。分かってくれますか?」
「それはようく分かります。ですが物理的に無理じゃないでしょうか、逆立ちしたって間に合うかどうかの瀬戸際の現場で、上から是正を指示され、その翌日には完了しなければならない、監督の数を倍に増やしたってそんなこと出来るかどうか」
「山崎さん、忙しいからといって作業工程に手抜きをしていいわけではありません。どうして工事がここまで遅れたのか、どうして元来不必要だった箇所に足場をかけなければならないのか、これはうちの社の問題です。しかし、事故は全員の問題なんです。うちも二和も、それ以外の業者も、新規で入ってくる作業員もいる、彼等一人一人の命がかかっています。たまたま今回は軽症であったから、下では何もなかったように作業を継続していますが、これが万が一死亡事故だったらどうなるでしょう、作業は停止され、責任の所在は明らかにされます。事務所でふんぞり返っている連中は起訴され責任をとらされます。二和建設も同様ですよ、山崎さん、作業リーダーの過失も問われますよ」
 強い口調の竹垣に山崎も寄り切られてしまった。長井の息子だけが調子よく、竹垣の発言にいちいち頷いている。時代劇でよくある光景で、悪徳商人が悪代官にこびへつらっているのにそっくりである。ただ違うのは、竹垣が悪ではないと、ここにいる職人達全員が感じていたことである。
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