花婿と花ムコの仲人

壺の蓋政五郎

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花婿と花ムコの仲人

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 川沿いの下小屋で犬を飼っている。コロと言って十五年前に川沿いで拾ったまさしく雑種である。雑種でもヨークシャーがおじいさんでスピッツがおばあさんの血を引いていると知ったかぶりの棟梁の話。その話を聞いた鳶の頭がそんな話が出るような雑種じゃない。雑種と言う種類を全うしている犬であると棟梁の意見に反対した。
「コロ、散歩行くか?」
 愛想の尻尾振り、行きたくないのである。下小屋の裏に二坪ほどの空き地がありそこで勝手に用足しを済ませている。
「お前よう、普通犬は散歩って飼い主が発声したら千切れんばかりに尾を振って喜ぶんだぞ。お前は寝そべったままで尻尾を床に叩き落とすだけじゃねえか、でもしょうがねえよな、齢だしな、それに十月だって言うのにこの暑さだもんな、地球も寿命かもしれねえな、俺も一緒、見ろ、アスファルトから湯気が上がってるよ」
 佐藤正一、今年還暦を迎える。中学卒業と同時に秋田から上京し左官親方の下十五年修行し独り立ちした。借家を大家からそのまま買い取った。大家は正一の人柄を気に入り借家を売ったのである。家賃と同額で二十年ローン。土地も含めればお買い得の物件である。三年前に支払いが終えると同時に雨漏りが始まった。今まで修理は大家持ちだった。だが持ち家になると自分で直さなければならない。
「借りていた方が良かったね」
 女房の美鈴が笑う。美鈴は正一よりずっと若くて四十一になったばかり。正一三十八歳、美鈴二十歳、周囲を驚かす婚姻だった。
「そう言うなって、俺等が家持つなんて考えもしなかった。ずっと借家住まいと決めてたのを大家さんの厚意だ」
「でもさ、子供でもいればいいけど、相続するわけでもないし、ずっと家賃の方が良かったんじゃない」
 二人は寝そべるコロを見つめていた。左官の仕事は年々減少している。建物の構造自体に左官の出番がなくなっているのである。先ず外壁の仕上げがなくなった。外壁の仕上げが無ければ日本間の漆喰と玄関と駐車場の馴らし程度。その日本間も激減している。一軒家に畳の部屋は一部屋が当たり前。下小屋の壁にずらっと掛けてある様々な鏝(こて)も出番を失って久しい。
「こんにちは」
 見掛けない若い男が佐藤夫妻に挨拶をした。正一は夏休みのアルバイト探しの大学生かと思った。近くに学生寮があり、十年前まではアルバイト募集のポップも貼って案内していた。左官屋は基本的に壁塗りが専門、工事が大きければこね屋と言う練り方も必要、一輪車を押す運び方も欠かせない。モルタルは時間が立てば固まってします。その役を学生アルバイトで賄っていた。毎年来るからそれなりに技術も上がる。学生寮の伝統的なアルバイト先としても人気があった。しかし今はアルバイトを頼むほど仕事量がない。自分達の生活だけでもいっぱいである。
「わりいけどずっと前からアルバイトは取ってねえんだ」
 若い男は自転車から下りて帽子を取った。
「覚えていませんか、この傷見てください」
 垂れた前髪を上げると額にギザギザの傷がある。正一はじっと考えた。まさか、二十年前の少年なのか。
「あれ、あの時の少年か?そこの交差点で車にぶつかった?」
「はい、あの時はありがとうございました」
「そうかあの時の君か?暑いから中に入れよ、クーラーねえけど日差しは避けられるから。どうせ暇だしその後の経緯を教えてくれ。美鈴、冷てえの買って来てくれよ」
「サイダーでいい?」
 若い男は頷いた。下小屋を見回している。木の道具箱を椅子にして向かい合った。コロは暑苦しいのか裏の空き地に行った。
「しかしそんなに傷が残っちゃったのか。おじさんの走りが遅かったからだな。悪いことしたな」
 謝罪する正一に笑って首を横に振った。
「ずっと考えていました。お礼に行かなければならない。何度もあの交差点まで足を運んだんですけど決心がつかなくて、すいません、こんなに遅れてしまい申し訳ありませんでした。そして、改めてありがとうございました」
 二十年前のことである。

『交差点で子供が轢かれた』
 近所の声に左官小屋で支度中の正一は道具を投げて交差点に走った。
『救急車呼んだか』
『呼んだけどこの渋滞だ、どんなに早くても二十分は掛かるぞ』
『怪我は?』
『分かんない、でも頭から血が出てる』
 正一は手拭いで止血をした。
『負ぶって中央病院なら五分だ、誰か連絡しとけ』
 額からの出血は赤インクを溢した様に幾つもの血筋がある。他に傷は見当たらないが腕が上がらないようだった。痛がっていない、ぐったりとしている。正一は少年を負ぶった。
『神様、どうかこの子を助けてやってください。いいか、大丈夫だからな、心配するな』
 正一は神様に祈りながら受付カウンターに走り込む。二人のナースが出て来て背中の子を下した。
『助けてやってくれよ看護婦さんよ、俺の走りが遅かったのは謝る。じじいならしょうがねえけど、こんなガキを夢も見ねえうちに殺しちゃったんじゃ罰が当たるぞ』
『落ち着いてください。命に別状はありません。はっきり言って邪魔です。担架から離れてください』

「意識が戻り看護婦さんからその話を聞きました。三日前も交差点からこの下小屋を見ていました。すぐにお礼をしたい半面、もしかしたら逆に迷惑じゃないかと考えてしまって今日まで来れませんでした。ほんとに申し訳ありません」
 男はやさしい顔で謝罪した。
「お前さんが謝ることはない、大人が子供を助けるのは当たり前のことだ。もし礼がしたいならじじいばばあに声掛けてやるこった。若い奴から話し掛けられるほど嬉しいことはない。ほら俺がそうだろ、俺んちは子供いねえし、あんたみたいな若い男前が話し掛けてくれると嬉しくてしょうがない。お前さん幾つになった、確かあの時五歳になるかならねえか」
「二十五になりました」
「そだよなあ、あれから二十年だもんなあ、俺達にも子供が出来りゃあんたぐらいかな」
 美鈴がサイダーを差し出した、男を見つめている。
「美鈴、この彼は二十年前にそこの交差点で車に轢かれて、ほら、俺が負んぶして中央病院まで運んだ、お前も覚えてんだろ」
「いい男になったねえ」
 美鈴は正一の話より男に見惚れていた。
「梨田弘和と言います。ご主人は命の恩人です。助けてもらってからこれまでご挨拶にも伺わず申し訳ありませんでした」
 弘和は立ち上がり美鈴に深く頭を下げた。
「あたし、お見舞いに行ったから覚えてるよ。まだあたし達が所帯持ったばかりだから、そう、もう二十年だ、ほんとにいい男になっちゃって」
 美鈴は喰い入るように弘和を見つめて頷いている。
「弘和君、気を付けろ、油断してるとうちの女房に喰われちゃからな」
 弘和は大笑いしている。
「川向こうのあの公団に越して来ました。今度遊びに来てもいいでしょうか?ご近所付き合い宜しくお願いします」
「当り前さ、それがご近所ってもんさ。何でもいい、困ったら声掛けてくれ。逆に俺達が困って相談に行ったりして」
 正一は冗談を飛ばした。
「実は僕、親がいませんで、ずっと叔父宅で育ちました。佐藤さんが本当の親だったらよかった」
 正一は嬉しくて照れた。弘和はまた来ると言い残し自転車に跨った。一礼して漕ぎ出した。
「おい、弘和、絶対に遊びに来いよ、約束だぞ。二十年分の約束だからな、今度裏切ったら承知しないからな。おい、その交差点は気は付けろ。もう負んぶ出来ないぞ」
 事故に遭った交差点を左折して手を振った。美鈴が両手で振り返した。
「失敗した、部屋番号聞いとけばよかった」
「そうだったな、電話番号もな。まあまた来るだろ、さあ俺達もそろそろ帰るか」

 十一月に入ると川沿いに吹く風が上流からの北風になる。自宅は下小屋から歩いて五分ほどのやはり川沿い。お城のような大家宅と二年前に建て替えたばかりの四階建ての賃貸マンションの間にある。去年川の対面に高層マンションが立って日当たりが悪くなった。木造の平屋で車一台が入る駐車場と同じぐらいの庭がある。乗用車は処分したので仕事用の軽トラックが一台しかなく下小屋に停めてある。駐車場二台分のスペースに去年芝を植えた。二人共卓球が好きで風のない日は卓球台を出して芝生の上を裸足で卓球を楽しんでいる。駅前の卓球場が潰れてしまったが卓球を続けたい一心で思い付いた。同じ思いの卓球仲間が訪ねて来て卓球大会の真似事をする。
「明日桜井夫婦と西野兄弟が来るわよ」
 明日、日曜日にその卓球大会の真似事がある。
「そうか、よし練習だ。こないだ六千円持っていかれたからな。明日は取り返そうぜ」
 一応勝敗に金を掛けている。掛け金は同額だが飲み食いは佐藤家が賄っている。試合に負けて只酒喰らわれる。でも集まって騒ぐのが二人共楽しみで文句は言わない。
「あっヤバい」 
 美鈴が雨粒を額に感じた。
「来るよ、これ来るよ」
 東の空が真っ黒である。卓球台を畳んでシートを被せると大粒の雨が一気に降りだした。二人は裸足で縁側から飛び込んだ。
「間一髪」
「あんた足拭いてよ」
 足を拭いてると稲光が空を切り裂いた。正一は武者震いして部屋に飛び込んだ。

 駐輪場に自転車を入れた。稲光が連続している。駐輪場から住宅入り口までは五十メートル、土砂降りの雨は降りだしたばかり、暫く止みそうにない。梨田弘和は走った。エントランスに飛び込んだがもうずぶ濡れ、エレベーターの床に雫が垂れる。床はきれいに掃除されているので気になった。住まいは最上階の十四階。
「ただいま」
「お帰りなさい、どっかで雨宿りすればよかったのに」
「うん、駐輪場で待っていたんだけど止みそうもなくて走った」
「シャワー浴びて着替えちゃえば」
 弘和を出迎えたのは松本純男二十七歳、二人はこの公団賃貸住宅に二週間前に越してきた。名義は梨田で松本は同居人名簿には記していない。形は梨田宅に居候している松本である。
「雨止みそうもないけど仕事行くの?」
 弘和が段ボールから衣服を出してクローゼットに仕舞い込んでいた。
「うん、休めないし。ママが困るし」
「純、タクシー呼ぼうか?」
「大丈夫、レインコートあるから、節約しないと」
「それじゃ送って行く」
「二人で濡れることないわ、ひとりで行ける。弘和は段ボール三つ片付けて、それ今夜のノルマ、明日休みだからいいでしょ」
 弘和は頷いてソファーに倒れた。純が覆い被さる。
「ねえ、茅ケ崎の叔父さんどうだったの」
「うん、実は純のことも話したんだ、隠さずにね。叔父さん自分はいいけど、先方の親のこと考えたら引き受けられないって」
 純は弘和の上から降りた。二人で座って段ボールを見つめた。
「なあ純、どうしても結婚式必要かな?僕は純とこうしてここで、一緒に暮らせれば幸せだよ」
 純が弘和の肩に凭れた。
「あたしね、丸亀の両親と約束したの。高校中退して東京に出る時ね、もし東京で結婚するなら招待するって。こっちに戻っても仕事なんてないから、ずっと東京で暮らしてもいいから、いい人が出来たら紹介してくれって言われた」
 純の肩に手を回した。
「でもご両親、相手が僕で驚かないかな。悲しい思いをさせたくないな」
「二人が幸せならいいじゃない、許してくれるよきっと、そして応援してくれると思う」
「分かった、絶対に仲人見つけよう、二人は幸せなんだと世間に見せびらかそう」
 弘和は純の手を握った。

「あらー、純良かった来てくれて、大雨だから心配してたの。純から電話が来たら無視しようと思ってた」
 スナック『ローズ』のママは来年還暦を迎える。藤沢駅から鎌倉方面に向かうバス停で二つ目。入り口の前の庇の下に純は立っていた。
「早く入れば」
「レインコートの雫を切ってから」
 純が空を見つめて言った。
「タクシー使わないの?こんな日ぐらい」
「ママがお給料上げてくれればね」
 ローズママは「はいはい」とカウンターに戻った。スナックローズは元々藤沢の新地にあった。地区の開発で去ることになる。初代ママが立ち退き保証金ごと今のママに引き継いだ。藤沢駅からタクシーで初乗り料金、だから客も確保出来るとこの場に店を構えた。初めのうちは元客も来ていたがそれも二年だった。今は近くの町工場の職工と地元独り者が客の九割を占める。独り者のほとんどが純目当てでやって来る。言わなければ分からない性別、純は隠しているわけではないが自ら進んでは言わない。純を本当に異性と思い込んでいる純真もいる。同性と分かっていても不思議な純の魅力に惹かれて足を運ぶ客も多い。
「純、私今年で引退するから」
 ローズママが真っ赤なマニュキアの太い指に細い煙草を挟んでいる。
「ママ煙草潰れる」
 純がママの太い指に挟まれた煙草を見て言った。ローズママは煙草を灰皿に掛けて挟み直した。
「この店どうするの?」
「決まってんじゃんお前に上げる」
「楓姉さんどうするの?」
「楓は頭がいいからそんなこと分かってるのよ。それにここのチョンガー共はみんなお前目当てだし」
 ローズママの細い煙草が折れた。
「だから言ったでしょ」
 純が折れた煙草を見て言った。
「ママは葉巻にすればいいのよ。ギャングが吸うような太い奴、あれなら指に負けないから」
「可愛くないこの子」
 ローズママが奥の控室に入ると楓が出勤した。
「雨止んだ、月が出てるよ朧月、こんな夜はねえ幽霊が出るよ」
 楓が手を前から提げた。
「お前が幽霊だよ」
 ローズママが笑って言った。
「失礼しちゃうわね、ママには言われたくない」
 純は二人の会話が楽しい。給料は安いけどそれだけでこの店にいる価値がある。三人共戸籍は男である。ローズママは既婚者、お鍋の旦那さんと三十年連れ添っている。ママの連れ子長男と三人暮らし。楓は一人暮らし、男をとっかえひっかえ気儘に生きている。元カレに教わって始めたFXが大当たりした。好きなパチンコ返上自宅でパソコンにへばりついている。静かにドアを開けるから客だと気が付かない。「純」と楓が小声で言った。純が気付いてカウンターに座るよう目配せした。
「いらっしゃい、ボトル切れてる。入れる?」
 若い男は恥ずかしそうに頷いた。他の客とも喋らない、二時間飲んで帰る。金払いはいい、上客の模範のような男。
「紀夫君、たまにはあたしがしごいて上げようか?」
 楓が男の肩に胸を擦り付けて照れ屋の男をからかう。
「止めなさいよ楓姉さん、紀夫君真っ赤になっちゃってんじゃない」
 純が楓に注意すると紀夫は照れている。出だしが大雨だったせいで客足は悪かった。それでも家賃と三人の手間賃にはなった。
「もう来ないから閉めよう」
 ローズママが言うより早く楓が看板を店に引き摺った。
「楓、ちょっと座って」
 ローズママが帰り支度の二人に言った。
「さっき純には言ったけど、年内に私引退する。それで純にこの店譲る。それをお前に言いたくて」
 楓は一瞬難しい顔をしたがすぐに微笑んだ。
「いいじゃない、あたしじゃ持たない、そんなこと分かってる。いいわよ、ママが辞めても純に協力する。逆にママがいなくなるとせいせいするよ。店が広くなる」
 楓は順番からして自分に回ってくるかもしれないと期待もしていた。しかし自分の器量では切り盛り出来ないことも自覚していた。ローズママからはっきりと引導を渡され未練を断ち切ることが出来た。
「ありがとう楓。お前とは二十年も一緒だね。どれだけ助けてもらったか」
「ママ、センチにならないでよそんな大きな顔して。ママが丸椅子に座っていると立っているのか座っているのか分かんないし」
 楓が自ら場の空気を切り替えた。
「楓姉さんありがとうございます。あたし一生懸命頑張ります。ママの為にも楓姉さんのためにもこの店盛り上げていきます」
 純が楓の手を取って頭を下げた。
「よし、どっかでお祝いしよう、火曜日に焼肉ご馳走する」
 ローズママが約束した。楓が帰る。
「純、ところで結婚式どうするの、仲人見つかったの?」
「うんう、旦那が必死に捜してる」
「だってもう丸亀の両親には電話で伝えたんだろ、ちゃんと旦那に言ったのか?」
「はっきりとは言ってない、臭わしてはあるけど、明日言う」
「明日ってあんたはのんびりしてんだから」
 ローズママがタクシーで帰る。純は戸締りをして濡れたサドルをハンカチで拭いた。朧月から靄が取れていた。

 お揃いのユニフォーム姿、胸に刺繍あり、西野兄、西野妹。勝手に庭から入り卓球台を広げた。
「あれ、ピンポン玉の音がするぞ」
 遅い朝食中の正一が鯵の開きを焼いている美鈴に言った。
「西野兄妹でしょ、勝ちに来てんだわ」
 焼いた鯵をテーブルに出すと『よっしゃー』と大きな声が聞こえた。
「最近兄が強くなったな、あいつらダブルス狙いだからな。おい風あるか?」
 美鈴が立ち上がり台所の窓から外を見た。
「あるある、いい風、南風」
 風があると魔球が出る。そのタイミングを夫婦は熟知している。
「よし、今日は浮かぶ魔球でいただきだ。ところで反省会の準備は?」
 反省会とは試合後の飲み会である。
「冷凍ピザと冷凍から揚げ、それと冷凍餃子と冷凍焼き鳥、野菜がないから冷凍きんぴら」
「冷凍も活躍の場を得たな、いいじゃんそれで、勝ったら二人で寿司食いに行こう」
「さんせいー」
 美鈴が片付ける。正一は立ち上がり縁側のガラス戸を開けた。
「ひとんちの庭に勝手に入り込んでけしからん、今日は成敗してくれるから覚悟しとけ」
「正ちゃん、そうはいきませんよ、西野妹のドライブサーブに磨きがかかったよ。名付けて『稲妻ボール』」
「お前も古いねネーミングが、稲妻なんて今時笑われるよ。『閃光サーブ』とかさ、思い付かない」
「どっちも古い、兄今のはバックで返し、無理にフォアで返そうとするから肘がおかしな形になって今みたいにグリップで受けちゃうのよ」
 西野妹は前の会社で卓球部に入っていた。それを西野兄に駅前の卓球場で教えた。二人共独身で兄はは五十歳、妹は四十一歳になった。佐藤夫婦とは卓球場で知り合い、大会後の酒の席で意気投合し付き合いだした。
「おこんにちは」
 ジャージ姿に肩から永ちゃんのタオルを掛けている。
「上がって~お茶入れる」
 美鈴が台所から返事をした。
「なんだあいつらもう練習してんのか?」
 桜井夫が縁側で言った。
「もう一時間前からよ」
「精が出ますね、西野兄の太腿、はち切れそう」
 桜井妻が西野兄の短パンを見て微笑んだ。
「佐藤さん」
 大家の中村がゴルフウェアーでやって来た。
「あら大家さんどうしたの、土日はゴルフでしょ」
「それがさ、中止になったんだ、箱根大雨で道路通行止めだって。庭にいたらピンポン玉の弾けるいい音が聞こえてさ、飛び入りいい?」
 大家はグリップハンドで素振りしている。
「どうぞどうぞ大歓迎よ、あんた、大家さんが飛び入り参加」
 大家の中村は下手糞、いい鴨である。佐藤家にとってこれで負け無しの太鼓判。
「はいはい大家さん、おーい、大家さんのお出ましだ、台空けろ、さあどうぞどうぞ、西野兄、練習相手になりなさい。大家さんまだ起きたばかりで準備運動してないからお手柔らかにな」
 正一は西野兄にウインクした。
「みなさん、飛び入りですが宜しくお願いします」
 大家が回りながらみなに一礼した。
「よっ、大家、この賞金稼ぎ」
 拍手の中、正一が声を飛ばす。これで寿司が確実になった。

 弘和がベランダで煙草を吸っていると純が出て来た。
「あたしにも一本ちょうだい」
 弘和は点けたばかりの自分のを渡した。
「こんな立派なマンションに住めるなんて夢みたい」 
 空を見上げて純が煙を吐いた。
「雲に届くかな」
「純、僕頑張って戸建て買うよ。駅まで自転車で行ける便利なとこは無理だけど、バスで三十分とか掛かる田舎かもしれないけど、それにそんなに大きな家じゃないけど絶対に買う」
「あたしも協力する。昨日ママがね、あたしに店を譲るって。あたし来年からママになるし、頑張れば頑張るだけ稼げるし、一緒に家買おう」
 二人はベランダの手摺に凭れた。
「犬飼ってさ、庭で遊ばせよう」
「そうしよう、大きい犬がいい」
「どんな犬でも大丈夫さ、自分ちなんだから」
「あっ、卓球やってる」
「あれっ、あの人もしかして」
 弘和は鉢巻をしたダボシャツの男に見覚えがある。

「さあ来い、西野兄、こないだの仇は取らせてもらう」
「そうはさせない、また戴いて帰りますよ」
 正一と西野兄の試合が始まった。一試合千円が勝者に入る。その他に1ポイント差に百円が掛かっている。これが意外に大きい、接戦だと賭け金も動かないが卓球は意外とピン差が付くゲームが多い。シングルスとダブルス総当たり戦である。庭先の物干しにハンカチを干してある。これは佐藤夫婦の作戦で、風向きによってコートを選ぶ、そしてハンカチが揺れた二秒後に台の上にその風が吹く。それを考えてスマッシュせずに高いボールを打ち返す。相手はこの時とばかりに叩き付けるがボールはふわっと浮いて空振りになる。そのタイミングが来た。美鈴が目配せする。正一がミスしたように高いボールを返す。西野兄が打ち込むが空振り。
「あれっ」
「見たか魔球」 
「きたねねよそんなの」
 美鈴が浮いたボールを見上げた時に川向こうの高層マンションのベランダにいる若い男と目が合った。男が一礼した。
「だよね、そうだよね」 
 美鈴が両手を振った。弘和が振り返した。正一が美鈴の手を振る方向を見た。
「あれっ、なんだ弘和じゃねえか、おおーい、おおーい」
 試合は大家さんが正一の代打ちになった。正一は新聞紙を拡声器のように丸めた。
「あ、あ、ただいまマイクのテスト中、聞こえるか~」
 弘和が手を挙げた。
「彼女か~」
 純も手を挙げた。
「二人で遊びにこ~い」
 二人は両手で応えた。

 弘和は課長に呼ばれた。屋上の喫煙コーナーで長椅子に座った。
「仲人の件だが、よく考えた、女房とも相談した。悪いが俺には荷が重い」
 会社ならこの人以外にいないとお願いした課長の武藤に断られた。どうして?断る理由を聞きたかったがそれも無意味と諦めた。
「ありがとうございます。なんか課長を悩ませちゃって申し訳ありませんでした」
「まだまだこういうレベルなんだよこの国は。俺も情けないがその枠から抜け出せない。女房に本当にいいの?親御さんにしっかりと話付いているの?って詰められてな。君の話じゃまだ色々と問題があるようだし。まあ全部クリアしてからなんて言っていたら、どんな婚姻も成立しないがね」
「いいんです、奥様にもよろしくお伝えください。課長、式には遊びに来てください」
「勿論だ、君等の愛には素直に祝福するよ」
 課長の武藤が最後の砦と考えていた。理解してくれる人を選んでお願いしたが甘かった。そうそう自分の思い通りにはいかない。弘和は純へ報告するのが辛かった。
「悪い知らせがある」
「えっ」
 純が驚いた。
「実は私も」
「ええっ」
 弘和はもっと驚いた。
「純からいいよ」
「弘和からにして」
 それじゃビールを飲んでからということになった。
「ワイン飲む?まだ引っ越し祝いしてないし」
「飲んじゃおうか、折角だから」
 ほろ酔いでシャワーを浴びながら愛し合う。性を超えた喜びに満ちる。触れているだけで熟睡に落ちる。
「あたしの悪い知らせはね、二週間後に両親が来るの」
 眠っていると思って語り掛けた弘和が飛び起きた。
「来るってここに?」
「ここに泊まるかどうかは別として披露宴に招待したの」
「誰の?」
「あたし達のよ、決まっているでしょ。だから悪い知らせって言ったの、弘和のは?」
「その前に解決しなきゃならないことがたくさんあり過ぎるよね?」
 弘和は心臓が高鳴った。何をしていいか焦った。立ち上がり服を着た。
「どうしたの?まだ夜中の二時よ」
「ああ、うん」
 キッチンに行き水を飲んだ。ソファに座ったが脳が機能しない。純が起きて来て弘和に凭れた。
「びっくりした、やっぱり?」
「うん、でも今落ち着いた。さっきは焦った」
「どうしようか、早く決めないと二週間なんてすぐだからね」
 純と話していると誰の話なのか迷うときがある。でもその感覚がたまらない。異空間にいるように現実を忘れさせてくれる。だがそれは一瞬でその異空間の中の現実に直面する。
「僕の悪い話するね」
「ちょっと待って、深呼吸するから」
 人の悪い話には過剰に反応する。純は三回深呼吸して弘和の手を自分の心臓にあてがった。
「どう落ち着いてる?」
「ああ、正常なドキドキに戻ってる」
 掌に心臓の音は届かなかった。薄い胸の乳首の突起だけを感じた。
「はいどうぞ」
「実はね、武藤課長から正式に断られた」
「ええっ」
 純が絶望的な顔した。
「どうするの、父ちゃん母ちゃん来るよ丸亀から」
 もう日取りも決まり両親が出て来ることも決定している純からすれば仲人が決まらない事態は異常だった。弘和は順番が違うよと言いたかったがいつも我慢している。この我慢は純を愛した時に一生背負うと覚悟したからである。これは純の性格で治る治らないの問題じゃない。流れている血の色を変えろと言うのと同じだと思っている。それを一々反論していればいずれ破綻する。この愛を護るためにはこの我慢が必須項目と決めた。それ以外に純と合わないとこはひとつもない。これだけ我慢すれば愛し続けられる。
「よし、友達を探してみよう。大学の同級生で結婚したやつがいるかもしれない。最悪結婚を前提とした同棲中でもいいことにしよう」
 純は弘和が逞しかった。逆境にめげずに頑張れるパートナーが隣にいてくれるだけで上手くいくような気がする。

 正一は朝の五時前から縁側のガラス戸を開けて外を見ていた。
「あんた朝早くから鶏じゃあるまいし、若い人がそんな早く起きるわけないでしょ」
 美鈴に叱られる。実は正一、川向こうのマンションにいる弘和がベランダに出てくるのを楽しみにしている。手には新聞拡声器を持っている。
「彼が出て来たらどうするの、それで大声で話すの?隣のマンションの人がびっくりするじゃない。大家さんにクレームが入ったら悪いでしょ。もう卓球でカモれないよ」
「そりゃ困るな、寿司食えなくなるしな」
「でもあたしも心配、いい男だけどさ、なんか寂しそうな顔してるよねあの子。二十年振りに礼を言いに来たって言ったけどさ、それだけかな」
「そうだろ、お前もそう感じただろ。うちは子供いねえから余計だけどさ、どうも気になってしょうがないんだあいつが。俺感じたんだよなあいつと再会して。あの時額から血を流してよ、意識半分失ってよ。鉢巻きで血止めしたけど俺の負んぶ走りで揺れる度に血が噴き出してな、それが俺の首筋に垂れて、俺の汗と混じってよ、俺の体内にあいつの血が入ったんじゃねえか。だから俺とあいつは繋がっているんじゃねえか?」
「違う、全然違う、あんときあんたのシャツ捨てた。あの子の血は全部シャツが吸い込んだの。だから繋がることはない。あんたの子供願望であの子を犠牲にしない」
「そう言ったら夢も希望もないじゃん」
 美鈴の反応に空想も途切れた。
「あんた」 
 美鈴が正一の新聞拡声器を奪い取った。
「お~い」
 美鈴が手を振ると弘和が気付いた。弘和が部屋に戻りソファーの美鈴を引っ張り出した。二人でベランダから手を振る。
「飯食ってるか~」
 正一が大声を上げた。二人は大きく首を横に振った。
「今からこ~い」
 二人は顔を見合わせた。そして両手で大きな丸を作った。正一がガッツポーズを見せた。
「さあ大変だ、嬉しいけど何かあるかな」
 美鈴が考えた。
「漬物とか納豆とか、卵焼きとか、鯵の開きあるだろ、冷凍食品には我慢してもらって、若いもんはそういうもんばっかり食ってるから自然の物を食わせてやれ」
 正一が美鈴の後ろを追い掛けながら喋りまくる。
「あんた落ち着いてよ、あんたがうるさいから考えがまとまらない」
「まさか来るとは思わなかったよ俺だって、晩に来ればと思ったんだが正直なんだな」
「あんたがばか正直なのよ。布団畳んで掃除機掛けといて」
 子供を世話したことのない二人は、若いカップルにどうやって付き合えばいいか学習していない。嬉しい反面不安もあった。

 弘和が慌てて支度をしている。
「ばかね、すぐに行ったら困るでしょ。何もないと言いながらも支度してくれるのよ。その間に上がって待ってるつもり。気になって手が付かないわよあのご夫婦」
 純に言われてそういうもんかと反省した。
「まだ五時だから、六時でも出勤間に合うでしょ。ご飯戴いて、七時に二人で出ればいいじゃない」
「そうだな、それでも今頃慌てているかもしれない。行くなんて合図を出さなければよかったかな?」
「喜んでくれてるわよ。私達と同じぐらいのお子さんがいるかもね。友達になれたらいいね」
「それが二人だって、お子さんはいないって聞いた」
「そう、聞いてよかった。失礼を言うとこだった」
 純は化粧をした。細いジーンズにダボダボの長袖Tシャツ。ブラジャーを付けるかどうか迷った。シャツを脱いで付けた。弘和は素の純でもよかった。隠さずありのままを見てもらった方がこれから始まる長い付き合いのことを考えるといいと思った。でもきれいな純を見せびらかしたい気持ちもある。
「おはようございます」
 弘和が一歩前へ出て挨拶した。
「どうぞ、狭くて汚い我が家にようこそ」
 美鈴が迎え入れた。美鈴の満面の笑みに二人の顔も崩れた。
「おう入れ入れ、飯の前にお茶でも飲め、おいコーヒー」
「あんたいつからコーヒーなんて飲むようになったの。朝はいつも玄米茶でしょ」
 カッコ付けた正一だが美鈴が正体をばらす。正一が照れ笑いでごまかす。
「いいですね、平屋の家って」
 純が見回して言った。弘和が頷いている。
「おい、弘和、お前も分からない奴だね、彼女を紹介しなさい。うちの縁側とベランダの付き合いだよ、先ずは紹介からだろ。そもそもお前とだって二十年振りだよ」
「そうよ、君の事だってよく知らないのに」
 美鈴がコーヒーをお膳に置いて言った。
「失礼しました。この方は僕が五歳の時に近くで事故で怪我して、その時に負んぶして病院まで運んでくれた命の恩人で佐藤さん。そしてきれいな奥さんが」
「美鈴です。きれいですいません」
 純が笑う。歯並びのいい真っ白な歯に蛍光灯が反射する。
「私は、弘和の・・・恋人で松本・・・純と言います。ご招待していただきありがとうございます」
 純は二人に一礼した。純男と名乗ろうか迷ったが嘘を吐いてしまった。この嘘がずっと続いてしまうことが自分自身を苦しめる。弘和も純の挨拶に耳を澄ませた。純と名乗るか純男と本名を名乗るか、それによってこれから始まる佐藤夫妻との交流に違いが生じることになる。純と名乗ることによってある意味ずっと嘘を吐き通さなければならない。
「そうか純ちゃん、純ちゃんて大船に飲み屋がある、もしかして親戚だったりして、純ちゃん繋がり」
 二人に意味は通じない。正一は一人で受けている。美鈴は呆れている。
「純でいいね、おばさん純て呼ぶよ。うちはね子供いないの。だからねあんた達みたいな若い人が来てくれると凄く嬉しいの。気遣いなく遊びに来てね。仕事あるんでしょ二人共、ご飯にしましょう」 
「そうしよう、そうしよう」
 立ち上がり食堂の六人掛けのテーブルについた。
「弘和は何やってんだ仕事?」
「はいプログラマーです」
「プロ?グラマー?」
 正一は箸を置いて両手で胸のふくらみを現した。純が大笑いする。椀の味噌汁が揺れて少し零れた。「すいません」と布巾で拭きながらも笑いが止まらない。
「これ?可笑しい?」
 正一が繰り返した。我慢していた弘和も吹き出した。
「そうか?これそんなに面白いか?」
 正一は立ち上がった。
「♪ボインボイン、グラマーな母ちゃんボインボイン」
 妙な節をつけて言った。
「あんた」
 美鈴に叱られて止めた。
「純は何してるの、まさか専業主婦じゃないだろ」
 正一がウインクして訊いた。
「はい、スナックで働いています」
「ほうどこら辺、おじさん飲みに行ってあげるよ、どこどこ?」
 純が少し考えている。
「藤沢の方ですけど不便なとこです。僕も一度行きましたが面白くない店です、料理もまずいし値段も高い。止めた方がいいですよ佐藤さん」
 弘和がフォローしたが純は悲しい顔をして頷いた。
「弘和、それは言い方良くないよ。値段の高い安いの批判はいいけどさ、料理が不味いとか、それは男としてどうなんだ。純が悲しい顔してるじゃないか。なあ純」
「いいんです、弘和の言った通りです」
 嘘が大きくなりだした。いつもこうなる。最初の嘘を誤魔化すために次の嘘が被せられる、そうやって嘘の雪だるまが大きくなる。ずっとこうして過ごしてきた。やはり弘和の言う通り、式も披露宴も行わず、静かに二人で暮らすことが宿命なのかもしれない。純が鼻を啜った。涙混じりと気付いた美鈴が純の背を擦った。
「純、男なんてこんなもんだよ、気遣い何てこれっぱかしもないんだよ。でもね、これクリアしないと一緒になれないから。男はこういうもんだと諦めるんだよ」
 純が鼻を啜りながら頷いた。
「そうだ今度の日曜に卓球大会やるから二人で来いよ。なっ、ラケットもあるし手ぶらで来い、なっ美鈴」
 正一が二人を誘った。
「はい、絶対に来ます。美鈴さん、卓球教えてください」
「いいよ、純ならすぐに上達するさ。これ秘密だよ、うちの大会賭け卓球だから」
 二人は驚いた。
「でも楽しそう、ねっ弘和」
 弘和は頷いたがあまり参加したくなかった。佐藤夫婦だけじゃない、他にも客が来る。その人達にも嘘を吐かなければならない。

 川沿いの道を自転車で店に行く途中、移動販売の八百屋に気付き、その前で停めた。帰りは明け方で店は開いていない、コンビニでは品数が少ないし割高、純はトラックの棚を見定めて空心菜とジャガイモを買った。
「はいよ、三百両。あれ、あなたはスナックローズのお姉さん」
 八百屋が空心菜を新聞紙に包みながら言った。純は笑顔で返して自転車に跨った。
「これ」
 八百屋が追い掛けて来て籠にトマトを二つ入れた。
「熊本の、甘いから食べてみて」
 純が礼を言う前にトラックに戻った。スナックローズでは楓が掃除をしていた。
「ママは?」
「なんか腹が痛いって」
「そう、心配」
「食い過ぎじゃないの、一人でピザのLサイズ二枚食ったらしいよ」
「何とかしないとね、お腹パンクしちゃうよ」
 二人は笑った。
「新しい子が来るらしいよ新宿から、ママが知り合いから頼まれたらしいわ」
「そ、助かるね、あたし料理に専念出来るわ」
 純は歓迎だった。純の料理は人気である。性癖で来る客、面白半分に来る客、そして純の料理目当てで来る客が増えていた。最近は地元の主婦も遊びに来るようになった。新地から移転し客層に変化が現れ、ようやく軌道に乗って来た。
「楓姉さん、生意気言ってすいません」
「何」
 楓が掃除の手を止めた。
「昨夜のママの話だけど、共同ママにして欲しいの」
「どういうこと?」
「あたし、楓姉さんにずっといて欲しい、だから店の売り上げを二人で折半するの」
 楓は笑った。
「純、お前も正直だねえ、あたしに悪いと思ってんだろ?折半すれば自分の気持ちが楽になると思ってんだろ?違うよ純、そんなことが成立するのは初めだけ。すぐに崩れちゃうよ、赤ちゃんのママごとと一緒。こんなちっちゃな店でも経営だからね、あたしには無理だとママは分っていてお前に譲ることを決めたんだよ、序に『純の事頼むな』とね、あたいもママには色々教わったし助けられた。と言うよりママがいなきゃ死んじゃってた。純、余計なこと気にせずにお前の好きなようにやりなさい。もうこの話は聞かないよ」
 楓は言い終えて掃除に戻った。純は浅はかを悔やんだ。やることなすこと空回りしている。どうしたらいいか先が見えなくなっていた。
「こんにちは」
 入り口に女が立っている。二人もその子が一瞬同類だと気が付かなかった。
「ローズママの紹介で来たレオです」 
「あんたがそう、入りな」 
 楓が中に誘った。
「紹介するね、次期ママの純、あたしは楓。レオは幾つ?」
「二十歳になったばかり」
「そういいねえ、羨ましい」
 レオはカウンターの純を見つめている。楓はレオがふたなりであることに気付く。レオは立ち上がりカウンター席に座った。
「純姉さん宜しくお願いします」
 そのレオの誘うような表情で純も気付いた。
「宜しくね、レオはきれいね、お姫様みたい、あたしも結婚してなければレオに誘われたら転びそう、でもうちの旦那やくざでね、あたしにおかしな噂が出ただけでも相手を殺してしまうほどやきもちだから、残念」
 レオは恐怖で指を咥えた。純はレオがおかしな行動に出ないように嘘の釘をさした。楓は笑いを堪えていた。
「ねえレオ、あなた幾つから?」
 楓が煙草を咥えた。
「十五の時、痴漢にあったの電車で、それが高校の先輩」
「その先輩もレオの潜在性に気付いていたんだよ。めちゃくちゃ感じたんでしょ」
 レオは頷いた。
「新宿のママの店でお客さんにDVD出演を迫られたの」
「出るの?」
「考え中、でも恐い、でも売れたい」
「売れたらどうすんの?」
「田舎に店出すの」
 レオは笑って言った。
「なんの店?」
「ばあちゃんの煙草屋」
 楓が笑い出した。野菜の下処理をしている純も笑い出した。二人共おかまバーと言う答えを出していた。それが煙草屋だったのが可笑しかったのだ。
「なんでばあちゃんなの?」
「ばあちゃん家で居場所がないんだって。だから人の世話にならずに、かと言って足が悪いからそれほど動けない、だから煙草屋がいいんだって。自動販売機じゃなくて小さな窓からお客さんに直接売る店。田舎出る時約束したんだ。おかしい?」
「笑ってごめんね。おかしくなんてないよ。あたしはレオが心配。色んな男とやってエイズになったらどうするの。夢が叶わないでしょ」
 楓がやさしく言った。

 土手に八百屋が止まっている。美鈴がスーパーで買い忘れたピーマンを買った。毎週火曜と木曜の午後に来るので必ず何かを買うことにしている。スーパーで全て用は足せる。この八百屋は地元の年寄り世帯には重宝されている。それを応援する気持ちも少しある。
「女将さん、俺来年藤沢に店出すんだ」
「えっそりゃ凄いじゃん」
「いや大した店じゃないよ、江ノ電のずっと裏の方だよ」
「それでも凄いよ、もう何年だっけ、もう十年経つ?」
「そうですね、平成になる年だからそんなもんかな」
「ミレニアムに新規開店か、きっと流行るよ」
 八百屋は客の買い物袋にそっと蜜柑をひとつ入れた。「サービス」と主婦に笑った。
「でも年寄りが困るよ、あんたが来なくなると」
「週一ですけど寄らしてもらいます。店が休みの日に回ろうと考えてます。気になる年寄りも数人いますんで」
「ありがとう。あんたのそう言う気持ちが嬉しいよ。その蜜柑もちょうだい」
 橋の上を自転車が通る。純が藤沢に買い出しに行くのを美鈴が声を掛けた。
「純、買い物?」
 純が手を振る。
「危ないから手を放すな、いってらっしゃい」
 また手を振った。
「危ないって、もう」
 美鈴が心配する。
「あの子おかまバーの子でしょ。昨日買ってくれた」
 八百屋が不思議なことを言った。スナックで働いていることは本人の口から聞いている。しかし場所は弘和が濁した。少し純が悲しんだのを美鈴が慰めた。
「場所知ってる?」
「鎌倉へ向かうバスで二つ目ぐらいかな、通りからは見えないけどローズってスナック。おかまのママが面白いよ。俺は一度しか行ったことないけどね、友達が常連で意外と流行ってるよ。あの子はカウンターの中にいた。かわいい子だったから覚えていた」
 美鈴は自宅に戻った。
「おーい帰った」
 まだ三時過ぎだが正一が仕事から帰宅した。
「早いじゃん」
「ああ、中止になったんだ、和室もクロス張りにするらしい。今頃になってさ、準備万端さあ塗るぞって時だよ、棟梁が来て金がねえってこれだ。それでさ、折角来たんだからって材料運び手伝わされてさ。踏んだり蹴ったりだよ」
 左官仕事の収入が減り出した。夫婦二人、家のローンも終わった。贅沢しなければ正一が月に十日も働いてくれれば食っていける。しかしそれすらも怪しくなってきた。美鈴はスナックにパートにでも行こうと考えていたが切り出せなかった。正一が俺が何とかすると踏ん張るのが目に見えている。しかしもう還暦だし無理して欲しくない。
「ねえあんた、聞きにくいけど仕事あるの?」
 正一は一瞬暗い顔をした。
「お前が心配すんな。俺はお前の親と約束した。家庭に入って俺を護ってもらうって。いいか美鈴、お前に嘘吐いても親は騙せない。心配すんな。現場は左官だけじゃない。こう見えても俺は器用だぞ、なんだって熟しちゃうよ」
 正一が笑って言った。
「頼りにしてるよ。でもねあたいはまだ四十過ぎたばかりだよ、アッチもバリバリ、あんた大丈夫?」
 美鈴は乳房を持ち上げた。
「何言ってやがる。よし倅、今夜二回戦だ、だいじょぶか?何?無理?一回で勘弁?それが精一杯?」
 正一は自分の股間に話し掛けている。美鈴は大笑いしている。
「そう言えばあんた、さっき八百屋から小耳にしたんだ。純の店」
「うん、藤沢のスナックだろ?」
「そこローズっておかまバーらしいの」
「おかまってこれか」
 正一が手の甲を頬に当てた。美鈴が頷いた。
「八百屋の嘘っぱちじゃねえのか、純がおかまバーで働くわけねえだろ」
「昨日の朝、弘和が濁したでしょ、純のお店には行かない方がいいって」
 美鈴の話に正一も想い出した。
「だからって悪いわけじゃないだろ、純はきっと料理当番でさ、そうだ弘和が美味くないって言ってたろ。厨房でさ美味くない料理作ってんじゃねえか」
「お店は小さいらしいから、そんなレストランみたいな大きな厨房なんてあるかしら」
 二人はおかまバーでの純のポジションが気になった。
「お前ちょっと見て来てやれよ」
「嫌よ、あんたが行けばいいでしょ」
「やだよ、これだよこれ、美鈴行って来て、お願い」
 正一は手の甲を頬に当て、すぐに神頼みの手を合わせた。
「そうだ西野兄妹に探らそう」
「それがいい、早い方がいい、電話しろ」
 今夜様子見に行くと言う。飲み代は後日請求すると言って電話を切った。

 弘和は帰宅して大学時代の友人に電話をしていた。意外にと言うかやはり独身ばかりで仲人のなの字も出せずに打ち切った。そして大学から高校の同級生にターゲットを替えた。
「どうしたのしばらく」
 友人は女でクラスでは目立たない子だった。弘和とも親しくはないが席が隣で宿題をチェックしてあげていた仲である。卒業してから七年、突然の電話に驚いていた。弘和は藁をも掴むつもりでいる。二週間後には純の両親が出て来る。早く決めなければならない。日常会話から伊藤香が既婚者で子供がいることを確認した。
「実は伊藤さんにお願いがあるんだ。僕、結婚するんだけど君達夫婦に仲人お願いしたいんだ」
「えっ。あたし達同級生よ、仲人ってそんなのでいいの?」
 伊藤香は突然の要望に驚いたが無理もない、同級生から仲人を頼まれることなど聞いたことがない。
「驚かせてごめん、仲人と言う立場に特に約束事があるわけじゃないと思う。夫婦が信頼していれば問題ないと思う」
 伊藤香は考えた。
「ちょっと待って」
 香は旦那に相談した。
「仲人?同級生?俺は構わないよ、でも只じゃ駄目だよ。それなりに報酬もらわないとさ」
「もしもし、報酬って出るの?実はうち、家計苦しいの。旦那仕事しないし。でも報酬があるならOKしてくれる」
 「そんなこと言うと足元見られるだろ馬鹿」と言う声を受話器が拾った。今度は弘和が考えた。報酬は支払ってもいい。はっきり言って形だけの仲人でいいと考えている。間に合えば問題ない。ただ話を聞いていると複雑な家庭のようだ。
「うん、期待する額には届かないかもしれないけどそれなりに用意します。一度会うことは出来ますか?」
一度会って話した方がいいと弘和は仕事帰りに伊藤宅に寄ることを示唆した。
「うちは小さい子がいるから外よりうちに来てもらった方が助かるわ」
「ありがとう。実は誰も受けてくれなくて困っているんだ。それにあまり時間がないんだ、今夜寄らしてもらっていいかな?」
「うん、待ってる」
 一先ず先に進んだ。心配なのは報酬額である。受けてくれるなら予定より少し弾んでもいいと思った。不安な毎日を過ごすより金で解決出来るのならとその方を選んだ。
 定時で退社して伊藤香宅に向かった。横浜の戸塚駅で降りて箱根駅伝コース沿いを歩いた。そして辿り着いた伊藤香の自宅は二階建てのアパートだった。階段を上がり一番奥の玄関前には三輪車と乳母車が乱雑に置いてある。予め時間は伝えてある。ノックをするとすぐにドアが開いた。
「こんばんは、暫くね、梨田君全然変わってないね、むしろ今の方がイケメン。モテるでしょ」
 そこに立っていたのは高校時代の伊藤香を想像するのは困難なほど変わっていた。腕に梵字のタトゥーが入り、髪は赤く、胸に乳飲み子をぶら提げていた。
「こんばんは」
 弘和は笑顔で驚きを誤魔化した。
「びっくりしてんでしょ?あたし変わったでしょ、もう二人の子持ち」
 驚いたのは二人の子持ちではない。あの無口でおとなしい伊藤香がどうしてこうも変わるのかそれが不思議だった。
「上がって、散らかっているけど、旦那待ってる、何か恥ずかしいね、高校時代を想い出すね」
 弘和は失敗したと思ったがもう手遅れ、自分から頼んでおいて逃げ出すわけにはいかない。報酬で折り合いがつかないことで断ろうと考えた。
「お邪魔します」
 狭いキッチンの四人掛けのテーブルに通された。亭主はかなり年上で額が上がっている。少ない髪を茶髪にしてバックにセットしている。そして伊藤香と同じところに同じ梵字のタトゥーがあった。
「さあ、どうぞどうぞ、遠慮せずに座って下さい。狭い家ですけど楽しい我が家、なんちゃって。そうですかご結婚するんだって、そりゃおめでとうございます」
 初対面でも臆さない人がいる。この男は典型的なそのタイプだと思った。弘和は苦手である。
「ありがとうございます。夜分にお邪魔して申し訳ありません」
 足元で男の子が遊んでいる。手にしたスターウォーズのソードで脛を叩かれた。笑ったがすごく痛かった。
「こら、あっち行ってなさい、駄目でしょお客さん叩いちゃ、もう買ってやんないよ」
 母親に叱られて笑った。女は子を持つと強くなると言うが強くならなければ子は育てられないだろうと弘和は感じた。子育ての苦労は母親の強さでカバーする。それでもそれ以上の楽しみを与えてくれる生きがいなのだろう。自分達に生涯子は出来ない。子育ての苦労は無い、しかし苦労を乗り越えた先の幸福を感じることも無い。
「一応紹介するね、この人がうちの旦那、この人あたしの高校の同級生で梨田君、頭いいんだから、いつも宿題みてもらってた、ねっ?いい感じだったよねあたし達」
 相槌を打ちたくなかった。クラスメイトで偶然の隣席、それ以上に親しい間柄だと旦那から疑われたくなかった。実際にそれ以上の付き合いもない。
「そう、うちのが面倒看てもらったんだ、もしかして、あれっ、もしかしたらもしかして、いい関係だったんじゃないよね?いいさ、高校生なら誰でもやりたい時期だし」
「そんなことは絶対ありません、あくまでも偶然隣の席になっただけですから、変な想像しないでください」
 弘和が焦ると旦那が笑った。
「冗談、冗談、梨田さんは真面目だねえ」
「あらっ、あたしは梨田君が好きだった、もし交際を申し込まれたら。即OKだったよ。梨田君だって少しは意識してたでしょ?そう言う目をしてたのあたし感じていたから。一度あたしの胸に梨田君の指先が触れたの覚えてる?宿題教えてもらってるとき、梨田君も触れたの気にしてさっと手を引いたでしょ。あたしすごく感じちゃった」
 香が誘うように言ったが弘和は作り笑いで首を横に振った。旦那は焦る弘和を見て笑っている。
「おい、梨田さん立場なくしてんじゃないか、ねえ梨田さん。それよりお客さんにビールぐらい出せよ」
 伊藤香が冷蔵庫から缶ビールを出して弘和の前に置いた。グラスは出されないがその方が安心して飲める。気付かないうちに缶ビールに口を付けた。
「おい、お客さんにそのままかよ、グラスないのか?」
「あるけど洗ってない」
「いやうちでも缶のままですからお気遣いなく」
 縁の汚れたグラスでも出されたら困る。
「ところで梨田君それ何?」
 弘和が出し忘れていた菓子折りを伊藤香が催促した。
「お前催促してどうすんだよ、梨田さんもタイミングを見て差し出そうとしてるんだよ。すいませんねえ、私の教育不足です」
「いえ、遅れまして、つまらないものですが渋谷で購入した人気の洋菓子です」
弘和がテーブルに載せ差し出した。
「これはこれはご丁寧にありがとうございます」
旦那は礼を言ってすぐに開封した。子供がソードを投げ出して椅子に立ち上がり菓子箱を覗き込んでいる。旦那がひとつを取り出し子供に渡した。
「ポロポロ溢すんじゃないぞ。それで仲人の件、うちは全然問題ないよ。ただうちは所帯持って五年だからさ、仲人なんて役が回って来るなんて考えていないからさ、何て言うの、そういう準備が整っていないわけよ。受けるのは全然問題ないよ。ただ燕尾服とか持ってないし、お前持ってたっけ礼服?」
 旦那が香に振った。
「あるわけないじゃん、うちは式も挙げてないのよ。それにあたし友達に呼ばれたことないから」
「そうか、じゃ買わないと駄目だな。どうしようか佐藤さん、あんたも焦っているようだし、俺等は多少でも小遣いになればいい、服とか靴とか、二人分安いので見繕って二十万、その他に手間代って言うのかな、ほら祝辞とか考えないといけないし練習もしなくちゃいけない。その時間に対しての報酬で二十万、トータル四十万、高くないと思うけど予算はどうですか?」
 旦那は目付きを変えて言った。四十万なら問題ない、五十万までならと考えていた。弘和もそれぐらいで受けてくれるなら助かる。しかし、この風貌は服の問題じゃない。タトゥーは長袖で隠れるからいいが髪の色が気になる。自分が同性と結婚するのにそんなことに拘るのも可笑しいが純の両親に不快感を与えたくなかった。
「これでしょ?気になるんでしょ髪の色」
 弘和は不安を当てられた。勘のいい男である
「これならちゃんと黒に戻すから心配しないで。俺髪の毛薄いからさ、茶髪の方が目立たないんだよね。当日はカツラでも被ろうか、少し料金上がるけど。香りも色落すだろ髪の毛?」
「これ美容院で染めたばかり。でも梨田君の結婚披露宴だもんね、ちゃんと仲人らしいお手本になります」
香りも了解してくれた。弘和はこれで一安心した。
「ありがとうございます。宜しくお願いします、詳しい日取りは文書で知らせます。安心しました。お願いして良かった」
 これで純を安心させられる。一番気にしていた仲人が決まって弘和はほっとした。
「いいからいいから、女房の元カレじゃない、そんなに気にしないでいいよ、逆に俺等は今後の勉強になるし、これから頼まれることもあるだろうからさ。逆に社会勉強出来て感謝してる。その上小遣いも僅かだけど入るんだから。それで梨田さん、相談なんだけど、出来れば半分とか先にくれない?日もないし礼服のサイズも直さなきゃならないしさ」
 旦那が寂しい顔して手を合わせた。
「はい、明日にでも全額振り込みますので、口座番号教えてください」
 香りが首を振った。
「あのさ、色々あってさ、銀行取引していないのようち。郵便為替にしてくれない、それか菓子折りの中に入れて送ってくれてもいいし、だいじょぶ、取られやしないから、うちはよくやってるよな」
「分かりました、明日午前に郵便為替で送ります」
 約束をして伊藤香宅を後にした。

「いらっしゃいませ、お二人?」
 楓が客を迎えた。店を見回す、ボックス席にいた男を蹴飛ばす仕草でカウンターに移動させた。
「どうぞこちらに、ちょうどボックス席空いたから」
 西野兄妹は二人共おかまバーが初めてである。少し緊張しているが不安はなかった。支払いは正一が請け負うと約束している。
「今の人完全にバレてる」
 西野妹が小声で笑った。
「でも酔っぱらったら分かんないな」
 西野兄は意外と楽しそうだった。
「ダメだよ兄、一人で来ちゃ」
「来ないよ妹、俺気基本的に趣味じゃないし」
「どういうこと、基本的にって?」
「基本は基本だよ、応用出来る可能性は低いってこと」
 そう言いながら店内を見回している西野兄は楽しそうである。西野兄妹はずっと独身である。子供の頃から気味が悪いほど仲が良かった。それは知人友人だけではなく親が一番心配していた。年頃になれば自然と離れるからと親類に諭されたがそのままこの齢まで来てしまった。兄弟が仲のいいのは他所様に迷惑を掛けるわけじゃないと親も諦めていた。現在妹には彼氏がいるが既婚者、それも性欲処理の対象で別れても未練はないと冷静である。兄は結婚願望が無い。気さくな性格だから仲間も多い。友人の妻や飲み屋で知り合った人妻と適当に遊んでいる。性処理には事欠かない。そんな二人は西野兄、西野妹、それが呼び名となっていて、兄妹間でも兄、妹と呼び合っている。
「兄、いた、あの子でしょカウンターの中にいる子」
「そうだ、間違いない、向かいのベランダから手を振っていた子だ」
 二人は探偵になったように純を観察した。
「妹よ、あの子はきれいだな、全然分かんない。あの子ならベッドインしても気付かないぞ」
 西野兄に言われて妹はレオを見つめた。
「私には分かる。いくらきれいでも男よ。でも男にしてもいい男」
 西野妹の視線に気付いたレオが立ち上がった。
「やばい、こっちに来るぞ」
 西野兄は尻を滑らせてスペースを作った。
「いらっしゃいませ、レオで~す」
 西野妹の隣に座った。西野兄はこれ以上寄れないぐらい身をずらしてレオが隣に座るのを誘ったが空振りに終わった。
「お姉さんおじ様、かんぱ~い。おじ様方はここ初めて?レオも今夜が初日、よろしこ」
「ああ、よろしこよろしこ」
 レオが二人にグラスを掲げた。
「あなたきれいね、どうしてそんなにきれいになれるの?」
 西野妹が質問した。
「お姉さんこそきれい、あたし好きになりそう、性欲そそるタイプ」
 レオは大きな目を瞬いた。
「あら、でもあなたアレでしょ、男がいいんじゃないの?」
「お姉さんふたなりって知ってる。雌雄混在、女も男もいいの。ほら、触ってみて」
 レオが西野妹の腕を取って自分のミニスカートの中に突っ込んだ。西野妹は突然触れたレオの倅の偉大さに驚いた。
「ほらもっと触ってみて」
 レオが西野妹の手を強く押し付けた。一瞬握ってしまった。膨らむ様子を手の中で感じている。手を離そうかどうか迷う。はしたないが成長するまで握っていた。
「どう、お姉さん、これでも平気?我慢出来る?いいわよあたしは?」
西野妹が真っ赤になっている。
「どうした?妹」
 西野兄は恥じらう妹が気になった。兄に問われて我に振り手を抜いた。その抜き方が卑猥だった。
「あう~ん」
 レオが甘い声を上げた。
「今度はおじ様」
 レオは席を移動して同じように手を掴んでミニの中に引っ張った。
「デカ」
 西野兄も驚いた。
「おじ様、しごいてもいいよ」
 そう言ってスカートを捲った。
「レオ、何をしてるの」
 カウンターの中から純が呼んだ。「ちょっと失礼」と立ち上がりカウンターに向かった。レオの膨らみは反り上がりミニスカートを押し広げている
「レオ、あなたに言っておかなかったのがいけなかった。ここはあなたが前にいた新宿のお店とは違うの。過剰なサービスは必要ないの。分かった。お客様を口で楽しませてあげて。自分の一物を出したり、お客様のアレをいじったりしないで。やるならお店が終わってからにしてちょうだい。この店はリップサービスで楽しんでもらうの、いい?」
「は~い。リップサービスにします」
 レオは純に叱られ席に戻った。口で楽しませるとの意味を勘違いしている。
「どうしたのレオちゃん、さっきの続きしないの。俺そっちの気あるのかな」
 席に戻ったレオに西野兄がやさしく囁いた。
「おじ様きれいにしてる?ちゃんとお風呂に入ってる?」
 西野兄は何のことか分からない。西野妹はさっきの手の感触がショックで身体が痺れている。掌は握った形状半円のままである。酒の後押しもあり女の性が燃え上がってきた。
「きれいって風呂は毎日入ってるし歯も毎日磨いているけど晩酌の後で面倒臭くなってそのまま寝ちゃうときもある。夜磨かないと次の日の朝気持ち悪いんだよ、ねばねばしてさ」
 話の長い西野兄のズボンのベルトに手を掛けた。
「おじ様立って、ソファーに立って」
 レオに言われて靴を脱いだ。立ち上がるとソファーは沈みふら付いてレオの肩に摑まった。ベルトが緩むとズボンが下がり西野兄は縞のガラパン姿になった。
「こうなると分かっていれば赤のゴリラ柄にしたんだがなあ。なあ妹よ」
 照れて頭を掻いた。
「レオっ」
 純が叫んだ。さっきより大きな声に店の客も驚いている。レオが振り向く。西野兄は立ったまま唖然。西野妹は兄のパンツを見ている。純がカウンターから出て来た。いきなりレオの頬にビンタをした。レオが立ち上がり泣いて店を飛び出した。楓がレオを追う。西野兄はズボンを上げて頭を掻いた。
「ねえチェックして、兄はチャックして」
 西野妹が純に精算を頼んだ。
「失礼しました。しっかりと教育しておきます」
 純が謝罪した。
「いいよ、いいよ、気にしない。また遊びに来てもいいかな」
 西野兄が純に言った。

 正一は弁当を持って下小屋に向かった。今日も仕事はない。建売が二件決まっているが道路使用が間に合わなかった。それで足場が架けられずに延びていた。美鈴には内緒にしていた。下小屋で愛犬のコロと遊んでいれば昼前には美鈴がコロの餌を運んで来る。その時に休みがバレてしまうが仕方ない。「ふーっ」と息を吐いて一斗缶に腰を下ろした。コロは愛想笑いをした。その場で尻尾をバタンと床に叩き付けた。もういつ死んでもおかしくない齢である。
「コロ、来年はミレニアムだってよ。お前はそれまで生きられるか。主人が来てもだらーんとして、もう少し喜べないかね他所の犬みたいにさ。しょんべんちびりながら飛び付くとさ。癪に障るのはその目だよ、俺の愚痴を聞き流しちゃって、お前は俺より上か?まあいいや、でも死ぬときゃ言ってくれよ、最後に美味いもん食わせてやるからな」
 コロに話し掛ける頻度が増した。回数だけじゃなく一回の時間も長くなった。正一は携帯電話の電話帳を見た。西野兄に電話を掛けた。昨夜、純の勤めるスナックに兄妹で偵察に行っているはずだ。その報告が訊きたくてうずうずしていた。西野兄は市役所の清掃課に所属している。以前はごみ収集車に乗っていたが今は粗大ごみの受付をしている。
「おい、どうした西野兄?」
「ああ正ちゃん、どしたのってどしたの?日曜の大会のこと?」
「ばか野郎、卓球の弱い奴に卓球の話なんかしないよ。昨夜だよ、昨夜どうしたか聞いてんの?」
「ああそれがさ、ちょっと待って場所移動するから」
 西野兄は同僚から離れた。
「もしもし、それがすごいことになっちゃってさ」
「なんだよ、もったいぶらずに早く話せ、お前の話は枕が長い、小三治じゃないっつった」
「凄いんだよ、俺もさ、初めてだよああいうの」
「初めてってなんだ?」
「あっ、お客さんが来た、正ちゃんこの時間忙しいから掛け直す」
 電話を切った。『凄いの』と『初めての』と一番肝心な内容を聞き逃した。
「あの野郎ふざけやがって」
 正一は掛け直すが留守電にセットされてしまった。待ち切れず美鈴に電話する。
「おい美鈴、西野妹に電話して昨夜のこと聞いてくれ、兄は忙しいらしい」
「あんた何処から?」
「下小屋から、休みになっちゃって」
 正一は正直に明かした。美鈴は仕事のないことを気後れして言えない正一が哀れだった。
「お弁当まだでしょ、お茶持って行くから」
 美鈴は西野妹に電話した。
「もしもし、今大丈夫?うちの正一が兄に電話したけど忙しくて切られたみたい。昨夜のことが気になって仕方ないのよ」
「昨夜の事?想い出すと濡れちゃう」
「えっ、どうしたの?」
「それが凄いのよ」
「何が凄いの?」
「あたしもさ、付き合った男は随分いるけど初めてよあんなの、長茄子握ったよう」
「何が?初めてって、長茄子って何?麻婆茄子なら普通のがいいよ」
「あっごめん、課長来た、今夜電話する」
「妹、西野妹」
 電話を切られた。美鈴は途中だった家事を終わらせ、自転車にポットとコロの餌を積んで下小屋に行った。自転車の音でコロが反応する。年寄りが咽るように吠える。
「情けねえ吠え方すんじゃないよ。ワンワンってはっきり発音しろ」
 正一の説教をコロが笑った。
「お前はもう仙人の域に達したな、完全に悟ってるな」
 美鈴が自転車を降りるとコロが立ち上がる。
「どしたどした、何だって西野妹?」
「あんた、その前に話があるの、座って」
 美鈴の態度にコロがとばっちりを心配して奥に下がった。
「おい仙人、俺を一人にするな」
 コロは振り向いて咽た。
「あんた、どうして休みなら休みと言ってくれないの?」
「いや、何となくだ」
「情けないじゃない、仕事の振りして弁当提げて、行って来ますってあれ何?」
「いや、お前に要らぬ心配掛けたくなかっただけだ」
「あたしはあんたの何なの?こういう時にあたしがいるんじゃないの?」
 正一がコロを睨み付けた。『ワン』
「なんだちゃんと吠えるじゃねえか、コロがワンだって」
「誤魔化さないで。いいのよ、仕事がなきゃうちにいて「おい美鈴、今日も明日も仕事あぶれだ」そうやってはっきり言ってくれればいいの。二十年もあたしがあんたに食わせてもらってさ、ちっちゃいけど家まで買ってくれてさ、それであたしは満足なんだよ。あんたが十日出ればあたしがやりくりする。もし五日ならあたしがパートする。それが夫婦じゃない。好きで遊んでるあんたならとっくに三行半だよ。そうじゃないじゃないあんたは、一生懸命働いてさ、ギャンブルもやらないし、お酒だって量は飲むけど、外じゃ付き合い程度だし、あんたがあたしに遠慮してどうすんの。甘えていいのよ」
「みすずちゃ~ん」
「ばか」
 ふざけなければ涙が出て来る。正一は美鈴が怒って下小屋から帰るのを誘った。美鈴は膨れて帰った。
「コロ、ごめんな」
 弁当を広げた。焼き色のしっかり付いた鮭を蓋の上で細かくする。それを飯に載せて美鈴が持ってきた玄米茶を掛けて茶漬けにした。
「食うか?」
 箸で鮭の皮を摘まんでコロの口元に差し出した。

 ローズのママが入院したので純が買い物を任されている。普段は夕方の五時半出勤、買い出しがあると三時に家を出なければ間に合わない。純はレオのことが心配だった。レオを叱るのに手を出してしまった。人にビンタするのは初めてだった。純は反省していた。帰りがけに楓にも注意された。これからローズママを見舞いに行く。恐らく楓から連絡が入っている。
ローズママは大部屋にいた。お鍋の旦那さんと息子がいた。
「ママ、大丈夫?」
 純は二人に一礼してベッドに寄った。スーツ姿の旦那が「明日の朝来る」と言って息子と共に帰った。
「生活習慣病が全部重なって大生活習慣病だって藪医者に言われた」
 ローズママは元気だった。
「倒れたって聞いた、どうしたの?」
「トイレに行くとき眩暈がしたのよ、意識が飛んで気が付いたら旦那の車の中。一時的な貧血だからいいって言ったけど旦那に無理やり連れてこられた。診察したら大事を取って二週間て言われた。病院暇だからよふざけやがって、明日出てやる。旦那が迎えに来る算段してたの。食い過ぎると貧血起こすのよ、前にも経験してるから問題ない」
「ママお酒止める?あたしも付き合うから」
「あたしが酒止めて何飲むのよ?コーラ飲んでたら余計太るよ」
「じゃ食事減らすとか?ベジタリアンて今流行ってるよ」
「やだよキリギリスじゃあるまいし。それに痩せたらあたしらしくないでしょ。あたしがガリガリになったら気持ち悪いだろ、誰も近寄らないわよ」
 純は笑うしかない。
「ママ、あたしママに謝らないと」
「レオの事でしょ、楓から聞いた。ビンタしたんだって、そりゃお前が悪い。駄目じゃん人に手をあげちゃ、今夜ちゃんとレオに謝れ」
 ローズママは厳しく言った。この世界に生きていて、地位を確立するためにも暴力は許されることではない。
「ごめんなさいママ」
 純もよく理解している。
「レオがさっき来てたの。レオにもきつく叱った。うちはスナックでそういうサービスは厳禁だからって。あの子素直にハイって謝ってた。まだレオは子供よ純」
 純は情けなかった。
「ママごめんなさい」
「いいわよ、純が一番よく分かっている。だけどレオが『リップサービス』を勘違いしたのが面白くてさ、また楓が盛って話すからおかしくて腹痛くなっちゃった」
 ローズママが大笑いすると向かいから咳払いが聞こえた。「しーっ」とママは自分の唇に指を当てた。
「それでママに報告があるの、仲人が決まったの。弘和の高校の同級生だって」
「同級生?探すの苦労したんだな弘和も、それで披露宴会場は?」
「今日弘和が当たってみるって」
「そう、おめでとう、嬉しいわ。あたし達世代は仲間数人で隠れるようにこじんまりとやった。大勢の前で堂々とやれるなんてあたし達の夢だからね。純がさ、見本になってみんなから祝福されるようになるといいね。来年はいよいよミレニアムよ、あたし達が認められる、そんな時代になるよきっと」
「ありがとうママ」
 ローズママは自分事のように喜んでいる。
「そろそろ行かないと純、楓がブーたれるよ」
「明日また来るね」
「いいよ来なくて、午後にはもういないよ」
 ママに追い払われるように病院を後にした。

 藤沢の駅を降りて市役所に向かい歩道橋を渡った。少し不便だけど予算に見合う披露宴会場である。純の希望で客は多い方がいい。多くの人に祝福してもらおうと考えていた。二人の性別を知らない客が半分近くいる。百人のうち五十人以上が純を女だと思っている。と言うより真実を伝えていない。そもそも純の両親でさえそうである。二人のことを理解して来る客とそうでない客との招待状も工夫がしてある。純男と弘和、純と弘和、この分けた招待状は考えに考え抜いた策だった。後は日時と場所を記載するだけである。
「今月何ですけど、十九日日曜日に披露宴をお願いしたいんですけど、空いていますか」
「ありがとうございます。当日は仏滅ですがお気になさらないと言うことで宜しいでしょうか?」
 弘和は頷いた。
「ご予算と予定されているお客様のご人数はどれくらいでしょうか?」
「百人で百五十万です」
 担当は一旦席を離れた。
「十五時ならご用意出来ます」
 即決した。引き出物はカタログギフト、他詳細は純と二人で決定する。ATMで半額を下し内金として支払った。伊藤夫妻に支払う仲人の手数料四十万と合わせて予定内の二百万で収まった。御祝い金を当てにするわけではないが少なくとも五百万は入る見通しである。弘和は帰宅して招待状のまとめに掛かった。
「もしもし、伊藤さんですか、梨田です。昨日はありがとうございます」
「はい、なに?」
 電話口の伊藤香は不機嫌だった。
「あの、仲人の件で、日取りが決まったから伝えようと思って」
 何も言わずに旦那と代わった。
「もしもし、はいどうも梨田さん」
「日取りが決まりましたのでお電話しました」
「はい、いつ?」
「十一月十九日、十五時スタートです。打ち合わせがありますので二時間前には来ていただきたいのですが、場所はお金と一緒に地図を送ります」
「あのさ、ちょっと待って」
 旦那は香から離れた。
「うちの奴不機嫌なんだ、生理のせいかな。梨田さんて会社何処、俺取りに行くから。うちに送られてもうちの奴が持ち逃げすると困るからさ。梨田さんとの男同士の約束守るためだよ。二三日でうちの奴の機嫌も直ると思う」
「分かりました。奥さんを大事にしてあげてください」
「やさしいね梨田さんは、了解です。うちの奴に伝えて置く。多分感激しちゃうよ」
 弘和は伊藤香が心配だったが翌日の昼に旦那と待ち合わせをした。

 昼過ぎに正一が帰宅しても美鈴は不機嫌だった。正一は縁側に出て向かいの公団のベランダを見上げた。洗濯物が揺れている。純が出て来て手を振った。
「おおい」
 正一の声に誘われて美鈴も縁側に出て来た。正一と並んで手を振る。純が指を差している。
「うち?来る?」
 ジェスチャーが伝わった。純は弘和が徹夜で作った招待状を持って佐藤宅に向かった。
「美鈴ごめんな」
 どさくさに紛れて正一が謝った。
「明日は?」
「休み」
「いいよ、うちでゆっくりしてね、一緒に買い物行こう」
 純が緩衝材になって二人は仲直りした。
「こんにちは」
 三人は縁側に座った。
「芝生きれい」
 純が庭を見て言った。
「うちの奴が摺り足で小石を見つけちゃ拾い出してる、ほらあそこに溜まってるだろ、小石の山。うちの卓球場は素足でやるからさ、気持ちいいぞ芝の感触」
 純が庭に降りた。
「ほんと、気持ちいい。いいね風が気持ちいいし、うちのベランダに吹く風と違う。色とか香とかじゃなくて触れる感じが違う」
 純は空を見上げて両腕を広げ一回転した。正一がそれを見てうっとりしている。
「純は感性が強いんだね。そんな風に言うひとうちの周りにはいないよ」
 美鈴が芝を歩く純を見つめて言った。
「あっそうだ」
 純が足を拭いて部屋に上がり招待状を渡した。
「披露宴招待状?」
 二人は同時に驚いた。
「何時だ?」
「いつでもいいじゃない、どうせあんた暇なんだから」
「そりゃそうだな」
 二人が笑うと純もつられた。
「来月の十九日、日曜日です。時間は遅くしか空いてなくて三時半からなんです」
「三時半上等、飲み始めるには丁度いい時間だ」
「どれぐらいの人が集まるの?」
 美鈴が訊いた。
「百人招待してます、でも確実なのは八十人ぐらいだと思います。ご祝儀あてにしてるんで何とか百人にしたんです」
 純が言い終えて舌を出した。
「おうそりゃすげえな。よし、客でキャンセルがあればうちの仲間で間に合わせるぞ。卓球大会でアピールしよう。一人三万は入れるだろうから十五人でどうだ。そうすりゃ純の腹黒に近付くだろう」
 正一が請け合った。
「ありがとうございます。是非お願いします。こんなことまでお願いしてすいません」
「いいさ、気にするな。卓球台で向かい合えばもう仲間だ。ただし逆もあることをしっかりと覚えておくことだ。先に貰うか後になるか、最終的にはプラマイゼロ、それだけのことだから。慶弔全ての付き合いが始まる。近所付き合いの始まり、つまり人生の始まりってことだ」
 正一の言葉に純は頷いた。一先ず目標の百人を確保出来そうになって来た。
「俺達んとき何人集まったっけ。そもそも客はいたか?」
 正一が美鈴に確認した。美鈴は奥からアルバムを持ち出してきた。
「これ二十年前」
 美鈴がアルバムを広げると中央に色打掛姿の美鈴がいた。
「美鈴さんきれい」
 純がアルバムに釘付けになる。
「あたしも和服がいい、佐藤のおじさんもカッコいい」
 紋付き袴の正一が難しい顔をしている。
「でもどうしたの、おじさん恐い顔してる」
「この人緊張してその前の日寝てないの、口ばっかしで意外と意気地なし」
 美鈴が笑うと純も笑う。
「あれ、ここですか?」
 純は部屋を見回して写真と比べた。
「そうよ、お金ないからここで披露宴したの、式はね、近くの白幡神社ってとこでね、神主とあたし達二人だけ、この色打掛も全部大家さんからの借り物。ほとんどお金かけてない」
「いいなあ、いい結婚式ね。なんかみんな喜んでる。みんなが自然に、なんの疑いも持たずに二人を祝っているのがしっかりと写ってる」
 純は写真に指を滑らせアルバムを見続けている。
「あたし達には見えないものが純には見えるんだね。純もきっと幸せになるよ」
 純を見つめる美鈴は純の不思議な魅力を感じていた。もしかしたそうかもしれない。でも正一には伝えない方がいい。全て神様の成すことが正しいと信じている単細胞な正一は男と男の愛なんて信じるわけがない。黙っていて時の流れに任せるのが無難と美鈴は考えた。
「ならいいけど」
「そんな気がするのよ、理由なんかないけどそんな気がする。絶対に幸せになるよ」
「ありがとう美鈴さん」
 純は美鈴が何かしら感じたのを察した。分かっていて応援してくれている、そう感じた。純は買い出しの時間になり佐藤宅を後にした。
「いい娘じゃねえか、なんかさ、こううまく言えないけど、いるだけでさ、やさしさの空気に包まれるって言うかさ。ドローンとしちゃうんだよな。お前と出遭った時と同じだ」
「あら、そう、あたしの色打掛姿見て興奮したんじゃないの。やる?」
「やるってお前、まだ三時半だよ」
「七時には寝る男がこの時間しかないだろう。跨ってやるから覚悟しな」
 美鈴が笑いながらパンツを下げた。
「お前外から見えちゃうよ」
 正一は焦ってベランダのガラス戸を閉めてカーテンを引いた。

 カウンターの中でお通しのヒジキとちくわを煮ているとドアが開いてレオが入って来た。ミニスカートではなくパンツだった。
「純姉さん、ごめんなさい。あたしこの店のルール知らなかったの。もうしない」
 レオが純に謝った。
「謝るのはあたし、人に手を上げるなんて最低。はっきり言って人間の屑。レオごめんなさい」
 純が深く頭を下げた。楓が出勤して二人の様子を見ている。
「純姉さんは悪くない。空気を読めないあたしが悪い子ぶりっ子」
 レオがお道化たので純もほっとした。
「レオ、あたしの頬をおもいきり張って」
 純が頬をレオに向けて目を瞑った。
「レオ、やりなさい、純はね、あたし達が絶対にしちゃいけないことしたの。分かるでしょ。こういう奴等と思われることをしたの。ママや姉さん達が少しずつ築いてきたプライドを崩したの。お客さんもびっくりしてたでしょ、また一からやり直しよ。いいからおもいきり張りなさい」
 楓がきつい顔をして言った。
「ばちーん」
 レオが頬を張る音を口真似した。緊張で張っていた空気がレオの口真似で弾けた。楓が笑い純が笑う。二人が笑うとレオも笑い出した。笑いのゼンマイが伸びきると楓が溜息を吐いた。
「レオ、お前あのおじさんその気になってたな。純が飛びださなきゃそれこそ一大事。収集付かなくなってたよ。ところであの二人はどんな関係?」
 楓がレオに訊いた。
「おじさんはおばさんに妹って呼んでた。おばさんはおじさんを兄って。多分兄妹」
「兄弟で何しに来たのかしら?」
「ずっと純姉さんを見てたよ。それでたまたまレオと顔が合ってそっちに行ったの。純姉さんの知り合いかと思ってた」
 レオが言った。
「純、知り合いなの?」
 楓が訊いた。
「会ったことない、と思う」
 純は首を振った。
「そうそう、忘れてた」
 純は二人に招待状を渡した。
「ええっ決まったんだ、純おめでとう」
「昨日弘和が決めてくれたの」
「ここって本当の結婚式場じゃん。凄い純姉さん、何人来るの?」
「一応百人声掛けてる」
「純、おめでとう」
 楓が涙ぐんで喜んでいる。

「いる?」
 佐藤宅に訪ねて来たのは西野兄だった。
「いるじゃないよ、お前等兄妹はどうなってるんだ一体、早く上がって説明しろ」
 正一が西野兄を叱った。
「正ちゃん機嫌悪いな?また今度にしようか」
 西野兄が焦らした。
「あたしも怒ってるよ、妹も肝心なことを言わずに電話を切った」
 美鈴に怒られ西野兄は頭を掻いた。
「それでどうしたんだ、昨夜は?初めから最後まであった通りを話してみろ」
 正一の前に紙切れを出した。
「これ昨夜の領収書」
 額面一万五千円。
「意外と高いな」
 正一が財布から一万出した。
「五千円足りない、お願い」
 美鈴に手を合わす。「美鈴がご苦労様でした」と金を封筒に入れて渡した。
「はい、確かに。またいつでも言ってよ正ちゃん。偵察なら俺に任せて」
「能書きはいいから早く話せ。その店はおかまバーじゃなかったんだろ?」
 正一はそうであって欲しいと頭ごなしに問う。
「ピンポン」
 西野兄が正解のベル。
「どっちなのそれ?おかまバーなのそれとも違うの?」
「タンポン」
 西野兄がオヤジギャグを飛ばした。
「面白くないよお前のギャグは、色気が無いと言うか人を不快にするな、どっちなんだよ?」
 正一が急かした。
「いやそのものだよ。店の人は三人居てさ、純て子、ベランダから手を振った可愛い子、あの子はカウンターの中で料理を作ってた」
「だろ、ほら見ろ、あの純がこっちなわけないだろ。弘和の嫁だよ、嫁がこっちでどうする」
 正一が手の甲を頬に当てて言った。
「それで純と話したの?」
 美鈴が安心している正一を無視して訊いた。
「その前にさ、美鈴ちゃんぐらいの年恰好の女男がいてさ、客と盛り上がってた。それから、俺も驚いちゃったんだけど、若くてすげえきれいな子がいた。妹はすぐに男だって分かったらしいけど、俺は全然分かんなかった。それでさ、その子が俺等のボックス席に来たわけよ。妹の隣に座ってさ、こんな短いスカートよ、こんな短い」
「立ち上がらなくていいから、ミニスカートは分かった。こんな短いんだろ」
 正一が立ち上がり太腿に手刀で線を引いた。
「そんなもんじゃないよ、こんな短いんだよ」
 西野兄も立ち上がり太腿の付け根で線を引いた。
「ばか野郎、それじゃパンツ丸見えじゃねえか」
「うるさい、どっちでもいい」
 美鈴が怒鳴った。二人はシュンとして座った。
「パンツはいいからどうしたって、あたしが電話したら妹は長茄子がどうのこうのって言ってたけど」
「さすがうちの妹、例えが上手い。そのきれいな子の股間には長茄子が付いてんだ」
 西野兄が『どうだっ』と言う風に自慢した。
「長茄子ってあれが?」
「そう、あれが長茄子」
 正一が問うと西野兄が答えた。
「それ普通でか?」
「そう、落ち着いた状態」
「だとするとバッキーンとなるな?」
「そう、こうバッキーンとなる」
 正一が両手で架空のバッキーンを股間から突き上げた。西野兄が一回り太い架空のバッキーンを擦り上げた。
「それで妹は想い出すと濡れちゃうっておかしなこと言ってたんだ」
 美鈴が西野妹との電話のやり取りを思い返した。
「それで純は、純は女だろ?」
「そう急かさないで順を追って話すから。それでその子確かレオとか言ったな、カウンターの純ちゃんに呼ばれて何か注意されて戻って来てさ、俺に「おじさんきれいにしてる?」って聞いてさ、ソファーの上に立ち上がれって言うから俺靴脱いで立ち上がったんだ」
「それで?」
 正一が先を急かした。
「西野兄、妹の前で立ち上がったの?妹は何も言わなかったの?大体これから何が始まるか分かりそうなもんじゃない。全くおかしな兄妹だこと、信じられない」
 美鈴が西野兄のスケベ根性を見透かした。そのスケベを目の前で見ている妹が不思議に思えた。
「なんか妹は赤い顔して痺れてるみたいだったな。多分握ったショックだと思う。妹も妹だよ、手を離すときに擦り上げたんだから、さすが俺の妹」
「駄目だこりゃ」
 美鈴が諦めた。
「それでさ、ズボン降ろせって言うからベルト外したらストンと踝までズボンが下がった。それでレオちゃんが俺の柄パンから倅を出そうとした時にカウンターの中から純ちゃんが飛び出してきていきなりレオちゃんの頬を平手打ちしたんだよ」
「さすが純だねえ、お前等破廉恥兄妹とそのおかま野郎の面が見たかったぜ。それで純は何て言った?」
「レオちゃんは可哀そうに外に飛び出して行っちゃった。レオちゃんを追って男おんなも飛び出した。なんか俺もバツが悪くてズボン上げたよ」
「それまでズボン上げてないのか?」
 美鈴が呆れた。
「うん、ソファーに立ったまま。妹が勘定して帰った。それまで」
 西野兄が報告終わりと煙草を咥えた。
「何がそれまでだ。それで純はどうしてた?」
「せっせと皿洗いしてたな」
「なっ美鈴、純はそういう子なんだよ、バチーンとビンタ張るなんて見事じゃねえか。さすが弘和の嫁になる女だ。一本筋が通ってる」
 美鈴も相槌を打った。正一に真実を伝えても価値観が受け付けない。
「そこへいくとお前等はだらしないねえ、兄妹揃ってバッキーン握らされて喜んじゃって、情けないったらありゃしねえな。ズボンだけで済んだからいいがパンツまで下げてりゃお前とは絶交だよ。もう卓球大会に誘わないよ」
「そりゃないよ。卓球とは別だよ。よく言うじゃねえか政治とスポーツは別もんだって」
「何が政治とスポーツだ、性に憑りつかれたスッポンみたいな顔しやがって。お前なんか粗大ごみの山に埋もれて死んじゃえってんだ」
 美鈴がビールを運んで来た。
「でもね、西野兄妹にあたし達がお願いしたことだからね。はい、取り敢えずお疲れ様」
 美鈴が西野兄にビールを注いだ。

 会社の前の公園に金髪の男がいる。薄汚れた赤いスウェット上下にサンダル履き。弘和は昼休みに公園に出て来る勤め人の目が気になって声が掛けにくかった。すると伊藤香の旦那が弘和に気付いて手を挙げた。
「よう、新婚さん、お待ちかね」
 大きな声で呼び掛けた。弘和は「こっち」と指を差して公園のトイレ脇に誘った。
「恥ずかしがっちゃってどうしたの」
 伊藤旦那が肘で小突いた。弘和は用件だけ手早く済まそうと式場の案内と封筒に入れた四十万を渡した。
「くれぐれも遅れないようにお願いします。それから僕等二人のプロフィールも書いておきました。スピーチの参考にしていただければと思います。宜しくお願いします」
 一礼して弘和が立ち去ろうとすると呼び止められた。
「待ってよ、そんな逃げないでもいいじゃん。どっかでコーヒーでも飲まない、それに俺飯食ってないんだよね、梨田さんに呼ばれて遅れちゃいけないと我慢してたんだ、腹ペコ、そこにレストランあるじゃない。どうシャンパンでも飲みながら作戦練るっていうのは」」
 伊藤旦那は食費代を請求している。
「すいませんが時間がありますから、これで交通費と食事代にしてください。奥さんにくれぐれも宜しくお伝えください」
 弘和は一万を差し出した。
「そう言う訳じゃないけど、それじゃ折角だから預かっておくわ。うちの奴があんたのことばかり口にしてる、たまに顔出してやって、大丈夫、俺も浮気しているからあいつが男遊びしても怒らない。ただしうちでやるのは勘弁してよ、子供等見てると可哀そうだし。最低限のルールだよね、浮気相手を自宅に連れ込まないのは。俺のポリシーが許さない。それじゃ」
 伊藤旦那は口笛を吹きながら公園から出て行った。弘和は不安になってきた。約束を果たしてくれることだけを祈った。
「課長、これ、郵送するより直接手渡した方がいいと思って」
 弘和は課長の武藤に招待状を渡した。
「社長と部長には?」
「郵送しました。なんかあの二人には直接持参するのも照れ臭くて」
「まあ、二週間と近いからな、部長は飲んべだから酒の席には必ず来るけど、社長は取引先とのゴルフがあるかもしれない。まあ誰か代わりは寄こすだろうけどな。君は将来有望株だし社長の後継ぎとも仲がいい。ばっちりご祝儀弾んでくれるぞ」
 武藤は招待状を鞄にしまいながら言った。弘和も分厚いご祝儀袋を想像して笑みが浮かんだ。
「それで仲人さんは決まったのか?」
「はい、高校の同級生にお願いしました」
「そうか、そりゃよかった。俺も断った手前心配してた、ほんとに良かった。先ずは旅立ちだな、二人三脚これからが人生だ。一筋縄じゃいかないぞ、自分の考えを半分に抑えて生きていくっていうのは。俺も所帯を持って十年になるが自制すると言うのは難しいもんだ。夫婦喧嘩の元は大概がそのライン上でぶつかる小さなことだ。大きな事は我慢出来てもそれこそ箸の上げ下げじゃないが今まで何とも思ったことのない事で言い争いになる。その修復にまた時間が掛かる。無駄な時間だと思うけど一緒に居る以上ずっと続くと諦めた方がいい」
「大変そうですね、結婚て」
 課長の説教を真に受けてはいなかった。弘和は生涯を純と共に過ごすことぐらい嬉しいことはない。
「それからうちの奴が何かお祝いをしたいって、欲しいものがあれば遠慮なく言え。まあ予算的には三万ぐらいだそうだ」
 武藤は笑って言った。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。奥様によろしくお伝えください」
 弘和は自宅に戻る。テーブルにメモ書きがある。『ベランダに干してある足拭きマットを取り込んでください』細くて薄い、手でなぞれば消えそうな純の字である。ベランダに出ると風が強かった。佐藤宅を見下ろすと白い布が揺れている。佐藤夫妻がベランダで手を振っているのだ。正一が携帯電話を掲げた。
「もしもし弘和です」
「灯が点いたからよ、帰ったんじゃないかと思ってな、何やってんだ?純は店だろ、飯食いに来いよ、ビールでも付き合え」
 弘和は返事をして佐藤宅に向かった。
「おー入れ入れ」
「失礼します」
「美鈴と二人でベランダで涼んでいたらな、弘和んとこの電気が点いたから、お前が外に出ているのに偶然気が付いた」
「何が偶然よ、ずっと待っていたのよあなたが帰るの。涼んでいたなんて嘘、寒くて震えていたのよ、あたしが呼びに行ったらちょうど弘和がベランダにいたから、それは偶然よ」
「お前それ言っちゃ終わりじゃん」
 正一は美鈴に明かされて照れている。
「純から洗濯物取り込めとメモ書きあったんでベランダに出ました。一人での夕食は慣れていますが誘われるとつい出てしまいます。やっぱりさびしいのかな。美鈴さん、これ純の作ったメンチです。よかったら一緒に」
 ラップされた皿を渡した。
「そう、よし、純の腕前みてやるか」
 美鈴が電子レンジに入れた。
「お陰様で仲人が決まりました。僕の高校時代の同級生で二人の子持ちなんです」
「その年で二人の子持ちか、弘和は二十五だろ、まあ普通か」
「同級生は女で旦那さんに了解してもらいました」
「いいわねえ、その齢で二人の子持ちなんてね、羨ましいわ」
 美鈴の一言でこの家に子供がいないことを想い出した。失言だが訂正は尚更よくない。
「いいのよ気にしなくて、気にしてないから。それは嘘か、気にしてるから気にしなくていいって言うんだな」
 美鈴が気にしている弘和に感付いて笑った。
「すいません」
 つい謝ってしまった。失言と認めている。
「お前、弘和、そんなこと気にするな。と言っても無理か。逆なら気にするなやっぱり。でもいいか、言っちゃ悪いがうちは幸せなんだ。まだまだ熱々だよこう見えても、なあ美鈴」
「そうよ、さっきもねえ、あんた」
「ばか野郎、弘和の前で恥ずかしいよ、お前声が大きいし、もしかしたら川向こうの弘和のベランダまで聞こえてるかもしれないぞ」
 三人は和気あいあいと二時間を過ごした。正一は酔いが回ればダウンする。すぐに鼾を掻き始める。誰がいようと場所が何処だろうと定量の酒でバタンキュー。
「美鈴さん、ごちそうさまでした。楽しかった」
「純を誉めといて、弘和が言うよりずっと料理上手だって。今度の大会の日にメンチ揚げて来て欲しいってあたしがお願いしてたって伝えて」
 弘和が頷いて立ち上がり美鈴が玄関まで送る。
「弘和、あたし知ってるよ、純の事。これでも女だからね、感じるの純の発する何かを。でもあたしは気にしない、純がいい子だから。いるだけで不思議と安らぐの、こんな例えじゃ悪いけど、子猫がね、じっと見つめてくれているような感じ。弘和が好きになり、結婚するほど好きになるのがよく分かる。応援するよずっと。でもね、うちの旦那にはまだ言わない。あの人は当たり前の事しか考えられない人だから。だからと言って隠す必要ないけどね、時が解決してくれると思う、ごめんね」
「美鈴さん、お二人に再会して本当によかった。こっちに越して来てよかった、なんか佐藤のおじさんに負んぶして揺られて病院に行ったあの五分がずっと心に残っているんです。日曜日、メンチたくさん揚げてきます」
 弘和は帰宅した。美鈴は鼾を掻いている正一に毛布を掛けた。

 風はほとんどない。庭に吹き込むこともない絶好の卓球大会日和である。高校時代卓球部ということもありローズママも参加を求めると快く受け入れてくれた。純は恐らく断られると思っていたが二つ返事で参加を認めてくれたことが嬉しかった。ただうちの男どもは口が悪いから失礼なことを言いかねない。美鈴から一言前置きがあった。それでも全員が大歓迎しているとも付け足された。純は複雑だったがローズママの喜びようを見ると嘘を付けなかった。美鈴からの注意をローズママに伝えた。
「今更恐いもんなんてないわよ。何言われたってそれが栄養になる」
 ローズママは美鈴の心配をよそに大会を楽しみにしている。
「おい、もう来てるのか西野兄妹?」
 庭からピンポン玉が台を叩く規則正しい音がする。
「ほんとだ、最近あいつ等庭から入るから分からないのよ」
 美鈴が台所で耳を澄ませてピンポン玉の音を確認した。
「犬猫より礼儀を知らねえな、うちのコロだって垣根超えて入らねえけどな、まったくおかいな兄妹だな。ところで風はどうだ?」
 正一は魔球の使い勝手を考えた。
「今はない、でも午後には吹いて来るよ、風下から」
 美鈴が人差し指を舐めて風向きを読んでいる。
「よし、準決まで残れば魔球の出番だな、今日は何人だ、純の勤めるおかまバーのママも来るんだろ、稼ぎ時だな、寿司だなまた」
 正一が指を折って勝算をしている。
「あんた、本人の前でおかまは止めなさいよ。これをきっかけに付き合いが始まればいいけどね。純の話だと面白い人みたい。苦労人らしいよ、だから初対面からおかま呼ばわりはいくらなんでも失礼よ」
 美鈴は正一が悪口でおかまと言っているのではないことをよく理解している。育つ環境の中で自然と涵養された性格であり、『やい、おかま』と言うのは『おい、親友』と親しみを込めている証である。
「こんにちは、いい天気ですね」
「あらっ、大家さん、何そのユニフォームは?」
 背に『大家』の刺繍がしてある。
「みんなが大家さんと呼んでくれるから本名よりいいかなと思ってね、うちの奥方に作ってもらった」
 大家は素振りを繰り返しながら答えた。
「おい、大家さんだ、背中の『大家』の紋が見えねえのかってんだ、お代官様の次に偉いんだぞ、練習変わってやれ」
 正一が西野兄に言った。
「大家さんおはようございます。どうぞ、妹が練習相手になります」
「大家さん、腕上げた?あたしはしがらみないから遠慮しないよ」
 西野妹が大家を挑発する。
「それはこちらの言葉でございます。妹殿のご慈悲はもとより必要ござらん、いざ」
 大家が反復横跳びを繰り返す。フットワークの良さを魅せつけているつもりである。
「大家さん、膝の骨でも折れたら大変だから無理しない。その大きな身体を負ぶって家まで運ばなきゃならなくなるから。それに奥方が薙刀抱えて仇討に来られても面白くないし」
 正一が冷かした。
「どうも~」
 桜井夫妻がお揃いのユニフォームでやってきた。桜井妻はすぐに庭に回り縁側に座る西野兄の横に腰を下ろした。そして西野兄の股間を見つめる。「フウウッウウン」おかしな息をして身体を震わす。桜井妻は西野兄に惹かれている。西野兄も気付いているが敬遠している。
「おい、桜井夫妻がねぎ背負ってきました。練習は交代交代でね。五分間隔だぞ」
 正一が言いながらベランダを見上げた。洗濯物がいっぱい干してある。弘和と純を待ち兼ねている。ラバーを張り替えて二人のためにラケットも準備してある。
「美鈴さ~ん」
 純の声である。
「純、よく来た、昨夜仕事だろ、眠くないか?」
 美鈴が出迎えた。純の正体を知りながらも全く変わらない出迎え。美鈴の後ろに弘和とローズママがいる。
「さあ上がって、みんなに紹介するから、あんたみんな来たよ」
 美鈴が叫ぶと正一が縁側に立った。
「ストップ、練習止め~」
 正一の号令で大家、桜井夫妻、西野兄妹が卓球台の前に横一列に並んだ。そして縁側に正一、弘和、純、ローズママ、美鈴の順に並びお互いが向かい合った。
「みんな、卓球大会を開催する前に新メンバー、今日から佐藤卓球部に入部した変わり者を紹介する。隣にいるのが俺のまあ倅みたいなもんだな。ほら覚えてんだろ。二十年前に大通りの交差点で事故に遭って額から血流して倒れてるのを俺が負んぶして中央病院まで運んだあの子だ、こんな大きくなっちゃった」
「こんにちは梨田弘和です。川向こうの公団に越して来ました。僕は両親がいなくて、ずっと叔父叔母に育てられました。その叔父も叔母も亡くなりました。公団に越してきて、自然に佐藤さんの下小屋に足が向いて、二十年前のお礼に行きました。あの時佐藤さんの背中で揺れながら、意識を失いかけながら、『頑張れ、頑張れ』と声が聞こえていました。あれがずっと胸に残っているんですよね。だから佐藤さんから倅と紹介されても違和感がないんです。みなさん宜しくお願いします」
 全員拍手で迎える。西野兄は頭上でラケットを叩いている。
「続いて純、純は美鈴から」
 正一は美鈴に振った。
「弘和のパートナーで純です。弘和が倅なら純は娘、二人共うちの家族、いいねみんな、虐めたら承知しないよ」
 美鈴がみんなを睨み付ける。
「でも勝負は別物だよ美鈴」
 西野妹がチャチャを入れる。
「うん、みんな仲良くしてあげてね」
 美鈴が純の肩に手を回す。
「美鈴さん」
 純は嬉しくて目頭が熱くなる。
「ええっそして」
 正一が湿っぽくなった空気を早めに流すためにローズママに振った。全く情報を得ていなかった。
「みなさん、驚いたでしょ、デブでおかまのローズで~す」
 ローズママの自己紹介に湧いた。大家は卓球台に伏せて大笑いしている。
「イエ~イ」
 桜井夫妻が手を突き上げて歓迎する。
「あたしね、体重百キロ超え。でも中学高校で六年間卓球部だから、勝ちに行きますから、容赦しませんから」
 ローズママがシェークハンドでバックの素振りをした。
「ようし、ルールを説明するぞ。いつも通り11本3セット、2ゼロで勝敗がついてもフルセット行う。勝利者は千円、1セット五百円、1ポイント百円が加算される。総当たり戦で敗者はこのどんぶりに千円ずつ入れていく。そして勝ち数の多い二人で決勝戦を行う。どんぶりの金はチャンピオンが持って行く。シングルス、ダブルス問わずこのルールが適用される。みんなは前回の結果でハンデが決まっている。弘和と純はど素人だから勝敗は免除、1セット二百円、1ポイント五十円だ。ロハじゃ上達しないからな、多少の授業料はいただく。それからローズはもしかしたら俺等より上手いかもしれないな、ハンデ無しでいいかな?」
「勿論、あげたいぐらいよ」
「言ったなおかま、容赦しねえぞ」
「じじい、あとで泣きべそ掻くなよ」
 正一とローズママは初対面、口は悪いが喧嘩にはならない。自然と打ち溶けてしまう天性を純は羨ましく感じていた。試合中はアルコール無し。弘和と純は卓球初心者とあってみんなに遊ばれている。ローズママはさすが経験者とあって慣れてくると六年間のキャリア発揮、高校で丸三年の経験は桜井夫妻、大家、西野兄、美鈴をも破り、決勝進出を決めている。現在プレー中の西野妹と正一の勝者がローズママと対戦する。正一の踏ん張りに西野妹も苦戦していた。
「正ちゃん、どうしたの、正ちゃんらしくないじゃん、諦め悪いよ」
 西野兄が粘る正一にヤジを飛ばす。
「西野妹、化粧が汗で落ちてきたよ、素が人生を物語っているよ」
 美鈴が西野妹をからかう。外野二人のヤジ合戦。一対一で迎えた最終セット、ジュースに入る。正一のサーブ二本、これを取れば決勝進出。下流からの風が土手を超えて佐藤宅の垣根も超えた。物干しのハンカチが揺れ始めた。一瞬風が止んだ。美鈴が五つ数える。
「正ちゃん恐いのかい?手が震えてるよ」
西野兄のヤジ、西野妹が焦れる。「あんた」と美鈴の目が動いた。正一が回転の掛けない高いサーブを入れる。西野妹のコートの奥に落ちた。「いただき」と西野妹が飛び上がってスマッシュする。ピンポン玉は風に乗って落ちるのを止めた。「あれっ」と叫んだ西野妹の口に入る。美鈴が跳び上がって喜ぶ。「よっしゃー」正一がガッツポーズ。
「きたねえよそれ」
 西野兄がふて腐る。西野妹がピンポン玉を吹き出した。「バッチー」と大家が摘まんで流しに持って行った。
 十五分のインターバルを取った。
「ママすごいね、頑張ってね」
 純がローズママの首筋の汗を拭う。
応援は二手に分かれた。正一応援派は大家、桜井夫妻、西野兄妹の五人、ローズママ応援派は弘和と純、そして美鈴が加わった。ローズママはカットマン、大きな身体で正一のスマッシュを見えない位置でカットする。正一はカットマンとの対戦は初めてである。思うように返せない。
「正ちゃん、台の奥に返して」
 実力ではナンバーワンの西野妹がアドバイス。庭の広さ、イコールコートの広さが狭い。台の奥に打たれるとカットマンも後ろに下がらなければならない、ローズが下がれば垣根にぶつかる、仕方なくフォアハンドで返す。その作戦が見事に的中し正一が追い上げた。2セット目を逆転で取り最終セット、一進一退を繰り返しローズママがマッチポイントを迎えていた。正一はこの一本を取ればジュースに持ち込める。今日の正一は粘りがある。弘和と純にいいとこを見せようと優勝を狙っていた。
「いつもの正一さんと違いますね、気合ノリノリ」
 大家が腕を組む。
「どうしちゃったのかしら、いつもなら5ポイントも離されればゲーム投げちゃうのにね」
 桜井妻も頷いた。
「新手が来てるからいいとこ見せたいんだよ正ちゃんは」
 桜井夫が妻に答えた。美鈴は分かっていた。正一は一所懸命戦う姿を弘和と純に見せたかったのだ。これから結婚する二人に投げやりなゲームを見せたくなかった。最後まで喰らい付く人生の意地を、この小さなピンポン玉に喰らい付く姿勢を見て欲しかった。
「あんた頑張れ」
 ローズ派に付いたが正一の気持ちがよく分かる美鈴が声を上げた。風が吹いた。美鈴が心で「どうする?」正一が首を振った。魔球を封じた。正々堂々と戦おう。正一のサーブ。ローズが突っつきで返す。正一がスマッシュ。ローズがカット。それがコートのエッジに当たり正一が空振りでゲームセット。自然と拍手が起きた。正一がローズに近付く。手を出した。ローズが握った。
「おかま、俺の負けだ、俺は本気出した」
「じじい、よくやった、褒めてやる、あたしも勿論本気よ。何をするのも本気よ、そうじゃなきゃ相手に失礼でしょ」
「さすがおかまだ、気に入った」
 二人はハグした。その晩は遅くまで飲み明かした。

 仲人をお願いしている同級生の伊藤香から電話があったのは披露宴の三日前だった。
「会いたいの」
 弘和は伊藤香の旦那から香が自分に気があると言う話を聞いていたので迂闊に返事は出来ない。
「どうかしたの?」
 泣いている。
「何か問題があるとか?」
「旦那が帰ってないの」
「えっ、どういうこと?」
「梨田君と会ってからそのまま帰ってないの」
 弘和の頭の中は旦那の行方より仲人のことでいっぱいだった。
「今日仕事の帰りに寄ります」
 弘和は仕事が手に付かず昼で早退した。香は化粧もせずに乱れた金髪で子を抱いていた。部屋は散らかり食べ残しがテーブルにある。ソードを持って暴れていた男の子も元気がない。香の太腿に腕を回して弘和を寂しそうに見つめている。
「座って」
 キッチンのテーブルに座ると饐えた臭いがした。目の前に置かれたラップの掛った得体のしれない何かから発している。
「どうしたの旦那さん?」
「梨田君が悪いのよ、私に確認しないで旦那にお金を渡したから」
弘和は返事が出来なかった。まさか仲人契約の金を持ち逃げするなどと考えてもいなかった。でも少し不安を感じたのも確かだった。
「あの時電話で旦那さんは君が体調を崩しているからと聞いたんだ。それじゃ仕方ないと渡した」
「旦那はあたしのパートで生きてんのよ、仕事してないしやる気がないの。あなたからのお金で借金も少し返せると喜んでいたのに」
 香は弘和を責めた。弘和は明日の朝、純が店から戻った時に何て説明すればいいのかその文言を考えていた。正直言うと佐藤家の荒れた家庭環境に真剣に応対する余裕はなかった。
「旦那さんの居場所に心当たりはないの?」
「女よ。ずっと前から付き合ってる女がいるの、多分そこにしけこんでるわ」
「家はどこ?」
「知らない」
「ご主人に電話してみる」
 弘和が電話する。留守電に繋がる。
「梨田です。仲人の件で電話しました。自宅からです。朝方まで起きていますのでお気遣いなくお電話ください」
 切り終わるとすぐに掛かって来た。
「少し黙っていてくれる。それとなく訊き出すから」
 弘和が男の子に「しーっ」をした。
「もしもし、梨田さん、ごめんねトイレ入ってた。自宅?」
「はい、実は家内のプロフィールの件で訂正したいことがありましてお電話したんですけど今大丈夫でしょうか?」
「いいよいいよ」
「先日お渡ししたのをお持ちですか?」
「今ないのよ、家に置きっ放しだから。でも大丈夫言ってみて」
 佐藤旦那は嘘を吐いている。
「出来ればお会いして打ち合わせをしたいと思ってまして、ご都合はどうでしょうか?」
「いいよいつでも、例の公園に行こうか?」
「夕方でもいいでしょうか、十七時半とか?」
「問題ない、それでさひとつお願いがあるんだ。貸衣装じゃいいのがないのよ、香がさ、折角だから着物が欲しいって言うからさ。俺達結婚式も披露宴もやってないし、こういうの楽しみにしてたんだよね、だから俺も我慢しろとは言えなくてさ、二十万ぐらい掛かるんだ、都合つく?」
 弘和は返事を曖昧にして電話を切った。伊藤香に場所とアクセスを教えた。香は高校の隣の席に座っていた弱い香りに戻っていた。教師の話もろくに聞かず、見開いたページも進行中とは関係なく、時には別教科の本を開いている時もあった。宿題に困っているのを見兼ねて教えても理解は出来ず、答えだけを書き記すと笑っていた。弘和が立ち上がり玄関で靴を履いていると香が抱き付いた。男の子がスターウォーズのソードで弘和の足を何度も斬り付ける。香を振り解くと男の子がソードを斜に構えた。
「こういうの止めてくれないかな」
 弘和がきつい顔を向けると香は泣き出した。「ママ、ママ」と心配する男の子が哀れだった。

 柱を担いで大工に渡す。鳶がその柱に梁を取り付ける。鳥居型にして立ち上げる。鳶の衆が柱を起こす。大工衆が柱の根元で支える。他の職方がロープで引っ張る。立ち上がる鳥居に棟梁がサゲフリを付けて柱の垂直を計る。
「よし、止めろ」
 根元を支えていた大工衆が筋交いを釘止めした。正一は所属工務店の建前に来ていた。手間は出ないがご祝儀として一万円がもらえる。建売で客も決まっていない。野地板を張り付けている間に鳶の衆は足場を架けている。
「忙しないねえ最近の建前は」
 正一が棟梁の根津に言った。
「まったくだ、昔は二日間かけて、二日目はどんちゃん騒ぎになっていたけどな」
 棟梁が相槌を打った。
「健康的でいいじゃないですか、それじゃお先に失礼します」
 電気屋がご祝儀を貰って帰った。
「何がお先にだばか野郎、一杯行きませんか、ご馳走しますよ、ぐらい言えないのかねえ、情けない」
「正ちゃん俺は付き合うよ、どっか連れてって」
 鳶の頭が割って入った。
「お前だよ情けないのは、俺は手伝い、鳶が主役じゃねえか、俺が奢ってもらいたいよ」
 薄っぺらな建売の玄関には左官屋の正一と棟梁根津の二人だけになった。
「正ちゃん割り勘で一杯行く?」
「割り勘て棟梁まで情けないねえ。行かないよ、家で一杯やるよ」
 ふと正一は思い出した。純の店が近い。
「棟梁、よし割り勘だ、五千両ずつでどうだ?」
「いいよ、なんか想い出したの正ちゃん?」
「うん、なに知り合いの子がアルバイトしている店があるんだ」
 車を置いてタクシーで出掛けた。
「ここだここだローズ。こんなでっかいおかまがいるからな棟梁」
 まだ店は開けたばかり。楓が打ち水をしている。入り口の脇に塩が盛られている。
「いらっしゃい、どうぞ」
 出迎えたのはレオだった。
「何正ちゃん、こんな店知ってるの?たまげたね」
 根津もレオが男だと気付かない。正一は西野兄妹から話を聞いている。
「駄目だよ棟梁、あの子はこんなでっかいのぶら提げてるから」
 手を筒にして突き上げた。
「えっ、そう言う店なのここ?実は俺さ意外と興味あるのよ」
 棟梁が手の甲を頬に当ててウインクした。
「気持ちわりいな、六十面下げて止めてくれよ、手伝いに行かねえぞもう」
「はい、改めましていらっしゃい」
 レオがテーブルについた。
「おじ様たち何飲む?先ずはビールか?」
 レオが支度をする。
「しかし正ちゃんから聞かなきゃ分からなかったよ、へえあの子がねえ」
 ドアが開いて純が入って来た。
「純、来ちゃった」
 正一が子供みたいな声を出した。
「あら、佐藤のおじさん、どうして?」
 純は驚いた。
「いやなに、建前の帰りでさ、こいつが一杯やりたいって言うから、そんじゃ俺の娘がバイトしてる店があるからって連れて来たんだ、迷惑だったかな?」
 正一は驚いた純の表情が歓迎とは違うように見えた。
「うんう、今待ってね、すぐにお通し用意するから」
 純はカウンターに入った。
「正ちゃん、あの子もこっちか?」
 根津はまた手の甲を頬に当てた。
「違うよあの子は。まあ話せば長くなるけどうちの娘みたいなもんでな、来週結婚するんだ。そうだ棟梁、ご祝儀出せ」
 楓がテーブルにつく。正一が笑って出迎える。
「どうぞ」
 楓が二人にビールを注ぐ。
「楓です、宜しく」
 楓がビールを一気飲みした。「ぷはーっ」と泡を飛ばした。
「よっ、姉さん飲みっぷりいいや、気にいった」
 正一が楓に注いだ。
「ああ美味しい、兄さんちはここら辺の人?」
 楓が二人に訊いた。
「こいつんちは近い、俺んちはもっと川の上流、都会」
 純がお通しを運んで来た。
「この方はあたしの知り合いで佐藤さん、昨日卓球大会を主催した人」
 純が楓に紹介した。
「ママから聞いてる、ママが優勝したんでしょ」
「まあ一応そういう事にしてるけどな、お客さんに花持たせたと言うか」
「誰が花持たせたって?」
 ローズママが入店して正一の後ろに立っていた。
「おっ、おかま聞いてたか?」
「じじい、よく来たな、よし今夜は離さないぞ」
「俺をそっちの世界引き摺り込もうって作戦か、ようしどっぷり嵌ってやろうじゃないの」
 一時間半で正一はダウン、アルコール量より睡魔に勝てない。
「純、美鈴に電話してくれ、タクシーで迎えに来いって。棟梁、これ割勘の五千両、後は頼むよ」
 ウイスキーのボトルはリザーブ、棟梁は楓と盛り上がり寿司まで注文している。とても五千円の割勘じゃ足りない。
「どうしょうもないわねえ、ママごめんね」
 美鈴が迎えに来た。
「いいのよ、このまま寝かしといても。いい旦那ね、これじゃ悪い事考える時間がないや」
 ローズママが鼾を掻き始めた正一に言った。
「どうしょうもない親父よ、何処に行ってもこれだから、定量でダウン」
 美鈴が笑って言った。
「美鈴ちゃん、相変わらずきれいだね」
 酔った根津が美鈴に声を掛けた。
「棟梁、仕事回してよこの人に、うち困ってんだから、おまんまの喰い上げ」
「分かってるよ、そう怖い顔するなよ、これでも正ちゃん最優先に考えて段取りしてんだから」
 根津が申し訳なさそうに言った。
「純、帰るよ。大家さんがね、あたしに貸してくれた色打掛をね、純が良ければ上げるって。どうする?」
「ありがとう美鈴さん、着たい、絶対に着たい。大家さんにお願いしますって言っといて」
 美鈴が頷いた。
「似合うよ、純が最高に似合うよ」
 ローズママと楓が正一の両脇を抱えてタクシーに乗せた。
「あたし一緒に送って来るから」
 ローズママは断る美鈴に構わずタクシーに乗り込んだ。
「ママ悪いね忙しいのに」
「いいのよあたしなんて置物の狸と一緒」
 正一を挟んで話し始めた。
「ねえ美鈴とじじいと幾つ違うの?」
「十八、失敗した」
 運転手まで笑う。
「じじいとあたしが齢一緒、来年ミレニアムに還暦だもんね、羨ましいわ美鈴が、この時代にもう一度それぐらいに戻りたい」
 美鈴が窓を細く開けた。自宅前に付いた。二人で抱えて正一を畳に転がした。布団を敷いてまた転がした。二人はキッチンのテーブルに向かい合った。
「ママビール飲む、発泡酒しかないや」
「もらう」
 缶のまま乾杯した。
「美鈴は純のこと知ってるのよね?」
「うん、純にも伝えてある」
「じじいは?」
「まだ言ってない」
 ローズママは笑った。
「じじいはずっと、死ぬまで知らずに終わるかもしれないね、正直な人だから疑うことなんて考えない人でしょ?」
「そうなの、ママはよく分かるね、初対面の時からうちの人と通じ合ってる感じがした」
「じじいの人徳よ、発する気に何の障害もないのよ。すーって入って来るの。だからあたしも全部曝け出せるの」
 発泡酒の二本目を飲み始めた。
「ママは子供いるって昨日聞いたけど、旦那は?ごめんね変なこと聞いて、他人事ながらなんか興味あるの」
「いいのよ、旦那は女よ、お鍋知ってるでしょ。あたし新宿に出た時もう今の子がいたからさ、食うに困って一緒になったのよ、向こうも同じ、一人じゃ食えないけど二人ならなんとかなるって本当になんとかなったわ。だから好きも嫌いもないのよ。ただ子供が懐いてね、あたしより向こうが好きみたいよ。幸せよ今の人とは。結婚式なんてあたし等の時には考えられなかった。虐められて馬鹿にされてさ、何度子供を道連れに死のうと思ったことか。そん時支えになってくれたのが今の旦那よ。何かしてくれるわけじゃないけどね。おもいきり泣かせてくれた」
 ローズママは苦労話を笑いながら話した。
「美鈴はどうなの、あんたまだ若いし、いい女だし、こんなじじいとなんか何で一緒になったの?あたしの人生より不可解よ」
 美鈴が三本目を出した。
「それがママと同じよ、性別に間違いがないだけ」 
 二人は大笑いした。
「実家も貧乏でさ、ずっとアパート暮らしで両親はいつも喧嘩ばかりでさ。高校なんてすぐに辞めて家飛び出して十八だって嘘ついて飲み屋でバイトしてて見つかって家に帰って、族のリーダーと付き合って、バイクが転倒して死ぬ思いしてさ、父親大工だから現場手伝いしててこれと知り合ったのが二十歳。建前で秋田の民謡歌っててそれがすごくいい歌でさ、教えてもらい始めてこうなったの。俺はいいけどお前はこれからじゃねえか、考え直せって何度も言うのよ。でもね一緒にいると自分の中から、何て言えばいいのかな、煮物するとき灰汁が出るでしょ、そんな感じ、灰汁を掬い取ってくれるの。話すたびに出る灰汁を掬い取ってくれるのよ。もうこの人しかいない。顔なんか気にならなかった。潰れた顔をしていても犬のチンだと思えば可愛いし、それがさママ聞いてよ、ここだけの話、アレも小さいの。それに早いの、犬と一緒。でもね、それでもこの人がいいって決めたのよ。不思議なくらいこの人が好きになっちゃったの」
「チンは可哀そうじゃん」
 ローズママが正一の寝顔を見て笑った。

 公園のトイレ脇の花壇に煙草の吸殻を投げ捨ててOLに睨み付けられた。
「なんだばか野郎」
 OLは危ない奴と思い注意するのを止めて立ち去った。伊藤旦那は弘和と約束した時間より一時間も早く来ていた。弘和は駅まで伊藤香を迎えに行っていた。背中に乳飲み子、左手に男の子を連れていた。さすがに整髪して化粧もしている。ミニスカートから白い太腿が露わになっている。
「待った?」
 香は恋人と待ち合わせをしているような笑顔で弘和に声を掛けた。
「いやそうでもない」
 二人は公園の便所裏に向かう。弘和は伊藤旦那が何て言うか心配だった。関係を疑われるのが一番苦しい。男の子が伊藤旦那に駆け寄った。旦那は驚いて立ち上がる。香は必要以上に弘和に寄り添う。胸の突起を肩に感じるほどである。
「そういうこと?」
 旦那の第一声。やはり予想通りの展開となった。香は旦那の嫉妬を楽しんでいる。身体を揺すって乳首を弘和の腕に擦る付ける動作を旦那に見せ付けた。弘和が避けるが香は腕を抱いて離さない。
「伊藤さん、お願いだから家に帰ってください。子供達が可愛そうじゃありませんか。それに仲人の約束を守ってください。もう日がない。もし不足分があれば補充します」
 弘和はお願いした。
「あんたどの面下げて言ってんの、人の女房コマしといてさ、よく言えるよ」
「僕は彼女と何の関係ない。これは彼女のパフォーマンスだよ。だらしない夫でも帰って欲しいから、お願いしているんだよ。そうでしょ香さん?」
 香に相槌を求めたが首を横に振った。
「あたし梨田君がいい」
 とんでもない言葉を言い放った。伊藤旦那が大笑いする。弘和が香の腕を振り解いた。背中の子供が泣きだした。子供を背から降ろし弘和に差し出した。条件反射で弘和はその子を受け取ってしまった。
「パパよ、パパって」 
 香が子をあやした。弘和は子を差し出すが香は受け取らない。
「梨田さん、百万でいいよ。うちの女房をたぶらかした罪の償い金、あんたの披露宴までに払って、そうじゃないとぶち壊すよ。家に行くから」
 佐藤旦那が脅した。香が旦那をハンドバッグで殴りつける。
「いてえな、この尻軽女がふざけんな、てめえなんか消えちゃえ」
「てめえが消えろ、良夫はお前の子だからお前が面倒看ろ」
 香が走って暗闇に消えていく。
「おい香さん、香さん、逃げてどうすんの」
 弘和は子を抱いたまま追い掛けるが逃げられた。諦めて戻ると男の子が泣いている。伊藤旦那の姿もない。弘和はどうしたらいいか迷う。警察に行くべきかどうか、交番の前まで行くと警邏に出ていて誰もいない。
 男の子はずっとべそをかいている。背中の子は幸いにも泣き出さないでいる。
「君、良夫君だよね、おじいちゃんかおばあちゃんいるでしょ。家まで行けば分かる?」
 良夫は頷いた。弘和は仕方なく電車に乗った。そして伊藤宅に行く。電気は消えている。香が戻っていることを祈りながらベルを押す。背中の子が泣きだした。
「良夫君、この子は何て言うの?」
「じゅんだよ」
「じゅん?」
「じゅんて字は?」
 笑って言わない。背から降ろしあやすが泣き止まない。泣いている原因さえ分からない。このままでは死んでしまうと思った。タクシーに乗りスナックローズに向かった。運転手が犬のように鼻を啜る。弘和も感じていた。じゅんの尻から臭いがする。ローズに入ると店の動きが止まった。皿が割れる音がした。その音が時間を動かした。
「あんた弘和じゃない」
 ローズママが言った。純がカウンターの中で固まっている、皿を落としたのは純だった。
「入んな、ほらこっち、お前等あっちへ移れ」 
 楓がボックス席の若者三人をカウンターに移動させた。
「飲物とコースターも持ってけ」
 楓の言う通りに若者はグラスとコースターを持って立ち上がった。楓がじゅんを受け取り長椅子に寝かせた。
「やっぱり。おいマサ、藤沢のスーパー行ってパンパース買ってきな、それから店員に聞いて哺乳瓶と粉ミルク、いいのを買えよ。アレルギーがあるといけないからな、トモと一緒に行け」
 楓に命令された客の若者二人は店を飛び出した。楓は若いころ保育士の経験があり赤ん坊の扱いには慣れている。
「純、いいから出ておいで」
 ローズママは純がおかしなことに不安を抱いていると感じてカウンターから呼び出した。そして奥の更衣室の丸椅子に座った。
「弘和、事情を説明して」
 ローズママが言った。弘和が一部始終を話し終えると爆笑した。
「お前も情けないねえ、それでその夫婦に逃げられたの?」
 ローズが鼻でせせら笑う。
「この子の家にも行ったんですけどやっぱりいなくて」
「そりゃそうだよ、子供ぶん投げて行く親がすぐ戻るわけないだろ」
「ママの悪口言うな」
 良夫が声を上げた。
「ごめんな、ママの悪口じゃないよ僕、鬼の悪口だよ。そうだお腹空いたろ、よし美味しいもの食べさせてやろう。こっちおいで」
 ローズは二人を残して店に戻った。
「ごめん純」
「いいの、あたしこそ御免、弘和の隠し子かと思った」
 二人は笑った。
「明日会社休んで警察に行ってくる」
「警察に届けるとあの子達どうなるの?」
「全く分からないけど受け取ってはくれると思うけど」
「うちで育ててみない」
 純がおかしなことを言った。
「どうして?」
 弘和は呆気にとられた。
「こんなことってあること自体がおかしいと思わない?考えられないでしょ普通、神様の悪戯かもしれない。それしか考えられない。だったらその悪戯に乗せられてみない?」
 純は本気で考えた。
「でも、捨てたわけじゃないと思うし、それに純が考えてることはそう簡単な手続きじゃないと思う」
「親が来るまで預かったらどう?里親として育ててみない。両親が反省して帰ってくるまで」
 弘和の不安は広がった。恐らくあの二人が元の鞘に収まるとは考えにくかった。一時的に戻るとしても果たして子供を育てる責任を果たすだろうか、いや経済的に果たせるだろうか疑問だった。
「純が良ければいいよ、でも赤ちゃんて片手間じゃ育てられないと思う。僕が昼間仕事に行き純は夜仕事」
「あたしが負んぶして店に連れて来る。子供好きよママも楓姉さんも、そこは大丈夫。どっちかって言うと上の子が心配。もし長くなれば幼稚園とか入れなければならないでしょ」
 純はずっと先のことまで考えていた。もしかしたらこのまま自分の子供になるかもしれない。そこまで思いを巡らせていた。でもその表情はそれを望んでいた。
「分かった、いいよ、親が戻るまで僕等で育てよう、忙しくなるな」
 純が弘和に抱き付いた。ローズママがそれを見て忍び足で戻った。

 弘和は翌日休みを取った。真実を課長に説明したが「もっとうまい嘘を付け、いいよ上手く誤魔化しておく」と笑って信用されなかった。
「こんにちは」
 玄関に子供連れの弘和が立っていた。
「弘和どした、まさか人攫いか?」
 正一がからかった。事情を説明した。
「それで赤ちゃんは?」
 美鈴が訊いた。
「純が抱いてます」
「純ておっぱいは?」
 咄嗟に口に出てしまった。
「おっぱいなんて急に出るわけねえじゃねえか」
 正一に聞こえていた。
「ローズママは子育ての経験があるし、それに楓さんが昔保育士をやっていたので子育てのプロなんです。色々教わってミルクをあげています」
「そうか、純も大変だな、親は連絡付かないのか?」
「ええ、何度も電話したんですけど留守で、居場所も見当がつきません。警察に届けようかと考えたんですけどなんかそれも可哀そうな気がして」
「うちの子にしてあげてもいいけどね、あんた?」
 美鈴が言った。
「ああ、うちは問題ない。だけどな、親だって気になってしょうがないんだぞきっと。どうしてるかな、飯食ったかな、おむつ取り替えたかな、ちゃんと布団に寝かせてもらってるかな、子供等の様子一々が頭にこびりついて離れない一分一秒だろうよ。初めての子育てだろうから育児疲れをして夫婦で一時の諍いをしたかもしれない。あんまり情を入れずに考えた方が間違いないと思うな。犬や猫みたいに餌やって散歩に連れて歩いて撫でてりゃ育つもんでもねえからな。運命ってのがあってな、うちみたいに望んでいたって出来ない家庭もある。もしその親がな、食うに食えず、子供の世話を出来ない、栄養失調になっちゃうかもしれないから、お願いしますって来たら、俺は喜んで預かってやるよ。一生懸命育ててやる。俺は頭が悪いから、優秀な子には育てられないけどな、擦れ違う人に挨拶したり、年寄りに席を譲る子に育ててやってよ、もしも親の生活が安定して引き取りたいって来た時には、勉強させていただきました、ありがとうございますと送り出してやるさ」
 正一が弘和に言い聞かせた。弘和は正一の話を聞いて子育てに対する甘さを反省した。純を説得して警察に引き渡すことを考えた。
「良夫って言うのかお前は」
 美鈴が頭を撫でると「うん」と頷いた。
「お父ちゃんとお母ちゃんに会いたいだろ」
 泣き出した。
「よし、良夫泣くな、おじさんが父ちゃん母ちゃんを捜してやるからな、それまで辛抱出来るな?泣いてばかりじゃ迎えに来てくれねえぞ。いつかきっと「良夫ごめんね」って母ちゃんが来るからそん時は許してやるんだぞ。いいな、それまで我慢出来るな?」
 泣きながら頷いた。
「よし、良夫はうちに預かる。お前んとこも二人は面倒看れないだろ、それを分っていてみすみす渡すわけにはいかないぞ。なあ子供にゃ何の罪もない、協力して飯ぐらい腹いっぱい食わせてやろうじゃねえか」
「良夫おいで、一緒に買い物行こう」
 美鈴が良夫の手を引いて買い物に出掛けた。
「佐藤のおじさん、美鈴さん、ありがとうございます。それとお願いがあります。純と二人で決めたんです。今度の日曜日の披露宴、仲人をお願いします。昼過ぎに純と二人で改めて挨拶に来ます」
「おい弘和、何だ仲人って」
 弘和は笑顔で逃げるように出て行った。

 ミルクを作っているとベルが鳴った。覗き穴を見るとローズママが覗いている。
「ママ、どうしたの?楓姉さんも」
「心配でお前ひとりに任せられないだろ」
 楓はドラッグストアで大量のミルクとおむつを購入してきた。
「お前一人か?」
「うん、弘和は向かいの佐藤のおじさんちに行ってる。ベランダから見えるかもしれない」
 ローズママと純はベランダに出た。川縁を美鈴と良夫が歩いている。
「あっ、おおい」
 純の細い声では届かない。ローズママの太い呼び声が届いた。美鈴が手を振り返す。良夫を抱き上げた。純が手を振ると良夫は両手を振って応えた。
「近くにあんないい人がいて良かったな」 
 ローズママが純に言った。楓がじゅんの身体を拭いて買って来た着替えと取り替えた。
「ほれほれほれ、ほれほれほれ、気持ちいいか、そっか」
 横にしてあやしている。
「楓姉さんがお母さんみたい」
「おばあちゃんだろ、おじいちゃんか」
 純が言うと笑って答えた。
「それでどうすんの?」
 ローズママが本題には入った。
「弘和が親の家に行って来るって、それから考えようって」
「お前等はのんびりしてるな、弘和は何だって?」
「警察に届けようって言ってたけど、あたしが反対した。施設に入れられること考えたら可哀そうになって」
 じゅんが眠った。
「これじゅんてどんな字なの?」
 楓が訊いた。
「それが分かんないの、良夫も笑ってた」
「そりゃそうよ、良夫三つでしょ、まだ漢字なんか分かるわけないじゃん」
「字はともかくあたしと同じ名前だから運命感じるわ」
 純がじゅんを見つめて言った。
「都合よく考えるな、たまの偶然だ」
 ローズママが断言した。
「それより仲人頼んでたんじゃないのここの親に?」
「うん、でも駄目でしょもう、しょうがないわ。それで佐藤夫婦にお願いすることに決めたの」
 純が笑顔で言った。
「決めたって佐藤のじじいはOKしたの?」
「それを今弘和が告げに行ってる」
「告げにって?」
 「告げりゃ決まりか」とローズママは言いたかったが純の澄んだ目を見ていると強く言えなくなった。
「いい人だからって通じると思ったら甘いぞ純。じじいはほんとにいい人よ、人を疑う事なんて全く考えていないきれいな人。顔と身体つきで判断しちゃ駄目」
「あたしそんなことで判断してない」
 ローズママが笑う。
「純、お前はじじいがお前が男だと知ってると思ってるのか?」
「美鈴さんは分かってる。だからおじさんにも伝わっていると思うけど」
 美鈴から直接言われた。弘和も美鈴から聞いている。夫婦間だから当然話していると考えていた。
「じじいはな、お前が女だと信じて疑っていないの。そんなことすら頭に浮かばない人なの。美鈴が言っても中々信用しない、だから美鈴も時が解決するのを待つってあたしに言ってた。あたしもそう思う。もし仲人をお願いするならじじいに正直に話して、それからにしな」
 純は正一なら「よっしゃ、任せとけ」そう言って引き受けてくれると疑っていなかった。だがローズママの話を聞いて不安が募って来た。
「ローズママは?もし佐藤のおじさんが断ったらママならやってくれる?」
 純は両親のことが頭に浮かんだ。もし仲人もいない結婚なら世間から認めてもらっていない、それは困る。
「ばかかお前は」
 ローズママに叱られた。
「あたしがやったらこの結婚の意味がないじゃないか。同性でもほんとに愛し合っている、それを認めてもらう為じゃなかったのか?だから披露宴もみんな集めて堂々とやるんじゃないのか。あたしも楓も、そういうことで惨めな思いをして来た。だからお前達の結婚が普通に行われることを応援しているのが分からないのか。これはお前達だけの結婚式じゃないぞ、あたし達みんなの式なんだ。ミレニアムに変わるんだそうだろ?」
 純が大きく頷いた。じゅんが泣き出した。
「ほーらおっぱいおっぱい」 
 楓が哺乳瓶をあてがう。楓の目をじっと見つめるじゅんが泣き止んだ。

 諦めているが一応ノックする。弘和が踵を返すとドアが開いた。目の淵が真っ黒な伊藤香が立っていた。
「入って」
 弘和は玄関に立ってドアを完全に閉めなかった。もしかした襲われる気がした。襲われなくても抱き付かれたらすぐに逃げる体勢を取った。
「一体どうしたの?君の赤ちゃんじゃないか」
 香は泣き晴らし目を擦り付けて腫れていた。
「ごめんなさい、子供達は?」
「うちにいる。正確には良夫は佐藤のおじさんちでじゅんはうち」
「佐藤のおじさんて?」
 見知らぬ誰かに預けられた良夫が心配になる。
「うちの近所の人で僕等が世話になってる人。すごくいい人だから安心して」
 香は泣き出した。子供達の思いが伝わって来るのだ。
「奥さんが面倒看てくれてるの?」
「ああ、まあ。でも詳しい人がいて付き添ってくれてる。ミルクもよく飲んでるから心配しないで」
 香の惨めな姿を見ていると怒りをぶつけられなくなった。
「どうするの?」
 弘和が問うと香は下を向いた。
「会いたい、今すぐ会いたい、でもお金ないの、抱いて上げるしか出来ない」
「旦那さんは、旦那さんとは連絡付いた?」
 香は弘和を見つめた。
「梨田君ちに脅しに行くよ。お金強請に行くよ明日。お金取ったら元通り暮らそうってあいつ言ったけど嘘よ。お金取ったら女と逃げるわ」
 香は旦那からの電話内容を弘和に打ち明けた。
「脅すって?自分の子供を放棄しておいて、それに僕は仲人代として三十万も渡してある。どうして僕等が脅されなければならないの?」
 弘和は立場が逆だと思った。三十万はもう諦めていたし仲人も正一が受けてくれると信じていた。
「梨田君がいい人だからよ。羨ましいのよ梨田君が」
 脅す答えになっていないような気がした。
「でも僕にそんなこと話して君は大丈夫なの?」
「あたし別れる決心したの、一人で育てる」
 香の意志は固く感じた。だが現実的じゃない。
「君の考えは尊重するけど、お金はどうするの?」
「この身体で稼ぐ、もう話付けたの。」
「ええっ、身体で稼ぐってまさかだよね?」
「仕方ないでしょ、それに本番はないから、スカウトの人がアレを筍だと思えばなんともないって言ってた」
「筍って、そんな簡単なことじゃないよ、それに君が仕事している間はあの子達はどうするつもり、預けるにもお金が掛かるんだよ」
「支度金を貸してくれるって、それで保育所にお願いするの」
 弘和は驚いた。確かに稼ぐつもりならいくらでも稼げるだろう。そうやって頑張っている女親もいる。だがいつまでも続けられる商売ではない。子供は成長し親の仕事も薄々感付いてしまう。その時どう対峙するのだろう。『お母さんがんばってね』そんな声を掛けてくれる子はいるのだろうか。蔑む態度で口を聞かなくなる。その時の寂しさは何処にぶつければいいのか。弘和は色んな事が頭に浮かんだ。目の前にいる女がこれから奈落に落ちていく様を見過ごすわけにはいかない。
「明日迎えに行くから、それまで面倒見ていてください。お願いします」
 香が深く頭を下げた。Tシャツの襟首から乳首が見えた。
「ねえ、早まらないで一度うちに来ないか、もしかしたらいい考えが浮かぶかもしれない。そうだ佐藤のおじさんちに行こう、必ずヒントがあるよ。僕等の齢じゃ浮かばない知恵をたくさん経験している。そもそもここにいては危険な気がする。このまま行こう、今すぐに行こう」
 弘和は半ば強引に誘った。香を引きずるように家を出た。

 伊藤香が玄関に入る前から良夫はそわそわしていた。
「どうした良夫、おしっこか?」
 美鈴が落ち着きのない良夫に言った。玄関が開いた。良夫が走って行った。
「お母ちゃん」
 香の胸に飛び込んだ。
「分かるんだなあ、犬と一緒だな、母親が近くにいるのを感じてそわそわしてたんだ」
 正一が動物の本性を目の当たりにして感動していた。
「すいません、突然お邪魔して」
 弘和と純、伊藤香の三人が立っている。
「何やってんの、いいから上がりなさい」
 美鈴は驚きもせず普通に客を迎えるように言った。良夫が香の足に摑まって離さない。
「そういうもんだ、これでいいんだ、これが当たり前なんだよ」
 正一が香に抱き付く良夫を見て納得している。
「そうか良夫、お母ちゃんてか?もう二度と離すんじゃねえぞ。おいお母ちゃん、分かったろ」
 香が頷いて泣いている。
「良夫よかったな、危うくうちの子になり掛けちゃったもんな、いいお母ちゃんだな、すぐに迎えに来てくれた。やさしいお母ちゃんだ」
 美鈴がお茶を出しながら言った。
「すいませんでした。ごめんなさい」
 香が謝罪した。頭が畳みに付いている。
「ほら、いいからいいから、頭上げなさい、あんたの罪はあんた自身で今償ったじゃないか、これから幸せが待ってるよ。一緒に居るだけで幸せなのに子供等大きくなる、その一日一日が玉手箱だ。羨ましいよあんたが」
 美鈴が香を慰める。
「佐藤のおじさん、美鈴さん、こんな時に相乗りするみたいで申し訳ないんですけど仲人の話改めてお願いに上がりました」
 弘和が改まった。
「仲人の件か、美鈴と相談した。こいつが受けようって言うから受けることにした。でも本当に俺達でいいのか、仲人ってさ、やっぱり大きな家に住んで、子供達が大学に行っててさ、日曜日には家族で大きな車でドライブ行ったりさ、そんな夫婦じゃないかイメージとして。うちはさ、平屋の二間の家でさ、車は軽トラでドライブなんて行けねえし、そもそも子供に恵まれなかった。なんかテレビに出て来る仲人のイメージと違うぞ。本当にお前達は俺達でいいのか?」
 正一の言葉に二人は顔を見合わせ、満面の笑みで頷いた。
「佐藤のおじさん、美鈴さん、ありがとうございます」
「分かった。色々探して、誰もいい返事をくれなかった。それじゃ佐藤のじじいに頼もうかってなとこだろう。それも察してしっかりと受ける。しかし条件がある」
「本当は初めから佐藤のおじさんと美鈴さんにお願いしようと考えていました。こないだ下小屋に行ったのは仲人のお願いのことなんです。でも二十年振りに再会した恩人にそんな調子のいい事言えなくて、すいませんでした」
 弘和が詫びた。
「佐藤のおじさん、条件て何?あたし達に出来ることかしら?」
 純が正一の条件と言う言葉が気になった。
「どうせ大したことじゃないわよ、あんた純が心配しているじゃない」
 不安な純を見兼ねて美鈴がフォローした。
「純は正直だな、おじさんの条件はな、お前等の幸せだよ。浮かれた芸能人みたいに一年や二年で別れるんじゃねえぞ。幸せにいつまでも暮らすんだぞ、いいな、それが条件だ。もし二年で別れたら、拳骨くれるからな」
 正一が拳固に息を吹きかけた。
「ありがとうございます」
「それじゃスピーチ考えないとな。おい美鈴、桜井妻が俳句やってんだろ、文章考えるように伝えとけ、おい弘和、お前等の正体書いて持って来い、もう日がねえから大急ぎだ。こりゃ忙しくなったな」
 正一が慌てている。
「それでおじさん、もうひとつ相談があります」
 弘和が膝を詰めた。
「どうした、これ以上の難題か?仕事暇だと付き合いで忙しいな」
「彼女が怪しい店で身体を資本に働いて子供達の面倒を看るって言うんです。もう決めたって、もし働き口があれば紹介して欲しいんですが」
「身体資本て肉体労働でツルハシ担いでトンネル工事の作業員でもやろうってのか?母ちゃんのためならえん~やこらってか。母ちゃんは自分だな、良夫のためな~らえん~やこらか、なあ良夫」
 正一の節に笑っている良夫の頭を撫ぜた。
「ばかねあんたは、身体売って稼ぐってことよ」
「何を、内臓売るのか?そりゃ止めとけ、五臓六腑、役割はよく分からねえけど何かしらの働きがあるから神様がこさえたんだ。ひとつなくなるとバランス悪くなるぞ、こんな風になっちゃうぞ」
 正一がおかしな動きをすると良夫が飛び上がって喜んだ。
「良夫だけだよ、あんたの鈍感喜んでいるのは。男に身体を売るってことだよ」
 美鈴が説明した。
「そりゃ止めとけ。あんたはいいさ、子供がそれを知った時に何て言うんだあんたは。いくら子供の為に稼いでいるとしたって自信持って言えるか。子供がいなきゃいいさ何したって、もうあんたの人生はあんたのもんじゃない、三分の二は子供のもんだよ」
「働くのはいいけど子供達はどうするつもり?」
 美鈴が訊ねた。
「それは僕等が協力して面倒看ます。夜は純の店でママと楓さんが看てくれます」
 弘和が言い切った。
「良夫はどうすんの?もう幼稚園だよ、送り迎えもあるんだよ」
 美鈴の問い詰めに弘和が黙った。
「あんた香ちゃんて言ったね、あたしのよく知ってるスナックがあるの、時給は千五百円、六時から入って深夜一時まで、一日働いて一万円ちょい、嫌な客もいるけど我慢出来る、しつこい奴はマスターが追い出してくれるから。やってみる?」
 美鈴が香に問う。
「お願いします」
「うんいいよ、明日から話付けて上げる。マスターもママもあたしの昔のヤンキー仲間。良夫はうちに預けておけばいい。じゅんは純が面倒看てくれる。ただしひとつ約束して、店の客とおかしなことにならないこと、いいね、ママにすぐ報告する様に言っとくからね。万が一忠告破ってチャラチャラしてたら子供達返さないよ、それであたしがあんたをボコボコにするよ。それでいいね?」
 美鈴が念を押した。「はい」と香りが返事をした。
「子供等が落ち着くまでだよ、それまでの辛抱さ、あんたの人生だから、楽しめばいいさ」
 美鈴が笑って付け加えた。
「ところで香って言ったっけ、住処はあんのか、なきゃ大家さんに相談してやる、それまで弘和んとこにいろ、いや駄目だ、何かあったら巧くないな、うちに泊れ、なあ美鈴」
「はいよ、それでいいよ」
 翌日大家に掛け合うと二つ返事でまとまった。空室のワンルームを手続きなしの家賃だけ、それも半年間は半額で入居を世話してくれた。

「チンピラが弘和を脅すって?てめえの子を放棄して逆じゃない、うん分かった、あたしの付き合い知らないな?」
 伊藤旦那が脅しに来ると香から聞いた純が不安でローズママに相談したのだ。
「ローズママから頼まれて来ました吉田と言うケチなもんでござんす」
 着流しの下に晒しの腹巻が少し見える。オールバックで金縁サングラス、頬にはこれがヤクザだと言わんばかりの傷がある。昭和初期のやくざの典型、もうこんなヤクザは街では見かけない。逆に弱そうに見えてきた。それでもママの紹介だから間違いないだろうとドアを開けた。純は一礼して和室に座布団を出した。リビングにコーヒーと洋菓子を用意していたが和室じゃないと合わないような気がして急遽そうした。
「改めまして吉田源治と申します、藤沢じゃ人切り源公なんて呼び名でしたが、知ってる?」
「すいません」
 純は知らないことで叱られるかと思った。
「いいよいいよ、気にしない、もう五十年も前の話だから」
「ローズママとは長いんですか?」
「ローズと長いね、あれがね、新地に来た頃に、チンピラにからかわれていたときからの付き合いだからね。助けたお礼がしたいって、でも当時のローズに金はない。それでさ、俺の着流し捲って咥えやがってさ、俺びっくりしちゃったけどさ、それが案外うまいじゃん、それから二回ぐらい助けたかな、その度に抜いてもらった、まあそんな付き合い程度」
 人切り源公の話はずっと続いた。純は大丈夫かと心配になった。伊藤旦那が仲間を連れて来たら呆気なくやられてしまいそうな気がした。その時ベルじゃなくドアを乱暴にノックする音。
「来たわ」
 純が立ち上がり右往左往している。
「お嬢さん、あっしはここにいますから襖を閉めてください。それで乱暴する様子があればベランダに逃げてくださいよ。後はあっしに任せてください」
「どちら様ですか?」
「伊藤ですけど」
 ドアを開けると三人いた。どうすればここまで顔を捩じれるのか不思議なくらいのチンピラ顔で純を睨み付ける。
「あんた梨田君の嫁さん?」
「まあどうぞ、近所の目もありますので、廊下に立っていられては迷惑です」
 チンピラの顔が更に捩じれた。
「おい・・・」
 一人が純を見てすぐに男と分かり仲間に笑い掛けた。捩じれた顔がにやけ顔に変わった。分からないのは伊藤旦那だけである。仲人を頼まれた関係上からかそんなことを疑っていなかった。チンピラのひとりが伊藤旦那に耳打ちしている。純を見つめて納得したように頷いた。
「まさか梨田君は仕事?聞いてるよね、うちの嫁を強姦したこと。その慰謝料を受け取りに来た。百万用意して。披露宴の金があるでしょ」
 伊藤旦那が部屋を見回しながら訊いた。
「うちの人はそんなことしません。香さんとも会いました。あなたですね、あんな可愛い子を置き去りにしたのは、恥ずかしくないんですか?うちの人が連れて来なければ死んでしまったかもしれないのよ。それでもこんなことするの。うちの人はあの子達を助けたんだから、あなたがうちの人にこんなことするのはただの逆恨みよ」
 純がはっきりと言う。
「うるせいな、そんな用で寄ったんじゃねえ。梨田君にはそれとなく伝えてある、用意してあるんだろ金?すぐに出せばすぐに帰る、出さなきゃベランダから突き落とすぞ、早く出せ」
 伊藤旦那が凄んだ。純はキッチンまで下がった。テーブルを挟んで伊藤旦那が睨む。
「あなたがあの子達を捨てるならあたしにください。あなたが父親だなんて隠しておいてあげるわ、あなたが親だと知ったら可哀そうだから」
 純も恐いけど引かない。襖の裏には人切り源公がいる。チンピラは伊藤旦那がからかわれているのを面白がっている。
「おい結婚すんだろ梨田君と、君男だろ、日本じゃ男同士の結婚は認められてないから。でもまさか男同士で結婚するとは思わなかったよ。だからうちのやつに仲人頼みに来たんだ、やっと分かった。誰も引き受けてくれる人がいないから探すに探して、高校時代に偶然隣の席に座ったブスを頼って来たんだなあんたの旦那になる人」
 伊藤旦那が言うとチンピラ全員が笑った。
「子供を捨てるあんたなんかに言われる筋合いはないわ」
 純は悔しかった。
「勿論梨田君が男役だよね?ねえどうやってやるの。君はボーイッシュで可愛いよね。もしかしたら梨田君も騙されて交際始まったりして。でも君もチンチン付いてんでしょ。見たいな、見せてくんない」
 純がグラスを投げた。チンピラ達は純を取り囲んだ。
「やらしてくんない。俺好きなんだよね君みたいな可愛い男の子、興奮してきた、ほら、ほら」
 チンピラがチャックを下ろして純ににじり寄る。
「もうたまらねえなあ、しゃぶってくれよ」
 その時奥の和室で咳払いがした。三人は咳払いの方向を見た。
「手前、生国と発しますところ関東です」
 襖の向こうから声が聞こえる。チンピラ達は耳を澄ませた。
「関東と言っても広うござんす。相州は一宮寒川の産でござんす。寒川神社の大鳥居前で禰宜に拾われ作務をしながら中学を出て、藤沢の旋盤工場で先輩を刺し殺し臭い飯を五年程食っておりました」
 襖が勢いよく開いた。『タン』と縁と縁が勢いよく当たる小気味いい音と同時に後ろ手に組んだ着流しの人切り源公がすっと現れた。チンピラの視線が源公に向いている間に純はベランダに逃げた。ベランダから隣の和室に移り源公の後ろに付いた。
「て、てめえは誰だ」
 伊藤旦那が驚いた。恐いと言うより気味が悪かった。
「藤沢に出て小さな一家を構えまして、新地の用心棒をしておりました。それが渡世の義理でまた人を殺めました。付いた渾名が人切り源公、もう臭い飯はたくさんと、それがね、義理ある方に悪党がいるから懲らしめてくれねえかと頼まれましてね」
 そこまで言って一歩前に出た。後ろ手に組んだ手に持つ匕首をさっと抜いた。ササっと摺り足で伊藤旦那の喉に峰を当てた。
「来春の、桜の花と散ろうかと、夢見る老いぼれささくれて、散るは河原の枯れすすき」
「逃げろっ」
 チンピラは一目散に逃げ帰る。
「あっ、行っちゃった。まだ話は終わってないのに、おい、最後まで聞けよ」
 人切り源公はドアから出て逃げるチンピラの後ろ姿を目で追った。諦めて匕首を懐に収めて茶を啜った。
「行っちゃったよ、これからがいいとこなんだけど、良かったら続きをあなた聞く?」
「ありがとうございます。何とお礼を申し上げていいやら。何も出来ませんけど、そうだ私達の結婚披露宴に来てくれませんか」
「えっ、こんなヤクザなあっしを結婚披露宴に?実は恥ずかしながら一度も出たことない、どういう訳かこれまで誘いがなかった。服は着物でもいいかな、これよりもうちょっといいのがあるんだけどね」
「服装なんて気にしないでください、そのままでもいいんです。あなたはあたし達の恩人です。絶対に来てくださいね」
 純は吉田の手を握ってお願いした。
「あっしはね、こんな嬉しいことはありやせん、堅気の衆の披露宴に出られるなんて、この出会いをローズに感謝しなきゃ」
 源公が袂で涙を拭っている。すると河原から声が聞こえる。純がベランダに出ると下の土手の道に逃げたチンピラがいる。
「すいませ~ん。靴投げてくれませんか、履き忘れちゃって、戻るわけにはいかないし、お願いしま~す」
 純が玄関に行くと慌てて逃げたひとりの靴が片方残っていた。純が土手に投げる。アスファルトに跳ねて土手を転がり川に落ちた。チンピラは手の延ばして靴を掴まえた。
「ごめんね~」
 純がコントロールの悪さを謝った。
「だいじょぶ、ありがとございま~す」
 さっきまでのねじ切れそうなチンピラの顔は普通の若者の笑顔に戻っていた。

 美鈴が佐藤香の部屋に必要な物を手配した。玄関から入ると廊下に流しと並んでIHヒーターがある。その前にトイレとシャワールーム。奥が一間でフローリング、小さなクローゼットがあるが布団は入らない。
「これがワンルームねえ、昔のアパートの方が使い勝手がいいな」
 美鈴が見回しながら言った。
「いいえ、ありがとうございます」
「おばちゃんありがとう」
 良夫が照れ臭そうに言った。
「畳ならタオルケットでも寝れるけど板の間じゃな、寝れないから布団を運ぼう。うちの客用があるから」
 美鈴が屈んで良夫の頭を撫ぜた。
「自宅に行けば色々あるんで持って来ます」
「止めときな、全部忘れちゃいな。戻ればおかしな情が湧くから」
 美鈴が止めた。
「旦那はあんたのことを捜してるよ、会えばまた挫けるよ。もう全部捨てて少しずつ揃えればいいさ。あたしが協力してあげるから。あのさ、けっこう余っているもんてあるんだよ。それにあたしも旦那も付き合いが多いからなんだってもらえるよ」
 香は美鈴の厚意に泣いてしまう。
「泣いてばかりじゃ始まらないぞ。世の中そうそう悪い奴ばかりじゃない、苦しい時はおもいきり寄り掛かってみな、そのうちあんたにも寄り掛かる人が現れるから。そん時はそのお返ししてやればいいんだ。あたしもそうだったからはっきり言える」
 美鈴は良夫と手を繋いで自宅に戻ると桜井妻が来ていた。
「正一さん、これ預かった二人のプロフィールだけどさ、これ間違いじゃない」
 そう言って桜井妻は氏名を指差した。そこには梨田弘和二十五歳、松本純男二十七歳と記してある。
「なんだよ、何処がおかしんだよ?」
 正一は桜井妻の指摘に気が付かない。
「松本純男、これ普通はすみおって発音でしょ、違う?純男って普通男の子じゃないの」
 美鈴はとぼけて知らん振りしている。良夫に枕を持たせ、自分は敷布団を抱えて出て行った。
「どれ、書き間違いじゃないのか、ほらコンピューターで書いてんだろ最近の若い連中は、だから間違えんだよ、テレビもそうじゃねえか、アナウンサーが馬鹿面こいて謝ってるあれと一緒だよ。書いて覚えねえからああいうことになるんだ、ざまあみろってんだ」
「違うよ間違いじゃないよ正一さん、ほら二人の名前の後ろはしっかりと行を合わせて年齢を入れてるよ。確認しての作業だよこれ」
 桜井妻が言うと正一は顔を近付けて純男の文字を見た。
「ははあ、これよ、親がな、男の子が欲しくてたまらなかっんだ。恐らく純の上は全部女だからよ、せめて性格だけでも男っぽくなって欲しいって親の願いだなこれ、だから見ろ、純はボーイッシュじゃねえか、「あたし男の子よ」そんな冗談が似合うだろ」
 正一がふざけるが桜井妻は笑わない。
「純男さんの上は兄で正男さんです。お父さんは正純さん、私の考えではお父様のお名前を二人で分けた、そう思いますよ。正一さんの言うようなことじゃないと思います。可愛い女の子に男の名前を付ける親がどこにいますか」
「ここにいたりして」
 笑わない、あくまでも冷静な桜井妻に正一は面倒臭くなった。
「まあ、いいから書いてよ、明後日だよ桜井妻、明日一日で俺練習しなきゃならないし、それを暗記しなきゃならない、ハードなんだ。まあ仕事暇だからいいけどさ」
「分かりましたよ正一さん。でも確認した方がいいよ。文中純男さんの氏名は空白にしておくから、もう原稿は出来てるから仕上げてすぐに持ってくる」
「わりいな、桜井妻、頼むわ」
 正一が送り出す。純男と言う純の名前が気になった。まさか純がおかまであるはずがない。単なる入力時の打ち損じであると考えることにした。

 夕方になり弘和と純が訪ねて来た。
「おう上がればいいじゃねえか何やってんだ。そう言えば桜井妻から原稿が届いた。あのばばあ俳句やってるから何か分かり辛くていけねえ、洒落て一句入れたつもりだろうが俺なりに俳句変えちゃった。それから純の名前が間違ってないか?純男になってるぞ、パソコンだから打ち間違えたのか?」
「いや、あれでいいんです、間違いじゃありません」
 純が小声で答えた。正一は純を見つめた。
「そうか、それじゃやっぱり親御さんが漁師の家だから男っぽく育てたい、それだな?荒波にもまれて板子一枚地獄の世界だ、男と一文字入れるだけで純が跡取りになるかもしれねえって親父の作戦だろ」
「佐藤のおじさん、銭湯に付き合ってください」
 弘和が誘った。
「ああいいわね、それじゃ良夫も連れてってもらいなさい、良夫パンツ履き替えてタオル持って」
 良夫がみんなの前でパンツを穿き替えた。美鈴は二人の覚悟を察した。正一に真実を告げるつもりである。
「ようし良夫、銭湯行くかおじさんと。でっかい風呂だぞ、湯船に浸かって百数えたらご褒美にフルーツ牛乳飲ませてやるからな」
 良夫も喜んでいる。土手の道を歩いて十五分、良夫は銭湯の前で正一の肩から降りた。
「いいか純、上がる時は、上がるぞ~って声掛けるからな」
 正一は良夫の服を脱がせて風呂に向かう。良夫の股座を洗うと良夫は身をよじって笑う。
「ほら、きれいに洗ってから入るんだ。チンチンと尻の穴をちゃんと洗わないと湯船にカスが浮いちゃうからな」
 先に湯に浸かり良夫を抱いた。
「ちょっと熱いな、我慢しろ」
 良夫も我慢して肩まで浸かる。力が入り顔が真っ赤になった。良夫は湯船に入る前から数え始めた。
「ひゃく」 
「お前の時計は速いな、一秒の間にイチニサンシゴロシチハチキュジュウって十ずつ進む。まあいいやフルーツ牛乳飲ませてやるからな」
すると弘和が脱衣所の引き戸を開けて入って来た。
「ほら弘和兄ちゃんが来たぞ、色が白いだろ、仕事が出来ない証拠だ」
 正一が良夫に言って笑った。良夫が弘和に手を振る。弘和が振り返す。その後ろに細い身体の男が胸をタオルで隠して入って来る。
「あっお姉ちゃんだ」
 良夫が手を振る。
「お姉ちゃんは隣だよ、お~いって呼んでみろ、ほら、お~い、純聞こえるか」
 正一が女湯に向けて声を掛ける。
「上がる」
 良夫を浴槽から外に抱え上げる。良夫は弘和の隣に立った。
「おいで、洗ってあげるよ」
 純が良夫を木の湯椅子に座らせた。正一も湯から上がり良夫の隣に座った。
「おう、良夫いいなあ、きれいにしてもらえよって純・・・」
 正一は目を疑った。鏡に映る純と目が合った。
「純、お前、女湯・・・」
 股間を見るとやや自分のより大きい一物がぶら下がっているのを確認した。
「おじさん、ごめんなさい。背中流すね」
 純がタオルに石鹸を泡立てて正一の背に回った。純の左手が正一の肩を掴む。首筋からタオルで擦り付ける。純の身体が揺れる度に一物が正一の尻に触れる。
「良夫、上がるぞ」
 正一は立ち上がり良夫を抱えた。素早く着替える。
「おじさん、フルーツ牛乳は?」
「売り切れだ」
 良夫の手を引いて土手の道を帰った。

 弘和と純もすぐに上がった。
「佐藤のおじさん怒ってたみたい」
 純が細い声で言った。
「いいさ、悪いことしてるわけじゃない。少し遅れたけど佐藤のおじさんにありのままを見てもらった。これでいいんだ、これで嘘を吐き通す必要がなくなった」
「おじさん、仲人断るかもしれないね。そしたら披露宴止めようね」
「何を言ってるんだ、だいじょぶさ、きっと受けてくれるさ」
「どうして言い切れるの?」
 純に突っ込まれ弘和は答えに困った。
「それは、佐藤のおじさんだから」
 不安に駆られながら土手の道で寄り添った。純の細い方を強く抱いていた。離すとするすると抜け落ちてしまいそうな気がした。

 花金とあってスナックローズも賑わっていた。
「純、お通し四つ」
「うん、きんぴら切れたからもやしのお浸しになるけど」
「構わない構わない、あいつら味なんか分かんないから、もやし生でも構わないし、シャキシャキ感で誤魔化せる」
 楓が笑って言った。いつもの金曜日より混んでいる。年末に向けて徐々に客の入りが増えた。ミレニアムを迎えるとあって世間が浮かれていた。急に何かが変わるわけではないが、そのチャンスが向こうからやって来るような錯覚にとらわれる。毎年正月を迎えるのもそう言う期待だが、ミレニアムは千年のパワーがあると思い込んでいる。
「楓姉さんはミレニアムの元旦には何をするの?」
 若い四人連れの職工のひとりが訊いた。
「そうねえ、朝風呂入って一発やって飲んだくれて寝る」
「それじゃいつもと変わんないじゃん」
「よし、お前等全員、大晦日からうちに来い、代わる代わるやりまくってやるから、あたしは強いぞ」
 楓が一人の股間を握り締めた。
「ごめんなさい、もうしません」
 握られた職工が謝った。
「おじ様久し振り、こないだはごめんね変なことして」
 レオが謝ってビールを注いだ。相手は西野兄である。
「そんなことないよレオちゃん、俺は凄く楽しかった。だけど先ず忘れないうちに言っとくけど、俺が来たこと妹には内緒にしといてくれる。別に悪い事しているわけじゃないけど心配かけても面白くないし」
「分かった。でもまさか妹さんがこの店に一人で来ることないでしょ」
「それが意外と危ない、君のアレを握らせられてから毎日ぼーっとしてる時が増えた。そん時手が胸を揉んでんだ。多分想い出していると思う」
「そうおう、レオ感じちゃう。でもレオのことよりおじ様達の関係の方が恐い、だっておじ様の前で妹さんがパイオツ揉んでるなんてレオ不思議」
「そうかなそれ不思議?俺達ずっとちっちゃい時から一緒でさ、離れたことないんだよね。さすがに男女関係に至ることはなかったけどお互いがおかずにして愉しんでた。妹が会社勤めしてすぐに彼氏が出来て以来してないけどね。それが不思議に感じる?」
「そのおじ様の感じる?の疑問符がそもそも不思議」
「それよりレオちゃんは彼氏と言うか彼女と言うか付き合っている人いるの?」
「この二か月いない。すごい溜まってる。前はね彼氏も彼女もいたよ、よく三人でやってた。最高五人でプレーしたことあるよ。五人で絡まってるとね、どれが自分の穴でどれが自分のアレなのか分かんなくなっちゃうほど陶酔の境地。プロレス技も飛び出すよ」
「プロレスってそれどんなふうにやるの?」
「一度ね3Pの時ね、彼氏があたしをコブラツイストしてあたしが彼女をネックハンギングツリーでやったの。一歩間違えばイク前に逝く、ほんと危なかった」
「凄いなあそれ、いっぺん見てみたいな」
 西野兄は男と女と男おんなの身体が絡み合った姿を想像した。
「おじ様そう言うの好き?」
「プロレスは好きだし、アッチも好き、それが合体したらサンマに大根おろしだね」 
 例えがイメージに合わない。レオは首を傾げた。
「あたし今度ビデオに出るの、プロレス技の裏ビデオ、よかったらおじ様を紹介してあげようか、中年のデブを募集してるよ、あたしが押せば一発で決まり」
「一発で決まりって一発決めたい」
 明日の撮影に同行することで決まった。

「楓、じゅんが泣き出した」
 ローズママが奥から出て来て楓と変わった。母親の伊藤香は美鈴が紹介したスナックで今夜から働き始めている。夜は純が預かり、ローズに連れて来て交代で面倒を看ている。ローズママも楓もそれを楽しみにしている。
「はいはい、はいはい」
 楓は喜んで奥に向かう。
「早くするんだよ、いつまでも構ってちゃじゅんが寝れないからね」
 元保育士の楓は赤ん坊の扱いには慣れている。おむつの取替もミルクやりも一から学んだ基礎知識があり手際も良い。保健も詳しいので赤ん坊の様子を見れば大概のことは処理出来る。母親の伊藤香にとっても預かった純にしてもこんなに心強いことはなかった。
「純、源さんから電話があって結婚式に誘われたって、お前本当に誘ったのか?」
「うん、あたし達にとって命の恩人だし、席もあるから。当日着流しでいいかって聞かれたからいいよって答えた。ママああいうとこ着流しでも大丈夫だよね?」
「和服はいいのよ日本のフォーマルだもの、ただ着流しって着方の問題だから、洋装にしたらTシャツにジーパンスタイルの和装版だよね。着方と味方によるな。あたしが当日源さんに見繕ってあげるからいいよ。でもお前等本当にいいのか、人斬りだよあの人は?」
「でも面白い、ママとの出会いも聞いた」
 ローズママが笑った。
「それで佐藤のじじいに話したのか?お前の正体を」
 純が蛇口を回して水を止めた。
「うん、昨日ね、弘和の作戦で銭湯に誘ったの」
「じじいをか?」
 ローズママは呆れた。
「百聞は一見に如かずだからありのままを見てもらおうって弘和の寝ずに考えた作戦」
「弘和も頭がいいんだか悪いんだか、常人には思いつかない作戦だよ。真田幸村だって浮かばないよそんな奇策」
 純は首を捻った、真田幸村の人物像が浮かばない。
「いいからそれで」
「それでね、あたし良夫の背中洗ってたの、それまで佐藤のおじさんはあたしに気付いてないの、女湯に向かってあたしの名前呼んでいたわ、ばかみたい」
 純が想い出して笑った。
「ばかはお前等だ、それで?」
「良夫の背中を流し終えて佐藤のおじさんの背中を洗い始めたの。あたしね、こうやって、左手でおじさんの肩掴んで、右手で強く擦っていたら鏡の中で目が合ったの。それでも気にせず背中流していたらあたしのアレがおじさんのお尻にピタピタって当たったの。そしたらおじさん立ち上がって「帰るぞ」って良夫の手を引いて先に上がっちゃた。お尻に当てたのがいけなかったのかもしれない」
「ばか、そこじゃないよ。元々の作戦だよ、お前もピタピタって厭らしいよ」
 ローズママが純を睨んで言った。
「あたしおじさんが仲人受けてくれるか不安だけど、弘和は大丈夫だって」
「その後じじいに確認したのか弘和は?」
「ううん、佐藤のおじさんだからって、佐藤のおじさんだから絶対大丈夫だって」
「佐藤のおじさんって、それ確認じゃないだろ、確信て言うんだ。確信は思い込みで裏が取れていない」
 ローズママは純に水割りを催促した。
「薄い、何これ、限りなく水に近い。薄いと苦くなるのよ余計に」
「ママの旦那から言われたの、なるべく薄いの飲ませろって、もう十年は働いてもらわないと困るって」
「お前は正直過ぎるのが欠点、旦那の楽屋話まで明かさなくてもいいの。大きなお世話よ。まあいいわ、明日あたしが佐藤のじじいに話してあげる」
 ローズが差し出したグラスに純が数敵のウイスキーを垂らした。
「すいません、楓姉さんは?」
 楓目当ての客が楓の戻りが遅いので訊いた。
「楓の何処がいいの、あたしが相手してやろうか、ほらほら」 
 ローズママが立ち上がり男にしがみ付いて股間を握り締めた。「あああっ」と叫ぶと客の視線が集中した。
「ごめんあっさっせ」 
 ローズママが楓を呼びに奥に行った。

 銭湯から戻り晩酌の時間も正一は黙っていた。美鈴はその原因を理解している。純の正体がバレた。男であると知ったからである。難しい表情の正一に美鈴は敢えて自分から声を掛けなかった。
「ごちそうさま」
 良夫がテレビに向かった。
「やっぱり駄目だ」
 正一が首を傾けて独り言。美鈴が良夫の食器を片付けてテーブルについた。
「美鈴、お前俺に隠してたな?」
「何を?」
「とぼけやがって、純のことだよ」
 美鈴が缶チューハイを飲み始めた。一悶着あるだろうと下地である。
「隠していないし、あんたが聞かないだけだし」
「し、しってお前、若い奴の話し方真似てんじゃないよみっともない」
「真似てないし、あたし若いし」
「この野菜炒めも味薄し、この刺身も切り方厚し」
「しの使い方間違ってるし、じじいには似合わないし」
 二人は吹き出して笑った。喧嘩にならずに大体こうなる。
「銭湯でよ、俺びっくりしちゃったよ。何か似てんなと思ったら物本の純だよ。小さいチンチンぶら提げてよ、それが俺の背中流してくれんのはいいけどそのちっちゃいチンチンが俺の背中擦る度に俺のケツにバッチンバッチンて当たるじゃねえか。何だか俺腹立ってな、先に上がっちゃったよ」
 正一がウーロン杯を作りながら言った。
「ちっちゃいのはあんたも負けてない。サイズで負けて悔しいの?」
 美鈴が笑いながら言った。
「まあそうかなってそんなことはどうでもいいんだよ。そりゃ人も色々あるのはよく分かってる。俺は別におかまが悪いなんて思っちゃいないさ。逆に話してて楽しいくらいだ。でもよ、結婚となると少し話は違うような気がする。神様に逆らってんじゃねえか、男にはでっぱりがあって、女にゃ穴があって、それで一対になるんだ。欲を果たすためならどうぞおやんなさいってなもんだ、でもよ、俺は神様に逆らえない。神様に逆らって縁結びの役は出来ねえな。これから弘和んとこ行って断ってくる。美鈴、お前いつから知ってんだ純の正体?」
「正体って妖怪じゃないんだから、その言い方止めて。純はいい子よ、不思議な子だけどいい子、弘和が惹かれるの分かる」
 美鈴が缶チューハイをお替りした。
「お前、少し飲み過ぎだよ最近、毎日三本飲んでんだろ、貧血なんだから飲み過ぎるなよ」
「へえ~心配してくれんだ。野菜炒めの味が薄いのはあんたの血圧心配してんのよ。あたしもあんたの何でも醤油かける癖を心配して薄味にしてるの、分かる?」
「口の減らねえ女だな、薄味にするから醤油かけちゃうんだよ。そんなことより純のことだよ」
「会って二日目、純の横に立って感じたの、あっ、男だって。女じゃなきゃ分からないの。あんたに言わなかったのは自然に分かる日が来ると思ったから。でも仲人の話が来るとは予想していなかった」
「そんな前から分かってたの?だったら教えてくれてもいいじゃねえか。純の正体知ったからって俺は付き合いを変えるようなことしないぞ、そのくらいお前が一番よく知ってんじゃねえか。俺は男と女を創った神様には逆らいたくないだけだ」
「ねえあんた、これあたしからのお願い」
「なんだよ改まって、まさか別れるって言うんじゃねえだろうな、お前俺泣いちゃうよ」
 正一の真剣な顔に美鈴は嬉しかった。
「仲人やってあげて、それで十年一緒でいたら認めてあげてよ二人の愛を、二十年一緒に暮らしていたらあんた謝んなさいよ二人に」
 美鈴が言った。
「それじゃ十年持たなきゃどうする?」
「あたし達がばかだった、騙されたと乾杯しましょう」
「嫌って言ったらお前どうする?」
「こうする、ほらこうする」
 美鈴がテーブルの下で足を伸ばして正一の股間をくすぐった。良夫が笑って見ている。
「お前良夫、見てたな、この野郎」
 正一が追い回す。
「こんばんは、大家ですけど」
 美鈴が応対した。
「あら大家さん、上がればいいじゃない」
「そうだよ大家さん、店子の暮らしぶりを垣間見るいいチャンスだよ。社会勉強」
 正一が大家を冷かした。
「虐めないでよ正一さん。いや他でもないんだけど、あのさ、あの二人式は挙げないの?私より家内が気になって聞いて来いと言われたんだ」
「うん、予定は披露宴だけみたいよ、今はあとからやる人も多いそうよ。披露宴で金集めて海外行ってさ、二人切りでやるなんてのが流行らしいよ大家さん」
「そうですか、ならいいんだけど白幡神社の禰宜はあたしの後輩でね、明日午前中なら空いてるから式挙げられるよ」
 正一が玄関に出て来た。
「それ大家さんほんとかい?」
「ああ、二人がその気ならすぐに電話する」
「ありがとう、お願いしますよ大家さん。美鈴、ローズに電話して純に伝えろ。俺は弘和んとこに行ってくる」
 大家が式の段取りを家に持ち帰った。美鈴はローズに電話した。純は客の注文で忙しくローズママに話した。
「うん、美鈴ありがとう、今夜は早めに返すから。あたしも行くわ」
 ローズママは純に伝えた。
「結婚式?白幡神社で?」
 純は震えるほど嬉しい。深夜二時まで、客がいれば退けるまでが営業時間だがローズママの手配で十一時で純は帰ることになった。
 美鈴は糠漬けを大皿に盛りラップして正一に持たした。ベルを鳴らすとすぐに開いた。
「佐藤のおじさん、どうかしましたか?」
 正一が弘和の言葉が気に入らなかった。
「どうかしましたはないだろう。弘和、ビールぐらいあるのか?これ糠漬けだ、一杯やろう」
「ビールはないけど酎ハイなら。買って来ましょうか?」
「いいよいいよ酎ハイで、わざわざ金使うことない」
 キッチンのテーブルに座った。
「広くていいなあ、これが3LDKって造りだな?天井高いしな、いいなあ共同住宅も」
 正一が室内を見回して言った。
「話しは二つある。仲人はしっかりと受ける。しっかりったって俺だからな、桜井妻の原稿を読むだけだ。俺な、実はさっきまで断るつもりでいたんだ。俺の育って来た環境かもしれないが、お前達と同じようには考えられないんだ。俺はまだお前達の関係が結婚と言う儀式にふさわしいのかどうか疑問を抱いてる。信じたかないけど、天性でそうなのか?それで男が男を好きなになったり、女が女を好きになったりするのは別にいいさ。ただ俺がさ、こういう男だからな、神様が世の中の事を全て動かしている、俺達は全部神様の子で、それに反することを俺自身が仲介に入って逆らうのは嫌なんだ。どうしてお前は男と男をくっ付ける違反をするんだって神様に叱られやしねえか心配でならない。神様から罰が当たって披露宴の後交通事故で死んじゃうんじゃねえかと思ってんだ」
「佐藤のおじさん、すいません」
「そうやってさっき美鈴に言ったらさ、十年待ってやれってんだ、それなら誓いは嘘じゃないだろって。それで二十年続いていたらあの野郎俺に謝れって言うんだぞお前達に。何で謝るんだったら、信じなかった罪だって言われてさ。それで折れた。その通りだと思ったね」
 正一が酎ハイをお替りした。
「甘いなこれ」
 正一が缶を睨むと葡萄の絵が描いてある。
「二%ってアルコールの量だろ。これじゃアル中になる前に糖尿病で死ぬな」
 弘和が取り出したブランデーを足した。
「それでもう一つの話だが、純から電話ないか?」 
 弘和は首を振った。
「喜べ、明日の午前大家さんが白旗神社で式を予約してくれた」
「えっ、結婚式ですか僕達の?」
「当たり前だよ、俺達の銀婚式はまだ先だよ、お前達の式さ。大家さんが全部用意してくれる。だから明日の朝、ほら純が着物着るだろ、着付けに時間が掛かるから六時に大家さんちに集合、大家夫人の豪華な晴れ着でよ、いい写真撮れるぞ」
 弘和は正一の手を取って頭を下げた。
「佐藤のおじさん、ありがとうございます。純が喜びます」
「俺さ、こないだお前から両親がいなくて叔父夫婦に育てられたの聞いてさ。二十年前にお前が事故で頭から血を流して俺が病院まで担ぐ運命は神様の計らいで、俺達に子供出来なかったのはこの運命の出会いを初めから段取りしていたんじゃねえかと思ったんだ。どう考えたって出来過ぎのストーリーだ。そんでさ、お前等にはどう頑張ったって子供は出来ない、だから良夫やじゅんとの出遭いがあるんじゃないか。こんな不思議なことってそうあるもんじゃねえぞ。弘和、お前は神様信じるか?」
 弘和は考えた。苦しい時、悩んだ時にこれといって決まった神に手を合わせたことはない。
「僕は初詣で手を合わせるぐらいです。でも純は佐藤のおじさんと同じようなことを話します。良夫とじゅんのことも神様からの授かりものじゃないかって」
「そうか、純がな、不思議な魅力があるよなあの子には。もしかしたら育った環境でこうなったんじゃなくて、神様が仕込んだのかなあ、俺の考えが浅いのかもしれないな」
 正一は温くなった酎ハイにブランデーを注ぎ足した。
「ところで弘和、お前に聞きたい。こんなときじゃなきゃ聞けないからな。お前はどうして女じゃなくて男が好きなんだ?」
 ストレートな質問に弘和は少し考えた。
「おじさん、その質問、男が好きなんだ?じゃなくてどうして純が好きなんだ?に変えてくれればすぐに答えられます」
 弘和は男が好きなわけじゃなかった。恋したのが純で、深く愛しているのが純なだけだった。純よりもっと自分の理想に近い女が現れていたら恋したかもしれない。
「俺の質問可笑しいか?俺さ、これから白旗の神様に謝りに行くんだ。お前の答えが俺の考えを負かせてくれれば神様許してくれると思うんだ」
「おじさん、純を愛しているんです。男が好きとか女が嫌いとか、そういう事じゃなくて僕は純を愛しているんです。おじさんの質問の答えになっているかどうか、でもこれが事実で、これ以上の答えは出ません」
 弘和もはっきりと胸の内を伝えた。正一はいまいち納得しなかった。先に男ありきで純じゃないのか、その言葉は飲み込んだ。突き詰めたら明日の式、明後日の披露宴に間に合わない。
「分かった。分かったと言うのは全てが分かったわけじゃなくて、簡単じゃないってことが分かった。俺は俺の考え方を変えられない。その上で仲人をやらせてもらう。だから気が入っていないかもしれない。それは先に謝っておく。さあてぼちぼち帰るとするか」
 正一は立ち上がった。
「あっ、美鈴さんだ」
 弘和が窓から下を見ると美鈴が手を振っている。土手の道の街灯に薄ぼんやり見える。正一がベランダに出て両手を振る。
「ああやってよ、あれでもよ、俺を心配してくれてんだ。あいつはお前達のことちゃんと見てるぞ。応援してるぞ」
「ありがとうございます」
「弘和、純を大事にしてやれよ。俺は嫌だぞ、お前達が分かれて美鈴が泣きじゃくるの見たくないぞ」
 一緒に出て土手まで見送る。
「おじさん」
「なんだ?」
 弘和は式の後は、お父さんと呼んでいいですかと訊くつもりだった。
「気を付けて」
「あれぐらいで酔うかよ」
 言葉と違い足取りはふら付いている。

 白無垢に角隠し、刺繍も白一色、大家夫人の嫁入り衣装である。大家は昔庄屋、大家夫人は江戸武家の二女である。土地があるから金はある、何一つ不自由なく暮らしている二人である。
「いい男ね」
 大家夫人は美鈴から純のことを訊いていた。美鈴は着替えの時に大家夫人が卒倒してはいけないと伝えていた。大家夫人は言って笑うと純も笑った。
「お芝居に出て来る女形みたい。ほんときれいよあなた」
「ありがとうございます」
「ほらほら頭下げない」
 角隠しが前に被りそうになる。
「明日はね、色打掛にするよ。私が楽しいわ、あなたのような花嫁、花ムコ?どっちでもいいわね」
 大家夫人が裾を引き摺らないように褄の左右を重ねて持つ仕草を教えた。
「純、最高だよ、最高にきれいだよ」
 美鈴が純を見て感動している。
「さあ、みんなにお披露目だよ」
 大家夫人が先頭に純が続く。その後ろを美鈴が追った。そして大きな玄関の硝子戸を明けると山水の広い庭に純を一目見ようと集まった客が二十人いる。「ああっ」と感嘆の声だけで一瞬静まった。大家が左に中央に純、右に美鈴が立ち並んだ。茶道花道着付けの師匠でもある大家夫人の持ち衣装である。中央に立つ小柄な純の白無垢に合うように自分の衣装も美鈴の衣装もコーディネートしている。
「記念写真を撮りましょう」
 大家が一眼レフを片手に位置取りをした。
「待ってくれ。俺を忘れちゃいませんかってんだ」
 正一が袴の裾をたくし上げて走って来た。
「弘和はどうした?」
 美鈴が訊いた。
「叔父さんが来てるの、少し長くなりそうだから後でいいと思います」
 純が少し寂しそうに言った。
「消えてなくなるわけじゃないから心配するな純」
 美鈴が純の気持ちを察して言った。弘和抜きで写真撮影が始まった。
「式に行く人はいますか、式中は中には入れないよ。小さな神社だから境内で待つしかないけど。人数に合わせてタクシー呼ぶから」
 大家は忙しく世話をした。年齢からして弔事に参列する機会は増えたが慶事に参加することはほとんどなくなった。大家夫妻も楽しんでいる。白旗神社まで付き合うのは大家夫妻と佐藤夫婦、ローズママと楓、そして弘和と純である。大家はタクシーを二台呼んだ。五分で到着したが弘和はまだ来ない。
「あんた、呼んでくれば」
 美鈴が正一に促した。その時「すいません」と弘和が走って来た。
「叔父さんは?」
 純が訊くと下を向いて首を横に振った。
「さあ行こう、色々あんだ人生は、一々気にしてたら前に進まない」
 正一がタクシーを発車させた。無事に式を終え、大家宅で解散した。明日も早いからと弘和と純も自宅に戻った。ローズママが佐藤宅に上がり込んで正一と向かい合った。
「ローズ、一杯やるか?」
「もちろん、聞くだけ野暮だろ」
 美鈴は伊藤香のワンルームに子供等の様子窺いに向かった。
「正ちゃんありがとう。仲人受けてくれて、あたしからも感謝する」
 ローズママに改まって礼を告げられると正一は照れてしまう。
「いいってことよ。どうせ形だけだ。桜井妻の原稿を読み上げる、それだけの役よ、俺に出来るのはそこまでさ」
「それでもありがとう。実はねあたし心配してた。純の事知ったら断るだろうって。正ちゃんの気性からしてこれは曲がったことに入るんじゃないか?」
 ローズの予想は的中していた。美鈴に説得されなければ断っていた。
「昨夜弘和に聞いたんだ。なんで女じゃなくて男が好きなのかさ。俺さ、お前等おかまが嫌いじゃないよ、むしろ楽しい、お前とは生涯付き合いそうだしな。ただ結婚は許せない、そんなことどうして思い付くのか不思議でならないんだ」
「弘和何だって?」
「あいつさ、純に惚れたって偉そうに抜かした。男だ女じゃなくて純を好きだってさ」
「そんなに不思議ならどうして受けたの?」
「美鈴に脅かされた」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「美鈴はしっかりしてる、いい女だしモテるだろ、じじいにはもったいない」
「俺がぽっくり逝ったら気にしねえでいい男見つけるように言ってくれ」
「ああ、言っとく、でも正ちゃんよりあたしの方が先だな恐らく」
 ローズママは下腹の肉を摘まんで言った。

 藤沢駅で入場券を買って改札を通る。東海道線下りが入って来た。純が支度で両親を迎えに行けない、その役を西野妹が引き受けていた。グリーン車に乗るように伝えてあると言う。西野妹はその辺りで待っていた。電車が発車した。両親と兄の三人連れ、それらしき人物がいない。式は午後三時半、正午だからまだ余裕はある。高松を始発で出れば藤沢に正午前に到着する。西野妹の携帯が鳴る。純からである。
「もしもし西野お姉さん、電車が空いているからもったいなくてグリーン車乗らなかったらしいの。改札にいるって、すいません」
「いいよ、OK。ちゃんと連れて行くから心配しないで」
 西野妹は階段を駆け上がる。美鈴の兄だと一目で分る二枚目が駅員と話している。西野妹が近付いた。
「純のお兄さんでしょ?」
 純の兄は駅員に深く一礼して西野妹と向き合った。
「西野さんですか、純の兄で正男です。わざわざ迎えに来ていただいてありがとうございます」
「いいえようこそ藤沢へ、疲れたでしょ、ご両親は?」
 正男の後ろでキョロキョロしている。
「父ちゃん、母ちゃん、純の代わりに迎えに来てくれた西野さん」
 両親が椅子から立ち上がった。
「ありがとうござるんや。色々と世話になっとる」
 父親が礼を言う。西野妹は讃岐弁が新鮮だった。四国人と交流したことがなかった。母親は夫が頭を下げるに合わせて礼をした。
「さあ行きましょう、純が待ってますよ」
 大きなビルや商業施設は高松に出れば珍しくない。驚いたのは人の数である。改札の前を南北に行き交う人の流れに呆気に取られていた。
「この人達はどこぞら出てくるの?」
 父親の正純が言うと母の一技も目を丸くしている。西野妹はタクシーで二人の住居に案内した。鍵を預かっているので正男に渡した。
「ここで着替えてください。終わったらメールくれる」 
 西野妹は正男に馴れ馴れしい。
「正男さんは幾つ?」
「純より三っつ上で今年三十になりました」
 西野妹は齢の差を数えた。丁度十歳、齢の離れた芸能人カップルを想像してまだまだいけるとガッツポーズをした。
「結婚は?」
「いやあまだです。田舎だし、うちは半農半漁だから女の人と巡り合うこともありません、と言うか俺がもてないからからですかね」
 笑顔は純と瓜二つ。
「いい女の子がいたら紹介してつか。帰りに連れていんでもいい」
 父の正純が笑って言った。私でよければお供しますと口に出すのを躊躇った。純に打診してみよう。もし正男にその気があるなら私は即OKだと。
「私からもお願いるんや。あなたのように美人が来てくれれば嬉しい」
 母の一技が冗談交じりに言った。西野妹は冗談と取っていない。
「お父さんもお母さんも口が上手い、その気になっちゃいますよ、あ・た・し」
 西野妹が頭を掻いてかわい子ぶった。
「ほんで純男は式場におるんですか?早く花嫁さんをみたい」
 正純が言った。まだ家族には話していない同性の披露宴。西野妹もバツが悪くなり着替え終えたら連絡するよう正男に伝えて外へ出た。すると正男が追い掛けて来た。
「俺は純からあらましを聞いています。母にはそれとなく伝えています。母も俺も純のことは小さい時からその不思議に気が付いていました。だから話を聞いた時にはそれほど驚きませんでした。むしろあなた方にご迷惑をかけてすいません」
「いいえ、あたし達は祝福してるわ。でもお父さんには?」
「厳格な父ですから恐らく認めないでしょう。でも純がどうしても分かって欲しいと言うんです。この姿を見てもらって父にも認めてもらいたいと願っていました」
 正男は父親に純の気持ちを悟って欲しい一念でいる。その視線は西野妹を見つめていた。
「止めてそんな見つめないで、濡れてきちゃう」
 西野妹は勘違いしている。濡れてきちゃうは蚊の鳴く程度の音量、よこしまな男なら聞き直す。大きく頷いてエントランスで待つと言って廊下で別れた。

 披露宴会場には客が集まり出した。受付を桜井夫妻が受け持った。花嫁の待機室には着付けを担当している大家夫人と美鈴、伊藤香がいる。良夫が走り回っている。大家夫人に『メッ』とやられるとしょんぼりする。
「不思議な魅力ね」
 美鈴が純の色打掛姿に見惚れている。
「私もね、こんな人に着てもらえて嬉しいの。うちにずっと飾って置きたいぐらい」
 大家夫人も見とれている。
「羨ましいわ。あたしもこういうの経験したかった」
 香が溢した。
「まだまだチャンスあるよ、一度じゃないよ恋愛は」
 美鈴が同情する。
「私が生きているうちならどうぞ何度でもやってあげるわよ」
 大家夫人が後押しする。
「あら大家夫人、何度でもですって」
 三人が笑う。
「ありがとうございます」
 香が嬉し涙を流す。つられて純も涙ぐむ。
「ほらほら、泣いちゃ駄目じゃん」
 美鈴がハンカチでそっと涙を拭いた。新郎の待機室には弘和と正一、ローズママの三人がいた。
「いよいよだね弘和も純も、興奮するわ、血圧上がりそう」
 ローズママが弘和を見つめて言った。
「ローズ、俺さ、お前はドレスかなんかで来ると思ったんだけどな、タキシードとは予想が付かなかった。こうやって見るとなかなかいい男じゃねえか」
 タキシードに蝶ネクタイ、長髪をオールバッグにしてポマードでべたっと固め、後ろで束ねている。
「そうおう、それじゃ金持ちのばばあいたらナンパしちゃおうかしら」
「そりゃいいや、おかまがばばあ口説きゃ毛虫が逆立ちして喜ぶぞ」
「なんだそれ?」
 正一の意味不明な例えに二人は大笑いした。
「ところで弘和、純の友達、こっちはどれくらい来るんだ?」
 正一が手の甲を頬に当てて訊いた。
「はい、純が新宿時代から交際している友達が二十人来ます。それからローズママの付き合いで二十人です」
 弘和が答えた。
「凄いの来るぞ。レビューをやるって言ってたから凄い衣装で来るぞ、あたしが恐いくらい」
 ローズママが武者震いの真似をした。
「それより正ちゃん挨拶文ちゃんと練習したの?」
「うん、二回ほど読んだ、この原稿があれば、あれっ」
 正一は袂に入れたはずだがない。
「佐藤のおじさん、どうしました?」
「入れたつもりがない、どうする?」
「あたしに聞いたってどうにもならないわよ。もう一回脱いで探しなさいよ」
 正一はパンツ一丁になりくまなく探した。やはり出てこない。受付の桜井妻にもう一度書いてもらう。
「駄目じゃん正一さん、全く同じようにはならないけどいい?」
「わりい、頼む桜井妻」
 正一が会場の押し開きドアから中を覗いた。百人の多さに驚く、緊張してきた。
「大丈夫かな俺、人前だと意外と根性ないんだ」
「正ちゃん、掌に人と書いて飲み込んでごらん」
 ローズママが大きな舌を出して掌を舐めた。
「俺は子供か、ローズママ、焼酎がいいな、一杯煽れば落ち着く」
「しょうがないわね、缶酎ハイでいいね」
 ローズママがフロントに行き用意させる。花嫁待機室に西野妹が先導して純の家族を中に入れた。
「お母さん」
 純が近寄る。
「お兄ちゃん、ありがとう」
 兄の正男も頷いた。
「けっこな花嫁さんですね、うちの純男にはもったおらん」
 父親の正純だけが気付かない。純を次男純男の花嫁と勘違いしている。
「こっからか、楽じゃないな」
 美鈴が父親の態度に嘆いた。美鈴は家族以外を残して廊下に出るよう促した。
「まさかご両親は純のことを知らずに来ているのですか?」
 大家夫人が驚いて訊いた。美鈴が頷くと呆れて肩で溜息を吐いた。
「お父さん」
 純が父に声を掛けた。
「ああどうも、純男を宜しくお願いるんや、田舎もんだからなんも分からん世間知らず、おとなしいのがただ一つの取柄、あなたが引っ張ってくれないと迷子になるような子や。この通りや」
 正純は深く頭を下げた。
「お父さんて」
 純が再度呼ぶ。それでも正純は首を傾げて気が付かない。花嫁から『お父さん』と呼ばれて嬉しそうに微笑んでいる。
「まだ分からんの、目の前におるのが純でしょ、この子がうちの純じゃないか」
 母親が怒鳴るように言った。正純は純を覗き込んだ。
「お父さん、あたしよ、純よ、純男です」
 「あっ」後ろに倒れそうになるのを正男が支えた。
「純男、お前は何をとるんだ」
 目を向いて叱り飛ばした。
「ごめんなさい、でもあたしはお父さんの子よ。幸せになるから見てて欲しいの、お願いお父さん」
 純が涙を見せる。美鈴が心配で入って来た。
「あなた、私はずっと前から気が付いてったわで。正男も子供の頃から純のことに気付いてったわで。あなただけです、純をしっかりと見ていなかったのは」
 母が純に寄り添い言った。
「父さん、純が幸せになればいいじゃないか、うちに財産があるわけじゃないし、こんないい結婚式を挙げてもらえるなんて幸せだよ」
 正男も付け足した。正純は下を向いて拳を握り、どうしようもない怒りを堪えていた。
「みなさん、そろそろお時間です」
 美鈴が言った。廊下に出る。弘和一行と合流する。正純が紋付き袴の弘和の前に出た。
「純男の旦那さんですか?純男を宜しくお願い致るんや」
 正純が弘和の手を両手で握り締めた。
「お父さん」 
 純が堪え切れずに泣き出した。
「ほら純、泣くと化粧が、でもしょうがないな、ここは泣くな、あたしまで泣けるわ」
 美鈴も父親の一言に感動した。
「あら、源さん」
 ローズママが辺りをキョロキョロする人斬り源公こと吉田を見付けた。
「おう、ローズ、いやこういうとこ初めてでさあ、迷っちゃったよ」
「それより誰かに止められなかった」
 ローズママは人斬り源公のナリを見て訊いた。
「いや嫁さんがね、どんなナリでも問題ねえって言ってくれたけどさ。そりゃお祝いの席だからさ、ちっとはお洒落しねえといけねえと思ってよ、大島に兵児は疋田絞、腹巻は出入りじゃねえし晒じゃガラが悪い、だからさ紫のラメ入りにしたんだけど、どう?」
「どうっていいよ、いいよすごくいい、だけどヤッパは持ってきてないよね」
 服装のことでとやかく言ってももうどうにもならない。式の前に相談してくれたら見繕った。それより常時携帯している匕首が気になった。
「目立たねえように短いのを胴巻きに縦に差してるから、ほら」
 吉田は胴巻きから出そうとした。
「いいから源さん、出さなくていいから。出しちゃ駄目だよ。あたしの隣に座ろう」
 ローズママは辺りを見回しながら出し掛けた匕首を収めさせた。ひとり見ていたのは純の招待した新宿の仲間である。化粧で誤魔化しているが薄っすらと青髭が浮かんでいる。その男は匕首を見て震えていた。
「おい、誰かに言ったら承知しないよ」
 ローズママが凄むと「はい」と甲高い声で会場に入って行った。
「さあ源さんあたし達も席に着こう」
「ほう、ローズの酌で一杯やって、ローズの尺で一発抜いてってか」
「源さんも年取ってお喋りになったね、寂しんだねやっぱり?さあ行くよ、あたしの後ろに付いておいで」
 昔の渋い人斬りのイメージは消えていた。頬の傷がなければ普通のおじいちゃんに見える。ローズママは人斬り源公の手を取って会場入りした。
「それではお願いします」
 担当が会場入り口まで先導する。正一が先導し弘和が続く。純が褄を握っていた手を放すと深紅の絨毯に裾が拡がった。大家夫人が裾を整えた。純の後に美鈴が続く。割れんばかりの拍手と黄色い歓声。純が東京に出てから苦労を共にした仲間がヤジを飛ばす。多少下品だが会場は受けて笑いが拡がる。
「新郎新婦のご入場です」
 アナウンスに再度拍手が起こる。酎ハイ一杯では緊張を和らげることが出来なかった。正一は呼吸全てを深呼吸にかえた。美鈴が正一の肩が揺れる度に心配になる。口はでかいが気は小さい正一、血圧が上がらなければいいと不安になった。
「私、本日司会進行を務めさせていただきます、楓と申します。こう見えても立派な一物あるのよ」
 会場は楓のジョークに受ける、受けない、それが二分している。純の正体客とローズママの招待客には大受け。しかし弘和の招待客、社長以下会社ご一行は軽蔑の笑いだった。唯一弘和のことを理解している課長の武藤が孤立していた。
「それでは本日の媒酌人、媒酌のしゃくは尺じゃないわよ、ご挨拶ー」
 楓の下品な司会ぶりがレオには大受けである。レオの隣には西野兄が座っていた。その隣に西野妹がいる。
「兄、昨日何処に泊ったの?」
「ヒ・ミ・ツ、それは秘密」
 兄は機嫌がいい、昨日レオと共に裏ビデオの撮影に参加していた。プロレス技をふんだんに取り入れた体位は体中が痛くなっていた。
「ビデオ持って来たから後で見せてあげるよ」
 兄が妹ににやけ顔で言った。
「凄い、レオと絡んだの。早く見たい」
 レオは西野兄妹の会話を聞いていてぞっとした。ここまで兄妹が親密になれるものなのか、自分達の世界より摩訶不思議な関係に恐くなった。
「こんにちは、こんにちははおかしいな」
 正一の天然ボケが受けた。これで気が楽になった。美鈴は安心した。これならいつもの調子に戻れる。調子良すぎて羽目を外さなきゃいいと逆に不安。正一は桜井妻に分り易く読み易く仕上げてもらった挨拶文をどこかに失くしてしまい、直前に書き直してもらったメモ書きを広げた。
「えーみな様。おめでとうございます。まだ正月には早いってか」
 会場が受けると乗って来た。
「本日は、ふつつつつか、ふつ、つかつか、うっ、ふつつかな私共の媒酌ではありますが、昨日午後四時に地元の鎮守様、白旗神社の権禰宜野郎に段取りつけてもらい、滞りなく、相済みましたことを、ご報告、申し上げまつり、たてまつり、マスかきまくりました」
「あんた」
 美鈴に叱られる。会場は爆笑である。
「新郎の梨田弘和、こいつが五歳の時に近くの交差点で事故に遭い、額から血を流して倒れていたのを俺が負んぶして病院まで運んだ仲です」
 正一は原稿から離れ、当時を想い出して語った。
「川の道は渋滞で、救急車呼んでたんじゃ間に合わない。病院まで走れば五分、俺さ、無我夢中で走った。この子殺しちゃいけない、お天道様に叱られる。そう思って一所懸命走ったんだ。こいつの額から血が流れて、それが俺の肩からシャツに染みて背中を垂れてさ、死ぬなよ、死ぬなよって声掛けながら走った。病院に駆け込んで、この子助けてやってくれ、待合室ででかい声で叫んだらばばあの看護婦出て来やがって、応急処置しますから並んでくださいって抜かすから俺頭来ちゃってさ、医者呼べ、藪医者じゃ駄目だって大騒ぎしたら警備員が三人で俺を押さえ付けやがった。床で引っくり返って亀みたいに手足をバタバタしてたら、弘和を担架で運んで行くの見えて、あっ、これで俺の役は終わった。あとはこいつの運命次第だ。そう思った。それが出遭い、それでその礼をこいつが二十年振りに言いに来た。俺んち子供いないからさ、これは神様の仕掛けたことで初めからこういう運命だと思うことにした。こいつには実の両親がいない、だから俺が親になる、おかしなことしたらぶっ飛ばす。いいな弘和。こんな関係」
会場はシーンとしている。人斬り源公が手拭いを出して涙を拭いている。
「いい話じゃござんせんか、義理人情が廃れたこの世界、まだまだ捨てたもんじゃありませんねえ。あっお姉さん日本酒、熱い奴。ジンジン沸いたのにしてくれる、若い時にさ、腹刺されて、それも二カ所、冷酒が身に染みるってそのことでさ、見る?傷、いい、ほんとに?熱燗じゃなきゃ駄目な訳を詳しく説明したいな」
「お姉さんありがとう、熱いの持って来てあげて」
 ローズママが吉田の長話を打ち切った。
「そして、ええっー」
 純にするか純男にするか迷った。
「そしてチンプの松本純男さんは、弘和が大学時代に飲み屋で知り合い、双方がこの人だと感じた、お互いが生涯の伴侶と直感した、そして現在に至ります。今は共稼ぎです。『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』まつおばくん」
「ばしょう」
 桜井妻が会場から訂正した。
「あっそれ。みんなに送られて旅立つ、晩秋の句であり、共稼ぎながら、これからも前に進む二人に送る句です。ハマグリ、二人にハマグリはないな、どうもハマグリって聞くとアレを想い出しちゃう。ハマグリがこう二つにパクっと割れて、それいいか、ぶち込むぞ。そういう思いを現した名句です」
「あんた」
 また美鈴に叱られる。会場の客に嘘を吐きたくない。ありのままを見てもらう、知ってもらってこそ二人に幸福が待っている。このまま曖昧にやり過ごして、俺は大嘘付きになりはしないか。正一の真っ正直な性格が揺れ出した。席に並ぶ二人を見た。『いいか』目で問う。二人が同時に頷いた。二人も正一と同じ覚悟が出来ていた。純に至っては家族が認めてくれたことでもう恐い物はなかった。しかし弘和には不安があった。務める会社の先代から続くワンマン経営の保守的体制は、安易に妥協しない価値観で固まっている。特に風紀に関することは排他的である。当然性的マイノリティは排除していた。それはエイズの感染源は男同士の関係からが非常に多い。会社を社員を守る上から、当然と言えば当然の、社則には記されていない暗黙の社是みたいなものである。唯一課長の武藤夫妻が理解者であるが、武藤曰、長い物に巻かれて生きる術として、敢えて案内する必要もないのではないか。こうアドバイスを受けて当日まで伝えていなかった。弘和はもしもこのことで首になるなら仕方ないと諦めている。
「みなさん」
 正一が声を上げた。美鈴にもその覚悟が伝わった。止めようか迷うが二人の将来を考えた時に、正直に伝えておいた方がいい。嘘を吐き通して生きる辛さをこの二人に味合わせたくない。それにはこの一時の試練に耐えられなければ生涯の契りなどあり得ない。
「この二人の関係、知ってる人も半分ぐらいいるのかな、でも知らない人に知らないまま帰しては失礼じゃないかな、そう思う。梨田弘和、松本純男、二人共男です。正真正銘の男です。私はこの目でしっかりと見ました。花婿花嫁じゃない。花婿花ムコです。だけど二人は愛し合っています。愛し合っているものを切り裂くわけにはいかない。二人にエールを送り私の挨拶とさせていただきます」
「あんた偉いよ」
 美鈴が正一のスピーチに拍手した。正一は二人の後ろに回り二人の肩に手を掛けた。

「おい、武藤君これはどういうことかね、何も聞いていない」
 弘和が勤める会社の社長が武藤課長に詰めた。
「すいません、社長に知らせなかったのは私のアドバイスだと思います。ですが二人は真剣です。どうかご理解いただけないでしょうか」
 武藤が懇願する。
「君が謝って済む問題じゃないよ。もし悪い病気を社内に持ち込まれたらどうする。君も報道を観ていないわけではあるまい。きれいごとでは済まされない。人として当たり前に暮らしている大事な社員を守らなければならない。分かっていて、その種を取り除かなければ私の責任だよ」
 二千年、エイズ感染は減少しているが日本人の心配症は世界より敏感である。また薬害エイズ問題で約1,800人が感染し400人以上が死亡している。その裁判真っ只中であることもみなが神経を尖らせている。
「もういい、梨田君には辞めてもらうしかない。その手続きは君に任せる」
 社長が立ち上がると三テーブルの武藤以外が立ち上がって社長の後に続いた。総勢十八人、会場はその一団が一列になり出て行く様をじっと見ている。
「社長」
 弘和が溢した。
「あれが社長か?」
 弘和が頷くと正一はすぐに後を追った。
「社長、弘和の社長、待ってくれ」
 正一が会場から出た社長に声を掛ける。社長一行は立ち止まり振り返る。
「社長、話がある。これはあなたと二人で話したい。この人達はあんたの若い衆か?会場がどよめいているよ。どうしたのかしら?何があったんだ?会場には花ムコの両親家族もいる。納得して列席している。その方々に心配掛けたくない。一旦若い衆を席に戻してやっていただけないものかな、この通りだ」
 正一が社長に手を合わせてお願いした。
「戻りなさい、そして最後まで楽しんで来なさい。会場を乱すのは私も不本意だ。梨田君の事とは切り離して考えよう」
 社長が伝えると笑みを我慢して会場に戻った。実は社員達は楽しそうな披露宴に戻れて喜んでいる。ドアが開いて戻る社員を楓が拍手で迎えた。すると純の友達一行が続く。会場全員が拍手で戻って来た社員達を出迎えた。
「社長はどうしました?」
 武藤が部長に聞く。
「社長らしい、宴会は別だと、迷惑を掛けるなとの指示だ」
 武藤が部長に礼を言う。正一は社長を新郎の待機室に誘う。
「社長、どうもありがとうございます。実はさ、俺も社長と同じで、昨日の神社での式の直前まで悩んでいたんだ。二人のことを知ったのは一昨日の晩だよ社長。銭湯に誘われてさ、まさか弘和の嫁さんが男風呂に一緒にいるんだから俺驚いちゃってさ。腰抜かすとこだった。そんで俺の後ろに回ってさ、俺の背中流してくれんだよ。一所懸命力入れて背中擦る度にあいつのチンボが俺の尻にピタンピタンて当たるんだ。俺は逃げたね。そんで断ることを女房に伝えたんだ」
 スタッフがコーヒーを運んで来た。
「お姉さん悪いけど酎ハイにしてくれない、社長は?じゃふたつ、悪いね」
 スタッフが出て行った。
「うちの会社は百人足らずの小さな会社です。祖父の代には工場だけで事務所などプレハブの二階建てでした。父が継いで製作だけではなく開発も行うことでここまで延びて来ました。祖父の教えは『当たり前のことを当たり前にする』です。エイズが男性間の性交渉で感染する。それが立証されている。もしもあの二人が感染して他の社員にうつらなくても風評は広がります。まだまだ日本なんて国の意識はその程度ですよ。上からの圧力もあります。大手と取引していますとね、そんなことが障壁になるんですよ。彼一人のために多くを路頭に迷わすわけにはいかない。ましてやこの不景気ですからね。一度失った信頼はなかなか戻りません」
 酎ハイが運ばれた。
「社長は幾つ?俺は来年還暦、千年紀に還暦だって冷やかされるけど幾つだって同じだよね、みんなに千年紀だから」
「それじゃ私より一つ上ですか仲人さんの方が、私は十六年巳年です」
「俺のがひとつ先輩、辰」
「それじゃ先輩はどうしてお受けになられた?」
「さっきの続きになるけどさ、女房にお願いされたんだ」
「何て?」
「待ってくれって」
「何を?」
「時そのものを、十年別れずに一緒にいたら、二人の愛は本物だって認めろと、二十年一緒なら二人に謝れと抜かした」
「どうしてあなたが二人に謝らなければならないのですか?」
「愛を信じずに断ろうとしたことに詫びろと」
 会話が一時途切れた。社長にすれば正一と二人を認めない根本原因が違う。だが初めから受け付けないのは自分の不徳の致す処と認めた。
「仲人さんは奥さんに頭が上がらないとお見受けした」
 社長がからかった。
「全くその通り、あいつがいなきゃ俺死んじゃう」
「分かりました。仲人さんご夫妻に免じてとは失礼ですが、梨田君のことは考え直しましょう。ただし二人には定期的に検査を受けていただきます。もちろん陽性ならこの約束はないものとお考え下さい。陰性が続けば私が口出しすることはありません」
「社長、ありがとう」
「梨田君は優秀な社員です。彼を失うことは会社としてもリスクは大きい。不思議なことに気が付く青年です。誰もそんなことはいいだろうと見過ごすことを、丁寧に作品に取り組む。逸材と言ってもいいでしょう」
「嬉しいね社長。俺はあいつを倅と思って見守る、倅の嫁は娘も同然、うっ、息子か」
 二人は笑って会場入りした。正和と純は立ち上がり社長と正一に一礼した。正一がOKマークを出すと見合って喜んでいる。会場では純の仲間によるカンカンダンスが行われている。楓が社員達をステージに誘う。カンカンダンスの後ろに整列させた。ダンス側と社員側に耳打ちをしている。ダンスが再開、スカートを捲り上げた瞬間踊り子の股座から社員が這い出て来た。
「楽しかった、だれか我こそはと思われるかた、パフォーマンスをお願いします。そこの着流しの旦那、何か隠しているんじゃありませんか、どうぞステージにお上がりください」
 人斬り源公が立ち上がった。
「あっしのことでござんすか?」
「いいのよ源さん、座っときな」
 ローズママに兵児帯を引っ張られる。
「ローズよ、ご指名とあらば受けて立つのが侠客」
 そう言ってステージに上る。ラメの腹巻から匕首を出した。
「あら旦那、しっかりと用意して来ちゃってる。マジックね、ミュージックある?ある、よろしく」
 チャラララララ~♪オリーブの首飾りが流れる。吉田は最前列の正男を指名した。正男は照れ笑いしながら立ち上がり吉田の前に出た。
「この林檎をあっしに向かって放り投げてください。そう、楕円を描くように」
 チャラララララ~♪。正男が放る。胴巻きから匕首を抜いて縦一閃、匕首を鞘に納めて真っ二つの林檎を両手で受ける。チャラララララ~♪。次はバナナを渡した。縦に放るよう指示する。正男が放る。逆手で抜いて縦に割いた。割れたそれぞれを花婿と花ムコのテーブルに置いて十字にした。
「キリストさんの祝福です」
「洒落たこと言うなこの人斬り」
 ローズママがヤジを飛ばした。
「素晴らしいかくし芸をありがとうございます。おもちゃのナイフでここまで出来るなんて素晴らしい、みなさん再度拍手を」
 吉田が「ごめんなはいよ、ごめんなはいよ」と円形テーブルの間を縫って席に戻る。
「やるね、さすが源さん、でもみんなあの匕首が本物だと気付いていないよ。マジックの道具だと思ってるから騒がないんだよ」
「へえっ、平和になったもんだ、これで何人チンピラの耳朶斬り落とした事か。もう一度指名されたらその話をしてやりましょう」
「もういいよ、お腹いっぱい」
 ローズママは次は危ないと感じた。
「テントウ虫のサンバをリクエストされた方」
「はーい。おじ様行くよ。替え歌覚えた?」
 レオが西野兄に確認した。
「妹行ってくる」
「兄頑張れ」
 レオは濃密な兄妹関係が気持ち悪くなった。
「あなたーと私がプロレスで♪愛のキーロック掛けました♪」
「嵌ったわたしは 股裂きで♪滴る愛液舐めました♪」
「赤 痣、青たん、衣装は穴あき~♪」
「電動ムックリ 先はかめあたま♪」
「サンボの大技 締め付ける~♪」
「愛のコ~ブラツイストで 果てました~♪」
 エンディングはレオにコブラツイスト掛けられた西野兄が歌舞伎の見得で。
「まいった~」
 ジャンジャン♪ 西野妹が立ち上がり拍手する。テーブルに戻る西野兄は「どう?」と西野妹に振る。西野妹が中指を突き上げて舌を出した。
「やられた~」
 と西野兄が席に崩れるように座った。
「恐い」
 レオは兄妹の関係が恐ろしくなり席を離れた。
「みなさん、ありがとうございます」
 楓はそう言って純の仲間とローズママの仲間四十人をステージに集めた。
「あたし達の親分、ローズママからみなさんに一言お礼を申しあげます」
 楓がローズママを紹介した。
「聞いてないぞ楓」
 笑いながら楓の股間を握った。
「みなさん、すいませんねこんなおかまがしゃしゃり出て。先ず純、弘和おめでとう。こんな幸せないぞ、忘れちゃ駄目だよ生涯、こんな多くの人に見守られて、正々堂々と愛を表現出来る幸せを感謝しなきゃ駄目だよ。これはね弘和、お前が命の恩人に二十年振りとは言えお礼に行ったことが始まりなんだ。神様がな、よしひとつ褒美をくれてやろう、そう天から放り投げてくれた宝物だよ。それを純の不思議な力で受け止めて実現したんだ。みなさん、あたし達の若い頃は、隠れて、隠して、逃げるように誓ったもんです。来年ミレニアム、この千年紀にこんな素敵なステージに立てたことをお祝いの言葉に替えさせていただきます。みんな」
 ローズママが仲間をステージの中央に寄らせる。
「花婿と花ムコの仲人、そしてみな様にとっていいミレニアムになりますように」
 全員で一礼する。社長が立ち上がり拍手をすると社員全員がそれに倣う。

 披露宴は盛り上がりお開きとなった。その晩は純と家族が自宅に泊まり弘和は正一の家に泊った。十年ぶりの家族だけの一夜である。正一と弘和は寝酒を飲んでいた。
「弘和、お前本当にこれで良かったんだな?」
「ありがとうございます。佐藤のおじさんと美鈴さんには何から何までお世話になりました」
「そんなことはどうでもいいさ。生きてる序さ」
「序ですか?」
「そうさ序だ。買い物行って、今晩のおかずだけじゃなんだからって、序に明日の朝の鰯の丸干しでも買おうかね、そうだ序だから医者によって薬も処方してもらおう。医者と同じ通りにあるから序にクリーニング屋に寄ってワイシャツ出してこよう。そんなもんだよ人生は。序が多けりゃ多いほど人と繋がってる。お前達はまだ序のつの字もない駆け出しだ。これから序を増やして雁字搦めになるほど序塗れになることだ。二人じゃ行き詰っても、序で支えてくれる人がたくさんいるさ。俺達を見ろ、お前達とは全く関係のない人達が俺や美鈴のために序に絡んでくれてるじゃないか。お前達もその序の輪に入ることだ。面倒臭がらずに、序に頼まれたことは序に熟してやることだ。誰かがやらなきゃならないことは出来るなら先に手を上げてやろうじゃねえか。そりゃ失敗することもあるし、思い通りに行かないこともたくさんある。電車の中で年寄りに席譲っても『あたしゃ座らないよ』って憎たらしいばばあもいるけどさ、それでもいいじゃねえか、声を掛けずに『それ見たことか』って笑う奴等よりよっぽど気が利いているよ。お前達の関係は言っちゃ悪いがまだまだ世間じゃ認められていない。お前も初めは俺に隠していた、切羽詰まって俺を銭湯に誘った。いくら二人の愛がどうのこうのって騒いでも認めてもらえなけりゃいつまでも変わらないぞ。それには夫婦で色々と町のことに協力することだ。男同士だけどいい夫婦だねって認めてもらうことがお前達の役目だと思う。お前達が認めてもらえばそういうのもありなんだって少しずつでも広がって行く。なあ弘和、俺達古い人間をさ、お前達が変えていってくれないとさ。寝る、駄目だ」
 正一の手から落ちそうなグラスを弘和が受け止めた。

 和室に布団を四組並べた。小学生の頃、まだ実家を改修する前、香川の実家で過ごした日のように端が父と母、母寄りに純、父寄りに正男が寝ていた。
「びっくりした、わしは気絶するかと思ったよ」
 父親が天井に向いて言った。
「でもお父さんありがとう、許してくれて」
 純が答えた。
「こらえるもこらえんもないだろう、知らないのはわしだけだし、それに何より旦那さんの目を見て安心した」
「目を見てってどんな目ですか旦那さんの目は?」
  母親が訊いた。
「どんな目って、そりゃ純を大切にしてくれる目やで。お前の悪いとこはすべて受け入れて、良い所を伸ばしてくれる。大きくて優しい目だった。この人なら純を大切にしてくれる、そう父さんは感じた」
 父親はそう言って目を瞑った。
「あたしお兄ちゃんが心配」
 純が兄の独身が気になった。
「よく言うよ、自分が上手くいったから今度は兄が心配か?俺のことは気にするな。なるようにしかならない」
「でもあの村に居たらいつまでも嫁さんは来ないでしょ」 
 純は言ってから父母に悪いと感じた。
「正男、お前も好きに生きたらいい、半農半漁、それも食うにやっとの生活だ、いつ辞めても悔いはない。お前も純のように都会に出てやりたいことをやればいい。これは帰ったらお前に伝えようと母さんと話し合ったことだ」
「そうしなさい正男」
 母親も相槌を打った。
「なんちゃ心配することはない。俺は漁師も百姓も好きで残ってる。自然と共に生活するのが趣味みたいなもんや。都会が羨ましい何て思ったことは一度もない。父さん母さん、俺を追い出そうったってそうはいかないぞ」
 正男のやさしさが溢れる言葉に両親は感激した。
「まあ、嫁は諦めたわけじゃない、俺みたいな変わり者にたかる物好きもいるかもしれないしな」
 正男が続けた。
「あの人はまいね?」
「あの人って誰?」
 純が母親に問う。
「ほら、私達を駅まで迎えに来てくれた人。なんとなく正男に気があるような気がした」
「それはいい、あの人なら姉さん女房で正男を引っ張ってくれそうや。よし決めよう」
 父親が半身起こして言った。
「決めようって父さん、あっちの都合もある」
「そうか」
 四人は笑って眠りについた。

「よくお休みになれましたか?」
 弘和が迎えに来た。十時に品川発の新幹線に乗る。すっかりと支度は済んでいて弘和は母親の荷物を持って駅に向かう。純も家族も何を話していいのか思いつかない。次にこうして家族が揃うのはいつだろう。もしかしたらこれが最後かもしれない。
「弘和、品川まで送るから」
「うん、それがいい。僕も行く」
 二人は入場券で改札を通過したがホームで考えが変わった。
「ここでいいで、無駄な金を使うな」
 父親が制した。
「そうよ、新婚旅行に使った方が有効だ」
 母親も父に倣い純に言った。
「兄ちゃん」
 純は正男に抱き付いた。
「父ちゃん母ちゃん頼むね、狡いけど兄ちゃんお願い」
 正雄の耳元で囁いた。
「心配するな、なんちゃかも運命、俺が生きよる限り大丈夫だ」
「兄ちゃん」
 電車が停車した。
「純男、俺の時はいい、だけど母さんが天国に逝ったときは線香あげに来い」
 三人が電車に乗る。母親がドアガラスに手を当てた。正純は小刻みに頷いている。走り出した。純が電車と並走する。ホームの端で弘和に抱き止められた。

 正一は左官屋の一線を退き大家の経営するマンションの管理人を美鈴と二人で任されていた。大家は五年前に亡くなり相続する長男にその旨の遺言を残していた。弘和と純は正一が下小屋に借りていた土地をやはり大家から安価で譲り受け、のっぽの三階建てに暮らしている。一階には何もない。セントバーナードの犬小屋となっている。夢だった一軒家で大きな犬を飼う、それも実現した。何もかも正一との再会から軌道が上向いていた。
「あれから二十年だな。いよいよお前との約束守らなければな」
「そうだね、でももういいけどね。あんたは初めから分かっていてくれた。それをうまく表現出来なかっただけだもの」
「俺も来年傘寿だよ。男の平均寿命まであと二つから四つだよ。ありがとうな美鈴。俺はお前と一緒になって今が一番嬉しい。よしぼちぼち行くか、『ごめんなさい』って純に頭下げよう」
 美鈴と約束した。弘和と純が十年続けば認めてやれと、二十年続いていたら愛を疑った罪で謝れと言われていた、その日が来た。近くに出来た中華店に二人のお祝いの席を設けていた。
「あの二人、別れるどころか増々熱々だわ」
 美鈴が着替えながら言った。
「こんにちは」
 西野兄が入って来た。
「おう、妹は?」
「讃岐から電話があって漁が忙しくて来れないとさ。来たくねえんだよ本当は、大事にされてるみたいだ」
 西野妹は純の兄正男からの手紙に二つ返事で讃岐に向かい即所帯を持った。齢の差十二は何も弊害がない。姉さん女房と近所でも評判である。
 車椅子に乗っているのはローズ、押しているのはレオである。
「おう、ローズ、無茶するな、年老いたおかまにゃ土手の冷風は毒だぞ」
 正一がからかう。
「うっ、うっ」
 ローズママは脳梗塞で麻痺していた。
「じじいうるせい、死ね、ママこれでいい?」
 レオが訳してローズママに確認した。正一は笑った。悪口言い合えるのが嬉しかった。集まったのは正一夫妻、ローズママとレオ、桜井夫妻、西野兄。そして楓が司会をする。
「社長」
 弘和の会社社長が駆け付けてくれた。現在は会長となり長男が継いでいる。
「いや倅と交代しました」
「それじゃ会長か」
「ええ肩書だけです。あなたとの約束果たしに来ました」
 二人は硬く手を握り合った。伊藤香が入店した。
「遅くなっちゃった」
「いいのよ香、淳は?」
 リクルートスーツの女が入って来た。
「美鈴おばさんこんにちは」
 短大を出て社会人一年生の淳の笑顔がはち切れそうである。
「こんにちは、ご無沙汰してます」
 背の高い若い男がみんなの前で一礼した。
「おい良夫、上がって一杯の飲め」
 正一が誘う。
「佐藤のおじいちゃん、俺運転、帰りにみんなを送るから。飲みたいけど我慢する」
「そうか、ありがとうな。好きなもん注文して食うだけ食え」
 正一が席をずらし良夫を座らせた。
「佐藤のおじいちゃんに相談があるんだ」
「なんだ、卓球でハンデくれってんなら聞いてやる」
「そんなんじゃないよ、俺の彼女に会って欲しいんだ。気にいったら佐藤卓球部に入れて欲しい」
「ようし俺の目に適ったらメンバーにしてやる、いつでもいいから連れて来い」
 良夫は笑って頷いた。
「良夫幾つになったの?」
 美鈴が香に訊いた。
「あれ、足し算出来ないの美鈴姉さん。弘和君と純さんの披露宴の年でしょ、淳が二十歳、良夫が二十三よ」
「あっそうだ。まだ呆けんの早いな」
 二人は見合わせて笑う。そこへ弘和と純が登場した。全員が拍手で出迎える。店は貸切、料理はコースではない、各々が好きな物を注文する。
「はいみなさん。本日の主役が登場です。弘和アンド純」
 拍手喝采。ヤジも飛ばない。ふざける事の受付けない真実の愛に拍手である。
「実はあたしもまた司会出来るとは思ってなかった。とっくに別れてあの披露宴はインチキで幻になると思っていた。でもこうして二人を見ていると全然変わらない。弘和が少し太ったぐらい、純は不思議なくらい変わらない。毎日お店で顔を合わせているから気が付かない、そう思って二十年前の写真を見たの。変わってないの。弘和、純、改めておめでとう」
 楓が純の不思議を感じていた。
「楓、いいか?」
 正一と社長が立ち上がり弘和と純の前に出た。
「俺と社長はもうじき八十になる。いつ死んでもおかしくない。だから先に済ませておく。会長からどうぞ」
 会長が一歩前に出た。
「梨田部長、倅に変わり礼を言う。君に会社に残ってもらって感謝している。私の無知で君に恥を掻かせた二十年前の披露宴、未だに夢に出る。何かことが上手く運ばない時には、必ず披露宴会場で立ち上がり出て行くシーンがぶり返す。あの破廉恥な行動言動が私の戒めになっている気がする。二十年経って君達が一緒なら二人で謝ろうと仲人さんと約束した。それを果たしに来ました。ごめんなさい」
 会長が頭を下げた。弘和が抱え起こした。
「会長、ありがとうございます。とんでもないこちらこそ謝らなければならない、偽りの招待状でお呼びして現場に来てもらえば何とかなるだろうと甘い考えが騒ぎの原因です。でも嬉しかった。会長が席に戻ってくれた時、血の流れが正常になるのを感じました。会社は任せて下さい。私は経営は苦手ですが製品開発なら社長に協力出来ます。これからも宜しくお願いします」
 弘和が会長の両手を握り幾度も頭を下げている。
「次は俺の番だ。純、あの時銭湯から逃げたの覚えてるか?俺さほんとはさ、腹立って逃げたわけじゃないんだ。お前が背中流してくれて、身体が揺れる度に純のチンチンが俺の尻にピタンピタンと当たって恥ずかしかったんだ。なんか感じた。もしかしたら俺は感じているんじゃないか、偉そうなこと言っているけど、神様に逆らっているのは俺じゃないのか。そんな気がした。それで逃げたんだ。式の前の日にさ、弘和にお前はどうして男が好きなんだって質問した。その答えは俺自身の答えとして聞きたかった。弘和がさ、僕は男が好きじゃなくて純が好きなんだとはっきり言い切った。その答えが今はっきりした。俺の思いはただの下心、弘和と純の関係は愛だと思い知らされた。恐らくお前達は生涯を共にするだろう。俺は美鈴との約束を今果たす。疑った俺が悪かった。あなた達の愛は本物でした。仲人やらせてもらって良かった。ありがとう、そしてごめんなさい」
 正一が頭を下げると純が抱き付いた。
「佐藤のおじさん」
 おもいきりハグする。
「純」
 正一も純を抱きしめる。
 会場は啜り泣き。
「さあ、みなさんここの中華は美味いぞ、どんどん食べてジャンジャン飲みましょう」
 楓が湿った空気を入れ替える。この中華店は夕方五時でまでの約束。
「良夫お願いね」
 次は伊藤香がママを務めるスナックで二次会と決まった。良夫が三往復して香の店に行く。盛り上がり三次会をしようとスナックローズでカラオケ大会になった。
「ローズ、ありがとうな」
 正一がローズの麻痺した手を取り擦りながら言った。
「レオ、ローズを頼むな、こんないいおかまはいないぞ」
「ううっうっ」
「何ママ?おかまは余計だって」
 レオが盛って訳した。

 佐藤卓球部の大会が開催されるのは弘和と純の二十周年結婚祝いの翌週だった。その大会の朝である。
「美鈴、デカを散歩に連れて行く」
 デカとは純の愛犬セントバーナードである。正一は自分自身の散歩がてらにデカを連れて土手の道を歩くのが日課となっていた。
「道路混んでるからちゃんと横断歩道渡ってよ」
 美鈴が台所から注意する。
「おーい、デカ連れてくぞ」
 聞こえているのかどうかいつも返事は帰ってこない。正一はいつも通りデカの鎖を外した。若いデカは繋がれたと思い道路に向けて走った。
「デカ、危ない」
 正一がデカを追い道路に出た時に走り出したセダンとぶつかった。倒れて起き上がれない。ドライバーが降りて来て介抱する。
「誰か、救急車お願いします」
 デカが吠え続ける。弘和と純が二階から下りて来た。
「佐藤のおじさん」
 弘和が正一の上半身を抱え上げた。
「弘和、美鈴を頼むな」
 正一が声をにじり出すように言った。川沿いは渋滞、救急車を呼んだが十五分は掛かる。正一の額からは血が噴き出し、顔には血筋が幾筋も走る。額に止血のタオルを巻いた。そして正一を負ぶった。
「純、美鈴おばさんに電話して」
 弘和は走る。中央病院までは走れば五分。正一の血が弘和の首筋を伝わりシャツを濡らし肩口から背中に染みて行く。
「佐藤のおじさん、頑張って、おじさん、おじさん、お父さん」
 正一は二週間の入院でその後は通院リハビリと診断された。
「あんた、良夫が彼女連れて見舞いに来たよ。それが見て驚かないでよ」
 美鈴が言った。正一の怪我は左肩の骨折と左の額裂傷、幸い脳への影響はなかった。
「こんちは佐藤のおじちゃん、よかったねこれぐらいで、ほんとに心配した」
 良夫が枕元で言った。
「おうありがとう、俺も死んだかと思った」
 良夫の後ろに隠れるように女の子がいる。ショートヘアの小柄な女の子だった。弘和と純が見舞いに来た。
「ああっ」
 純と弘和は見合わせて声を上げた。純の若い頃によく似ていると思った。
「ああ、おじさんおばさんこんにちは」
 良夫は彼女を連れて来たのを見られて照れている。
「良夫、紹介しなさい」
 美鈴に強制させられた。
「弘和おじさんと純おばさん。俺にとっては第二の父さんと母さんなんだ。こっちは俺の彼女で吉田潤子です」
「初めまして吉田潤子です。あたしの死んだお母さんにそっくり」
 自己紹介した潤子が純を見て驚いている。
「潤子のじゅんはどんな字?」
「潤いです、おばさんのじゅんは?」
「純粋の純よ」
 純が潤子を見つめて言った。
「しかしよく似てるな。潤、こっちこい」
 正一が潤を枕元に呼んだ。じっと顔を見つめた。
「お前、チンチン付いてないよな?」



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