やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 4

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「やっちん先生何やってるのそんなとこで?」
「あれなんで?なんでこっちからなの?」
「向いのお蕎麦屋さんで食事してたの。お母さんはお店行ったわよ、先生の友達と」
「友達ってまさか徹平?」
「そう、徹平おじさん。ママとよく同伴出勤してくれるの。ママも喜んでいるわ、手当がつくでしょ、それに徹平おじさんやさしくて面白いって」
 道理であれ以来学校にも電話がないと思った。日に何度も電話する奴が一週間も途絶えていたのはこういう事だったのか。
「やっちん先生もママの店に行くの?徹平おじさんと待ち合わせ?」
「いやそうじゃないんだ。この前エバちゃんのお父さんに偉そうなこと言っちゃったから謝ろうと思ってここで待ち伏せしていたんだ。でもエバちゃん元気そうでよかった。学校ではあまり会えないし心配してたんだ俺、口と図体はでかいけど肝っ玉はちっちゃいんだ。取り返しがつかなくなってから反省するんだいつも、もっと考えて行動すりゃあよかったなあって」
「ううん、ありがとうやっちん先生、エバ嬉しいわ。やっちん先生がエバのパパならいいのになあ」
「送っていくよ、家まで」
 彼女は俺の腕に細い手首を絡めてにこっと笑った。この光景を雄二達に目撃されているとは知らなかった。
「輪郭のはっきりしないお月様って可愛いね」
 見上げてみたのは俺の顔じゃなくて照れ屋の朧月だった。

 俺は吐き気と頭の重いのを我慢してタオルケットと奇妙に合体したジーパンを剥がして穿いた。枕カバーに挟まった靴下をポケットに突っ込み階段を駆け下りた。玄関で靴を履くまえに靴下を穿こうか穿くまいか、濁り酒に冒されてぐじゅぐじゅになった脳味噌ではまとめられない。おふくろが手早く作ってくれたジャムパンと、二日間身につけることになってしまった靴下が自転車をこぎだすさいに張り付いた。「きったない」とおふくろが吐き捨てた。ドブに流れる汚物と肩を並べるまでに成長した俺を見送ってくれた。
「美智子先生おはようございます。また一段と美しいですねえ」
「ありがとうございます。でもやっちん先生のお世辞には効力ありませんよ。一度もお食事に誘っていただいていませんもの。ところでそれ何ですの?」
「あっこれ?おふくろが作ったジャムパン、といっても食パンにカップのいちごジャムをたっぷりと塗りたくっただけですけどねえ、あっこっち?これは昨日から世話になってる靴下。俺水虫キャリアだから、裸足でスニーカーとか履くとすぐに顔出すんですよ」
「どうして同じ右手に持っているのですか?」
「さすが美智子先生お目が高い。俺の自転車左しかブレーキ効かないんですよ。それで片手で持ってるうちにくっ付いちゃって。あっそうか美智子先生朝めし未だだったんですか。どうぞ、わりといけますよおふくろのジャムパン。俺のことは気にしないで下さい、受付室に行けば吉川さんの乾燥芋とか、鱈の干したやつとか、必ずロッカーに隠してますからそれ拝借しますんで、えっ、いいんですか、そうですか。もし腹減ったら言ってください。乾燥鱈叩いて持って行きますから」 
 美智子先生の本名は吉川美智子と言います。俺の同僚の吉川さんと同じ苗字なので判別し易いように美智子先生と呼ぶようになったんです。同僚の吉川さんは球磨子で、どうしても判別しなければいけないのなら球磨子先生より美智子先生が、生徒受けも宜しいのじゃありませんかと校長先生にアドバイスされ、そう呼ぶようになったのです。
 さっき廊下で擦れ違った雄二と孝が俺を無視したのは気になりました。もしかしてエバと腕を組んで歩いていたのを目撃したからだろうか。もしそうなら、年頃のあいつらには刺激が強すぎたのでしょう、いくら野球一筋に打ち込んでいても、目の前にちらつく飛び切り上等な異性を払拭するのは難しい。しかし来年30になる男に嫉妬を感じるのだろうか。エバが俺の腕に絡んできたとき、こんな妹がいたらいいなあと思いましたが、やつらにしてみれば俺をライバルの端くれに並べているのかもしれない。嬉しいような寂しいような、いずれにしてもあいつらの性を攪乱させるような紛らわしい行動はこれから慎もう。
「教頭先生おはようございます。朝からジメジメと、ナメクジが背筋を這うような暑さですねえ」
「あっ臭っさい、何その息。それに下品な例えやめてください。しっかりと日本語勉強し直したらどうですか」
「すいません。でも俺教頭先生に三年間現国教わったんすよ。やり直しますか?」
「まったく、あの素敵な徳田様のご子息とは思えませんわ」
「ありがとうございます。今度一杯飲りながら日本語教えて下さい。つまみはさっぱりとナメクジおろしかなんかで。俺奢りますよ」
 教頭は虫が嫌いだ。まあ虫の好きなひとはそうはいないと思うが彼女ほどの虫嫌いは特別だ。俺は高校のとき彼女から国語を習っていた。それに三年のときは担任だったから虫嫌いはよく知ってる。当時彼女は三十代で、その頃はクソ面白くないただのおばさんぐらいにしか思っていなかったが、今、俺が同年代になって当時の彼女を振り返ると、なかなかいい女だったような気がする。彼女は俺達の卒業と同時に山形の学校に転任になった。そして俺がこの学校に転属した年に教頭先生となって戻ってきたのだ。俺と徹平でその挨拶がてら驚かそうと後ろから彼女にそっと近付き、『橘先生、お帰りなさい』と二人で声を合わせた。彼女は振り向きざまに『グギャーッ』と叫び声をあげ、学校に逃げ去った。それもそのはずで俺の鼻にはカブトムシのメス、徹平の首筋にはでっかい蟷螂がへばり付いていた。翌日校長から徹平の分までがっちりやられた。なにも校長に言いつけることも無いのに大人気ない。それから俺は報復処置として、教頭と擦れ違う度に、虫の真似をしたり会話に虫を盛り込んだりしている。
「おはようございます」
「はいおはよう。あっおまえおまえ、一年生だな。何組だ?」
「はい、二組ですけど何か?」
「二組、使えねえなあ。悪いけど、三組覗いて、山田エバマリアって子来てるか見てきてくれないか。別になにも話さなくていいから、いるかいないかだけ確認してきてくれ。ほら駆け足」
「えっ、もう授業始まっちゃいますよ」
「急げば間に合うよ、早く行け、カバンに毛虫入れちゃうぞこのやろう」
 昨夜の濁り酒がぶり返してきているのかもしれない。テンション上がってる。最近のガキはすぐ親に報告する。親は間髪要れずに学校に電話する。例えばこんなふうに。『うちの子が学校職員に私用を命令されて、言う事聞かないと毛虫をかばんに入れると脅されたので仕方なく従ったが、報告したのがばれるともっと酷い仕打ちを浴びるのじゃないかと心配して学校を休むと言ってる。どうしてくれるんだ』と翌日校長にぶちまける。校長は俺を校長室に呼び、孔子だか孟子だかの教えを織り交ぜて説教するもんだから尚更ややっこしくなってさっぱりわからない。兎に角校長が右に左に歩きながらの説教に下を向いて反省を装い、『どうですか、わかりますか?』と問いかけるのをじっと待っている。『はい、ありがたいお言葉ありがとうございます』と顔を上げると校長はにこにこして『そうですか。それはよかった』と喜んでくれる。校長は俺の生徒に対しての指導そのものを改めろと言っているのではなくて、そのやり方言動が、過敏な子、親を刺激してしまうのだと注意してくれる。校長も最近は過保護になり過ぎて、親離れが遅れて子供達の自立心が養えないとよく溢している。しかし立場上親に持論をぶちまけても解決出来ず、逆に監査役のPTAからどやされる。教師も辛い、数式や記号を子供達に上手く伝えた先生が優で、生きていくのに最低限必要とされる道徳を説いた先生は、『余計なことを吹き込むな』と罵られ、劣のレッテルを貼られる。先生にならなくてよかった。いやなれなくてよかった。校長の燻った憤懣は可愛い子ぶった俺の反省まねで晴らされる。説教らしきセレモニーが一本締めで終了すると校長は『時間ありますか?今日は雨で外仕事はないのではありませんか?』俺を将棋に誘っているのだ。校長は将棋が好きだ。しかし先生方を誘うわけにはいかず、俺にそれとなく誘いをかけてくる。『ええ、時間はたっぷりありますけど、なにか?』とぼける。『なにかとはつれないですねえ、若い者は悟らなければなりませんよ。私もあなたと同じでやることなんか何もありませんから、はははっ』おもしろい校長だ、一緒にいると楽しいし、そして俺は学校で一番好きだ。もしかしたら校長も俺にそんな感じを持っているのかもしれないと思うのは俺のひとりよがりか。同じ世代に生まれていれば、悪さしたり、酒飲んで議論したり、そんな友達だったら良かったのになあといつも思う。この校長が庇ってくれていなければ俺はとっくに首になっていただろう。この人が引退するとき俺も辞めようと真剣に考えている。
「今日はまだ来てないそうです。遅刻かもしれないって」
「そうかサンキュー。早く行け、遅刻とられるぞ」
 遅刻ならいいがどうも気になる。何もなければいいが、何かあってもどうすることもできないじゃないか。それに一体俺は何を心配しているんだ、雑用係が教師のふりしてカッコつけてもしょうがないじゃないか。生徒の悩みは金八さんに任せておきゃあいいんだ。
 
「サラさん。俺と真剣に付き合ってくれませんか?」
「ホントディスカ」
 俺の知らないところで徹平とエバのおふくろは交際していた。俺より一つ年下でおふくろと呼ぶのは失礼か、サラマリアさんの勤める店に毎晩彼女と同伴して通いつめているらしい。最初は遊びのつもりでいたのだろうが、彼女の美貌とやさしさに惹かれていったのだ。相当な熱の入れようで、夕方五時になると何も言わずに風呂に入り、洒落たなりに半纏引っ掛けて出て行くらしい。強力なコロンをシャワーのように振りかけているので、若い衆から歩く香水と小ばかにされていた。徹平は彼女の存在がなければ毎日学校に電話してくる。もし俺が表仕事をしていて電話口で出られないと、吉川さんに『芳恵の店で待ってるから五時五分に来るように伝えてくれ』と偉そうに伝言まで残していく。吉川さんは徹平の横柄な態度にむかついているらしいが、公務員という立場上我慢している。吉川さんの矛先は俺に向けられ、私用で電話を使わないようにしてください、教頭先生に言いつけますよと、でかい顔をふぐのように膨らませて吐き捨てる。
「やっちん先生、もう二週間近くもあの同級生の佐藤さんから電話がありませんがどうかしましたか?」
 あんなに嫌っているのに電話がないとそれなりに気になるらしい。
「いやなんでもありませんよ。あんな奴死んじまった方が静かでいいじゃないですか。吉川さんだってそれのがいいでしょ?あっ、そうだ、すいません言い忘れてました。先週の土曜日、吉川さんが休みの日、ロッカーに隠してあった鱈の乾燥干物、帰りがけにつまみに食っちまいました。あれ美味いっすねえ、また隠しておいてください」
 吉川さんは立ち上がり、大きく肩を持ち上げそのままストンと下げた。怒ったのだ。でも肩の関節が外れるかと思った。くるりと回転して廊下をみしみしとうならかして出て行った。しかしあの身体で見事なターンを決めてくれる。釣鐘スカートだから足さばきは拝めないが、釣鐘の端部にローラーでもついているかのように芯のぶれないその場回転を披露してくれる。カステラとかバームクーヘンとかお洒落な菓子を盗み食いしたのなら、俺のこそ泥行為を大声で罵り、教頭に即報告したのだろうけど、鱈の乾燥干物を間食していたなんて校内に広まったらそれこそ赤っ恥をかくと判断したのか、威嚇行為のみで俺は救われました。ごめんなさい吉川さん、北海道の上等品を仕入れて今年のクリスマスにプレゼントします。しかし徹平から連絡がないのは俺も心配でした。ひとつの物に集中すると、他の事は視界から消えてしまう性格なのです。その対象が女だと尚更で、家業が鳶職という男を売ってる商売だけに、異性と触れ合う機会も他業種より極端に少ないのがその背景にあるのだろうと思います。今年から佐藤組の頭になり、余計焦っているのかもしれない。鳶の頭がいつまでもチョンガーじゃ信用がつかなくて、仕事にも影響してくるのでしょう。現役を引退したからといってまだまだおやじの目の黒いうちは心配ないが、睨みが利かなくなってきたら徹平の器量に委ねられてくる。五代続いた名門も徹平でちょんにならなきゃいいが。最近は鎌倉みたいな田舎にも大手ゼネコンが進出してきて、ちっちゃな民家にまで手を広げてきている。地元地元と甘く考えているとそっくりやられて、半纏を纏った化石にされてしまい、祭り以外に出番はなくなる。いくら祭りで踏ん張ったって一銭にもならず、だからといって老舗の看板は下ろせず、食う為にサラリーマンでもやるか。背中の金太郎が泣いているぞ徹平。帰ったら電話してみるか。
「もしもし、徳田ですけど、頭いますか?」
「やっちんでしょ?もう出かけたわよ。あなたが紹介したんだってフィリピン娘、毎晩通っているのよその店へ。事務所にいたってボーッとしちゃって見積も工程表も手付かずだし、営業の近所周りも会長に任せきりなんだからもう。責任とってちょうだい」
 ふざけんなクソばばあ。有る事無い事ぺらぺら喋りやがって、なんで俺が責任取らなきゃならないんだよ。
 

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