やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 5

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「おふくろ、出掛けるから。夕飯は帰ったら食べるからわかるようにしておいて」
 俺はママチャリで行こうとサドルを跨いだが考え直して徒歩にした。ママチャリなら往きは楽だが帰りはきつい。泥酔になり、運転不可能になるのは間違いないからだ。いちかばちか跨って転んで怪我でもしたら恥ずかしいし、置きっ放しにしたら明朝学校へ通うのに困る。そのうえ取りに行かなきゃならなくなって面倒だ。やはり歩きにして車を拾って帰るのが最善の策だろう。おふくろに飯は要らないと言っとくか、まあいいや食えなかったら朝飯にしよう。エバのアパートに灯りは無かった。ぐうたらおやじはパチンコか。しばらく時間を稼ごう。
「女将、何時から?」
 インチキおでん屋のおかみは玄関に水を打ち、塩を盛っていた。
「あら渡世人さん早いのね。いいわよ適当に座ってビールでも飲んで、直にそら豆が茹で上がるから」
 薄紫の着物に桜だか梅だかの花弁が散らしてある。俺より年上だろうと思っていたが案外若いような気がする。
「ああ、遠慮なくそうさせてもらうよ。咽喉からからなんだ」
 俺は奥の冷蔵庫からビールを出して詮を抜いた。
「身体覗かせてごらん。のっぽだから見えるでしょコップ」
 檜のむくのカウンター越しに、真っ白な布巾にキラキラ光るビールグラスが臥してある。他のグラスに俺の手垢が付かないようにひとつを摘んでおかみに向って差し出した。おかみは良くできましたと言わんばかりに笑顔で二度頷いた。藍色におでんと大きく染められている隅に『よし乃』と小さくある暖簾をかけて、割烹着の結びをときながら早足でカウンターの中に戻った。
「改めましていらっしゃいませ。普通渡世人は陽がとっぷり暮れてから現れるのよ。調子狂うわ」
「失礼さんにござんす。手前、早寝早起きが常習で晩の十時には床につく、いたって健康的な渡世人でござんす」
 おかみの癖で大きく腰を折って笑ってくれる。ジョークが嵌るぐらい嬉しいことはない。受けて喜んでくれるひとにはもっと笑わせてやろうと意欲が湧く。おかみは俺の駄洒落にも敏感に反応してくれてやりがいがある。もしかしたら客を引き付ける彼女の技なのか、それならば余計に尊敬する。どちらにしても彼女と向かい合って不機嫌になる客はいないと思う。その割にいつ来ても客で埋まっている日はない。俺にしてみれば、どことなく妖しげで憂いを含み、笑い上戸の女将とサシで飲めるならこれほどいいことはない。俺も実に気に入っている。
「よし乃っていうんだこの店?」
「あら嬉しいわ。屋号もわからず通ってくれてたなんて、でも覚えてくれたわねこれで。で、渡世人は、お名前よ、三回くれば常連さんよ。いつまでもお客さんでは失礼でしょ」
 俺は渡世人らしい偽名を名乗ろうと考えたが、嘘を通し続ける自信がないし、調子に乗ってすぐに白状するのが落ちだと思って本名を告げた。
「とくだやすお、字は?道徳の徳に田んぼの田、安い男ははは」
「そうじゃないわ。安心できる男よ。徳田安男・徳さん・安さん。どっちがいいかしら安さんの方が渡世人向きかしら」
 おかみは勝手に俺の呼び名を決めている。
「やっちん。俺、ガキの頃からやっちんて渾名なんだ。学校でもやっちん先生て呼ばれている。だから女将もやっちんでいいよ」
「へえーっ、先生なんだ。やっちん先生、なんか可愛くていいじゃない。はいやっちん、これはね、口開けのお客さんしか味わえないのよ。そら豆の炊き立て」
 そら豆のそらは空であるのがよくわかった。空から靄のように湯気が立ち上がり、その上におかみが左手の透き通る指で塩をつまみ、擦り合わせてまんべんなく振りかけてくれた。俺は右手の中指の爪に仕事で使った黄色いペンキが付着しているのが恥ずかしくて左手で空豆を摘んだ。
「女将さあ、俺いつも不思議に思うんだけどさあ、なんでおでんの暖簾出して、おでんやってないの?」
「ねえやっちん、女将はやめてくれない。あたしの感では同じ年かあたしがひとつ上。なんか懐かしいのよね、あなたが。呼びつけでいいからよし乃って呼んで」
 なんか俺はこれでこの女と深い秘密を共有したように感じた。迂闊に口外できない二人だけの密約を交わしたような、もうここから逃避するのは死以外ないような。俺の勘ぐり過ぎか、でも背筋にサーベルを押し当てられたような快感にも似た寒気が走ったのは事実だ。
「おでんはねえ、九月から始める予定なの。おでんの釜をね、特注で頼んでいるんだけど、その職人さん忙しいから待ってくれって。うちオープンしてからまだ二ヶ月でしょ。この蒸し暑い時季はおでんやってもお客さん来ないと思って、丁度よかったなあなんて」
 扇形の品書きに、からすみ、はたはた、とうふ、とまと、茄子の浅漬けと五品しか案内がない。それに値段が表示していない。そう言えば過去二回もこれと同様のつまみしかなく、勘定もべらぼうに高かった。酔いに任せて支払っていたがサラリーマンが仕事帰りに軽く一杯とはいかないだろう。俺も地方公務員でサラリーマンだが、実家暮らしで、家賃も食費も免除されているから、取り敢えず給料は自分の為だけに使える。自分の為の三分の二は飲食費に消え、残りは旅費に当てている。飲み食いには惜しまず、自分の味覚に合格した店に通う。だから値段には疎いかもしれないが気にしていない。どういうルートか知らないが、『よし乃』の惣菜もおそらく現地から直に仕入れているに違いない。壁が隠れるほど品書きを貼り付けてある店もそれはそれで楽しく安心して利用できるが、厳選された五品しか選択肢がなく、そして主人がそれに精魂かけて炊いたり、焼いたり、炙ったり、また合わせた器に盛ったりと各素材を混ぜることなくそれぞれの素の味を活かして、必要最低限の塩か醤油で客の舌をもてなす。調味油を一切使わないから酒の風味を邪魔しない。辛口の日本酒や冷やした濁り酒にはもってこいだ。
「よっちゃんて呼ばせてもらうよ。よし乃って呼ぶには俺はまだ修行が足りないし、擦り切れたジーパンに汗臭いTシャツじゃ無理がある。着流しに雪駄でもつっかけてこなきゃあな。はたはたと濁り酒くれる。ねえその一升瓶にレッテルないけどなんていう酒?」
「おいしいでしょ、秘密。あたしにしか手に入らないの。内緒よ、市販されてないの。あたし一人で歩くの好きなんだけど、これはね韓国のお酒でマッコリっていうの、知り合いのご主人が持って来てくれるのよ、毎月三本だけね、それをやっちんはこの前に六合、たぶん今晩もそれくらい、今月あと三回暖簾を潜ると、あたしのお酒じゃなくてあなた専用になるわ。でも嬉しいわ。自分の信じた味が評価されるって」
 よし乃は雪のように真っ白な酒を一升瓶からガラス製の二合徳利に移し変えた。
「ああーっ美味い。ほんとに美味い。そのおやじに無理言って五本に増量してもらえば、三本が俺で二本がよっちゃんの分。どうこの作戦?」
「だーめ。そう簡単に自分の思い通りにはいかないの。それにあたし儲けるつもりでこの店始めたわけじゃないの。わたしねえ、これでも赤坂で芸者していたのよ。それでね五年前に大きな不動産屋の社長さんから妾にならないかってお誘いがあって、それで芸者を引退したの。その社長さんね、お前になにか残してやりたいから欲しいもの言ってみなさいって、だからあたし鎌倉辺りで小さなお店が欲しいって言ったら、このマンションごとあたしにくれたのよ。ここには四十世帯入居していて、その家賃収入があるからこの店で生計を立てようなんて考えてないの。自分のセンスで、つまみやお酒を選んで、出来ればお客さんも自分の好みで選びたいの。うちお勘定高いでしょ。と言うよりお値段表示してないでしょ。全て自分で決めるの。生意気でしょ?」
「じゃあよっちゃんは上のマンションに住んでるの?」
「自宅は青山にあるの。一人暮らしにはもったいないような大きなマンション。ここの五階にも2DKを一戸貸さないで空けてあるの。疲れたとき、帰るの面倒臭いし、お酒いただいた日には運転できないでしょ。それと大きな冷蔵庫を三つもおいて、仕入れたものを最高の状態で保存する為にね」
「すごいなあ、その若さで大家さんとはねえそれに経営者。独り者で美人じゃあ世の男共はほっとかないなあ」
「やっちんは?」
「えっ」
「やっんちんはほっとかない?冗談、わたしはお妾さんよ。ところでやっちんのご家族は?ご一緒に暮らしているの?」
「俺んちはねえ、おやじとおふくろ、それと俺の三人暮らしなんだ。弟がいるけど同居してない。うちの家業は代々の百姓なんだ。でもそれもおじいさんの代まででおやじは勤め人。うちもよっちゃんと同じで家賃収入で充分な生活していけるんだ。勿論畑もあるけどね。もしかしてよっちゃんは勘違いしているかもしれないけど俺は教師じゃない。市の職員でたまたま学校勤務に回されただけなんだ。学校で生徒達が勝手にやっちん先生って呼ぶからそれが慣れっこになっちゃってつい自分でもやっちん先生なんて言っちゃったりするんだ。でも心のどこかで自分の職業に劣等感があって、教師と勘違いされたのを訂正せずにその気になっていたのも確かだな。それに大きい声じゃ言えないけど役所勤めが叶ったのもおやじのコネみたいなもんだから、俺一応大学に入学したんだよ、教師になろうって夢があってね。でもね、聞いてくれる、半年足らずで辞めちゃったんだ、喧嘩して。馬鹿みたいでしょ。でも悔やんでいない、仮に卒業して教師になっていたって長続きはしなかったろうと思うよ。今の仕事だってとっくに首になっていたんだけど校長先生に助けてもらっているからなんとか皮一枚で繋がっているんだ。この校長が辞めるとき俺も辞めるつもりでいる。と言うより追い出されるだろうな、厄介者を野放しにしていたんじゃ子供達にもいいことないし。大気を汚染する排気ガス的存在なんだなあ俺って。無職になったって食うには困らないんだ。うちでごろごろしていたって飯は食わせてくれるし、おふくろが多少の小遣いくれるだろうから、月にいっぺんぐらいは『よし乃』で濁りが飲めるさ」
「まけてあげるから二回は顔出して、あっいらっしゃい」
「あっ先輩」
 先輩とはこの店でたまたま知り合った職人風のおじさんで、前歯が無くて口を開けるのが恥ずかしいのかどうか、なにしろ、人の話をくしゃくしゃの笑顔でただ頷くだけで言葉を発しない。齢の頃は六十代前半だろう。彼女の知人なのか、ただの常連なのかそんなことはどっちでもいい。先輩にはなんとなく嫌な事を呑み込んでくれるような優しさを感じる。悲しみと寂しさと憎しみをシェイクして、頷きながら呑み込んで、店の空気を浄化してくれるような。注文しないのに品書きの五品が順番に、絶妙なタイミングでおかみがそっと先輩の前に差し置く。先輩ははたはたの頭と尾鰭を両手で摘んで、欠けた前歯で背からかぶりつく。納得したように小刻みに頷きながら片身になった魚を見つめている。
「先輩、美味いすっか?」
 俺の方に向き直り今度は大きく頷いた。
「美味しいに決まってるでしょ。炙ろうか?」
 俺は先輩のまねして大きく頷いて見せた。よし乃は得意の腰折り笑いをした。先輩はまねされたのが照れ臭いようだ。そしてとうもろこしに齧り付くようにはたはたを食べ切った。海中に海藻が揺れているのを描いた皿に、骸骨になったハタハタを泳がせた。気分のいい空間だ。俺は徹平やエバが取り返しのつかない事態に遭遇しているとも知らずに、わざわざここまで歩いてきた目的をすっかり忘れてこの雰囲気に夢中になっていた。その間にとんでもないことが起きていたんです。

「サラ、どうしたんだその傷?おいおいひでえじゃねえか、どうしたんだよ一体?医者に行かないとだめだ。ちょっと見せてみろ。ありゃあ、深いじゃねえか。泣いてばかりいたってしょうがねえ。何はともあれ病院に行こう。ママ車呼んでくれ」
「病院?まずいわよ病院は。頭は知らないの?旦那にやられたのよその傷、昨夜ナイフで。でもねその人から離婚するって脅かされているから医者にも警察にも相談出来ないでいるの。彼女も行かないわよ、離婚されるのが恐いから」
「サラ、いいかい今病院に行けば元の綺麗なあなたに戻れる。もしも行かなければ一生残るんだよ。顔が人間の全てじゃないけど、できる事ならきれいな顔がいいでしょう。さあ行こう、何も心配することはないから。全部俺に任せていればいいんだ。ママ、車」
「はい。でも頭、うちの名前出さないでくれる。万が一病院から警察に知れるってこともあるでしょう。他の子の身元まで調べられると困るのよ。ビザ切れの子もいるから」
「ああわかった、何も喋らねえ。サラはこの店にはもう戻らない。俺がこんな店で働かさない。俺はチビだし器量もねえ。だが一応鎌倉で頭張ってる。付き合いも結構広い。その仲間全員にこの店の存在を忘れるように云っとく。そしてその仲間がまた仲間に伝えるだろう。俺達の世界、燻っちゃいるが仁義を欠いちゃあ生きていけないからなあ。ママ短い間だったが世話になったな。余ったボトルはくれてやるから自棄酒でも飲りな。それじゃあご愁傷様」
「は、はい、あなた何やってるの車出して、ほら早く、私が中央病院に急患の電話しておくから。お願いしますね頭」
 サラマリアさんは旦那に顔をナイフでえぐられていました。病院で三十二針縫われて、喧嘩傷を見せびらかすやくざもあたまを下げるような顔になってしまいました。医者が言うには切られてすぐに手当すれば、ほぼ元通りの治療が可能だったが、半日以上もほっといたから傷口の具合も悪化してしまい、完全に元通りにするには難しく、どうしても傷跡は残ってしまうと言う診断結果でありました。その医者もそこで終いにすればありがとうございますで済んだものを、幸い色黒なので化粧で誤魔化せるからあまり悲観しないようにと一言余計でした。徹平に胸倉をつかまれて、急所に蹴りを入れられても当然でしょう。徹平は粋がっていますが内心は心細くて、病院に向う車内やロビーから俺に何度もSOSのサインを送っていたのです。手続き事は不器用で、字も汚くて相当困ったに違いありません。彼女の名前や住所や怪我の原因やらを不得手の語学を駆使して精一杯に書き込んだのです。外国から来た愛する女性の為に。
「エバ、タイヘン、ワタシコワイ」
「エバって娘さんじゃないか、大変ってどういうことなの?サラ、大変てまさか」
 徹平は娘が父親に暴力を受けていると悟ったのでしょう。彼の直感は見事に当たっていました。サラさんの嗚咽は止まらず、ちっちゃい徹平の肩に顔を乗せ彼の手を強く握っていました。彼女にとってキリストの次に徹平が頼りだったのでしょう。徹平の指と指の間に、自分の指を差込み絡めていました。
「行こう、すぐ行こう。マスター、彼女のうちまですっ飛ばしてくれ」
 治療を終えてエバのアパートに向かいました。そこでは神様を信じるのを止めたくなるような惨いことが起きていました。


   

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