やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 9

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 一度そう感じるとなかなか近づけなくなってしまった。話し方もぎくしゃくしてきてエバにも悟られてしまうだろう。一杯引っ掛けてから行くとするか、その方が尚更危ないか、緩んだ心のネジは軽い衝撃ですぐに外れてしまう。よし、覚悟決めて行ってみよう、どうせなるようにしかならないんだから。
「こんばんは」
 俺はノックした。誰かが覗き穴から訪問者を確認している。ドアが開くと中から黒服の紳士が顔を出した。その笑顔は吸い込まれそうになるくらいやさしく、寛大だった。
「あれ、山田さんのお宅ですよねえここ?」
「そうです、どうぞ。びっくりなさったでしょう、私は彼女達が通う協会の神父です。今回のおぞましい事件を告白されて、非力ながら駆けつけた次第です。私にしてやれる事は一緒に神に縋り、側に居てあげる事ぐらいですが」
少し外国訛があるが流暢な日本語で応対してくれた。
「失礼しました、神父さんですか。僕はエバマリアさんが通う高校で技能員をしている徳田と言います。実は」
「ええ、彼女から聞いております。やっちん先生ですよね」
 俺より少し年上のようだがすごく落ち着いていて、何があっても慌てる事なく指導してくれそうな頼もしさがある。
「さあ先生お上がりになって時間の許す限り彼女の側に居てあげてください。言葉は受け付けないかもしれませんが、あなたのやさしさが、きっと彼女を癒すことでしょう」
 母娘は別の部屋でそれぞれが何かに取り憑かれたように耽っている。先に母親に声をかけた。
「徹平は全然大丈夫です。自分の事よりあなたを心配しています。なんでもいいからあいつに相談しなさい。背は小さいけど気持ちのやさしい奴だから」
 俺のジョークが分かりにくいのか神父がタガログ語で通訳してくれた。母親は16歳の時にダンサーとして一度来日している。その時興行を手伝っていた今の旦那と一度所帯を持ったがすぐに帰国してしまった。サラマリアさんはエバを身ごもっておりマニラで出産した。そしてエバが12歳の時に二人で日本を訪れ、今にある。母娘共に来日してから三年になるらしいが、学校に通う娘は習得が早く、あまり外に出る事のなかった母親は、必要最小限の片言しか覚えられないのは仕方がないだろう。
「神父さんはフィリピンの方ですか?」
「はい、でも日本に来て十年になります。国では軍人をやっていました。可笑しいでしょ、人殺しが一変神の使いなんて。申し遅れましたジョセフと呼んでください」
 神父の差し出した手を俺は握り締めた。その手は期待を裏切り、冷たく、ごつごつしていた。
 ドブ川の反対側から見上げた部屋にエバはいた。カーテンの閉めてある窓を見つめている。厚手のカーテンだし、外は暗いのでカーテン越しの風景は臨めない。しかし窓を見つめている、彼女の思い描いた風景がカーテン越しに展開しているのだろうか。
「もう三時間もああしています。カーテンを見つめているのか、それともそのずっと先にある彼女にしか見えない何かを感じているのか」
 神父が静かに言った。俺は何も言わずに彼女のすぐ横に腰をおろし、胡座をかいた。エバは一瞬俺を見つめ、笑みを浮かべたがまた、視線をカーテンに戻した。ジョセフ神父が言ったように暫くここにこうしていてあげよう。時間はたっぷりある、明日は雨らしいから学校に行ったって大した仕事はない。今晩は眠らずにここにいて、明日学校でゆっくりと眠らせてもらおう。吉川さんがぶつぶつ言う程度でそんなのは慣れっこでどうと言うことはない。
「コーヒーイレマシタ、ココドウゾ」
 サラさんがキッチンの四人掛けのテーブルへコーヒーを置いた。ジョセフ神父は既に座っていた。俺に話があるようなので一旦エバの側から離れテーブルについた。三人がひとつのテーブルに着き、故意に視線をずらしコーヒーを啜った。苦かったので角砂糖を四つ入れ、スプーンで渦が起きるほどかきまわした。ジョセフ神父が笑った。
「可笑しいですか?」
「やっちん先生は甘党ですか?」
「いえ、特に好き嫌いはないんですがコーヒーは甘いのが好きです。砂糖とミルクをたっぷり入れて、コーヒーだかミルクだかわからないほど甘くして飲んでます、やっぱり可笑しいですよね」
「ワタシ、エバシンパイ」
「サラマリアさんは娘を心配しています。この惨たらしい事件を簡単に忘れて、さあ明日から心機一転やり直そうと考えるのは無理でしょう。しかし、彼女が交通事故とか、地震とかと同じように認識してくれれば、救いの道は開けるのではないかと思います。エバは自分自身を追い込んでいます。今回の場合、誰でも、どんな屈強な女性であってもこの最悪の運命から逃れる事はできなかったのに、自分だけの責任であると思い込んでいます。本来憎むべき暴力よりも、自身の弱さを悔やんでいるのです。サラさんはエバのためだけにこれから生きていこうと決心しています。しかし今、母親の言葉が優しければ優しいだけ、あの子の心に突き刺さります。信頼されているやっちん先生から、彼女の勘違いの紐を解いてくれませんか。私からもお願いします」
 ジョセフ神父は俺にバトンを差し出した。神の使いに説得出来ないのに、その存在すらも怪しんでいるこの俺に、天使の胸にぐさっと喰い込んだ杭のように太い棘を抜いてやれと言う。
「サラさん、ジョセフ神父、はっきり言います。俺にはそんな力も技もありません。小間使いなんです。出来る事と言えば、時間の許す限り側にいて、お腹が空いたと言ってくれれば走って買出しに行き、寒いと肩を震わせたら毛布をかけてやり、打ってくれと頼まれれば死ぬまで打ち続けるぐらいなんです。肝心な傷口に効く処方箋なんて持ち合わせてなくて、薄っぺらな皮一枚の優しさもどきを、不器用に使い分けているだけなんです。それも何かしなければ世間体が悪いからと、そんなとこなんですよ。本当なら、明日勤めなんかに行かずに、彼女の側から離れずにいて用足しをしてあげればいいのに、欠勤を咎められるのが嫌で、大した仕事をしているわけでもないのに出勤を考えているんです。今晩ここにいて明け方帰るとき、俺はやれるだけの事はしたんだと自己満足している自分が情けない。みんなから、おまえはやれる事はやったじゃないかと肩を叩かれて頷く自分が腹立たしいんです。でも寂しいかな本心だと思います。俺に出来る事なんて」
「みんな帰って、ジョセフ神父もやっちん先生も帰って」
 奥の部屋からエバの悲鳴に近い甲高い声がコーヒーカップを震わせました。
「どうして助けてくれなかったの、何回も電話したのに。どうしてこんな事になる前に話し相手になってくれなかったの?ママも私も、縋るひとなんかいないのに、帰って、もういいから帰って」
 彼女のカッターナイフのように鋭利な言葉が俺の背中を十字に斬りつけました。両肘をテーブルに載せ、左の拳を右手で被い、その上に額をあずけ眼を強く瞑り、痛みをやり過ごしました。真っ暗闇を押し殺した彼女の啜り泣きがこの空間を支配しています。軍人あがりの神父も、先生と呼ばれている偽教師の俺にも対抗する術はありません。薄目を明けてジョセフ神父を覗くと、俺と寸分違わぬ体制で耐えていました。母親が立ち上がり、開かずの間の襖をすり抜け、エバを後から抱きしめました。「ママッ」と言って振り向きざまに抱きつき、啜り泣きは慟哭となりました。サラさんが今日は帰るようにと笑顔で目配せしてくれました。自分が非力でこんなにちっちゃく感じたのは初めてです。神父と俺は見つめ合い、同時に立ち上がり、同時に頷き、同時に椅子をテーブルの下に戻し、順番に靴を履き、順番に一礼して聖なる空間を後にしました。階段を降りると一緒に歩くのが照れ臭く、また情けなく、どちらからともなく視線をチラと送り、別れました。俺はドブ川のガードレールに腰をおろし、このまま帰るか、徹平に報告に行くか、『よし乃』で飲んだくれるか思案していました。
「あっジーパン忘れた」
真っ白な子犬を散歩させてる白髪の婦人が俺の声にびっくりして立ち止まりました。飼い主の異状に興奮した犬が俺に向かってきゃんきゃんと吠えました。その時です。
「やっちん先生、これ忘れ物」
 エバが走って来ました、それも以前よりも更に素敵な笑みを浮かべて俺の名前を呼んでくれたのでした。
「さっきはごめんなさい。ママに抱かれているうちに自分で馬鹿みたいって感じてきて、ジョセフ神父ややっちん先生に八つ当たりしたのは自分の我が儘なのにね。やっちん先生はあたしとの約束ちゃんと守ってくれたのよね怪我までして、お礼を言うのが先なのにね。甘えているのかもしれない、やっちん先生とジョセフ神父には。あたし明日から学校に行く。やっちん先生苛められたら守ってね。じゃあ明日。ママひとりにさせてると心配だから」
 彼女が手を振りながら砂利の駐車場に消えた。水溜りを跳んだ。その反動で胸のチェーンが弾んだ。一気に流れ落ちる涙で視界が霞んで、彼女が歪んで見える。涙を拭う仕草をすると泣いてしまったのが彼女に知れて恥ずかしい。階段を駆け上がり、ドアーを開け、中に入る時もう一度手を振ったように見えたがぼやけてわからない。こんなに涙があるのかと思うぐらいに流れ出てくる。まあいいや、全部このドブ川に流してしまおう、少しは水嵩も上がり流れがよくなるかもしれない。それとも汚泥となってしまうのか、どちらでもいい。俺が軽くなるのは事実だから。流れるに任せて暫くドブを見つめていたら、咽喉が渇いた。俺はまた、ドブ川のガードレールに腰をおろし、このまま帰るか、徹平に報告に行くか、『よし乃』で飲んだくれるか思案していました。やっぱりよし乃に寄って行こう。置きっぱなしの自転車を転がしてよし乃の暖簾を潜った。先客がいた、仕事帰りのサラリーマン二人連れである。外から笑い声が聞こえていたが俺の着流し姿を見て会話の声がトーンダウンした。
「おでんて書いてあるけどおでんないの?」
 よし乃は笑みを浮かべて「すいません」と詫びた。
「夏でもおでん食えると思って入ったんだけどいんちきだな」
「そうですよ女将、おでんて暖簾は勘違いするよ」
 ずっとこの調子でよし乃に愚痴を言っている。笑みを浮かべているが面倒臭いのが手に取るように分かる。よしここで助けてやらなきゃ男が廃る。
「お客さん、失礼さんにござんす。女将の失態は情夫件監視役の、あっしの不注意ですからちょいと手荒いが責任を取らさせていただきます。おい、寄越せ」
 よし乃は刃に手拭いが巻かれた刺身包丁を横にして差し出した。俺は纏い柄の手拭いを抜き、柄を逆手に握り、檜のカウンターに刃先を立てた。
「小指は耳掻きに便利で、無くなると不衛生だから役立たずの薬指で勘弁して下さい。シャツに血が跳ねるかもしれないからちょっと離れてくれねえかな、そこの若い兄さん」
「く、狂ってる、おい帰るぞっ」
「はっ、はいーっ」
 サラリーマンのでこぼこコンビは猫に追われるひよこみたいにパタパタと両手を羽ばたいてもう二度と来ることのないよし乃の暖簾を後にした。
「あっしだって、ばかみたい。あっはは」
 よし乃が腰を曲げ、大声を憚らずに笑っている。俺も彼女が笑ってくれるのが嬉しい。生涯遊んで暮らせるゆとりがあるのにどこか儚い。実にくだらない駄洒落にも敏感に反応するぐらい笑い上戸なのにいつも切ない。凛とした姿勢の良さは勝気な性分を引き出しているがなぜか脆い。儚く、切なく、そして脆いこの女に俺は惚れたようだ。
「あたし、客商売向いてないわね。芸者時代もお客さんの好き嫌いが激しくてね、お座敷でお姉さん達に睨まれたわ。でもね、今のパパはあたしが一番嫌だったお客さんだったの。彼の財力に負けたのよ、金目当てだったの。借金を作り行方不明になった情けない日本人の父親と、あたしをおいて若い男と朝鮮に帰ってしまった色呆けした母親、あたしねえ、そんなふうに逃げて暮らすの嫌だったの。それにはお金しかないのよ。生涯遊んでいける財産が欲しかったの、他人にとやかく言われずに、世間に遠慮しないで、生きていくだけのお金が欲しかったの。まあ大金持ちではないけど、生きて行くには不自由ないだけのものを手に入れたわ。ほぼ目標達成ってとこかしら、但し制限つきの監視つきだけどね」
 よし乃は空豆をざるに取り、水気を切りながら話した。真っ白で無柄の皿に盛り付け、皿よりも白く細い指でいつものように粗塩を摘んで振りかけてくれた。マニュキアはしていないがピンク色の爪はどんな宝石よりも輝いている。金の為に自由を切り捨てた若い女、自由を得る為に財産を注ぎ込む老いた男。当然男が先にくたばる、だからと言って残った女が自由を取り返すには時が経ち過ぎて身も心も萎んでしまっている。萎んだ女は自分がされたように失った時間を金で買い戻そうとする。騙されていても夢を見させてくれればいいが、無視された女はただの抜け殻となり朽ち果てていく。偉そうなことを考え過ぎか。
「監視役って、もしかしたら先輩のこと?」
「あのおじさんはね、パパからあたしを守るように言いつけられているの。例えばやっちんがあたしの部屋に忍び込もうものなら手足の二三本は折られて動けなくなるわよ、恐いんだから」
 よし乃の脅しは大袈裟ではない。先輩と勝負したら万に一つも勝ち目はないだろう。足元の悪いドブの中で、刃物を振りかざす相手を俊敏な身のこなしで投げ飛ばし、一撃で相手を仕留める。勝負がついたときには既に消えていて足跡も指紋も残さない。

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