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回想電車『躓き駅』
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「あんた、大丈夫かい?」
女が不安を漏らした。
「始発までじっとしてりゃ見つからねえさ」
そう言う男も動悸が激しい。女を安心させるための強がりである。この男女は夫婦である。パチンコ屋で住込みのアルバイトをしながら転々として生きて来た。二人共ギャンブル好きで借金が嵩んでいた。借りちゃ返しを繰り返しているうちに膨れ上がってもう利息も返せない。それで飛び出した。持ち金は前借した5万、東京駅では新橋までの一駅区間の切符を買って入った。夫は高木義男62歳、妻は美智子59歳、今年で結婚30年、俗に言う真珠婚である。
「あんた、逃げ切れるかね?」
「心配するな、ずっと逃げて来たじゃねえか」
「でも今度は。あの横田って金貸しは恐いらしいよ。攫って埋めるって評判だよ」
「誰が捕まるかよ。ぼろ儲けしてんだ、俺等のはした金でそこまで追うかよ」
その時列車が滑り込んで来た。
「あんた、電車だよ」
「工事のだろう、隠れろ」
二人は柱の陰に隠れた。
「あんた、回想って書いてあるよ」
「じゃあ回送だろう」
「でもあんた、字が違うよ」
「ボンクラが間違ったんだろう」
「あんた、誰か来るよ」
「お前は隠れてろ」
義男が陰から出た。笑顔で手もみをした。
「どうもおばんです、終電に乗り遅れちゃった」
笑って誤魔化した。
「それでお乗りになりますか?」
車掌が訊いた。
「乗れるんですか、だって回送電車ですよね」
「いえ、回想電車です。終点は三途、折り返して東京に3:45分に戻ります」
「そうですか、是非乗せてください」
義男は柱の陰で震える美智子を手招きした。
「あんた」
「乗れるって」
美智子が出て車掌に一礼した。
「さあ、発車時刻です」
二人は乗り込んだ。
「あんた、良かったね」
「だから言ったろ、こうやって生きて来たんだ。神様のお告げ通りなんだよ俺等の人生は」
いつも何とかなってきた。この土壇場でも上手くいった。義男は運の強さを自慢した。
「出発進行」
運転士の声が聞こえた。
「あんた、どこに行くんだろう」
「心配すんな、運転士さんもいい声してるじゃねえか、絶対カラオケ上手いな、十八番はそうだなあ、裕次郎の北の旅人ってとこじゃねえか」
美智子は笑う義男が大好きである。
「あんた」
義男の腕を持ち上げて自分の肩に掛けた。そして抱き付いた。
「あんた」
「お前、車掌さんが見てるよ、恥ずかしいじゃねえか」
「あんた、好きだよ」
義男が頷いた。美智子は30年前にトルコ風呂で賄いをしていた。店に出ても客が付かないからである。そんな美智子に清掃員のアルバイトをしていた義男が声を掛けた。そしてすぐに一緒になった。二人共パチンコ狂い、いつか出ると信じて打ち続けるが先に駒切れとなる。それならとパチンコ屋に夫婦で勤めることになった。住込みが一番の利点。それでも懲りずに他店で打ち続ける。生活費は借金で賄ってきたが結果このざまである。
「迷い、迷い~」
野辺地車掌が案内した。
「あんた、変な駅だよ。ほら、あの男こっちをじっと見てるよ」
「見るな、絡まれたら面白くねえだろう、どうせ酔っ払いだよ」
義男もちらと見た。
「出発進行」
夢地運転士の細く通る声が客席に届く。
「あんた、男が走って来るよ」
よれよれの背広姿の男が閉まりかけたドアに向かって走って来る。顔がドアガラスにぶつかった。僅かなすき間に名刺を投げ入れた。
「あんた、あの人唇から血を流しているよ、可哀そうだよ」
「情けねえな、ああはなりたかねえな」
義男が名刺を拾った。
「斎藤浩二だってよ。何が楽しくてあんなとこに居るんだろうねえ」
名刺を放り投げた。
「あんた、あたい達もひとのことは言えないよ」
「まったくだ」
客室に笑い声が響いた。美智子は楽しかった。ずっとこのまま、どこまでもこの列車で旅をしていたい。大好きな義男にぴたとくっ付いている安心感を感じていたい。
「そういやあ終点は三途って言ってたな。縁起の悪い駅名だ。その前で降りて飯でも食おう」
「あんた、店なんかあるかね?」
「あるさ、腹減った、牛丼大盛だ。お前も大盛にしろ、食わねえからそんなに痩せちゃって骨川筋衛門て言うんだ、そう言うの」
「あたしはいいよ、汁の染みたご飯を少しでいいから分けておくれよ、紅ショウガいっぱい掛けて食べるのが好きなんだよ」
列車が停車した。
「疑い、疑い~」
疑い駅ホームのベンチに年老いた男が座っている。顔中髭だらけ。
「あのおじいさん、寒そうで可哀そうだよ」
15歳で横浜に出て来てからこれまで故郷に帰ったことがない。ベンチの老人が郷愁の念を抱かせた。
「あんた、これ上げてくる」
「おい美智子」
義男が止めるのも訊かずに美智子は小走りで列車から降りた。首からマフラーを外して老人の首に巻いた。
「ありがとう。煙草」
「煙草が欲しいのかい?」
老人が頷いた。
「発車します」
野辺地車掌が案内した。
「ちょっと待ってくれ」
義男がドアの間に挟まった。
「美智子、早くしろ」
美智子は老人に煙草を渡して走り戻った。
「あんた、ごめんよ、怒らないでよ」
美智子が半べそを掻いた。義男はふーっと息を吐いて気を落ち着かせる。
「お前、マフラーまで上げちゃってどうすんだ外は寒いぞ。それに煙草どうすんだ、一本で良かったんだ、全部やっちゃって。俺の上げないよ」
「煙草止めるよ」
美智子が下を向いた。義男が自分のアスコットタイを外して道子の首に巻いた。
「マフラーほどじゃねえけど風除けにはなる。これは上げんじゃねえぞ」
「あんた、ありがとう。温かいよ」
「お前が煙草止められるわけねえじゃねえか、次の駅で降りて買おう。俺のももうねえし」
最後の一本を耳に挟んでケースを丸めた。
「躓き、躓き~」
躓き駅に到着した。
「次の上りは何時ですか?」
「二時間後です。切符を購入してください」
二人は降りた。
「出発進行」
「ほんとにいい声してるねえ、こんだカラオケ誘おう、裕次郎メロディーだ。お前も好きだろう。それにしても寂しい駅名だな。そういやあ俺達も躓き通しだな」
「あんた」
腰に抱き付いた。改札の前で立ち止まる。
「なんか薄暗い町だな」
「あんた出ても大丈夫かい?何か嫌な予感がするよ」
「心配すんな。俺様を誰だと思ってる。七転び八起の義男たあ俺のこった~」
歌舞伎の見栄を真似た。
「あんた~いい男~」
美智子が声を上げた。二人は改札を出た。駅中とは気温が違う。
「寒い」
「だから言ったじゃねえか、あんなじじいにマフラー上げちゃって」
「ごめんよあんた」
寂しい目を向けた。
「いいってことよ、俺の女房のいいとこだ。それに惚れたんだよ」
「あんた~」
半べそを掻いた。
「おめえはすぐ泣くな、だから俺と出遭ったんだ。泣き虫を何とかしてやれって神様の命令だ。俺は嘘吐きだけど神様だけには逆らわねえ。おめえをずっと離さねえよ」
美智子が声を出して泣いた。
「泣くなばか野郎、余計腹が減るじゃねえか」
二人は駅前ロータリーをぐるっと回った。店は一軒もない。
「冴えねえ町だなあ」
「あんた、駅に戻ろう」
「ああ、そうするか」
改札に戻ると駅員がいる。
「切符はどこで買うのかな?」
「躓きを置いて来ましたか?」
「何だい躓きって?」
駅員は答えずに中に入ってしまった。
「ふざけやがって、美智子、中に入るぞ」
「あんた、見つかるとヤバいよ」
「大丈夫だよ、俺にはツキがあるって言ったろ。土壇場でいつも上手くいくんだ。ほら頭下げて」
義男がアヒル歩きで改札を潜る。美智子は膝が悪く曲げることが出来ない。腰をかがめただけで改札を潜ろうとした。
「何してる?」
軍服の男に腕を掴まれた。義男は運よく中に入ったが美智子は連れ出された。
「あんた、あんた」
美智子が泣き叫ぶ。
「おい、俺の女房に何すんだ、離せよ」
バスがロータリーに入った。美智子が乗せられた。
「おい待て」
義男が追い掛けるもバスは走り去った。追い掛けたが靄の中に消えてしまった。
「おい、その女を返してくれよ。俺が居なきゃ生きて行けねえんだよ。頼むよ」
歩道に跪き泣き喚いた。
「俺が居なきゃあの女は死んじゃうよ。俺が充電器みたいなもんでよ、絶えず充電していねえと止まっちゃうんだよ、頼むよ、返してくれよ」
独り言で泣き叫ぶ。
「ふざけやがって」
ひとしきり泣き叫んだが涙が枯れることはない。義男は立ち上がり辺りをうろついた。誰かと接すれば軍服の男と馬車の情報を聞くつもりである。しかし薄暗い砂利道とその両側に拡がるのはススキの原っぱである。大きな満月が南と北に二つある。月明かりで足元がやっと見える程度。砂利道には大きな石ころが幾つも転がっている。しっかり見て歩かないと躓いてしまう。
「誰か~誰かいねえのか~」
義男は声の限り叫んだ。ザザザッと男がしてススキの原っぱから何かが出て来た。義男は猪と思い「この野郎」と拳闘のように構えた。
「何か用か?」
義男が目を凝らすと達磨のような体系をした男だった。
「うわあっ」
義男は驚いて尻もちを付いた。
「あんたは来たばかりか?」
達磨男が喋った。義男は立ち上がり頷いた。
「俺の女房がバスで連れ去られた。誰か何か知っていないか聞きたくて」
義男は逃げようか迷ったが美智子への思いが先に立った。
「そりゃ公安だ、下手したら3年は戻れない。ただし躓きの因子が分かればそれを吐き出すだけで釈放してくれる。晴れて東京に戻れるって寸法だ」
「何だいその躓きの因子って?」
「人生で一番最初に躓いた時の思いだよ。それさえ見つけ出して吐き出せばいいんだ。ほら足元に丸い砂利が転がっているだろう、あれが吐き出された躓きの因子だ」
「それであなたは?」
「俺はもう手遅れだ、3年考えても因子を特定出来ない。何処でどうやって躓いたか分からぬまま今になっちゃった」
「あなたはどうなるんです?」
「大きな先の尖った石が砂利道に飛び出しているだろう。ああなるんだ5年掛けて。後2年で俺もああなる。ここまでくると早くなりてえと思う」
「それじゃあの大きな石は人間の成れの果て?」
達磨男が頷いた。義男はショックを隠せない。
「奥さんが早く戻ることを祈るよ」
達磨男がススキの中へ転がった。義男は仕方なくロータリーに戻った。スマホは電池切れで時間も分からない。駅に掛かる大時計はアラビア数字で36まで刻まれている。針は4本ありどれが時間でどれが分なのか分からない。辺りを見回した。改札を潜ろうとするとロータリーにバスが入って来た。バスのドアが開いて美智子が飛び出して来た。
「あんた~」
「美智子~」
ロータリーのど真ん中で抱き合った。
「あんた、骨が折れちゃうよ」
「どこに行っていやがった。俺はおめえのことが心配で心配で居ても立ってもいられなかった。でももう大丈夫だ。俺がしっかり守るからな。今度あいつが来ても絶対に渡さねえからな」
さらに強く抱きしめた。美智子が泣いている。
「どうした?何でそんなに泣いてんだ。嬉しくねえのか?」
「あんた、嬉しいに決まってんじゃん。でもね・・・」
「でも何だよ?」
「あんたとあたいが躓いた原因が分かったんだよ」
「そんなことはいいんだよ。おめえとこうしていられるだけで幸せなんだよ」
「駄目だよあんた。あんたの躓きはあたいなんだって分かったんだ。公安の人と過去をずっと追っていたらあんたとあたいが出遭ったトルコ風呂の裏のごみ捨て場、あれが躓きの原因なんだよ。それでね、あんた、喜んでおくれよ、公安の人がね、あたいがその躓きを吐き出せばあんたは東京に戻れるんだって。どうせあたいはもうじき死ぬんだ。あんたにいくら言われてもご飯を食べないからこんなに痩せちゃってもう長くないって感じてる。でもあんたにはもう一度東京に戻っていい人見付けて幸せになって欲しいんだ。ねえあんた」
美智子は義男の手首を掴んで揺さぶった。
「ばか野郎、おめえをこんなとこに置いて行けるかよ。パチンコ屋だってねえし、牛丼屋もねえ。おめえの大好きな汁の染みたご飯に紅ショウガたっぷり乗せたの食えねえんだぞ。それ以外は煙草だけじゃねえかおめえが口にするのは。おめえを見殺しに出来ねえよ、そんなこと分かってんだろう」
切符販売窓口が開いた。
「あんた、あたいの一生のお願いだよ。東京に戻っておくれ、あたいはそれが一番幸せなんだ。あたいの幸せを奪わないでおくれ」
美智子が半べそを掻いて説得している。
「美智子」
「あんた、行こう」
美智子が義男の手を引いて窓口に向かう。
「東京行を一枚ください」
美智子が駅員に言った。
「二枚くれ」
義男が駅員に言った。駅員は答えずに一枚だけ差し出してシャッターを閉めた。
「待ってくれ」
義男がシャッターの下に手を差し込んだ。
「あんた、危ない、手を挟むよ」
美智子が渾身の力で義男の身体をシャッターから引き離した。ガシャンとシャッターが閉まった。
「あんた、電車が来るよ。早く行って。あたいが寂しくなるよ」
義男は改札を潜った。そして線路を渡り上りホームの階段を上った。
「美智子~」
「あんた~」
回想列車が滑り込んで来た。ドアが開いた。
「出発進行」
夢地運転士の細くて通る声が改札の前に立つ美智子の耳にも届いた。美智子は泣き泣きロータリーの真ん中を歩き出した。
「美智子~」
振り返ると列車が行き去ったホームに義男が立っていた。
「あんた~」
二人は走った。義男が改札を出たところで抱き合った。
「おめえを置いて一人で行けるかよ、ばか野郎」
「あんた、帰れなくてもいいのかい、ずっとあたいと一緒でもいいのかい、死んじゃうんだよ」
「あたりめえだ、おめえと一緒に死ぬのが俺の運命なんだよ。神様の思し召しってやつだ」
「あんた、あたしに躓いて、ごめんね」
「おめえに躓いて俺は幸せだよ。おめえに躓かなきゃ俺はとっくにくたばってたよ。なあ美智子、俺と一緒に達磨になろう、達磨から石になるんだ。向かい合ってよ、ずっとにらめっこして遊ぶんだ。おめえはすぐ泣くしすぐ笑うからな、よし一回練習だ、♪達磨さん達磨さんにらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」
美智子がすぐに吹き出した。
「そら見ろ、おめえは俺が居なきゃ達磨にもなれねえんだよ」
「あんた、抱いておくれよ」
「ああ」
抱き締めた。
「あんた~」
了
女が不安を漏らした。
「始発までじっとしてりゃ見つからねえさ」
そう言う男も動悸が激しい。女を安心させるための強がりである。この男女は夫婦である。パチンコ屋で住込みのアルバイトをしながら転々として生きて来た。二人共ギャンブル好きで借金が嵩んでいた。借りちゃ返しを繰り返しているうちに膨れ上がってもう利息も返せない。それで飛び出した。持ち金は前借した5万、東京駅では新橋までの一駅区間の切符を買って入った。夫は高木義男62歳、妻は美智子59歳、今年で結婚30年、俗に言う真珠婚である。
「あんた、逃げ切れるかね?」
「心配するな、ずっと逃げて来たじゃねえか」
「でも今度は。あの横田って金貸しは恐いらしいよ。攫って埋めるって評判だよ」
「誰が捕まるかよ。ぼろ儲けしてんだ、俺等のはした金でそこまで追うかよ」
その時列車が滑り込んで来た。
「あんた、電車だよ」
「工事のだろう、隠れろ」
二人は柱の陰に隠れた。
「あんた、回想って書いてあるよ」
「じゃあ回送だろう」
「でもあんた、字が違うよ」
「ボンクラが間違ったんだろう」
「あんた、誰か来るよ」
「お前は隠れてろ」
義男が陰から出た。笑顔で手もみをした。
「どうもおばんです、終電に乗り遅れちゃった」
笑って誤魔化した。
「それでお乗りになりますか?」
車掌が訊いた。
「乗れるんですか、だって回送電車ですよね」
「いえ、回想電車です。終点は三途、折り返して東京に3:45分に戻ります」
「そうですか、是非乗せてください」
義男は柱の陰で震える美智子を手招きした。
「あんた」
「乗れるって」
美智子が出て車掌に一礼した。
「さあ、発車時刻です」
二人は乗り込んだ。
「あんた、良かったね」
「だから言ったろ、こうやって生きて来たんだ。神様のお告げ通りなんだよ俺等の人生は」
いつも何とかなってきた。この土壇場でも上手くいった。義男は運の強さを自慢した。
「出発進行」
運転士の声が聞こえた。
「あんた、どこに行くんだろう」
「心配すんな、運転士さんもいい声してるじゃねえか、絶対カラオケ上手いな、十八番はそうだなあ、裕次郎の北の旅人ってとこじゃねえか」
美智子は笑う義男が大好きである。
「あんた」
義男の腕を持ち上げて自分の肩に掛けた。そして抱き付いた。
「あんた」
「お前、車掌さんが見てるよ、恥ずかしいじゃねえか」
「あんた、好きだよ」
義男が頷いた。美智子は30年前にトルコ風呂で賄いをしていた。店に出ても客が付かないからである。そんな美智子に清掃員のアルバイトをしていた義男が声を掛けた。そしてすぐに一緒になった。二人共パチンコ狂い、いつか出ると信じて打ち続けるが先に駒切れとなる。それならとパチンコ屋に夫婦で勤めることになった。住込みが一番の利点。それでも懲りずに他店で打ち続ける。生活費は借金で賄ってきたが結果このざまである。
「迷い、迷い~」
野辺地車掌が案内した。
「あんた、変な駅だよ。ほら、あの男こっちをじっと見てるよ」
「見るな、絡まれたら面白くねえだろう、どうせ酔っ払いだよ」
義男もちらと見た。
「出発進行」
夢地運転士の細く通る声が客席に届く。
「あんた、男が走って来るよ」
よれよれの背広姿の男が閉まりかけたドアに向かって走って来る。顔がドアガラスにぶつかった。僅かなすき間に名刺を投げ入れた。
「あんた、あの人唇から血を流しているよ、可哀そうだよ」
「情けねえな、ああはなりたかねえな」
義男が名刺を拾った。
「斎藤浩二だってよ。何が楽しくてあんなとこに居るんだろうねえ」
名刺を放り投げた。
「あんた、あたい達もひとのことは言えないよ」
「まったくだ」
客室に笑い声が響いた。美智子は楽しかった。ずっとこのまま、どこまでもこの列車で旅をしていたい。大好きな義男にぴたとくっ付いている安心感を感じていたい。
「そういやあ終点は三途って言ってたな。縁起の悪い駅名だ。その前で降りて飯でも食おう」
「あんた、店なんかあるかね?」
「あるさ、腹減った、牛丼大盛だ。お前も大盛にしろ、食わねえからそんなに痩せちゃって骨川筋衛門て言うんだ、そう言うの」
「あたしはいいよ、汁の染みたご飯を少しでいいから分けておくれよ、紅ショウガいっぱい掛けて食べるのが好きなんだよ」
列車が停車した。
「疑い、疑い~」
疑い駅ホームのベンチに年老いた男が座っている。顔中髭だらけ。
「あのおじいさん、寒そうで可哀そうだよ」
15歳で横浜に出て来てからこれまで故郷に帰ったことがない。ベンチの老人が郷愁の念を抱かせた。
「あんた、これ上げてくる」
「おい美智子」
義男が止めるのも訊かずに美智子は小走りで列車から降りた。首からマフラーを外して老人の首に巻いた。
「ありがとう。煙草」
「煙草が欲しいのかい?」
老人が頷いた。
「発車します」
野辺地車掌が案内した。
「ちょっと待ってくれ」
義男がドアの間に挟まった。
「美智子、早くしろ」
美智子は老人に煙草を渡して走り戻った。
「あんた、ごめんよ、怒らないでよ」
美智子が半べそを掻いた。義男はふーっと息を吐いて気を落ち着かせる。
「お前、マフラーまで上げちゃってどうすんだ外は寒いぞ。それに煙草どうすんだ、一本で良かったんだ、全部やっちゃって。俺の上げないよ」
「煙草止めるよ」
美智子が下を向いた。義男が自分のアスコットタイを外して道子の首に巻いた。
「マフラーほどじゃねえけど風除けにはなる。これは上げんじゃねえぞ」
「あんた、ありがとう。温かいよ」
「お前が煙草止められるわけねえじゃねえか、次の駅で降りて買おう。俺のももうねえし」
最後の一本を耳に挟んでケースを丸めた。
「躓き、躓き~」
躓き駅に到着した。
「次の上りは何時ですか?」
「二時間後です。切符を購入してください」
二人は降りた。
「出発進行」
「ほんとにいい声してるねえ、こんだカラオケ誘おう、裕次郎メロディーだ。お前も好きだろう。それにしても寂しい駅名だな。そういやあ俺達も躓き通しだな」
「あんた」
腰に抱き付いた。改札の前で立ち止まる。
「なんか薄暗い町だな」
「あんた出ても大丈夫かい?何か嫌な予感がするよ」
「心配すんな。俺様を誰だと思ってる。七転び八起の義男たあ俺のこった~」
歌舞伎の見栄を真似た。
「あんた~いい男~」
美智子が声を上げた。二人は改札を出た。駅中とは気温が違う。
「寒い」
「だから言ったじゃねえか、あんなじじいにマフラー上げちゃって」
「ごめんよあんた」
寂しい目を向けた。
「いいってことよ、俺の女房のいいとこだ。それに惚れたんだよ」
「あんた~」
半べそを掻いた。
「おめえはすぐ泣くな、だから俺と出遭ったんだ。泣き虫を何とかしてやれって神様の命令だ。俺は嘘吐きだけど神様だけには逆らわねえ。おめえをずっと離さねえよ」
美智子が声を出して泣いた。
「泣くなばか野郎、余計腹が減るじゃねえか」
二人は駅前ロータリーをぐるっと回った。店は一軒もない。
「冴えねえ町だなあ」
「あんた、駅に戻ろう」
「ああ、そうするか」
改札に戻ると駅員がいる。
「切符はどこで買うのかな?」
「躓きを置いて来ましたか?」
「何だい躓きって?」
駅員は答えずに中に入ってしまった。
「ふざけやがって、美智子、中に入るぞ」
「あんた、見つかるとヤバいよ」
「大丈夫だよ、俺にはツキがあるって言ったろ。土壇場でいつも上手くいくんだ。ほら頭下げて」
義男がアヒル歩きで改札を潜る。美智子は膝が悪く曲げることが出来ない。腰をかがめただけで改札を潜ろうとした。
「何してる?」
軍服の男に腕を掴まれた。義男は運よく中に入ったが美智子は連れ出された。
「あんた、あんた」
美智子が泣き叫ぶ。
「おい、俺の女房に何すんだ、離せよ」
バスがロータリーに入った。美智子が乗せられた。
「おい待て」
義男が追い掛けるもバスは走り去った。追い掛けたが靄の中に消えてしまった。
「おい、その女を返してくれよ。俺が居なきゃ生きて行けねえんだよ。頼むよ」
歩道に跪き泣き喚いた。
「俺が居なきゃあの女は死んじゃうよ。俺が充電器みたいなもんでよ、絶えず充電していねえと止まっちゃうんだよ、頼むよ、返してくれよ」
独り言で泣き叫ぶ。
「ふざけやがって」
ひとしきり泣き叫んだが涙が枯れることはない。義男は立ち上がり辺りをうろついた。誰かと接すれば軍服の男と馬車の情報を聞くつもりである。しかし薄暗い砂利道とその両側に拡がるのはススキの原っぱである。大きな満月が南と北に二つある。月明かりで足元がやっと見える程度。砂利道には大きな石ころが幾つも転がっている。しっかり見て歩かないと躓いてしまう。
「誰か~誰かいねえのか~」
義男は声の限り叫んだ。ザザザッと男がしてススキの原っぱから何かが出て来た。義男は猪と思い「この野郎」と拳闘のように構えた。
「何か用か?」
義男が目を凝らすと達磨のような体系をした男だった。
「うわあっ」
義男は驚いて尻もちを付いた。
「あんたは来たばかりか?」
達磨男が喋った。義男は立ち上がり頷いた。
「俺の女房がバスで連れ去られた。誰か何か知っていないか聞きたくて」
義男は逃げようか迷ったが美智子への思いが先に立った。
「そりゃ公安だ、下手したら3年は戻れない。ただし躓きの因子が分かればそれを吐き出すだけで釈放してくれる。晴れて東京に戻れるって寸法だ」
「何だいその躓きの因子って?」
「人生で一番最初に躓いた時の思いだよ。それさえ見つけ出して吐き出せばいいんだ。ほら足元に丸い砂利が転がっているだろう、あれが吐き出された躓きの因子だ」
「それであなたは?」
「俺はもう手遅れだ、3年考えても因子を特定出来ない。何処でどうやって躓いたか分からぬまま今になっちゃった」
「あなたはどうなるんです?」
「大きな先の尖った石が砂利道に飛び出しているだろう。ああなるんだ5年掛けて。後2年で俺もああなる。ここまでくると早くなりてえと思う」
「それじゃあの大きな石は人間の成れの果て?」
達磨男が頷いた。義男はショックを隠せない。
「奥さんが早く戻ることを祈るよ」
達磨男がススキの中へ転がった。義男は仕方なくロータリーに戻った。スマホは電池切れで時間も分からない。駅に掛かる大時計はアラビア数字で36まで刻まれている。針は4本ありどれが時間でどれが分なのか分からない。辺りを見回した。改札を潜ろうとするとロータリーにバスが入って来た。バスのドアが開いて美智子が飛び出して来た。
「あんた~」
「美智子~」
ロータリーのど真ん中で抱き合った。
「あんた、骨が折れちゃうよ」
「どこに行っていやがった。俺はおめえのことが心配で心配で居ても立ってもいられなかった。でももう大丈夫だ。俺がしっかり守るからな。今度あいつが来ても絶対に渡さねえからな」
さらに強く抱きしめた。美智子が泣いている。
「どうした?何でそんなに泣いてんだ。嬉しくねえのか?」
「あんた、嬉しいに決まってんじゃん。でもね・・・」
「でも何だよ?」
「あんたとあたいが躓いた原因が分かったんだよ」
「そんなことはいいんだよ。おめえとこうしていられるだけで幸せなんだよ」
「駄目だよあんた。あんたの躓きはあたいなんだって分かったんだ。公安の人と過去をずっと追っていたらあんたとあたいが出遭ったトルコ風呂の裏のごみ捨て場、あれが躓きの原因なんだよ。それでね、あんた、喜んでおくれよ、公安の人がね、あたいがその躓きを吐き出せばあんたは東京に戻れるんだって。どうせあたいはもうじき死ぬんだ。あんたにいくら言われてもご飯を食べないからこんなに痩せちゃってもう長くないって感じてる。でもあんたにはもう一度東京に戻っていい人見付けて幸せになって欲しいんだ。ねえあんた」
美智子は義男の手首を掴んで揺さぶった。
「ばか野郎、おめえをこんなとこに置いて行けるかよ。パチンコ屋だってねえし、牛丼屋もねえ。おめえの大好きな汁の染みたご飯に紅ショウガたっぷり乗せたの食えねえんだぞ。それ以外は煙草だけじゃねえかおめえが口にするのは。おめえを見殺しに出来ねえよ、そんなこと分かってんだろう」
切符販売窓口が開いた。
「あんた、あたいの一生のお願いだよ。東京に戻っておくれ、あたいはそれが一番幸せなんだ。あたいの幸せを奪わないでおくれ」
美智子が半べそを掻いて説得している。
「美智子」
「あんた、行こう」
美智子が義男の手を引いて窓口に向かう。
「東京行を一枚ください」
美智子が駅員に言った。
「二枚くれ」
義男が駅員に言った。駅員は答えずに一枚だけ差し出してシャッターを閉めた。
「待ってくれ」
義男がシャッターの下に手を差し込んだ。
「あんた、危ない、手を挟むよ」
美智子が渾身の力で義男の身体をシャッターから引き離した。ガシャンとシャッターが閉まった。
「あんた、電車が来るよ。早く行って。あたいが寂しくなるよ」
義男は改札を潜った。そして線路を渡り上りホームの階段を上った。
「美智子~」
「あんた~」
回想列車が滑り込んで来た。ドアが開いた。
「出発進行」
夢地運転士の細くて通る声が改札の前に立つ美智子の耳にも届いた。美智子は泣き泣きロータリーの真ん中を歩き出した。
「美智子~」
振り返ると列車が行き去ったホームに義男が立っていた。
「あんた~」
二人は走った。義男が改札を出たところで抱き合った。
「おめえを置いて一人で行けるかよ、ばか野郎」
「あんた、帰れなくてもいいのかい、ずっとあたいと一緒でもいいのかい、死んじゃうんだよ」
「あたりめえだ、おめえと一緒に死ぬのが俺の運命なんだよ。神様の思し召しってやつだ」
「あんた、あたしに躓いて、ごめんね」
「おめえに躓いて俺は幸せだよ。おめえに躓かなきゃ俺はとっくにくたばってたよ。なあ美智子、俺と一緒に達磨になろう、達磨から石になるんだ。向かい合ってよ、ずっとにらめっこして遊ぶんだ。おめえはすぐ泣くしすぐ笑うからな、よし一回練習だ、♪達磨さん達磨さんにらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」
美智子がすぐに吹き出した。
「そら見ろ、おめえは俺が居なきゃ達磨にもなれねえんだよ」
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「ああ」
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「あんた~」
了
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