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回想電車『惚け駅』
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「大臣、こっちこっち」
二人の男が地下へ向かうエスカレーターを小走りしている。
「走っちゃいけないんじゃないのかエスカレーターは」
「そんな常識今更関係ありませんよ、さあ大臣早く、毎朝の記者がしつこい、東京駅の改札を潜ったってメールが入ってますよ」
「そんなこと言ったって、最近走ったことない。あああ~あ」
足もがもつれて前のめりになり秘書と一緒にエスカレーターを転げ落ちた。
この情けない二人は衆議院議員の安中大臣と秘書の田岸である。
「いててて」
田岸が立ち上がり自分に怪我がないか身体を確認している。
「おい君、先ずは私だろう」
エスカレーターの下で倒れている安中が助けを求めている。
「いつまで上下関係のつもりですか、いい加減に目を覚ましたらどうです」
そう言いながらも安中の手を引っ張り起こした。安中も田岸の助けがなければこの急場を逃げ切ることは出来ない。田岸はそれを笠に着て態度がでかい。
「もう終電は行っちゃったか」
「始発までありませんよ」
「どうする?」
「どうするってもう逃げようがありませんよ。記者会見開いて謝罪したらどうです」
安中は派閥から回されたパー券を水増しして、その差額を懐に入れていた。収支報告書に記載していれば何等問題ないのに長年の慣習で惚けていた。
「そんなことしたら、政界を揺るがしかねない。下手したら下野する。ここはなんとか君止まりで抑えて欲しい。なに、この国の国民は忘れっぽいから三年もすればすっかり関心が失せる。それにそもそも誰がやっても変わらないと諦めている。その証拠に半分しか選挙に行かないじゃないか。その半分の半分を押さえておけば安泰だ。そのためのパー券だよ君。君止まりなら私は安泰、有罪判決でも執行猶予が付くから、三年後にはまた私の第一秘書として活躍して欲しい」
安中は得意顔で言った。
「ふざけんなこのボンクラ。全部てめえの欲のためじゃねえか。お前等ボンクラの為に誰が罪を被るか、このどボンクラ」
田岸はパー券の水増し分の無記載にはずっと意を唱えていた。他の議員がどうであれ、記載するのが一般的常識である。慣例だとか、みんながやってるだとか、そんな次元の問題じゃないと強く安中に迫っていた。田岸の不安が今回見事に暴かれてしまった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。君だって少しはいい思いをしたんだから。なあ頼むよ」
「やだ、やだ、絶対にやだ。たった今秘書止めた。お前の子分じゃない。あんたの運もこれまでだ。運の尽きだよ、責任取れ」
「いや、まだ運は付いているよ。ほら見たまえ、電車が入って来た」
「電車?」
一輌の古びた列車がホーム新橋方向の先端で停車した。二人はまさかと思ったがホームを走り列車の前に来た。
「乗られますか、発車しますよ」
古い駅員服は軍服のようである。
「の、乗れるんですか?でも回送電車って」
「田岸君、回想電車だよ。どうだね、まだまだ私の運は付いているだろう。そうさ、いつもピンチには神様が助けてくれる」
確かに幾度となくスキャンダルを暴かれた。しかしその度に救われて来た。北がミサイルを撃ちあげたり、大きな災害でそれどころではなくなったりした。今回もパー券問題一色だったのが自動車屋のインチキが発覚し二分されてしまった。田岸は安中の運の強さを感じていた。まさか終電の後に電車があるなんてまさに安中の運の強さだと再認識した。
「確かにあなたは運が強い。さっきの話考えさせてください」
ここまで悪運が強いのならそれに乗ろうと覚悟した。
「いいさ、慌てることはない。さあ取り敢えず乗ろう。ゆっくり作戦会議と行こうじゃないか」
二人は列車に乗り込んだ。
「しかし、ダイヤに載っていない電車があるんですね。不思議だ」
田岸が首を捻った。
「だから私の運の強さだよ。それ以外に説明しようがないじゃないか。JRと私鉄のイベントか何かだろう。よし、これで自信がついた、戻ったら、記者達に知らん存ぜぬと押し通してやろう。車屋のインチキの陰に隠れていりゃほとぼりも冷める。お願いだ、田岸君、君には辛い思いをさせるが、よろしく頼む」
田岸も実刑はないだろうと甘くみている。三年の執行猶予で安中の第一秘書のポジションが守れるなら安泰と踏んだ。
「ええ、分かりました。大臣の片腕となってどこまでも行きますよ。例え地獄の果てまでもついて行きましょう」
一先ずは安中に約束させておくことが肝心である。ここで恩を売ることが自身の保全と考えた。
「ああ、任せなさい。君は生涯私のブレーンだよ」
ここで田岸に逃げられては困る。議員宿舎に戻ればガサ入れもあるだろう。その時田岸に全てを被せる。執行猶予なら考える、しかし実刑なら首にすればいい。一先ずはこの不気味な電車から無事帰還し、派閥の連中と作戦を練って対応する。安中も田岸も己の欲の為に惚け合いをしている。
「ところでこの電車はどこに行くんでしょうねえ。車内には何の案内もありませんね」
田岸が車中を見回した。
「君、車掌に訊いて来なさい。私の名を出してもいい。おおっなんだ?」
ガタンとレールが切り替わる。擁壁が開いてその中に進んだ。地下水が滝のように列車に降り掛かる。
「これは一体」
田岸が立ち上がり車掌室のガラスを叩いた。野辺地車掌は一瞥したが相手にしない。
「迷い、迷い~」
列車の速度が落ちた。辺りはススキの原っぱと変わった。薄暗いホームに静かに停車した。ドアが開くと男が寄って来た。
「お願いだ、この名刺を渡してくれ。お願いだ、これが最後の名刺だ。俺を待っていてくれたかどうか確認出来ればいいんだ」
男は軍服の男に羽交い絞めにされた。そしてホームに投げ飛ばされた。顔を踏まれている。
「出発進行」
運転士の細い声が無情にもドアを閉める。
「あれは一体なんですか?あの男は電車に乗ろうとしただけですよ」
田岸が車掌に抗議する。
「切符が無ければ乗ることは出来ません。公安は甘くありません」
野辺地車掌が何事もなかったかのように冷静に言った。
「甘くないってあんた」
「それで何ですか、さきほどガラスを叩いていた。用も無いのに叩いたりしたら困りますよ」
「用があるから叩いたんだ。この電車どこに行くんだね、そのそも何線なんだね?」
「回想電車です。終点は三途です。折り返し東京に戻ります。上りに乗車するには切符が必要です」
野辺地車掌は淡々と案内した。
「まあまあ、田岸君、車掌さんも困っているじゃないか」
安中は議員バッチをひけらかした。野辺地が頷いた。
「分かるかね、分かるんだね、そうです大臣の安中です。あなたも分かっていると思うが私は無実だ。何も知らん記者に追われてこの電車に飛び乗ってしまった。折り返し東京に戻るそうじゃないか。議員特権があるがそんなものをひけらかしたくない。困っているんだ、どうか分かって欲しい」
安中は大臣の名刺を差し出した。これを見れば平伏するだろうといつもの態度である。野辺地車掌は名詞を受け取らず車掌室のドアを閉めた。安中の手には差し出した名詞が寂しく残る。議員になって初めての経験である。
「この野郎」
田岸も車掌の態度に腹が立ってまたガラス戸を叩いた。
「次は公安を呼びますよ」
田岸は迷い駅の様子が頭に浮かんだ。公安とは軍人のことだろう、ガラスを叩く手を止めた。
「いいからいいから田岸君、この車掌は大方野党びいきなんだろう。でも公安は国の機関だからね、このバッジを見れば平伏する。生意気なことを言ったら総監に即刻首にするように命令する。総監は派閥の後輩だからね」
安中の高笑いが客車に響いた。
「疑い、疑い~」
野辺地車掌の案内が二人の耳に入る。
「妨げ、妨げ~」
「躓き、躓き~」
「逸らし、逸らし~」
おかしな駅名に二人は失笑する。
「大臣、どれここれも凝った駅名ですね。まるで大臣の生き様を表しているようで実に面白い」
田岸が皮肉った。
「こりゃ手痛い、一本喰らった」
安中はおやじギャグで躱した。
「そりゃそうと腹が減りませんか?昼から逃げ通しで何も食っていない」
「そうだな、どっかで降りてコンビニでもいいから入ろう」
二人は下車する算段をした。
「とぼけ、惚け~」
惚け駅に停車した。
「君、上りは何時かね」
田岸が野辺地車掌に訊いた。
「この列車が折り返しになります。終点の三途で15分の点検があります。多少のずれはあるでしょうが東京駅の始発前に戻ることになっています」
「とすると2時間ぐらいだね。次の上りに乗るからね、大臣を怒らすと恐いよ」
田岸が脅かした。
「列車は停車20秒で発車しますから乗り遅れのないようお願いします」
野辺地車掌に言い返されて田岸は腹が立った。
「大臣、降りましょう、腹が減っては戦が出来ない」
二人は惚け駅で下車した。
「薄暗い駅ですね」
「節電だろう」
「誰かいますよ」
「まさか毎朝の記者じゃないだろうな、車で先回りしたんじゃないのか、君、確認して来なさい」
安中に言われて田岸が男に近付いた。
「あなた、そこのあなた?」
「私ですか?」
振り向いた男の頭は肩に沈んでいた。正面からは額しか見えない。てっぺんが剥げていて月光に反射している。田岸は驚いて一瞬何を話すか忘れた。
「すいません、この駅周辺に食堂はありませんか?コンビニでもいいんですが?」
毎朝の記者ではないことは一目瞭然、しかし地方紙の記者であるかもしれない。油断は大敵と質問をはぐらかした。
「私の立場ではお答え出来ません」
どこかで聞いたことのあるフレーズである。
「いやそうじゃなくて、食堂かコンビニはありますか?」
「ですから私の立場でお答えすることは差し控えさせていただきます」
「そんな意地悪言わずに教えてください」
「さっきもお答えしたように、繰り返しになりますが一個人としての発言は控えると言うことです」
田岸は諦めて安中の座るベンチに戻った。
「何だって?」
「惚けも甚だしい、私の立場じゃお答え出来ませんと抜かしました。大臣のお株を奪われましたよ」
田岸が笑うと安中はむっとして立ち上がった。そして男に近付いて『あっ』と声を上げた。
「もしかして下竹さんじゃありませんか?」
男は肩から亀のように首を伸ばした。
「おう安中君」
「どうしたんですかこんなとこで、あの事件の後に下竹大臣が消えたって聞いたから心配していました」
「嘘吐け、お前が心配するか。まあいい、折角来たんだ、この先のベンチに丸金さんと中田さんがいるから挨拶していけ」
安中がベンチの前に来た。
「ああっ」
ベンチに座る男二人はほとんど首が沈んでいる。足も尻に吸収され膝から下だけがぶらぶらと揺れている。安中は声を掛けずに忍び足で立ち去ろうとした。
「まあ、そのう」
中田のしゃがれた声が聞こえた。安中はUターンして田岸の待つベンチに向かった。
「おい、ところでうちの孫は元気か?」
ベンチから声を掛けられた。下竹元大臣の孫は芸能会で活躍している。
「はい、それはそれはご活躍されています」
安中が答えて走った。
「おい、この駅から脱出だ」
二人は改札から飛び出した。
「何だあいつ等は、まるで達磨だ。それに政治家、汚職で消えた派閥の長ばかりだ」
駅前の砂利道を走って逃げた。息が切れて道端の石の上に腰を下ろした。
「くわっ」
石が動いた。
「何だこの石?喋った」
安中が驚いて立ち上がった。
「大臣、あそこに灯が見えますよ。食い物屋かもしれない。行ってみましょう」
ススキの原っぱに小道がある。その先に中華風の看板が見えた。
「やってますよ大臣、特製達磨丼、美味そうじゃないですか」
ガラリと戸を開けた。満員である。客はみな軍服を着ている。二人に視線が集中した。
「空いてますよ」
首が肩に埋まった店員が席に案内した。
「達磨丼を二つ」
「ああ、私はつゆだくで」
安中が注文した。
「みなさん、深夜の警邏ご苦労様です。私は大臣の安中です。マスコミで騒がれている報道は全て秘書が手配していたことです。私は何も知りませんでした。ですが秘書の責任は私の責任としてこれからも職責を全うすることで果たして行きます。みなさんが頑張っていることを総監にしっかりと伝えておきます。頑張ってください」
安中が立ち上がり客を労った。イヤミな労い方は客が公安なら国の機関と決めつけての上から目線である。
「これで待遇がぐっと上がるよ。私には彼等を首にすることも出来るからね」
「そうですね、食い終わったら切符の手配もさせてくださいよ大臣」
「ああ、大臣特権で臨時列車でも走らせるか」
二人がニヤついていると丼が運ばれた。
「こっちがつゆだくだな」
大臣が黄色い汁が多い丼を寄せた。
「なんか変わった臭いがしますね」
田岸が丼に鼻を近付けた。
「確かに、だが許容範囲だ」
安中は食べ始めた。
「肉はコリコリだな。私はこの歯ごたえ好きだな」
安中はコリコリしながら頬張っている。
「あれ、何だこれ、目ん玉ですよ」
田岸が箸で目ん玉をつまんだ」
「臭いの元はこれだ、魚の出汁だよ。粗を丸ごと使っているんだ。君は魚の目ん玉は嫌いか?なら私にくれ」
田岸が安中の丼に目ん玉を入れた。
「コラーゲンたっぷりですよ、これは」
安中がちゅるちゅると目ん玉の周りを吸った。
「ああ美味かった。何だ君は半分も残しているじゃないか。それが君を秘書止まりにしている悪いとこなんだ。飯はバンバン食って、女はガンガンやって、それで初めて強い政治家になれる。昔の中田総理や丸金幹事長を見習いなさい。バンバンのガンガンだったよ」
確かに安中の説教に一理ある。田岸自身、慎重を優先するあまり己の弱さを感じていた。
「勘定払ってきます」
田岸がカウンターの前に行った。
「いくらかな?」
「140両」
「140円?二つで?」
田岸は千円札を出した。
「いててて」
カウンターの中で調理人の一人が声を上げた。
「この野郎、噛み付きやがった」
何かを蹴飛ばした。田岸はカウンター越しに顔を覗かせた。すると足元に丸い物が蠢いている。調理人の騒ぎを聞いて軍服の男が数人立ち上がった。
「どうした?」
「威勢のいい達磨が噛み付きやがったんです」
軍服の一人が厨房に入る。
「こらこの野郎」
丸い物を掴み上げた。
「あああっ」
田岸はその丸い物と目が合った。
「達磨」
驚く田岸に厨房も客席も大笑いしている。
「料理人、こいつを活き造りにしてくれ」
達磨の頭を掴んでまな板に放り上げた。
「あいよ」
首が沈んだ大将が大鉈で達磨を真っ二つに叩き割った。達磨はまな板の上で左右に倒れた。
「おうおう、味噌が零れちゃうよ」
軍服の男が味噌をちゅるちゅると吸い上げた。
「うめえなあ」
田岸は安中の肩を叩いて先に店を出た。ススキの原っぱの小道を駅に向かって走った。
「おおい、待ってくれ」
遅れて安中も追い掛ける。駅前のロータリーまで来た。田岸は腹に入れたものを吐き出そうと指を突っ込んでいる。
「どうしたね田岸君」
安中が田岸の背を擦る。
「どうしたもこうししたもありません。私達が食ったのは達磨です」
「だから達磨食堂だろう」
「違う、達磨は人間です。駅で見たでしょう、首が肩に埋まった男?」
「ああ、そう言えば」
ベンチでを足ぶらぶらさせている中田大臣と丸金幹事長が達磨に近かったのを想い出した。
「大臣が啜った目ん玉のコラーゲンは人間の眼です」
「おえっー」
安中は田岸目掛けてゲロを飛ばした。見事に浴びてスーツがゲロ浸しになった。
「何すんだこいつは」
田岸がスーツを擦り付ける。二人共ゲロ塗れになった。掴み合い、殴り合い、取っ組み合い、そして二人共砂利道に倒れた。そして泣き出した。
「もとはと言えばあんた達派閥の惚けが原因でこうなった。私はもうあんたの子守りは出来ない。検察に洗い浚いをぶちまける。私にも責任がある、しっかりと償うつもりだ」
田岸は立ち上がった。覚悟を決めたら気持ちが楽になった。身体の中から惚けの念が絞り出された。石になって口から飛び出した。その時ガラガラと切符売り場のシャッターが開いた。
「おお、開いた、切符だ切符」
安中も気が付き田岸を追い抜いて切符売り場のカウンターに両手を付いた。
「東京行を一枚くれ」
どうして二枚と言わなかったのか。喧嘩をしたとは言え長年連れ添った阿吽の呼吸である。田岸は寂しくなった。駅員は安中を無視した。
「すいません、東京行を二枚ください」
「田岸君」
安中はこの場において義理立てする田岸に驚いた。そして恥じた。
「二枚は駄目です」
駅員が一枚を差し出した。安中が奪い取るように切符を掴んで改札を抜けた。売り場のシャッターが下がる。田岸は諦めた。違法と知っていながら帳簿に記載することを認めていた。50歩100歩とはこのことだと田岸は覚悟した。この下りホームに残り、首が肩に沈んで、足が尻に吸収されて、達磨になって公安の餌となる運命。それも仕方にない。
「気を付けてくださいよ、階段」
田岸が線路を渡る安中に声を掛けた。
「ああ、ありがとう。必ず迎えに来るからな」
安中は多少後ろめたいが田岸に嘘を吐いても東京に戻りたい。
「もう惚けは止めてくださいよ」
「ああ、君の忠告通り記載する」
安中が線路を渡り切り階段に足を掛けたとこで顔面をおもいきり蹴飛ばされた。頭を強く打って起き上がれない。首を振って意識を正常に戻した。
「何をする公安の下っ端が、総監に言って首にするぞ」
安中は立ち上がりながら公安に言った。そしてまた階段を上がり出した。3段、4段、もう一段でホームである。脅しが効いたと安中がほくそ笑んだ。
「こーらっ」
今度はおもいきり胸を蹴飛ばされた。階段を転げ落ち下りホームの煉瓦に頭をぶつけた。田岸が線路に降りて安中を介抱する。
「おい君、あいつを何とかしなさい、あいつは私をこの駅に蹴り戻した。君があいつを押さえているうちに私はホームに駆け上がり電車に乗り込む。さあ、何をしている、あいつを押さえ付けろ」
田岸は安中を抱え上げて起こした。そして頷いて公安に飛び掛かる。
「まだ分からんのか?」
殴り掛かる田岸に公安が言った。田岸は我に返った。もしかしてあの切符は自分の物なのか。公安が線路に降りて安中の腕を捩じ上げ切符を取り上げた。そして今度は腹を蹴り上げた。
「お前は蹴られて戻る運命だ。これがほんとのキックバック」
公安が自分の洒落に笑った。ぷあーんと警笛がなった。靄の向こうに列車が見えて来た。夢地運転士が二度三度と警笛を鳴らす。
「大臣、早く逃げて」
田岸が叫ぶ。列車がホームに滑り込む。下竹が安中を引っ張り上げようとしたが力不足。
「中田大臣、丸金幹事長」
下竹がベンチに声を掛けた。7割方達磨になった二人がベンチから飛び降りて下竹を手伝う。列車すれすれに安中をホームに引き摺り上げた。
「大丈夫か安中?」
安中は頷いた。
「私はどうなるんでしょうか?」
「一度惚けたら惚け通すのが我等政治家の運命だよ。永遠の惚けこそ美学だ。安中君、惚け駅にようこそ。ですよね中田大臣?」
下竹が中田に振った。
「う~ん、まあそのう、あれだね君。そう言うことだ。戻ってもわしの娘がただじゃおかない」
中田が嗄れ声で答えた。列車の中からその光景をずっと見ていた田岸は寂しさを感じた。自分は東京に戻っていいのだろうか、安中を守るのが自分の使命ではないのか。報酬も他の秘書に比べれると雲泥の差がある。自分を特別な存在と認めてくれた証である。生涯を捧げると誓った書生時代から師と仰いできた男が達磨に囲まれてもがいている。
「出発進行」
夢地運転士の細く通る声に公安が敬礼した。ドアが閉まる寸前に田岸は飛び降りようとドアの閉まりを両手で止めた。野辺地車掌が田岸の肩を押さえた。
「行かせてくれ、俺の宿命だ。あの男を放ってはいけないんだ」
野辺地車掌は微笑んで首を横に振った。
「宿命は東京に戻ることです」
ドアを押さえた手が床まで滑り落ちた。ドアが閉まる。列車が走り出す。公安の男が直立不動で敬礼した。
了
二人の男が地下へ向かうエスカレーターを小走りしている。
「走っちゃいけないんじゃないのかエスカレーターは」
「そんな常識今更関係ありませんよ、さあ大臣早く、毎朝の記者がしつこい、東京駅の改札を潜ったってメールが入ってますよ」
「そんなこと言ったって、最近走ったことない。あああ~あ」
足もがもつれて前のめりになり秘書と一緒にエスカレーターを転げ落ちた。
この情けない二人は衆議院議員の安中大臣と秘書の田岸である。
「いててて」
田岸が立ち上がり自分に怪我がないか身体を確認している。
「おい君、先ずは私だろう」
エスカレーターの下で倒れている安中が助けを求めている。
「いつまで上下関係のつもりですか、いい加減に目を覚ましたらどうです」
そう言いながらも安中の手を引っ張り起こした。安中も田岸の助けがなければこの急場を逃げ切ることは出来ない。田岸はそれを笠に着て態度がでかい。
「もう終電は行っちゃったか」
「始発までありませんよ」
「どうする?」
「どうするってもう逃げようがありませんよ。記者会見開いて謝罪したらどうです」
安中は派閥から回されたパー券を水増しして、その差額を懐に入れていた。収支報告書に記載していれば何等問題ないのに長年の慣習で惚けていた。
「そんなことしたら、政界を揺るがしかねない。下手したら下野する。ここはなんとか君止まりで抑えて欲しい。なに、この国の国民は忘れっぽいから三年もすればすっかり関心が失せる。それにそもそも誰がやっても変わらないと諦めている。その証拠に半分しか選挙に行かないじゃないか。その半分の半分を押さえておけば安泰だ。そのためのパー券だよ君。君止まりなら私は安泰、有罪判決でも執行猶予が付くから、三年後にはまた私の第一秘書として活躍して欲しい」
安中は得意顔で言った。
「ふざけんなこのボンクラ。全部てめえの欲のためじゃねえか。お前等ボンクラの為に誰が罪を被るか、このどボンクラ」
田岸はパー券の水増し分の無記載にはずっと意を唱えていた。他の議員がどうであれ、記載するのが一般的常識である。慣例だとか、みんながやってるだとか、そんな次元の問題じゃないと強く安中に迫っていた。田岸の不安が今回見事に暴かれてしまった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。君だって少しはいい思いをしたんだから。なあ頼むよ」
「やだ、やだ、絶対にやだ。たった今秘書止めた。お前の子分じゃない。あんたの運もこれまでだ。運の尽きだよ、責任取れ」
「いや、まだ運は付いているよ。ほら見たまえ、電車が入って来た」
「電車?」
一輌の古びた列車がホーム新橋方向の先端で停車した。二人はまさかと思ったがホームを走り列車の前に来た。
「乗られますか、発車しますよ」
古い駅員服は軍服のようである。
「の、乗れるんですか?でも回送電車って」
「田岸君、回想電車だよ。どうだね、まだまだ私の運は付いているだろう。そうさ、いつもピンチには神様が助けてくれる」
確かに幾度となくスキャンダルを暴かれた。しかしその度に救われて来た。北がミサイルを撃ちあげたり、大きな災害でそれどころではなくなったりした。今回もパー券問題一色だったのが自動車屋のインチキが発覚し二分されてしまった。田岸は安中の運の強さを感じていた。まさか終電の後に電車があるなんてまさに安中の運の強さだと再認識した。
「確かにあなたは運が強い。さっきの話考えさせてください」
ここまで悪運が強いのならそれに乗ろうと覚悟した。
「いいさ、慌てることはない。さあ取り敢えず乗ろう。ゆっくり作戦会議と行こうじゃないか」
二人は列車に乗り込んだ。
「しかし、ダイヤに載っていない電車があるんですね。不思議だ」
田岸が首を捻った。
「だから私の運の強さだよ。それ以外に説明しようがないじゃないか。JRと私鉄のイベントか何かだろう。よし、これで自信がついた、戻ったら、記者達に知らん存ぜぬと押し通してやろう。車屋のインチキの陰に隠れていりゃほとぼりも冷める。お願いだ、田岸君、君には辛い思いをさせるが、よろしく頼む」
田岸も実刑はないだろうと甘くみている。三年の執行猶予で安中の第一秘書のポジションが守れるなら安泰と踏んだ。
「ええ、分かりました。大臣の片腕となってどこまでも行きますよ。例え地獄の果てまでもついて行きましょう」
一先ずは安中に約束させておくことが肝心である。ここで恩を売ることが自身の保全と考えた。
「ああ、任せなさい。君は生涯私のブレーンだよ」
ここで田岸に逃げられては困る。議員宿舎に戻ればガサ入れもあるだろう。その時田岸に全てを被せる。執行猶予なら考える、しかし実刑なら首にすればいい。一先ずはこの不気味な電車から無事帰還し、派閥の連中と作戦を練って対応する。安中も田岸も己の欲の為に惚け合いをしている。
「ところでこの電車はどこに行くんでしょうねえ。車内には何の案内もありませんね」
田岸が車中を見回した。
「君、車掌に訊いて来なさい。私の名を出してもいい。おおっなんだ?」
ガタンとレールが切り替わる。擁壁が開いてその中に進んだ。地下水が滝のように列車に降り掛かる。
「これは一体」
田岸が立ち上がり車掌室のガラスを叩いた。野辺地車掌は一瞥したが相手にしない。
「迷い、迷い~」
列車の速度が落ちた。辺りはススキの原っぱと変わった。薄暗いホームに静かに停車した。ドアが開くと男が寄って来た。
「お願いだ、この名刺を渡してくれ。お願いだ、これが最後の名刺だ。俺を待っていてくれたかどうか確認出来ればいいんだ」
男は軍服の男に羽交い絞めにされた。そしてホームに投げ飛ばされた。顔を踏まれている。
「出発進行」
運転士の細い声が無情にもドアを閉める。
「あれは一体なんですか?あの男は電車に乗ろうとしただけですよ」
田岸が車掌に抗議する。
「切符が無ければ乗ることは出来ません。公安は甘くありません」
野辺地車掌が何事もなかったかのように冷静に言った。
「甘くないってあんた」
「それで何ですか、さきほどガラスを叩いていた。用も無いのに叩いたりしたら困りますよ」
「用があるから叩いたんだ。この電車どこに行くんだね、そのそも何線なんだね?」
「回想電車です。終点は三途です。折り返し東京に戻ります。上りに乗車するには切符が必要です」
野辺地車掌は淡々と案内した。
「まあまあ、田岸君、車掌さんも困っているじゃないか」
安中は議員バッチをひけらかした。野辺地が頷いた。
「分かるかね、分かるんだね、そうです大臣の安中です。あなたも分かっていると思うが私は無実だ。何も知らん記者に追われてこの電車に飛び乗ってしまった。折り返し東京に戻るそうじゃないか。議員特権があるがそんなものをひけらかしたくない。困っているんだ、どうか分かって欲しい」
安中は大臣の名刺を差し出した。これを見れば平伏するだろうといつもの態度である。野辺地車掌は名詞を受け取らず車掌室のドアを閉めた。安中の手には差し出した名詞が寂しく残る。議員になって初めての経験である。
「この野郎」
田岸も車掌の態度に腹が立ってまたガラス戸を叩いた。
「次は公安を呼びますよ」
田岸は迷い駅の様子が頭に浮かんだ。公安とは軍人のことだろう、ガラスを叩く手を止めた。
「いいからいいから田岸君、この車掌は大方野党びいきなんだろう。でも公安は国の機関だからね、このバッジを見れば平伏する。生意気なことを言ったら総監に即刻首にするように命令する。総監は派閥の後輩だからね」
安中の高笑いが客車に響いた。
「疑い、疑い~」
野辺地車掌の案内が二人の耳に入る。
「妨げ、妨げ~」
「躓き、躓き~」
「逸らし、逸らし~」
おかしな駅名に二人は失笑する。
「大臣、どれここれも凝った駅名ですね。まるで大臣の生き様を表しているようで実に面白い」
田岸が皮肉った。
「こりゃ手痛い、一本喰らった」
安中はおやじギャグで躱した。
「そりゃそうと腹が減りませんか?昼から逃げ通しで何も食っていない」
「そうだな、どっかで降りてコンビニでもいいから入ろう」
二人は下車する算段をした。
「とぼけ、惚け~」
惚け駅に停車した。
「君、上りは何時かね」
田岸が野辺地車掌に訊いた。
「この列車が折り返しになります。終点の三途で15分の点検があります。多少のずれはあるでしょうが東京駅の始発前に戻ることになっています」
「とすると2時間ぐらいだね。次の上りに乗るからね、大臣を怒らすと恐いよ」
田岸が脅かした。
「列車は停車20秒で発車しますから乗り遅れのないようお願いします」
野辺地車掌に言い返されて田岸は腹が立った。
「大臣、降りましょう、腹が減っては戦が出来ない」
二人は惚け駅で下車した。
「薄暗い駅ですね」
「節電だろう」
「誰かいますよ」
「まさか毎朝の記者じゃないだろうな、車で先回りしたんじゃないのか、君、確認して来なさい」
安中に言われて田岸が男に近付いた。
「あなた、そこのあなた?」
「私ですか?」
振り向いた男の頭は肩に沈んでいた。正面からは額しか見えない。てっぺんが剥げていて月光に反射している。田岸は驚いて一瞬何を話すか忘れた。
「すいません、この駅周辺に食堂はありませんか?コンビニでもいいんですが?」
毎朝の記者ではないことは一目瞭然、しかし地方紙の記者であるかもしれない。油断は大敵と質問をはぐらかした。
「私の立場ではお答え出来ません」
どこかで聞いたことのあるフレーズである。
「いやそうじゃなくて、食堂かコンビニはありますか?」
「ですから私の立場でお答えすることは差し控えさせていただきます」
「そんな意地悪言わずに教えてください」
「さっきもお答えしたように、繰り返しになりますが一個人としての発言は控えると言うことです」
田岸は諦めて安中の座るベンチに戻った。
「何だって?」
「惚けも甚だしい、私の立場じゃお答え出来ませんと抜かしました。大臣のお株を奪われましたよ」
田岸が笑うと安中はむっとして立ち上がった。そして男に近付いて『あっ』と声を上げた。
「もしかして下竹さんじゃありませんか?」
男は肩から亀のように首を伸ばした。
「おう安中君」
「どうしたんですかこんなとこで、あの事件の後に下竹大臣が消えたって聞いたから心配していました」
「嘘吐け、お前が心配するか。まあいい、折角来たんだ、この先のベンチに丸金さんと中田さんがいるから挨拶していけ」
安中がベンチの前に来た。
「ああっ」
ベンチに座る男二人はほとんど首が沈んでいる。足も尻に吸収され膝から下だけがぶらぶらと揺れている。安中は声を掛けずに忍び足で立ち去ろうとした。
「まあ、そのう」
中田のしゃがれた声が聞こえた。安中はUターンして田岸の待つベンチに向かった。
「おい、ところでうちの孫は元気か?」
ベンチから声を掛けられた。下竹元大臣の孫は芸能会で活躍している。
「はい、それはそれはご活躍されています」
安中が答えて走った。
「おい、この駅から脱出だ」
二人は改札から飛び出した。
「何だあいつ等は、まるで達磨だ。それに政治家、汚職で消えた派閥の長ばかりだ」
駅前の砂利道を走って逃げた。息が切れて道端の石の上に腰を下ろした。
「くわっ」
石が動いた。
「何だこの石?喋った」
安中が驚いて立ち上がった。
「大臣、あそこに灯が見えますよ。食い物屋かもしれない。行ってみましょう」
ススキの原っぱに小道がある。その先に中華風の看板が見えた。
「やってますよ大臣、特製達磨丼、美味そうじゃないですか」
ガラリと戸を開けた。満員である。客はみな軍服を着ている。二人に視線が集中した。
「空いてますよ」
首が肩に埋まった店員が席に案内した。
「達磨丼を二つ」
「ああ、私はつゆだくで」
安中が注文した。
「みなさん、深夜の警邏ご苦労様です。私は大臣の安中です。マスコミで騒がれている報道は全て秘書が手配していたことです。私は何も知りませんでした。ですが秘書の責任は私の責任としてこれからも職責を全うすることで果たして行きます。みなさんが頑張っていることを総監にしっかりと伝えておきます。頑張ってください」
安中が立ち上がり客を労った。イヤミな労い方は客が公安なら国の機関と決めつけての上から目線である。
「これで待遇がぐっと上がるよ。私には彼等を首にすることも出来るからね」
「そうですね、食い終わったら切符の手配もさせてくださいよ大臣」
「ああ、大臣特権で臨時列車でも走らせるか」
二人がニヤついていると丼が運ばれた。
「こっちがつゆだくだな」
大臣が黄色い汁が多い丼を寄せた。
「なんか変わった臭いがしますね」
田岸が丼に鼻を近付けた。
「確かに、だが許容範囲だ」
安中は食べ始めた。
「肉はコリコリだな。私はこの歯ごたえ好きだな」
安中はコリコリしながら頬張っている。
「あれ、何だこれ、目ん玉ですよ」
田岸が箸で目ん玉をつまんだ」
「臭いの元はこれだ、魚の出汁だよ。粗を丸ごと使っているんだ。君は魚の目ん玉は嫌いか?なら私にくれ」
田岸が安中の丼に目ん玉を入れた。
「コラーゲンたっぷりですよ、これは」
安中がちゅるちゅると目ん玉の周りを吸った。
「ああ美味かった。何だ君は半分も残しているじゃないか。それが君を秘書止まりにしている悪いとこなんだ。飯はバンバン食って、女はガンガンやって、それで初めて強い政治家になれる。昔の中田総理や丸金幹事長を見習いなさい。バンバンのガンガンだったよ」
確かに安中の説教に一理ある。田岸自身、慎重を優先するあまり己の弱さを感じていた。
「勘定払ってきます」
田岸がカウンターの前に行った。
「いくらかな?」
「140両」
「140円?二つで?」
田岸は千円札を出した。
「いててて」
カウンターの中で調理人の一人が声を上げた。
「この野郎、噛み付きやがった」
何かを蹴飛ばした。田岸はカウンター越しに顔を覗かせた。すると足元に丸い物が蠢いている。調理人の騒ぎを聞いて軍服の男が数人立ち上がった。
「どうした?」
「威勢のいい達磨が噛み付きやがったんです」
軍服の一人が厨房に入る。
「こらこの野郎」
丸い物を掴み上げた。
「あああっ」
田岸はその丸い物と目が合った。
「達磨」
驚く田岸に厨房も客席も大笑いしている。
「料理人、こいつを活き造りにしてくれ」
達磨の頭を掴んでまな板に放り上げた。
「あいよ」
首が沈んだ大将が大鉈で達磨を真っ二つに叩き割った。達磨はまな板の上で左右に倒れた。
「おうおう、味噌が零れちゃうよ」
軍服の男が味噌をちゅるちゅると吸い上げた。
「うめえなあ」
田岸は安中の肩を叩いて先に店を出た。ススキの原っぱの小道を駅に向かって走った。
「おおい、待ってくれ」
遅れて安中も追い掛ける。駅前のロータリーまで来た。田岸は腹に入れたものを吐き出そうと指を突っ込んでいる。
「どうしたね田岸君」
安中が田岸の背を擦る。
「どうしたもこうししたもありません。私達が食ったのは達磨です」
「だから達磨食堂だろう」
「違う、達磨は人間です。駅で見たでしょう、首が肩に埋まった男?」
「ああ、そう言えば」
ベンチでを足ぶらぶらさせている中田大臣と丸金幹事長が達磨に近かったのを想い出した。
「大臣が啜った目ん玉のコラーゲンは人間の眼です」
「おえっー」
安中は田岸目掛けてゲロを飛ばした。見事に浴びてスーツがゲロ浸しになった。
「何すんだこいつは」
田岸がスーツを擦り付ける。二人共ゲロ塗れになった。掴み合い、殴り合い、取っ組み合い、そして二人共砂利道に倒れた。そして泣き出した。
「もとはと言えばあんた達派閥の惚けが原因でこうなった。私はもうあんたの子守りは出来ない。検察に洗い浚いをぶちまける。私にも責任がある、しっかりと償うつもりだ」
田岸は立ち上がった。覚悟を決めたら気持ちが楽になった。身体の中から惚けの念が絞り出された。石になって口から飛び出した。その時ガラガラと切符売り場のシャッターが開いた。
「おお、開いた、切符だ切符」
安中も気が付き田岸を追い抜いて切符売り場のカウンターに両手を付いた。
「東京行を一枚くれ」
どうして二枚と言わなかったのか。喧嘩をしたとは言え長年連れ添った阿吽の呼吸である。田岸は寂しくなった。駅員は安中を無視した。
「すいません、東京行を二枚ください」
「田岸君」
安中はこの場において義理立てする田岸に驚いた。そして恥じた。
「二枚は駄目です」
駅員が一枚を差し出した。安中が奪い取るように切符を掴んで改札を抜けた。売り場のシャッターが下がる。田岸は諦めた。違法と知っていながら帳簿に記載することを認めていた。50歩100歩とはこのことだと田岸は覚悟した。この下りホームに残り、首が肩に沈んで、足が尻に吸収されて、達磨になって公安の餌となる運命。それも仕方にない。
「気を付けてくださいよ、階段」
田岸が線路を渡る安中に声を掛けた。
「ああ、ありがとう。必ず迎えに来るからな」
安中は多少後ろめたいが田岸に嘘を吐いても東京に戻りたい。
「もう惚けは止めてくださいよ」
「ああ、君の忠告通り記載する」
安中が線路を渡り切り階段に足を掛けたとこで顔面をおもいきり蹴飛ばされた。頭を強く打って起き上がれない。首を振って意識を正常に戻した。
「何をする公安の下っ端が、総監に言って首にするぞ」
安中は立ち上がりながら公安に言った。そしてまた階段を上がり出した。3段、4段、もう一段でホームである。脅しが効いたと安中がほくそ笑んだ。
「こーらっ」
今度はおもいきり胸を蹴飛ばされた。階段を転げ落ち下りホームの煉瓦に頭をぶつけた。田岸が線路に降りて安中を介抱する。
「おい君、あいつを何とかしなさい、あいつは私をこの駅に蹴り戻した。君があいつを押さえているうちに私はホームに駆け上がり電車に乗り込む。さあ、何をしている、あいつを押さえ付けろ」
田岸は安中を抱え上げて起こした。そして頷いて公安に飛び掛かる。
「まだ分からんのか?」
殴り掛かる田岸に公安が言った。田岸は我に返った。もしかしてあの切符は自分の物なのか。公安が線路に降りて安中の腕を捩じ上げ切符を取り上げた。そして今度は腹を蹴り上げた。
「お前は蹴られて戻る運命だ。これがほんとのキックバック」
公安が自分の洒落に笑った。ぷあーんと警笛がなった。靄の向こうに列車が見えて来た。夢地運転士が二度三度と警笛を鳴らす。
「大臣、早く逃げて」
田岸が叫ぶ。列車がホームに滑り込む。下竹が安中を引っ張り上げようとしたが力不足。
「中田大臣、丸金幹事長」
下竹がベンチに声を掛けた。7割方達磨になった二人がベンチから飛び降りて下竹を手伝う。列車すれすれに安中をホームに引き摺り上げた。
「大丈夫か安中?」
安中は頷いた。
「私はどうなるんでしょうか?」
「一度惚けたら惚け通すのが我等政治家の運命だよ。永遠の惚けこそ美学だ。安中君、惚け駅にようこそ。ですよね中田大臣?」
下竹が中田に振った。
「う~ん、まあそのう、あれだね君。そう言うことだ。戻ってもわしの娘がただじゃおかない」
中田が嗄れ声で答えた。列車の中からその光景をずっと見ていた田岸は寂しさを感じた。自分は東京に戻っていいのだろうか、安中を守るのが自分の使命ではないのか。報酬も他の秘書に比べれると雲泥の差がある。自分を特別な存在と認めてくれた証である。生涯を捧げると誓った書生時代から師と仰いできた男が達磨に囲まれてもがいている。
「出発進行」
夢地運転士の細く通る声に公安が敬礼した。ドアが閉まる寸前に田岸は飛び降りようとドアの閉まりを両手で止めた。野辺地車掌が田岸の肩を押さえた。
「行かせてくれ、俺の宿命だ。あの男を放ってはいけないんだ」
野辺地車掌は微笑んで首を横に振った。
「宿命は東京に戻ることです」
ドアを押さえた手が床まで滑り落ちた。ドアが閉まる。列車が走り出す。公安の男が直立不動で敬礼した。
了
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