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回想電車『三途と東京』
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東京駅横須賀線ホーム、最終電車が走り去った。乗り遅れた酔っ払いがぶつぶつ独り言を言いながら地下から這い上がる長いエスカレーターの手摺に身体を凭れた。警備員が確認しながらエスカレーターに乗る。誰もいなくなったホームに一輌の赤茶けた列車が入って来た。新橋寄りの端に停車した。運転士が降りて伸びをしている。車掌が降りて肩を回した。二人は車輛中央部で会釈した。
「これまでありがとうございました夢地さん」
「こちらこそ野辺地さんにはお世話になりました」
五年間相棒を務めた二人の任期がこの下り三途行きで切れる。運転士の夢地は爆弾犯としてずっと逃亡を続けていた。五年前に回想電車に乗り込んでこの仕事に就いた。三途から地獄に落ちるか娑婆で地獄を待つか五年間の猶予を公安から指示された。野辺地車掌は通り魔で三人の若い女を殺して逃げていた。やはりこの列車に乗り込み、公安に捕まった。本来即三途行きだが反省の念があり五年の猶予を与えられた。二人は五年間毎日一緒に乗務しているがほとんど口を聞いたことがない。この下りが最後の乗務。
「夢地さんはどうされますか?」
「私は三途に行きます。そのまま川を渡り地獄に行くことにしました。達磨になっても一生追われるだけですからね。万が一しつこい刑事がここまで辿り着いて、達磨石になった私を抱え上げて、悪いことをするとこんな姿になっちゃうってテレビの前に出されちゃ故郷のご先祖様に申し訳ない」
「そうですか、でも地獄は辛いらしいですよ、去年冤罪と判明して地獄門の前から戻った男がいたでしょ。その男は中を覗いたらしいですよ」
「中を?何て言ってました」
「聞かない方がいいと思いますが」
「いえ、是非教えてください」
「そうですか、それじゃ言います。でっかいヴァギナが出迎えるそうです。地獄人の第一歩はその掃除から始まるらしいです」
「大きいってどれくらいですか?」
夢地は指でホールを描いた。
「いやいや、そんな次元じゃありません。人が数人は入れるぐらいの大きさです。カスの溜まったヴァギナの奥まで舐めてきれいにするらしい。それに臭い液体が染み出てくるらしいです。大概はその臭いで酸欠を起こして倒れてしまう。その繰り返しを数年重ねてやっとヴァギナを通過するらしいです」
野辺地の話に夢地は決断が揺らいだ。多少盛っての話だろうが夢地を悩ませるには充分だった。地獄絵の地獄を想像していた夢地。爆弾で素っ飛んだ家族の思いと比べればそれぐらい当然の報いだと諦められる。だがヴァギナ掃除は屈辱である。
「さすが地獄ですね」
痛いとか熱いとか寒いとか、そんな報いならしっかり受けるつもりでいた。だが地獄はそんなに甘くない。屈辱を味わう毎日、虐められるより虐めた後悔が続く毎日。嘘を吐いて吐き通し、相手がその嘘を信じていると勘違いしている毎日。耐えられるだろうか、夢地は息を吐いた。
「そろそろ発車です」
野辺地が時計を見た。
「ところで野辺地さんはどうするんですか?」
「私ですか、私は娑婆に戻って逃げ続けます」
「それじゃ罪の念が抜けない。上りの切符が買えないじゃありませんか?」
「考えがあります。内緒ですよ」
野辺地は人差し指を口に当てた。
「出発進行」
今日は客がいない。二人だけの最後の下り。三途駅では交代要員が待機している。野辺地は新車掌に成り済まし東京で降りるつもりである。常に公安に見張られている。この五年で公安の死角を発見した。三途駅から上りが発車するまでの五分間、改札を超えて列車に飛び乗ろうとする三途人を監視している。その間に新車掌と交代する。有無を言わせない、車掌鞄の持ち手で首を絞めるだけ。列車はススキの原っぱを超えて湿地に入った。三途通りである。
「三途、三途~」
野辺地の声が夢地にも届いた。まだ決心が付かない。三途駅のホームに滑り込む。ホームには三途人《さんずびと》に喰われた達磨人の死骸がいくつも転がっている。改札の外には|三途人が折り重なるように口を開けて立っている。改札の中には公安が、改札の外には鬼がいる。改札を出れば三途の河原、川を渡るに渡れない三途人で溢れている。列車が停車した。三途人は客がいないと知り諦めて散っていく。
「夢地さん、交代まではいるんでしょ?」
「ええ、帽子と三途時計を直接手渡すのが慣例と聞いています」
懐中時計を掌に持った。
「ひとつお願いがあります。何も見ないことにしてください。五年間あなたの相棒を務めた男の一生のお願いです」
夢地は頷いた。上り発車まで15分ある。改札を抜けて制服を着た若い男が二入歩いて来る。
「あいつらですね」
「ああ、あの背の高い男は一家四人を惨殺して逃げている男ですよ」
「ああ私も知っています。背の低いもうひとりはパチンコ屋で子供を誘拐した男ですね。やっぱり逃げ場所は回想電車しかないんですね」
「逃げ場所?私はそうは思いません。最終的には罪を償うとこだと思います。達磨になって一方向を見続け永遠の反省を続けるか、または罪を認め、三途の川を渡り地獄に進む。この二択が我等逃亡者の運命じゃありませんか?」
「夢地さんは真面目ですね。でももうひとつあります。娑婆に戻り逃げ続けることです。逃げ続けて我等の犯した罪の芽を大衆に思い知らせることです。確かに人殺しの私に一理の正義もありません。だけど貧しくて、虐められて、省かれてきた道程を分かって欲しい。どうして修学旅行に行けないのか、どうして弁当が無いのか、だからといってそんなことは放っておいて欲しかった。私が殺した女三人は中学の同級生です。私と擦れ違うときに鼻をつまんでいました。行き過ぎると『くっさい』と一言、笑い転げていました。どうして普通に通り過ぎてくれない、知らん振りしてくれればそれで幸せだった。私はまだ反省などしていません。こんな私を作り上げた社会の歪、これからも私みたいな人間が復讐を続けていくでしょう。そのために私は逃げ通すんです」
「でも野辺地さんは五年間の車掌を勤め上げた。悲しく切ない乗客にやさしかった。あなたにはもう復讐心など微塵も感じられません」
夢地は本心である。
「お疲れ様です」
二人の男が挨拶した。
「お願いします」
夢地が帽子と三途時計を渡した。
「先輩に伺います。五年で変わりましたか?」
四人惨殺犯の男が訊いた。
「変わりません何も。罪の重さが増しただけです。ただ増したことで地獄行きを決意しました」
男が頷いて帽子を被った。三途時計をポケットに仕舞った。
「野辺地さん、その鞄をはよう貸してんか?もう時間やで」
誘拐犯が野辺地に催促した。
「車掌室を案内します。ドアの開け閉めに癖があるので」
野辺地が誘拐犯を車掌室に呼び込んだ。
「それじゃ」
「ああ、それじゃ」
夢地が新運転士を見送る。夢地は改札に向かいながら車掌室を覗いた。首に鞄の持ち手を巻かれた男が倒れている。
「発車します」
野辺地がウインクをした。夢地は見ぬふりをして改札に向かう。公安の男が夢地に襲い掛かる三途人を追い払う。改札を出ると鬼が夢地の前に立った。鬼は棍棒を振り回し夢地に近寄る三途人を撲殺する。夢地は川に入る。深さは無いが流れが速い。渡り切るとヴァギナの門が開いた。蟹のエラのようなビラビラが揺れている。
「舐めろ」
鬼にどつかれる。ひと舐めしてすぐに気を失った。
「舐めろ」
これが罪償い。舌がすり減りなくなるまで続く。
足元に新車掌が転がっている。客が車掌室を覗き込まない限り見つかることはない。仮に見られたとしても動じることはない。東京駅に降りてエスカレーターを駆け上がれば地上に出る。グランドレベル以上は公安も追って来れない。
「出発進行」
新運転士の声色で発車した。野辺地は安堵のため息を吐いた。これでもう一度地上に戻る。たまに情報を流し、逃亡していることを世間に知らしめる。逃げて逃げて逃げ続ける。交番に貼られた手配の写真は永遠に剝がされることはない。三途駅を発車して諦め、逃げ、化かし、惚け、逸らしの各駅を定刻通りに発車した。幸い客はいない。
「迷い、迷い~」
ずっとおかしいと新運転士は感じていた。声が違う。こんなきれいな標準語ではない。新車掌の声は関西訛だしだみ声である。野辺地も最後の駅と油断して大きな声で案内してしまった。迷い駅でドアが開くと同時に飛び乗ろうとした男がいる。身体が半分車内に入った時に公安の男に首根っこを掴まれた。
「ここで、何をしている」
「俺は帰らなきゃならないんだ」
「切符は?」
「売ってくれない。なあ、ほら、ここに現金がある。これをやるから見逃してくれ」
男は札入れを公安に差し出した。
「こんなものは地下では通用しない」
公安は札入れを丸めて男の口に押し込んだ。
「お前は拘束する。下り列車で迷い駅からバスで行く」
公安は男を摘まんだまま列車に乗り込んだ。
「出発進行」
列車が走り出す。公安の男は捕まえた男の手を吊り革に通した。右手左手を吊り輪に通し、手首を紐で結わき付けた。そして口に突っ込んだ札入れを抜いた。
「助けてくれ。俺はわざわざ知人を助けに来ただけなんだ。それがこんなことになってしまった。なあ、車掌さん聞いてくれ」
男は大声で車掌に話し掛けた。
「俺の名前は橘次郎、八重洲地下のカレー屋に午後三時に行ってくれ。斎藤と言う男が来るはずだ。そいつに助けに来るように伝えてくれ。お願いだ」
また札入れを突っ込まれた。公安の男が運転席に指示を伝えに行く。
「あの男を下りに乗せて迷いで降ろす」
新運転士は頷いた。そしてモノあり気な目で公安の男を見た。
「どうかしたか?」
「車掌の声が違う」
列車は東京駅に近い。列車が地下水の滝を浴びている。そして擁壁が開いた。野辺地の視覚に公安の男が入った。列車が擁壁を抜けた。
「東京、東京~」
伸びやかな声で案内する。ドアが開いて野辺地が飛び降りた。そして走る。電源の入っていないエスカレーターを二段跳びで駆け上がる。公安の男が追い掛ける。公安の男の手が野辺地の足首に触れた。
「ああっ」
驚いたのはエスカレーターの帯に雑巾を当てている清掃員だった。
「助けてくれ」
野辺地が地上階に駆け上がった瞬間公安の男が消えた。野辺地は逃げ切ったことに安堵して笑ってしまった。八重洲の改札に向かうがまだシャッターが閉まっている。構内の改修工事を終えた作業員の後ろに付いて仮囲いから外に出た。五年振りの娑婆の空気。グランルーフに上がるエスカレーター。時間外で入れない。チェーンを飛び越えて駆け上がる。先客がいた。段ボールを被って寝ている。警備員も知らん振りを決め込んで素通りする。数人の話し声が聞こえる。日本語ではない。三人の男が段ボールに近付いた。その中の一人が段ボールを蹴飛ばした。段ボールが蠢いた。三人は面白がって蹴りを続ける。段ボールの中からうめき声が聞こえた。
「止めなさい」
野辺地はどうしてそんなことを言ってしまったのか自分でも不思議だった。以前なら面白がって応援していた。
「死んでしまう。止めなさい」
三人の外国人が話し込んでいる。
「大丈夫ですか?」
段ボールをそっと開く。達磨人が震えていた。
了
「これまでありがとうございました夢地さん」
「こちらこそ野辺地さんにはお世話になりました」
五年間相棒を務めた二人の任期がこの下り三途行きで切れる。運転士の夢地は爆弾犯としてずっと逃亡を続けていた。五年前に回想電車に乗り込んでこの仕事に就いた。三途から地獄に落ちるか娑婆で地獄を待つか五年間の猶予を公安から指示された。野辺地車掌は通り魔で三人の若い女を殺して逃げていた。やはりこの列車に乗り込み、公安に捕まった。本来即三途行きだが反省の念があり五年の猶予を与えられた。二人は五年間毎日一緒に乗務しているがほとんど口を聞いたことがない。この下りが最後の乗務。
「夢地さんはどうされますか?」
「私は三途に行きます。そのまま川を渡り地獄に行くことにしました。達磨になっても一生追われるだけですからね。万が一しつこい刑事がここまで辿り着いて、達磨石になった私を抱え上げて、悪いことをするとこんな姿になっちゃうってテレビの前に出されちゃ故郷のご先祖様に申し訳ない」
「そうですか、でも地獄は辛いらしいですよ、去年冤罪と判明して地獄門の前から戻った男がいたでしょ。その男は中を覗いたらしいですよ」
「中を?何て言ってました」
「聞かない方がいいと思いますが」
「いえ、是非教えてください」
「そうですか、それじゃ言います。でっかいヴァギナが出迎えるそうです。地獄人の第一歩はその掃除から始まるらしいです」
「大きいってどれくらいですか?」
夢地は指でホールを描いた。
「いやいや、そんな次元じゃありません。人が数人は入れるぐらいの大きさです。カスの溜まったヴァギナの奥まで舐めてきれいにするらしい。それに臭い液体が染み出てくるらしいです。大概はその臭いで酸欠を起こして倒れてしまう。その繰り返しを数年重ねてやっとヴァギナを通過するらしいです」
野辺地の話に夢地は決断が揺らいだ。多少盛っての話だろうが夢地を悩ませるには充分だった。地獄絵の地獄を想像していた夢地。爆弾で素っ飛んだ家族の思いと比べればそれぐらい当然の報いだと諦められる。だがヴァギナ掃除は屈辱である。
「さすが地獄ですね」
痛いとか熱いとか寒いとか、そんな報いならしっかり受けるつもりでいた。だが地獄はそんなに甘くない。屈辱を味わう毎日、虐められるより虐めた後悔が続く毎日。嘘を吐いて吐き通し、相手がその嘘を信じていると勘違いしている毎日。耐えられるだろうか、夢地は息を吐いた。
「そろそろ発車です」
野辺地が時計を見た。
「ところで野辺地さんはどうするんですか?」
「私ですか、私は娑婆に戻って逃げ続けます」
「それじゃ罪の念が抜けない。上りの切符が買えないじゃありませんか?」
「考えがあります。内緒ですよ」
野辺地は人差し指を口に当てた。
「出発進行」
今日は客がいない。二人だけの最後の下り。三途駅では交代要員が待機している。野辺地は新車掌に成り済まし東京で降りるつもりである。常に公安に見張られている。この五年で公安の死角を発見した。三途駅から上りが発車するまでの五分間、改札を超えて列車に飛び乗ろうとする三途人を監視している。その間に新車掌と交代する。有無を言わせない、車掌鞄の持ち手で首を絞めるだけ。列車はススキの原っぱを超えて湿地に入った。三途通りである。
「三途、三途~」
野辺地の声が夢地にも届いた。まだ決心が付かない。三途駅のホームに滑り込む。ホームには三途人《さんずびと》に喰われた達磨人の死骸がいくつも転がっている。改札の外には|三途人が折り重なるように口を開けて立っている。改札の中には公安が、改札の外には鬼がいる。改札を出れば三途の河原、川を渡るに渡れない三途人で溢れている。列車が停車した。三途人は客がいないと知り諦めて散っていく。
「夢地さん、交代まではいるんでしょ?」
「ええ、帽子と三途時計を直接手渡すのが慣例と聞いています」
懐中時計を掌に持った。
「ひとつお願いがあります。何も見ないことにしてください。五年間あなたの相棒を務めた男の一生のお願いです」
夢地は頷いた。上り発車まで15分ある。改札を抜けて制服を着た若い男が二入歩いて来る。
「あいつらですね」
「ああ、あの背の高い男は一家四人を惨殺して逃げている男ですよ」
「ああ私も知っています。背の低いもうひとりはパチンコ屋で子供を誘拐した男ですね。やっぱり逃げ場所は回想電車しかないんですね」
「逃げ場所?私はそうは思いません。最終的には罪を償うとこだと思います。達磨になって一方向を見続け永遠の反省を続けるか、または罪を認め、三途の川を渡り地獄に進む。この二択が我等逃亡者の運命じゃありませんか?」
「夢地さんは真面目ですね。でももうひとつあります。娑婆に戻り逃げ続けることです。逃げ続けて我等の犯した罪の芽を大衆に思い知らせることです。確かに人殺しの私に一理の正義もありません。だけど貧しくて、虐められて、省かれてきた道程を分かって欲しい。どうして修学旅行に行けないのか、どうして弁当が無いのか、だからといってそんなことは放っておいて欲しかった。私が殺した女三人は中学の同級生です。私と擦れ違うときに鼻をつまんでいました。行き過ぎると『くっさい』と一言、笑い転げていました。どうして普通に通り過ぎてくれない、知らん振りしてくれればそれで幸せだった。私はまだ反省などしていません。こんな私を作り上げた社会の歪、これからも私みたいな人間が復讐を続けていくでしょう。そのために私は逃げ通すんです」
「でも野辺地さんは五年間の車掌を勤め上げた。悲しく切ない乗客にやさしかった。あなたにはもう復讐心など微塵も感じられません」
夢地は本心である。
「お疲れ様です」
二人の男が挨拶した。
「お願いします」
夢地が帽子と三途時計を渡した。
「先輩に伺います。五年で変わりましたか?」
四人惨殺犯の男が訊いた。
「変わりません何も。罪の重さが増しただけです。ただ増したことで地獄行きを決意しました」
男が頷いて帽子を被った。三途時計をポケットに仕舞った。
「野辺地さん、その鞄をはよう貸してんか?もう時間やで」
誘拐犯が野辺地に催促した。
「車掌室を案内します。ドアの開け閉めに癖があるので」
野辺地が誘拐犯を車掌室に呼び込んだ。
「それじゃ」
「ああ、それじゃ」
夢地が新運転士を見送る。夢地は改札に向かいながら車掌室を覗いた。首に鞄の持ち手を巻かれた男が倒れている。
「発車します」
野辺地がウインクをした。夢地は見ぬふりをして改札に向かう。公安の男が夢地に襲い掛かる三途人を追い払う。改札を出ると鬼が夢地の前に立った。鬼は棍棒を振り回し夢地に近寄る三途人を撲殺する。夢地は川に入る。深さは無いが流れが速い。渡り切るとヴァギナの門が開いた。蟹のエラのようなビラビラが揺れている。
「舐めろ」
鬼にどつかれる。ひと舐めしてすぐに気を失った。
「舐めろ」
これが罪償い。舌がすり減りなくなるまで続く。
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「出発進行」
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「迷い、迷い~」
ずっとおかしいと新運転士は感じていた。声が違う。こんなきれいな標準語ではない。新車掌の声は関西訛だしだみ声である。野辺地も最後の駅と油断して大きな声で案内してしまった。迷い駅でドアが開くと同時に飛び乗ろうとした男がいる。身体が半分車内に入った時に公安の男に首根っこを掴まれた。
「ここで、何をしている」
「俺は帰らなきゃならないんだ」
「切符は?」
「売ってくれない。なあ、ほら、ここに現金がある。これをやるから見逃してくれ」
男は札入れを公安に差し出した。
「こんなものは地下では通用しない」
公安は札入れを丸めて男の口に押し込んだ。
「お前は拘束する。下り列車で迷い駅からバスで行く」
公安は男を摘まんだまま列車に乗り込んだ。
「出発進行」
列車が走り出す。公安の男は捕まえた男の手を吊り革に通した。右手左手を吊り輪に通し、手首を紐で結わき付けた。そして口に突っ込んだ札入れを抜いた。
「助けてくれ。俺はわざわざ知人を助けに来ただけなんだ。それがこんなことになってしまった。なあ、車掌さん聞いてくれ」
男は大声で車掌に話し掛けた。
「俺の名前は橘次郎、八重洲地下のカレー屋に午後三時に行ってくれ。斎藤と言う男が来るはずだ。そいつに助けに来るように伝えてくれ。お願いだ」
また札入れを突っ込まれた。公安の男が運転席に指示を伝えに行く。
「あの男を下りに乗せて迷いで降ろす」
新運転士は頷いた。そしてモノあり気な目で公安の男を見た。
「どうかしたか?」
「車掌の声が違う」
列車は東京駅に近い。列車が地下水の滝を浴びている。そして擁壁が開いた。野辺地の視覚に公安の男が入った。列車が擁壁を抜けた。
「東京、東京~」
伸びやかな声で案内する。ドアが開いて野辺地が飛び降りた。そして走る。電源の入っていないエスカレーターを二段跳びで駆け上がる。公安の男が追い掛ける。公安の男の手が野辺地の足首に触れた。
「ああっ」
驚いたのはエスカレーターの帯に雑巾を当てている清掃員だった。
「助けてくれ」
野辺地が地上階に駆け上がった瞬間公安の男が消えた。野辺地は逃げ切ったことに安堵して笑ってしまった。八重洲の改札に向かうがまだシャッターが閉まっている。構内の改修工事を終えた作業員の後ろに付いて仮囲いから外に出た。五年振りの娑婆の空気。グランルーフに上がるエスカレーター。時間外で入れない。チェーンを飛び越えて駆け上がる。先客がいた。段ボールを被って寝ている。警備員も知らん振りを決め込んで素通りする。数人の話し声が聞こえる。日本語ではない。三人の男が段ボールに近付いた。その中の一人が段ボールを蹴飛ばした。段ボールが蠢いた。三人は面白がって蹴りを続ける。段ボールの中からうめき声が聞こえた。
「止めなさい」
野辺地はどうしてそんなことを言ってしまったのか自分でも不思議だった。以前なら面白がって応援していた。
「死んでしまう。止めなさい」
三人の外国人が話し込んでいる。
「大丈夫ですか?」
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