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浦賀発最終列車
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ドックのクレーンは青白く、両岸を切り裂く鉈のようだ。
僕が浦賀駅に降りたのは三年ぶりだった。おばあちゃんが三年前に八二歳で死んで、今日が三回忌だった。三回忌といっても大袈裟な法要はしない。お祭り好きのおばあちゃんにはふさわしくない、だから例年通り子や孫が集まってお祭りを楽しめば、天国のおばあちゃんも喜ぶし、それが唯一の供養になると、やはりお祭り好きの母を始め家族が勝手な解釈をして決めた。
「照子さん、良男君は来るの?」
「来るに決まってんじゃんあの祭り好きだもの、おばあちゃんが亡くなってから自分なりに喪に服すとかって言って、お神輿かつぐの三年も我慢してたんだから。さっき堀の内に着いたって電話あったからもう着くんじゃない」
浦賀は母方の実家だ。おじいさんは僕が生まれるずっと前にドックの事故で死んでしまった。母さんが嫁いでからはおばあちゃんと長男の真吉伯父さんとの二人暮しだった。
毎年九月の第二日曜日が浦賀のお祭りで、我が家はその前日から家族総出で浦賀に行っている。僕は当時中学三年生で、その日も遅くまで町は賑わっていた。おばあちゃんも若い衆に交じり一緒にはしゃぎまわっていた。お祭りが終わり『桟橋に涼みにいこう』とおばあちゃんの誘いで浦賀の渡しの桟橋に行き腰をおろした。僕もおばあちゃんの隣に腰掛け対岸を見つめた。そして『少し疲れた』と言って僕の肩におばあちゃんがもたれた。
各町内の神社に神輿や山車が納まってしまうと、なにもなかったかのようにいつもの静かな浦賀に戻った。海ほたるの群れが海岸沿いを青い光で埋め尽くしていた。公団の、本当は出てはいけないセットバック部分で、暑いから夕涼みしようといって父さんと仰向けに寝そべって見た星の瞬きよりきれいだった。そしておばあちゃんは眠るように死んでしまった。おばあちゃんが最後に僕に言った言葉は、
『いいか良坊、その話は誰にも喋っちゃ駄目だぞ』
だった。
「あっ来た、遅いじゃないの何やってたの、半纏用意してあるからお神輿追いかけなさい、あっ麻子さん、椎茸しょっぱくない?ちょっと味見してみて」
母さんは宴の準備に追われ、台所から顔も出さずに言った。
「しょうがないじゃん、クラブ抜けられないんだもん」
「あら、お祭りより部活を優先するなんて、死んだおばあちゃん悲しむよ。三年間喪に服し、飯より大好きなお神輿我慢してたんだから、一日ぐらい部活サボったって誰も叱ったりしないよ」
「そうよ良男ちゃん、好きなことはおもいっきり楽しんだ方がいいわよ。来年からは学校休んじゃいなさい、あっそうか、大学だからいつでも休めるわね」
麻子さんは僕等が住んでいる横浜の団地の人で、活発な母と波長が合うらしく、お互いに行き来を重ね、最近では浦賀の実家でも欠かせないメンバーになっていた。
「うっ、しょっぱい、味直しましょう」
母は、僕がお祭り好きで、お神輿をかつぎたくてしょうがないものと最初から決めつけてかかっているがそうではない。まだ中学一年のときに、僕がお神輿をかつぐ姿をおばあちゃんが嬉しそうに見ていたから、喜ばせてあげようと手を振ってそれに応えたのがいけなかった。
『良男は竹田家の血を引いてるだけあって、お祭りになると身体中の血が煮えたぎって、もうかつがなけりゃあいられないようになっちまうんだよ』
このおばあちゃんの一言が親戚中に、いや町内の人達に誤解を招く結果となってしまったのだ。それから毎年かつがされるはめになってしまった。本当はお祭りに興味はなく、お神輿もただ肩が痛いだけで、工事現場へアルバイトに行ったとき、鉄パイプをかついで運ぶのとまったく変わりがなかった。しかしそんなことを言っておばあちゃんが悲しむ顔を見たくないから我慢してここまで付き合ってきた。
「良男、先におじいちゃんとおばあちゃんにお線香あげてきなさい」
「姉ちゃんは?」
「陽子さんね、うちのひとと一緒に来るって、どうしても今日じゃなきゃお風呂に入れないおじいさんが磯子にいてね、終わったらすぐに来るって。三時前には来れるんじゃないかな。ささっと洗って終わりにしちゃうって言ってから」
麻子さんのご主人は介護関係の会社を経営していて、そこで姉さんは働いている。会社といっても麻子さんと姉さんの三人しかいなくて、マイクロバスを改造した移動浴槽で、要介護のお年寄りをお風呂に入れる仕事をしている。
二階の仏間には僕の知らないおじいさんと、大好きだったおばあちゃんの写真がぴったりとくっつけて並べてあった。今日はおばあちゃんにとって特別な日で、おじいさんは見ない方がいい日だから写真を少し離した。そしておばあちゃんの写真だけを海の方に向けた。窓からはかすかな潮の香りが風向きの変化によって仏間に入りこんだ。対岸の東叶神社の幟が小さく揺れて見えた。三年前ここで、この部屋の窓からおばあちゃんと見た風景となにひとつ変わらなかった。
「おう、やっぱりここがいい、自然の風が一番涼しい。あたしは足が悪いから下の応接間にいるとクーラーの風が当たってつらいんだよ。この潮風が最高だ」
おばあちゃんはそう言うと仏壇のおじいさんに手を合わせ、何かぶつぶつと話しかけて遺影を少し動かした。今まで海方向を向いていたおじいさんが背中を向けた。
「良坊、お神輿追いかけなくてもいいのかい?」
「うん、おばあちゃんは?」
「少し足が痛いから昼間はやめておいて晩になったら浦賀駅からのパレードを見に行こう。山車の引き手が足りねえって真吉が言ってたから協力してやるべ」
真吉伯父さんはおばあちゃんの一人息子で、母の兄である。もう六十を過ぎたが独り者でいる。どうして独りでいるのかはわからないが、誰もそのことを口にしない。興味はあるが僕も訊くことを控えている。真吉伯父さんは旧国鉄の職員で、現在はその関連の運送会社で大型トラックに乗っている。長距離便で行った先々から産地の名物を贈ってくれる、うちとしてはとてもありがたい存在の人である。姉さんなんか真吉伯父さんの出先を予め調べておいて催促までしている。そうするとリクエストしたものがダンボール箱に詰められて贈られてくる。
「僕も晩にかつぐよ」
「いいんだよおばあちゃんに付き合わなくても、年にいっぺんしかないんだからおもいっきり楽しんできなさい、良坊の大好きなお神輿なんだから。それにまだ真吉に会ってないんだろう、喜ぶから顔見せてあげな」
おばあちゃんは海を見て言った。いつもと違いどこか元気がないような気がしたが、もう八十二歳になるわけで、失礼な話だけどもう死んでもおかしくない年で、年々体力が衰えていくのは自然のことだと思って特に気にしなかった。
「うん、じゃあ伯父さんに顔見せてくる」
外を見ると渡し船が対岸に着いたところであった。日曜日とあって観光客が七~八人乗っていた。
「まーちゃんも今日は稼ぎどきだ」
「おばあちゃん、あの船長さん知ってるの?」
「ああ、ようく知ってる。叔父さんそっくりになった」
風が強く、跳ねた波がきらきらとまぶしい。東叶神社の幟も激しく風になびいていた。階段を下りる途中から徳山さんの声が聞こえた。隣町のひとだが、毎年お神輿がうちの前を通過するときに、お神輿から振り払われるようにうちに立ち寄って行く。そしてそのまま居座り、晩に行われる浦賀からのパレードまで酒盛りをしている。
「おう、良男君来ていたのかね、そりゃあそうだな、君みたいなお祭りやろうが来ないはずがない、もうお宅の神輿は浜の方に行ってしまったよ、駄目だなあそんなことじゃあ、あれか?やっぱり横浜で暮らしているからこの神聖な行事を遊びと考えているんじゃないのか?よくないなあこのお祭りやろうが。そういうことじゃよくない。そうだこっちに引っ越してきなさい。それがいい、僕から玲子さんにお願いしておくから。ところで雅子さんは?」
もう徳山さんは相当酔っていた。父さんも麻子さんのご主人の恒三郎さんも徳山さんの酒豪と、それに比例して機関銃のように喋りまくる性格はよく知っているので相槌を打つぐらいでうまくかわしている。母さんも麻子さんも徳山さんのコップが空になっても全然気にしないで晩の宴の準備をしている。毎年勝手に上がり込んでくるのでお客とは考えていないようだ。
「さあ、乾杯しましょう、年に一度のお祭りです、さあさあ」
徳山さんが一升瓶を傾けてお父さんと恒三郎さんに酒を勧める。当然空になった徳山さんのコップにもどちらかが注ぎ返す。この乾杯が晩まで続く。徳山さんがお父さん達より一枚も二枚も上手だ。
「良男君はまだ飲むわけにはいかないだろうなあ、でも高校生になれば飲み始めるんだろなあ、このざるのようなお父さんの血を引いているんだからなあ、ところで雅子さんは?」
『ざるはあんただ』と言わんばかりに父さんは舌打ちをした。徳山さんはおばあちゃんのことが気になるようで、僕に話しかけるたびにおばあちゃんのことを訊いた。
「おばあちゃんは二階で休んでいます」
「足の具合でも悪いのかい?」
「ええ、晩に山車を引きに行くからそれまで」
「横になっているのかい?」
「いえ、僕が下りてくるときは窓辺で海を見ていました。渡し船の船長さんを知っているとかって言ってずっと見ていました」
「そうかい、雅子さんは海を見ていなさるかねえ、渡し舟をねえ」
徳山さんは合点がいったように何度も頷いていた。
「さあ、乾杯しましょうか」
完全に徳山さんのペースに嵌められて、おとなしい二人は仕方なくグラスを傾け、そしてそのお返しをさせられていた。
「母さん、お神輿かつぎに行ってくる」
「半纏、玄関にかけてあるから、間違えないでよ、おまえのやつは肩が薄くなっているから」
僕は半纏を小脇に抱え浜の方に向かった。西叶神社の参道には屋台が並んでいる。近所の人やお祭り見物に来た人達で賑わっている。お神輿のかつぎ手は上下揃いの白装束や、ふんどしに半纏とか、それぞれがそれらしい格好をしているのに、僕は半ズボンに横縞模様のTシャツである。足元は古いビーチサンダルで、走ったりすると鼻緒が抜けることがある。なかなか半纏を羽織るタイミングがつかめないでいた。うちを出るときに羽織ってしまわなかったことを後悔した。それに真吉伯父さんに見つかる前に羽織らないと、裏切るようで悪いような気がした。
真吉伯父さんは残暑厳しい炎天下にもかかわらず紋付袴の正装でお神輿のずっと前の方を歩いている。伯父さんのすぐ後ろにはお化粧をした稚児さんが二人、絣の着物を着て歩いている。たぶん僕と同じ中学生ぐらいかと思うけど、二人とも帯にポケベルを差し込んでいた。
「伯父さん、こんにちは」
「おう、良坊、来てたのか、挨拶はあとでいいから、早く神輿に入んな、みんなおめえのことは知ってんから遠慮することはねえ、もし誰かにいじめられたらすぐに知らせろよ、おじさんが拳骨くれてやるから、ところでばあちゃんは一緒に来なかったのか?」
「はい、少し足が痛むから休憩するって。晩には山車を引きに駅まで行くそうです」
「そうか、足が痛むってか、うんわかった。ほらかついでこい。うずうずしてんだろう」
僕は伯父さんに一礼してお神輿に近づいた。あいにくというか幸いというか、縦棒も横棒もぎっちりと詰まっていて僕の入る余地はなかった。それにお神輿の周りには威勢のいいおじさんやお兄さん達がうろついていて、傍に寄るだけでもはじかれそうだった。僕はこのまま帰ろうかと思って後ろを振り向くと、伯父さんがこっちを見ていた。僕が照れ笑いをすると、稚児さんになにか話しかけてこっちに向かってきた。
「おい、こいつ俺の甥っ子だあ、面倒看てやってくれ、ばあさんの血を引いてんから神輿馬鹿もいいとこでよう、三度の飯より神輿が好きで、毎年横浜からわざわざ来てんだ。な、頼むな」
伯父さんが半径五十メートルは届くような大声で言ってくれた。かつぎ手は勿論のこと、周囲のひと全員の視線が僕に集中しているのがわかった。ものすごく恥ずかしかった。
「ほら甥っ子、ここ入れ」
はな棒をかついでいたモヒカン刈りのお兄さんが、僕のために譲ってくれた。『違うんです。おばあちゃんも、真吉伯父さんもみんな勘違いしているんです。僕はお神輿なんてそんな好きじゃなくて、お祭りだって、ただうるさいだけだと感じていて、部活でテニスしている方がよっぽど楽しいんです。はい』と言う勇気も度胸もなくて、モヒカン刈りのお兄さんの前に入れられてしまいました。
「おめえ、理事長の甥っ子だって、それじゃあ将来頭はげるな、今のうちにいろんなヘアースタイル楽しんでおけよ、ははは」
どうして伯父さんがはげだから僕もはげるのか理解できなかったが、モヒカンはひとりで受けていた。
「ほうりゃあ、甥っ子、ほうりゃあ、甥っ子、ほうりゃあ、甥っ子」
モヒカンの掛け声に、かつぎ手みんなが笑いながら呼応した。爆笑の渦が観客にまで広まった。僕は、はな棒というメインステージに立たされ、観衆の晒し者になっていた。
『ほうりゃあ、甥っ子』の掛け声は真吉伯父さんや稚児の女子中学生にまで届き、僕を見て笑っている。それどころか、周囲すべてのひとが僕を見て笑っていた。僕はこのことが、今まで生きてきた中で一番恥ずかしかった。
僕はお神輿が休憩しているときに抜け出した。真吉伯父さんは神主さんと歓談していた。僕は一礼したが気が付かないようだった。でも稚児さんが僕の方を指差して何か言っていた。『あっ、逃げる』と言っているような口の動きだった。
「さあさあ、乾杯しましょう」
うちに戻ると相変わらず酒盛りが続いていて、徳山さんのペースにみんなが嵌っていた。近所のおじさん達も加わり、母さんや麻子さんもその接待に大忙しだった。うちでは料理なんか、いや台所にも滅多に入ったことがないのに、姉さんは前掛けなんかして家庭的な女をアピールしていた。
「ようーっ良男君、かついで来たのかいお神輿、一年ぶりの感触はどうだったかね、また晩にかつぐんだろう。ところで雅子さんは?」
徳山さんの口ぶりでは僕が出たあともおばあちゃんは居間に下りてきていないようだった。
「姉ちゃん、おばあちゃんは?」
「おばあ様はお二階で休んでいらっしゃるは」
いつもなら、『知らねえよ、自分で捜せ』という返事がかえってくる。今年短大を卒業する姉さんと僕は歳が六つ離れていて、子供のときからずっといじめられている。姉さんがおしとやかになる理由はただひとつ、この近所に住んでいる仁さんという青年に夢中だからである。仁さんは真吉伯父さんの片腕となって、町内の神事行事に走り回っている。背が高くて足も長い、目鼻立ちのくっきりとさわやかな笑顔は誰からも慕われている。その仁さんのためだけに姉さんは台所に立っているのだ。
「良男君早かったじゃない、晩にまたかつぐんでしょ」
麻子さんがおたまを片手に言った。
「はい」
「まったく、お神輿しか頭にないんだから、勉強の方もこれぐらい夢中になってくれたらいいのにねえあなた」
ビールを飲みかけていた父さんは母さんに突然振られて咽ていた。
「ああ、ああそうだな」
父さんは、僕がお神輿をそれほど好きじゃないことに気付いている。でもそれを誰にも口外しないでいる。僕がお神輿好きでいれば母さんも機嫌よく、実家との関係も円満に保てるからである。父さんは僕を見て薄ら笑いを浮かべ、『頼むな、我慢してくれや』と暗号を飛ばした。
二階に上がるとおばあちゃんはまだ海を見ていた。観光客のせいでひっきりなしに往復する渡し船を飽きもせず眺めている。僕が後ろに立っていることに気が付いていないと思ったら「良坊ここへお座り」と振り返らずに言ったのでびっくりした。横に座るとおばあちゃんは僕の頭を撫ぜた。観音様のようにやさしい笑顔だった。
「おばあちゃんはな、あの渡し舟に乗ってここに来たんだよ。もう六十五年以上になるかな、真吉が今年還暦だからな」
「向こう側に住んでたの?東叶神社の近くとか?」
おばあちゃんはスローモーションのようにゆっくりと首を横に振った。
「おばあちゃんの生まれたのは山梨県の山の方でなあ、貧しい農家のうちに生まれた。そしてな、父さんや母さん、弟や妹のためにこの町に来たんだよ。生まれて初めて海を見て、あの舟に乗ってなあ」
おばあちゃんが山梨県出身であることはショックだった。もしかしてこのことを知っているのは死んだおじいちゃんと僕だけのような気がした。
「お見合いが成立しておじいちゃんちに来たわけ?」
「おばあちゃんがこの町で働くことによってな、山梨で暮らす親兄弟の生活が、いっときだがよくなったんだよ。それも三年辛抱すれば帰れるって約束があるからおばあちゃん一生懸命働いた。身体を壊して女将さんに迷惑かけたこともあるけど、病気が治るとそれまで以上に働いた」
「女将さんて旅館での仕事だったの、料理を運んだり掃除をしたりとか?」
おばあちゃんはまた僕の頭を撫ぜた。もうそのやさしい笑顔は観音様を超えていた。僕の髪を擦るおばあちゃんの掌から何かが、例えようのない、何か一切の苦痛を取り除いてくれるような、そんなパワーを感じた。
渡し船に八人の客が乗船した。そのうちの六人は観光客で、二人は地元の主婦のようだ。商店の少ない東側から買い物に来たのだと思う。買い物籠から飛び出した青いネギの先端が潮風に晒されていた。
「旅館か、そうだなあ旅館と言えば旅館勤めかなあ、おまえの考えている旅館の仕事とは大分違うけどな、女にとって、ましてや子供のあたし達にはきつい仕事だった。でもなかにはいい人もいてなあ、お小遣いをくれる人もいた。おばあちゃんなあ、そのお小遣いを自分の部屋の畳の下に貯めておいて、お祭りの日に屋台でおいしいものをたくさん食べた。でもな、弟や妹のことを思うと、あたし一人でこんなおいしいものを食べているのが悪いと思ってな、それでも涙流しながら綿飴やカルメ焼き食べていた。うちは貧乏だったから、いや村中が貧しかったら、甘いもんなんてそう食べられなかったからなあ。あたし一人でこんなおいしいものを食べていて、罰が当たるんじゃないかと思ったもんだ。しかし今になって考えると、町に売られて食べることに不自由しないあたしか、貧しいけど親と暮らせる兄弟の方が幸せだったのか、おばあちゃんは今でもわからない」
おばあちゃんの言った『町に売られて』というのを僕には理解するだけの知識もなかった。肉や野菜がスーパーで売買されるように人が売られるなど僕には想像できなかった。おばあちゃんは歳だから表現に誤りがあったのだと思った。
「昔の方が賑やかだったんでしょ浦賀って、軍艦造っていたりして」
「ああ、賑やかだった。お客さんもドックのひとが多かった。毎晩夕方になると客が押し寄せた。おばあちゃん一生懸命働いたけどなあ、どうしても好きになれないお客さんがいた。お酒臭いのや煙草臭いのは我慢できたけどなあ、おしりに毛の生えた人だけはいやだった。女将さんに、そんな人だけは勘弁してくださいと泣いてお願いしたけど笑って相手にしてくれなかった。『おしりに毛の多い人ほどやさしくてお金を持っているんだ』って諭されて、まだおばあちゃんも世間知らずの子供だったからその気になってなあ、女将さんの言うことを鵜呑みにしていた」
鈍感な僕はおしりの毛の話を聞いてもおばあちゃんの仕事内容を把握できないでいた。
「お金のため、家族のためと辛抱したけどな、おしりの毛を見るたびに涙がこぼれた。でもな、女将さんの言ったことはまんざら嘘でもなくて、お金持ちの人が多かった。良坊はおしりに毛が生えてるか?」
実は少し生えてきていた。父さんが毛深いので遺伝したのだと思う。でもおばあちゃんに嫌われたくなくて、悲しませたくなくて嘘をついた。
「たぶん生えていないと思うよ、特に気にしていないからわからないけど」
「そうか、良坊は毛が生えていないか、それじゃあお金持ちにはなれないかもしれないなあはっはっは」
「おじいちゃんは、おじいちゃんはどうだったの?」
「しーっ」
おばあちゃんは紫色の唇にしわくちゃの人差し指を当てて言った。
「よしおー、そろそろ駅まで行くよ」
下から母さんの声がした。もう五時を回っていた。
「おばあちゃんそろそろパレードが始まるよ。一緒に駅まで行こうよ」
「お前達は先にお行き、おばあちゃんはタクシー呼んでもらってあとから行くから。玲子にタクシー呼ぶようにそう言ってくれるかい」
駅まで歩くと二十分はかかる。去年は休み休みでも歩いて行ったのに、今日はあまり足の調子がよくないみたいだった。
「うん」
下に行くとまだ盛り上がっていた。
「さあ、最後の乾杯にしましょうかご主人、ご主人に付き合っていたら肝臓がいくつあっても足りない」
やはり徳山さんが仕切っていた。
「母さん、おばあちゃんがタクシー呼んでって」
「あら、だったら無理しなくても。休んでいるようにあたし言ってくるわ、だいたいタクシーなんて走れるわけないじゃない」
「母さん、タクシー呼んであげてよ、おばあちゃん行きたいんだよ、僕が付き添うから」
僕は二階へ駆け上がろうとした母さんの腕を掴んでそれを阻止した。どうしてもおばあちゃんに行って欲しかった。僕の咄嗟の行動にみんなは唖然としていた。
「良男君、でもおばあちゃんに無理させない方がいいんじゃないかねえ、転んでしまったりしたら足以外にも影響あるし」
恒三郎さんがおばあちゃんの足を気遣い言った。
「そうよ良男、社長の言う通りよ。おばあちゃんにはまだまだ長生きしてもらわなくては困るでしょ。みんなおばあちゃんの顔が見たいから、元気な姿がみたいからこうやって毎年集まってきてくれんじゃない。無理して足を悪くしたらそれこそ元も子もないじゃない」
「なにしろだめだよ、おばあちゃんを連れて行かなければ、山車を引っ張らせてあげなきゃ」
懸命に食い下がる僕をみんなは不思議そうに見ていた。自分でもどうして足の痛むおばあちゃんをそこまでして連れて行こうと粘っているのかわからなかった。ただどうしても連れて行きたかった。絶対に連れて行くんだという気持ちだけがとても強かった。
「でしゃばったこと言って申し訳ありませんが、私も良男君に賛成だ。雅子さんがパレードに顔見せなきゃ浦賀もいよいよ終いだ。ミス浦賀には多少足の悪いのは辛抱してもらって、なあに、良男君のお神輿かつぐ威勢のいい姿と一緒に、海ほたるの道先案内で浦賀の海岸を見せびらかして歩いてもらわなくっちゃ」
そう言うと徳山さんはグラスに残った日本酒を煽った。
「玲子、タクシー呼ばなくてもいいよ」
「ほら良男、父さんもそう言ってるし、どうせ陽子が留守番に残るから、おばあちゃん独りにするわけじゃないから」
「そうじゃないよ、俺がばあちゃんおぶって行くっていうんだよ。これだけ男がいてタクシー呼ぶことないだろう」
「あなた」
父さんが母さんにイニシアティブをとった。いつも黙って頷いている父さんが男らしく思えた。僕はうれしくて二階に駆け上がると、おばあちゃんは半纏を羽織って踊り場に立っていた。上がるときは手をついて四つんばいになればそれほど足に負担はかからないが、下りるときは誰かの支えがないと転げ落ちてしまう。僕は両手をしっかりと手摺で突っ張り、おばあちゃんの体重を肩に受けて一段一段を確実に下りた。途中から父さんが僕の胸を支えてくれた。
「こんにちは、坂下です。そろそろ出発しないとパレードに間に合いませんよ。あっ、ばあちゃん、今日は一度もお見かけしなかったんで気になって理事長に聞いたら、足の具合があまりよくないみたいだって言ってたから心配でお迎えにあがったんですけどこれだ、もう半纏着てやる気じゃねえかばあちゃん、安心した」
仁さんが涼風のごとく玄関に入ってきた。姉ちゃんが落ち着かない。台所と居間を行ったり来たりしている。
「ようしばあちゃん、おぶされ」
「ばかにするなよ仁、あたしはまだ重いぞ、小僧にかつげるか」
「なあに言ってやがるくそばばあ、ほらよっと、なんだうちのチワワより軽いじゃんか。しっかりつかまってろよ、ほうりゃあ、そうりゃあ、うーりゃあ、そうりゃあ」
仁さんはさっと来て、さっとおばあちゃんをさらって行った。お神輿をかつぐ掛け声で、屋台の並ぶ参道の人垣を縫うように消えていった。さっきまで僕達が悩んでいた、おばあちゃんの足の具合とか、タクシーを呼ぶ呼ばないとか、そんな面倒くさいしがらみも何も関係なくおばあちゃんを連れ去っていった。
「かっこいい」
姉ちゃんの一言に酔っ払いの親父達は追い出されるように駅に向かった。父さんは少し離れたところでアキレス腱を回していた。
「良男君は雅子さんが好きなんだなあ」
僕と徳山さんは父さん達から少し離れた後ろを歩いていた。
「失礼ですけど徳山さんはいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「父さんより少し上で六十ぐらい?」
「そうかい、そりゃあうれしいねえ。実は雅子さんとそれほど変わらない。変わらないといっても五つ六つは違う」
ということは七十歳をとっくに過ぎているわけで、世間では老人と分類されるわけだけど、とてもそんな風には見えなかった。背は父さんより高く、背筋もピンとしている。白髪に近いが量は多く、整髪量でバックにセットしている。生地のことなんかさっぱりわからない僕でも一目で高いと確信できる着物の上に半纏を羽織っている。父さんが借りてくるビデオに出てくるひとによく似ている。『死んで貰います』ってビデオを観たあと父さんが母さんに言っていた。母さんは『バーカ』と相手にしない。
「徳山さんはおばあちゃんの若い頃を知ってますか?」
徳山さんは僕の顔をじっと見つめた。角度を変えながらじっと見続けた。
「お気を付けて」
カルメ焼きを売っているテキヤのおじいさんが徳山さんに挨拶した。そういえば立ち並ぶテキヤのおじさん達やお兄さん達は徳山さんが前を通ると頭を下げている。
「ああ、ありがとう、あんたさんも身体をいといなさいよ」
カルメ焼きのおじいさんは徳山さんに声をかけられると深く一礼した。
「会長、今年も声をかけていただいてありがとうございます」
カレンダーを売っているおじさんがわざわざ店から出てきて徳山さんに深く一礼した。
「おう哲、ご苦労さん、しっかり売していきなさい」
「ありがとうございます」
カレンダー売りのおじさんは再度一礼した。
「そういえば君は善三さんによく似ている。右斜め上三十八度から見ると瓜二つだ」
善三さんとは死んだおじいちゃんの名前で、仏壇に書いてあるので僕も知っていた。徳山さんは笑って僕の頭をくしゃくしゃにした。
「おばあちゃんは浦賀の渡しでこっちに来たって言ってました。生まれは山梨県の山の方で、旅館の仕事をしに来たって」
不思議と徳山さんにはなんでも話せた。
「おしりに毛の生えたひとが嫌いだったけどお金持ちが多いから我慢したらしいです」
「へーっ、雅子さんそんなことまで君に話したのかい、そう、そんなことまでねえ、きっとおまえさんが好きで好きでたまらないんだろうなあ。ああようく知っているよ、雅子さんのことは。やさしいひとだったかどうかは深く付き合ったわけじゃないからなんとも言えないが、きれいなひとだった。とにかくきれいなひとだった」
徳山さんが懐からラークを取り出し、マッチで火をつけた。
「昔はこの辺もドックのおかげでとても賑やかでねえ。私が八歳だったかなあ、たぶん雅子さんは十四だったと思う」
タバコを深く吸い込み、空に向かって吐き出した。そしてぽつぽつと話し始めた。
「この浦賀の西と東を渡していた船頭の辰蔵さんは、来年からは蒸気船になるから私の仕事はなくなりますって言っていなさった。山の女を年中渡している辰蔵さんも雅子さんの大ファンだった。私と一緒でねえ」
『女将さん、山の女が東を出ました、船頭の辰蔵さんが櫂を振ってます』
渡し船が西の船着き場に寄せた。
『さあさあ、あがんなさい、おまえさん名前は?』
『はい、雅子といいます』
『いいかい、今日からこの人がおまえの母さんになるんだよ。言うことをよく聞いて、一生懸命働けば三年なんてあっという間に過ぎちまう。お客さんに可愛がってもらいない、そうすりゃあお小遣いをたくさんくれるから。弟や妹に甘いもんでもたくさん買って帰れるさ。なあに私が責任持って故郷(くに)まで送っていくから。あの渡し舟に乗って、東の叶神社で三年後のこの日この時に、きっちりと待っているからね』
「良男君、君は女衒という商売人を知っているかい。まあ知らなくて当然だ。人買いだよ。貧しい田舎の百姓の娘をね、買って遊郭に売り飛ばすんだ。昔はみんな貧しかったからねえ、奉公に出したり、女衒に売って、多くの家族の生活を支えたんだ。うちに出入りしていた女衒の安田という男を私は嫌いでねえ、人買いとか、彼の性格とかじゃなくて、唾をよく吐く男でねえ、一度玄関を出たところで私が踏んじまったんだよ。買ったばかりの靴の目にへばりつきやがってね、井戸で裏のゴムが減るほど洗ったもんだ。それ以来大嫌いになった」
『安さんありがとうございます』
『この子は稼ぎますよ。素直だし、なにしろ器量が飛び切りだあ。大事にしてやってください。おっそうだ忘れていた、ぼっちゃんチョコレートをあげよう』
『ほら正一郎、どこ行くの、ほら安田さんがチョコレートくださるって、もう変わった子なんだから。あとで渡しておきます』
僕は徳山さんの話を聞いていくうちにだんだん不安になってきた。おばあちゃんは山の女で、その山の女とは売られてきた女の人のことで、そして売られた遊郭という旅館のぼっちゃんが徳山さんであることに。
『雅子、こちら市会議員の吉田さんですよ、とてもいい人だからやさしくしていただきなさい。さあ先生どうぞ、昨日来た子なんですよ、よろしくお願いします。すぐに支度させますから』
『まさこのまさってどういう字かな、正しい、それとも昌、日が重なった?』
『違います、優雅の雅です。父さんがきれいな女になるようにって』
『そう雅子ねえ、名前に負けないきれいな子になったねえ。浦賀で一番いい女だよ。お父さんの願い通りになったわけだ。さあ、こっちにきてお酒を注いでくれないかい』
「雅子さんは一生懸命に働きなすった。父さんや母さん、弟や妹のことを思うといやな客とも明るく接することができたみたいだねえ。妹さんの歳が私と同じらしくてね、私のことをかわいがってくれましたよ。客からいただいたお小遣いで飴やかりん糖を買ってくれました」
『こら雅子、おぼっちゃんに触ったらだめだって言ったでしょう。おぼっちゃん、雅子から物をもらってはいけません。女将さんに言いつけますよ』
『治子のばーか』
「私は雅子さんを悪く言うひとがたまらなく嫌でしてねえ、そんなひとには罵声を浴びせては逃げたもんです。実を言うと初恋ってやつだな」
徳山さんがおばあちゃんを初恋の人だと言って驚いた。もしかしたら徳山さんがおじいちゃんになっていたかもしれない。
『お母さん、ちょっと出て来ますから』
『雅子、今晩ドッグの専務さんが社員を連れてくるのよ、おまえさんをご指名だからお願いね』
『はい。お母さんにお願いがあるの、いい?吉岡専務におしりの毛を剃るように言ってください』
『ああ、しっかりと伝えておきます。六時には戻ってね』
「もう年季が明ける年だから雅子さんも十八歳になる頃だねえ。うちでは欠かせないお女郎さんになっていなさった。浦賀でね、そうだなあミスコンとでも言ったらいいのかなあ、遊郭関係の人達でNo1を決めようって話が持ち上がってね、見事一等賞をとったのが君のおばあさん、雅子さんだよ。うれしかったねえ、内心は確信していたんだけどね、やっぱり決まるまでは胸が張り裂けるぐらいドキドキしたもんだ」
なんて言ったらいいんだろう。僕は徳山さんの今喋っていることは物語で、趣味で執筆活動をしているという徳山さんの架空の話であって欲しかった。でもさっき窓際でおばあちゃんが話してくれたことと、何もかもが一致するわけで、もし徳山さんが言っていることが事実ならば、おばあちゃんは売春婦であったわけで、それも管理されているから組織売春をしていたことになる。だけど中学生の僕にはどういう背景からそういうことになったかなどと余裕のある答えを出せなくて、なんだかおばあちゃんが汚いものに感じてしまった。徳山さんは搾り出すように六十年前の話を続けてくれた。たぶん僕が、おばあちゃんから『おしりに毛のある人は嫌い』と聞いたと言ったもんだから、僕が過去のすべての事実をおばあちゃんから聞いて知っていると勘違いして、六十年間封印してきた過去を明かしてしまったのだ。
『雷オコシ、お客さんにいただいたの、あとで食べて』
『ああ、いつも悪いな、近所のがき共喜ぶ』
『あら、辰蔵さんのおばあさんは嫌いなの?』
『いやあ好きさ、大好きさ。こんな銘菓滅多に口できねえし。三分の一に手で折ってな、そのひとつを口に入れて、歯がねえから、米粒がふやけてばらばらになるまで飴玉みてえにしゃぶってよ、お茶と一緒に流し込むんだ。ひとつ食うのに半日かかってよ、はっはっは』
『そうだったわねえ、おばあさん歯がないんですものねえ。あたしばかねえ、そうだ、こんだあのお客さん来たら羊羹にしてもらいましょう』
『気にするなって、オコシの方がくだらねえ説教聴かされる時間が少なくなっていいんだ』
「雅子さんは暇さえあれば辰蔵さんの渡し舟に乗っていなさった。客は大概ひとりかふたりだからねえ、櫓を漕ぐ辰蔵さんのすぐ前に座って、編み物しながらデートを楽しんでいたよ。片道十分のクルーズを、昼過ぎから夕方まで何往復もね」
『来週帰るのあたし』
『そうかい、そりゃあよかった。もう三年も経っちまったんだなあ。そうかいそりゃあほんとによかった』
『昨日女衒の安田さんが女将さんに話して言ったそうです』
『こう言っちゃあなんだけど、あんまり信用しねえ方がいいぞあの安田って男。ちらっと耳にしたんだが、故郷に返すと言って他の遊郭に売り飛ばすらしい』
『これ、腹巻』
『こりゃあいいや、ありがとう雅ちゃん』
「渡し舟の上で雅子さんが編みあげた腹巻が、辰蔵さんの腹を保温する前に不幸な悲しい事件が起きてねえ、雅子さんの年季明けの三日前だったなあ。約束の東叶神社でさ。なんて言ったらいいのか、後味の悪い事件だったなあ」
『船頭の辰っあん、なんだい話って?渡しが終えたんならそこらで一杯やりながら聞こうじゃないか。野郎二人で話すにゃあ寂し過ぎるぜここは』
『申し訳ありません、こんなとこにお呼びしてしまって。お時間は取らせません。ひとつふたつお訊ねしたいことがありまして。手短でいいんです。お願いします』
『雅子のことかい?』
『どうして雅子ちゃんのことって?』
『あんたと雅子が好き合っているのをこの浦賀で知らないもんはいないよ。沖で飛び跳ねるイルカだって知ってるさ。それで雅子がどうしたって?』
『はい、あの子は本当に故郷に帰れるんでしょうか?親元に帰ることができるんでしょうか?』
『辰っあん、その手の話は企業秘密ってやつでねえ、情に流されて口外するとろくなことはないって過去の教訓だ。話すわけにはいかないねえ』
『そうですか、お願いします。雅ちゃんを無事故郷まで連れて行ってやってください。この通りですお願いします』
『おいおい、立ちなさいよ、そんな砂利に額をこすり付けてみっともない。板子一枚地獄で命張って仕事なさってるおまえさんが、外道の私に頭下げているのを子供等にでも見られたらそれこそ大変だ。私はもうこの浦賀には顔を出せなくなるよ、さあ上げた上げた』
『お願いします。お願いします。雅子を故郷へ』
『私もやくざ失格かねえ。さあ立ってください辰蔵さん。お話しいたします。実はね、故郷の父親から便りがありましてね。信州の帰りに立ち寄ってきました。弟が村を離れて上の学校に進むそうです。しかし貧しい村だあ、そんな金なんてありゃあしねえ。みんな痩せちまっている。それでも食うもん我慢して子供の教育を優先しているんでしょう。それでね、その資金を雅子で支払いたいって父親がねえ、母親は傍で泣いていましたが、それ以外に策なんてありゃあしないんでしょう。もう三年分の奉公代を渡してきました。もちろん三年前とは桁が違う。私が帰るときに両親は土間に土下座して雅子をお願いしますって、今のおまえさんみたいにねえ、まっとうな人間が人買いの私にだよ』
『安田さん、お話しいただきありがとうございます。無理を承知でお願いがあります。私にその金を払わせてください。現金じゃ無理かもしれないけど、毎日稼いで少しずつでも必ず返します。お願いします。この通り』
『おまえさんそんなに雅子に惚れているのかい。だったら雅子をさらって逃げたらどうだい。そりゃあ追っ手はかかるが首尾よく逃げ切れることだってある。いっそのことあの渡し舟でどこかの島に消えてしまうことだってできる。やくざに頭下げるような下品をやらかすよりその方がよっぽど様子がいいと思うがねえ。でもおまえさんにはそれができない、年老いたばあさんは、あんたの稼ぎで生活している兄弟は、そんなしがらみから抜け出せないひとはねえ、無理をしねえこった。そんなことは雅子の方がよっぽどわかっているよ。それがいやだったら私を殺す以外にないよ。私は行くよ。この階段を下りて鳥居を潜るまでに答えを出しなさいよ。鳥居から先は神様の管轄外だ。あたしもやくざだからね、邪魔するもんには身体を張ってそれを守るからね』
「狛犬の台座に置かれた出刃包丁は、安田の腰から内臓を突っ切って臍から刃先がのぞいていたらしい。安田は階段から転げ落ちて鳥居の基礎にぶつかって止まっていた。辰蔵さんは翌朝漁師小屋に隠れていたのを通報され捕まった。逃げる気なんかなかったみたいだ、正直な人だから。素直に後ろ手に手錠をかけられて二人の警官に挟まれてうちの敷居をまたぎなさった」
『女将、雅子を呼んでくれ』
『辰蔵さんじゃないか、どうしたんです?』
『殺人だ、昨夜東の神社で女衒の安田という男が一突きで殺された。そして今朝方隠れていたこの川上を連行し問い質すと犯行を自供した。それで雅子に聞きたいことがあってな』
『た、辰蔵さん、どうしたの?なんで?嘘でしょ、ねえ嘘でしょ』
『雅ちゃん、こんなもんさ、渡しの船頭にはちょうどいい結末さ』
『雅子、これを確認してくれ、おまえの父親が安田に宛てたものかどうか。川上が安田の懐から奪ったと自供している』
「いくら弟の進学のためとはいえ、父親が一言の連絡もなく安田に売ったことがショックだったんだろうよ雅子さんも。努めて明るくしていたのも、三年辛抱すればって思いが強かったんじゃないのかねえ」
『どうして、辰蔵さんどうして、あたしを好いてくれているならどうして連れて逃げてくれなかったの。逃げ切れなくても一緒に死のうってどうしてそうしてくれなかったの』
『そんな気が利きゃあ雅ちゃん、渡しの船頭なんてしちゃいねえよ。身体を大事にな、すぐにでもお金持ちのいいひと見つけて所帯を持つといい』
『辰蔵さん』
「雅子さんはそれから三日三晩渡しの桟橋で泣いていなさった。浦賀に海ほたるが増えたのは雅子さんの涙だと当時の年寄りが言っていたよ。結局ね、うちの母親が雅子さんを引き取った。安田と契約していた東京の遊郭にお願いしてねえ」
『雅子、おまえ幸せもんだよ、ドックの竹田さん、ほら吉岡専務の鞄を大事そうに抱えているメガネかけた若い人。あのひとねえ、網元の三男坊でね、あんたを初めてここで見かけたときから好いていたらしい。まあ当然親御さんは反対したらしいけどそれを押し切って決めたらしいよ。ねえありがたい話じゃないか』
『はい』
「抜け殻のようになってしまった雅子さんに先を考えるゆとりなんかなくて、周りの人達が敷いたレールに黙って乗るだけだった。でもねえ、さんざん試練を与えた神様もそれを解いてくれたんだろうよ、いい人だったねえ良男君のおじいさん。雅子さんの生い立ちからすべてのことを納得して一緒になったそうです」
『この家は父に金を出してもらいましたが少しずつ返していきます。浦賀の渡しと東叶神社がよく見えるよう二階建てにしてもらいました。君にまつわった噂は人伝に聞いています、すぐに気持ちを整理できる簡単な経験じゃないと思うし、君からすれば好きでもない僕のところに嫁にくるなんて心外かもしれない、だけど僕の気持ちに偽りのないことだけは信じて欲しい。君に気持ちの整理がつくまで、その窓から見える神社の幟や渡し舟が、君の胸に溶け込むまで、僕はいつまでも待つから』
「善三さんがそんな気障なせりふを吐いたかどうかは私の想像ですけどね、それだけの広い心で雅子さんを迎え入れたのは間違いないでしょう。やがて幟も渡し舟も一枚の額縁に納まったころ、真吉さんや君のお母さんの玲子さんが誕生なさった。出世街道を進んでいた善三さんはドックの事故でなくなったがね。まあ雪解け後の春のような生活を十年近くは過ごせたんだから幸せだったといってもいいんじゃねえかなあ。たぶん真吉さんも玲子さんも雅子さんのつらい時期のことは聞いていないと思う。まあそんなことは知らずにすめばそれにこしたこたあねえけどな。私と君の胸の中にしまっておこうじゃないか、なあ良男君、これからずっとさ」
おばあちゃんの過去をその目で見てきた、七十歳をとうに過ぎた徳山さんと、十五歳になったばかりの僕は共有の秘密を持つことになった。失礼な話だけど、平均寿命から考えてみても徳山さんはもうじきという感じだからいいけど、僕はこれから先、年老いてからこうやって打ち明けられるひとが出てくるのだろうか。この美しい浦賀の海に面した町で起きた悲しい事実を、僕で終わってしまうのかもしれない。でもお父さんが借りてくるビデオの世界を、僕のおばあちゃんが経験していたなんて不思議でならなかった。そしてさっきおばあちゃんを汚いと感じた自分が、なんだかとても侘しく思えてきた。
浦賀の駅前はパレード関係者とその観光客とでごった返してした。僕にすべてを明かした徳山さんは、自身が暮らす町内の集合場所へ行った。おばあちゃんは稚児さんとガードレールに腰をあずけて、彼女達が帯に挿んだポケベルのストラップを掌に取り、目を細めて、その先にぶら下がったキャラクターがなんであるか当てようと必死になっていた。僕が近づくとおばあちゃんより先に稚児さんが気付いて、「あっ甥っ子」だ」と大きな声で言い、指差した。
「良男のこと知ってるのかい?仲良くしてあげてね」
「知ってるよ。お祭り馬鹿って理事長が言ってた」
僕は笑ってごまかし、おばあちゃんのところから離れ、お神輿の側に寄った。モヒカンがじっと僕を見ている。ニタッて笑った。手招きしている。仕方なく近寄ると身体から酒そのものの臭いが鼻を刺した。
「おめえよう、途中で逃げ出しちゃだめじゃねえか。一度肩を入れたら最後まで神様に触れていねえと罰が当たるぞ。こっから宮入までは肩抜かねえでがんばってみろ。なんかいいことあるから、なっ」
「はい」
モヒカンに崇高な説教をされるととても不思議な感じがした。そういえばインディアンも神を崇めているわけで、まんざら繋がりがないでもないと思った。僕はお神輿の一番後ろをかついだ。おばあちゃんは山車の一番前を母さんと並んで引いていた。僕は絶えず後ろを振り返りおばあちゃんに笑顔を振りまいた。僕らの想像もできない悲しみを胸に隠し持っているおばあちゃんに、嘘の笑顔でもいいから投げかけたかった。せめて僕といるときだけは楽しくいて欲しかった。僕は恥ずかしさを我慢してお神輿を一生懸命かついだ。誰よりも声高に、威勢よく、腕を突き上げておばあちゃんの声援に応えた。おばあちゃんが入れ歯をむき出して笑うのがうれしかった。母さんがおばあちゃんを支えているのがうれしかった。父さんが嫌々だけど付き合いで山車を引いてくれているのがうれしかった。浦賀の海岸淵をパレードし、海ほたるに見つめられているのがうれしかった。
宮入がすんだのは十時を回っていた。真吉伯父さんがお神輿を納めようとすると、モヒカンを頭とした神輿馬鹿集団がそれを阻止するのである。永遠と神社の境内で暴れまくるお神輿を地元観衆が煽り立てる。しかしいくらインディアンの血を継いでいても体力には限界があり、真吉伯父さんの魔法の両手によってお神輿は正常な上下運動を取り戻し、渇いた拍子木の音が上気した空気を切り裂いた。そして所定の場所に落ち着いた。モヒカンが酋長に見えた。
うちに戻ると山車を引き終えたおじさん達がすでに酒盛りをしていた。
「さあさあ、めでたい席だ乾杯しましょう」
最初から徳山さんのリードで進んでいる。
「おばあちゃんは?」
「さっきシャワーをお浴びになって庭で涼んでいますよ」
姉さんが余所行き言葉で言った。仁さんの横にぴったりとくっついて接待している。
「椎茸どうですか?少ししょっぱかったので味を直したんですけど」
「美味いっすよ。ちょうどいい」
「よかった」
母さんと麻子さんが何時間もかけて直した味なのに、姉さんがすべてさらってしまった。おばあちゃんは駐車場の車止めに腰掛けていた。
「おう、良坊、疲れたろ。カッコよかったよ」
「疲れやしないよ。もっとかついでいたかったけどいつまでも振り回していたら真吉伯父さんに悪いし」
「そうか、やさしいなあ良坊は。そうだ桟橋まで夕涼みに行こう」
桟橋に腰をおろすと、風が少し強かった。それと満潮が重なっていて、小さな波しぶきが岸壁に当たり、それが足に跳ねて冷たかった。おばあちゃんは対岸を見つめていた。
「あたしはねえ、ここに、あの舟に乗って売られてきたんだよ本当は、旅館勤めなんて嘘でね、男に身体を売っていたんだよ」
「徳山さんから全部聞いたよ。家族のために売られたことや、渡しの船頭さんのことも、おじいちゃんとの出会いとか、色々話してくれた」
「そうかい。徳山のおぼっちゃんがねえ。立派な侠客だけど歳のせいで口元がゆるくなってしまったんだよきっと」
そう言うとおばあちゃんは笑って僕の頭を撫ぜ、口をつぐんでしまった。徳山さんから聞いたと言わない方がよかったかもしれない。そうすればおばあちゃんを無口にさせずにすんだかもしれなかった。
「ほら良坊海ほたるがいっぱい」
足元を見るとものすごい海ほたるの大群が僕等を見つめていた。
「あたしも初めてだよこんなのは」
海ほたるはおばあちゃんの涙だと徳山さんが言っていた。もし本当にそうだったらこれくらいの数がいてもおかしくないと思った。おばあちゃんが僕の肩に手を回した。
「さあ、そろそろ終いにしようか、お迎えが来たみたいだし」
僕にはその言葉がどういう意味だったのかわからなかった。ただおばあちゃんの胸のふくらみが以外に大きく柔らかかった。
「いいか、良坊、その話は絶対に喋っちゃ駄目だぞ」
そう言うとおばあちゃんの顔が僕の肩に落ちてきた。
「おばあちゃん、おばあちゃんたら、眠っちゃだめだよ、風邪ひくよ、ねえおばあちゃんたら、おばあちゃん、おばあちゃんてば、おばあちゃん、おばあちゃん」
僕のおばあちゃんを呼び続ける声を聞いた近所の人が交番に知らせてくれた。
「救急車、お願いします。ええと呼吸停止、気道確保、人工呼吸開始」
お巡りさんは実際には体験したことがないようで、想い出しながら人工呼吸をはじめた。ハンカチもタオルもあてがわずおばあちゃんの鼻をつまんで口に息を吹き込んだ。お巡りさんの息がおばあちゃんの胸を膨らました。
「循環のサイン確認一二三四五六七八九十、呼吸なし、心臓マッサージ一二三四五六七八九十十一十二十三十四十五」
お巡りさんは何度も繰り返した。僕はじっと見つめていた。涙があふれて止まらなかった。おばあちゃんが生き返るくらいうれしいことはないが、いくらお巡りさんが頑張っても、おばあちゃんはもう生き返らないような気がした。いやもうおばあちゃんは善三おじいちゃんや辰蔵さんと一緒に、あの小さな舟でクルージングを楽しんでいるような気がした。それぐらい楽しそうな顔をしていた。お巡りさんは手を止めることができなくなっていた。すぐ横で覗き込んでる僕に気を遣ってくれていたのかもしれない。帰りが遅いと心配して真吉伯父さんが小走りに寄ってきた。紋付袴に下駄を履いて、神社での神事をすませ、そのままの格好だった。もしかしたら虫の知らせというやつがあったのかもしれない。救急車も到着して隊員がおばあちゃんを担架に乗せようとした。心臓マッサージを繰り返すお巡りさんの肩を真吉伯父さんがやさしく叩いた。
「ありがとうございます。でももううちのばあさんは天国に逝っちまったようです。この顔みてやってください。こんなやさしいおふくろの顔なんか今まで見たことがありません。ほんとにありがとうございます」
真吉叔父さんはお巡りさんに深く礼をした。お巡りさんは唇を噛み締めていた。
「お願いがあります。今晩のところはうちへ引き取らせていただけませんか、いや規則はわかりますがなんとかお願いします。祭りの晩を、最後の晩を、おふくろにしっかりとうちで過ごさせてやりたいんです。お願いします」
休憩していた年配の警官が、若いお巡りさんと救急隊員に目配せをした。薄ぼんやりとした月がおばあちゃんを囲んだ僕らを照らしていた。真吉伯父さんはおばあちゃんをおぶって歩き出した。
「おふくろ、祭りの日に死ぬなんておふくろらしいや、それにおふくろのその血を引いた良坊に看取られて、こんな往生はねえぞ、幸せもんだおふくろは」
真吉伯父さんは背中のおばあちゃんに話しかけていた。あとは涙と鼻水をしゃくりあげる音でよく聞き取れなかったが、ずっとおばあちゃんに話しかけていた。僕は少し離れた後ろから、蛙のような格好したおばあちゃんをずっと見ていた。
「そうだ良坊、これからうちまで『ばあちゃん神輿』かついでいくべー。なっ、今日は俺がはな棒でおまえがしっかりと後ろで支えてやってくれ」
真吉伯父さんの顔は真っ赤で、目から下は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。伯父さんの肩に乗ったおばあちゃんの顔は生きているようだった。そして月よりも白かった。
「うん」
「なんだ良坊、顔拭け、ぐちゃぐちゃだぞみっともねえ」
たぶん僕の顔も真吉伯父さんと同じだったのだろう。
「そうれーっ行くぞーっ。そうりゃあ、ほうりゃあ、うーりゃあ、そうりゃあ、こうりゃあ、そうれい」
僕はおばあちゃんのおしりを片方ずつ持ち上げるように押さえた。
「ほうりゃあ、そうりゃあ、そうれい、こうりゃあ、そうれい、こうりゃあ」
「どうしたっ元気ねえぞーっ。ほうりゃあ、そうれい、くうりゃあ、そうれい、こうりゃあ、そうりゃあ」
そうりゃあ、こうりゃあ・・・。
「そろそろ帰るよ。終電に間に合わなくなるから」
僕は三回忌という宴会を繰り広げている人達に一礼した。徳山さんがウインクして見送ってくれた。西叶神社の下で『おばあちゃんをよろしく』と手を合わせて海岸に出た。桟橋から海岸淵を歩いて浦賀の駅に向かった。昔は大きな船がたくさん造られていて、それが進水するときは道路にまで海水が冠水したらしい。東の桟橋に蒸気になった渡し船が停泊している。もう山の女はあの船に乗らない。山の女がいなくなったのかどうかはわからない。
ドックの近くまで来ると海ほたるの大群が、いやおばあちゃんの涙が僕を見送ってくれた。明日からは真剣に受験勉強をしなければならない。浦賀に来るのはこれが最後のような気がした。それはお祭りが面倒くさくなったわけではなくて、おばあちゃんが僕に残した遺言を守るためである。おばあちゃんだけじゃない、徳山さんとも二人の胸にしまっておこうと約束した。これから先ずっと。
『最終登り電車が発車しまーす』
駅員の声は鼻にかかっていた。
了
僕が浦賀駅に降りたのは三年ぶりだった。おばあちゃんが三年前に八二歳で死んで、今日が三回忌だった。三回忌といっても大袈裟な法要はしない。お祭り好きのおばあちゃんにはふさわしくない、だから例年通り子や孫が集まってお祭りを楽しめば、天国のおばあちゃんも喜ぶし、それが唯一の供養になると、やはりお祭り好きの母を始め家族が勝手な解釈をして決めた。
「照子さん、良男君は来るの?」
「来るに決まってんじゃんあの祭り好きだもの、おばあちゃんが亡くなってから自分なりに喪に服すとかって言って、お神輿かつぐの三年も我慢してたんだから。さっき堀の内に着いたって電話あったからもう着くんじゃない」
浦賀は母方の実家だ。おじいさんは僕が生まれるずっと前にドックの事故で死んでしまった。母さんが嫁いでからはおばあちゃんと長男の真吉伯父さんとの二人暮しだった。
毎年九月の第二日曜日が浦賀のお祭りで、我が家はその前日から家族総出で浦賀に行っている。僕は当時中学三年生で、その日も遅くまで町は賑わっていた。おばあちゃんも若い衆に交じり一緒にはしゃぎまわっていた。お祭りが終わり『桟橋に涼みにいこう』とおばあちゃんの誘いで浦賀の渡しの桟橋に行き腰をおろした。僕もおばあちゃんの隣に腰掛け対岸を見つめた。そして『少し疲れた』と言って僕の肩におばあちゃんがもたれた。
各町内の神社に神輿や山車が納まってしまうと、なにもなかったかのようにいつもの静かな浦賀に戻った。海ほたるの群れが海岸沿いを青い光で埋め尽くしていた。公団の、本当は出てはいけないセットバック部分で、暑いから夕涼みしようといって父さんと仰向けに寝そべって見た星の瞬きよりきれいだった。そしておばあちゃんは眠るように死んでしまった。おばあちゃんが最後に僕に言った言葉は、
『いいか良坊、その話は誰にも喋っちゃ駄目だぞ』
だった。
「あっ来た、遅いじゃないの何やってたの、半纏用意してあるからお神輿追いかけなさい、あっ麻子さん、椎茸しょっぱくない?ちょっと味見してみて」
母さんは宴の準備に追われ、台所から顔も出さずに言った。
「しょうがないじゃん、クラブ抜けられないんだもん」
「あら、お祭りより部活を優先するなんて、死んだおばあちゃん悲しむよ。三年間喪に服し、飯より大好きなお神輿我慢してたんだから、一日ぐらい部活サボったって誰も叱ったりしないよ」
「そうよ良男ちゃん、好きなことはおもいっきり楽しんだ方がいいわよ。来年からは学校休んじゃいなさい、あっそうか、大学だからいつでも休めるわね」
麻子さんは僕等が住んでいる横浜の団地の人で、活発な母と波長が合うらしく、お互いに行き来を重ね、最近では浦賀の実家でも欠かせないメンバーになっていた。
「うっ、しょっぱい、味直しましょう」
母は、僕がお祭り好きで、お神輿をかつぎたくてしょうがないものと最初から決めつけてかかっているがそうではない。まだ中学一年のときに、僕がお神輿をかつぐ姿をおばあちゃんが嬉しそうに見ていたから、喜ばせてあげようと手を振ってそれに応えたのがいけなかった。
『良男は竹田家の血を引いてるだけあって、お祭りになると身体中の血が煮えたぎって、もうかつがなけりゃあいられないようになっちまうんだよ』
このおばあちゃんの一言が親戚中に、いや町内の人達に誤解を招く結果となってしまったのだ。それから毎年かつがされるはめになってしまった。本当はお祭りに興味はなく、お神輿もただ肩が痛いだけで、工事現場へアルバイトに行ったとき、鉄パイプをかついで運ぶのとまったく変わりがなかった。しかしそんなことを言っておばあちゃんが悲しむ顔を見たくないから我慢してここまで付き合ってきた。
「良男、先におじいちゃんとおばあちゃんにお線香あげてきなさい」
「姉ちゃんは?」
「陽子さんね、うちのひとと一緒に来るって、どうしても今日じゃなきゃお風呂に入れないおじいさんが磯子にいてね、終わったらすぐに来るって。三時前には来れるんじゃないかな。ささっと洗って終わりにしちゃうって言ってから」
麻子さんのご主人は介護関係の会社を経営していて、そこで姉さんは働いている。会社といっても麻子さんと姉さんの三人しかいなくて、マイクロバスを改造した移動浴槽で、要介護のお年寄りをお風呂に入れる仕事をしている。
二階の仏間には僕の知らないおじいさんと、大好きだったおばあちゃんの写真がぴったりとくっつけて並べてあった。今日はおばあちゃんにとって特別な日で、おじいさんは見ない方がいい日だから写真を少し離した。そしておばあちゃんの写真だけを海の方に向けた。窓からはかすかな潮の香りが風向きの変化によって仏間に入りこんだ。対岸の東叶神社の幟が小さく揺れて見えた。三年前ここで、この部屋の窓からおばあちゃんと見た風景となにひとつ変わらなかった。
「おう、やっぱりここがいい、自然の風が一番涼しい。あたしは足が悪いから下の応接間にいるとクーラーの風が当たってつらいんだよ。この潮風が最高だ」
おばあちゃんはそう言うと仏壇のおじいさんに手を合わせ、何かぶつぶつと話しかけて遺影を少し動かした。今まで海方向を向いていたおじいさんが背中を向けた。
「良坊、お神輿追いかけなくてもいいのかい?」
「うん、おばあちゃんは?」
「少し足が痛いから昼間はやめておいて晩になったら浦賀駅からのパレードを見に行こう。山車の引き手が足りねえって真吉が言ってたから協力してやるべ」
真吉伯父さんはおばあちゃんの一人息子で、母の兄である。もう六十を過ぎたが独り者でいる。どうして独りでいるのかはわからないが、誰もそのことを口にしない。興味はあるが僕も訊くことを控えている。真吉伯父さんは旧国鉄の職員で、現在はその関連の運送会社で大型トラックに乗っている。長距離便で行った先々から産地の名物を贈ってくれる、うちとしてはとてもありがたい存在の人である。姉さんなんか真吉伯父さんの出先を予め調べておいて催促までしている。そうするとリクエストしたものがダンボール箱に詰められて贈られてくる。
「僕も晩にかつぐよ」
「いいんだよおばあちゃんに付き合わなくても、年にいっぺんしかないんだからおもいっきり楽しんできなさい、良坊の大好きなお神輿なんだから。それにまだ真吉に会ってないんだろう、喜ぶから顔見せてあげな」
おばあちゃんは海を見て言った。いつもと違いどこか元気がないような気がしたが、もう八十二歳になるわけで、失礼な話だけどもう死んでもおかしくない年で、年々体力が衰えていくのは自然のことだと思って特に気にしなかった。
「うん、じゃあ伯父さんに顔見せてくる」
外を見ると渡し船が対岸に着いたところであった。日曜日とあって観光客が七~八人乗っていた。
「まーちゃんも今日は稼ぎどきだ」
「おばあちゃん、あの船長さん知ってるの?」
「ああ、ようく知ってる。叔父さんそっくりになった」
風が強く、跳ねた波がきらきらとまぶしい。東叶神社の幟も激しく風になびいていた。階段を下りる途中から徳山さんの声が聞こえた。隣町のひとだが、毎年お神輿がうちの前を通過するときに、お神輿から振り払われるようにうちに立ち寄って行く。そしてそのまま居座り、晩に行われる浦賀からのパレードまで酒盛りをしている。
「おう、良男君来ていたのかね、そりゃあそうだな、君みたいなお祭りやろうが来ないはずがない、もうお宅の神輿は浜の方に行ってしまったよ、駄目だなあそんなことじゃあ、あれか?やっぱり横浜で暮らしているからこの神聖な行事を遊びと考えているんじゃないのか?よくないなあこのお祭りやろうが。そういうことじゃよくない。そうだこっちに引っ越してきなさい。それがいい、僕から玲子さんにお願いしておくから。ところで雅子さんは?」
もう徳山さんは相当酔っていた。父さんも麻子さんのご主人の恒三郎さんも徳山さんの酒豪と、それに比例して機関銃のように喋りまくる性格はよく知っているので相槌を打つぐらいでうまくかわしている。母さんも麻子さんも徳山さんのコップが空になっても全然気にしないで晩の宴の準備をしている。毎年勝手に上がり込んでくるのでお客とは考えていないようだ。
「さあ、乾杯しましょう、年に一度のお祭りです、さあさあ」
徳山さんが一升瓶を傾けてお父さんと恒三郎さんに酒を勧める。当然空になった徳山さんのコップにもどちらかが注ぎ返す。この乾杯が晩まで続く。徳山さんがお父さん達より一枚も二枚も上手だ。
「良男君はまだ飲むわけにはいかないだろうなあ、でも高校生になれば飲み始めるんだろなあ、このざるのようなお父さんの血を引いているんだからなあ、ところで雅子さんは?」
『ざるはあんただ』と言わんばかりに父さんは舌打ちをした。徳山さんはおばあちゃんのことが気になるようで、僕に話しかけるたびにおばあちゃんのことを訊いた。
「おばあちゃんは二階で休んでいます」
「足の具合でも悪いのかい?」
「ええ、晩に山車を引きに行くからそれまで」
「横になっているのかい?」
「いえ、僕が下りてくるときは窓辺で海を見ていました。渡し船の船長さんを知っているとかって言ってずっと見ていました」
「そうかい、雅子さんは海を見ていなさるかねえ、渡し舟をねえ」
徳山さんは合点がいったように何度も頷いていた。
「さあ、乾杯しましょうか」
完全に徳山さんのペースに嵌められて、おとなしい二人は仕方なくグラスを傾け、そしてそのお返しをさせられていた。
「母さん、お神輿かつぎに行ってくる」
「半纏、玄関にかけてあるから、間違えないでよ、おまえのやつは肩が薄くなっているから」
僕は半纏を小脇に抱え浜の方に向かった。西叶神社の参道には屋台が並んでいる。近所の人やお祭り見物に来た人達で賑わっている。お神輿のかつぎ手は上下揃いの白装束や、ふんどしに半纏とか、それぞれがそれらしい格好をしているのに、僕は半ズボンに横縞模様のTシャツである。足元は古いビーチサンダルで、走ったりすると鼻緒が抜けることがある。なかなか半纏を羽織るタイミングがつかめないでいた。うちを出るときに羽織ってしまわなかったことを後悔した。それに真吉伯父さんに見つかる前に羽織らないと、裏切るようで悪いような気がした。
真吉伯父さんは残暑厳しい炎天下にもかかわらず紋付袴の正装でお神輿のずっと前の方を歩いている。伯父さんのすぐ後ろにはお化粧をした稚児さんが二人、絣の着物を着て歩いている。たぶん僕と同じ中学生ぐらいかと思うけど、二人とも帯にポケベルを差し込んでいた。
「伯父さん、こんにちは」
「おう、良坊、来てたのか、挨拶はあとでいいから、早く神輿に入んな、みんなおめえのことは知ってんから遠慮することはねえ、もし誰かにいじめられたらすぐに知らせろよ、おじさんが拳骨くれてやるから、ところでばあちゃんは一緒に来なかったのか?」
「はい、少し足が痛むから休憩するって。晩には山車を引きに駅まで行くそうです」
「そうか、足が痛むってか、うんわかった。ほらかついでこい。うずうずしてんだろう」
僕は伯父さんに一礼してお神輿に近づいた。あいにくというか幸いというか、縦棒も横棒もぎっちりと詰まっていて僕の入る余地はなかった。それにお神輿の周りには威勢のいいおじさんやお兄さん達がうろついていて、傍に寄るだけでもはじかれそうだった。僕はこのまま帰ろうかと思って後ろを振り向くと、伯父さんがこっちを見ていた。僕が照れ笑いをすると、稚児さんになにか話しかけてこっちに向かってきた。
「おい、こいつ俺の甥っ子だあ、面倒看てやってくれ、ばあさんの血を引いてんから神輿馬鹿もいいとこでよう、三度の飯より神輿が好きで、毎年横浜からわざわざ来てんだ。な、頼むな」
伯父さんが半径五十メートルは届くような大声で言ってくれた。かつぎ手は勿論のこと、周囲のひと全員の視線が僕に集中しているのがわかった。ものすごく恥ずかしかった。
「ほら甥っ子、ここ入れ」
はな棒をかついでいたモヒカン刈りのお兄さんが、僕のために譲ってくれた。『違うんです。おばあちゃんも、真吉伯父さんもみんな勘違いしているんです。僕はお神輿なんてそんな好きじゃなくて、お祭りだって、ただうるさいだけだと感じていて、部活でテニスしている方がよっぽど楽しいんです。はい』と言う勇気も度胸もなくて、モヒカン刈りのお兄さんの前に入れられてしまいました。
「おめえ、理事長の甥っ子だって、それじゃあ将来頭はげるな、今のうちにいろんなヘアースタイル楽しんでおけよ、ははは」
どうして伯父さんがはげだから僕もはげるのか理解できなかったが、モヒカンはひとりで受けていた。
「ほうりゃあ、甥っ子、ほうりゃあ、甥っ子、ほうりゃあ、甥っ子」
モヒカンの掛け声に、かつぎ手みんなが笑いながら呼応した。爆笑の渦が観客にまで広まった。僕は、はな棒というメインステージに立たされ、観衆の晒し者になっていた。
『ほうりゃあ、甥っ子』の掛け声は真吉伯父さんや稚児の女子中学生にまで届き、僕を見て笑っている。それどころか、周囲すべてのひとが僕を見て笑っていた。僕はこのことが、今まで生きてきた中で一番恥ずかしかった。
僕はお神輿が休憩しているときに抜け出した。真吉伯父さんは神主さんと歓談していた。僕は一礼したが気が付かないようだった。でも稚児さんが僕の方を指差して何か言っていた。『あっ、逃げる』と言っているような口の動きだった。
「さあさあ、乾杯しましょう」
うちに戻ると相変わらず酒盛りが続いていて、徳山さんのペースにみんなが嵌っていた。近所のおじさん達も加わり、母さんや麻子さんもその接待に大忙しだった。うちでは料理なんか、いや台所にも滅多に入ったことがないのに、姉さんは前掛けなんかして家庭的な女をアピールしていた。
「ようーっ良男君、かついで来たのかいお神輿、一年ぶりの感触はどうだったかね、また晩にかつぐんだろう。ところで雅子さんは?」
徳山さんの口ぶりでは僕が出たあともおばあちゃんは居間に下りてきていないようだった。
「姉ちゃん、おばあちゃんは?」
「おばあ様はお二階で休んでいらっしゃるは」
いつもなら、『知らねえよ、自分で捜せ』という返事がかえってくる。今年短大を卒業する姉さんと僕は歳が六つ離れていて、子供のときからずっといじめられている。姉さんがおしとやかになる理由はただひとつ、この近所に住んでいる仁さんという青年に夢中だからである。仁さんは真吉伯父さんの片腕となって、町内の神事行事に走り回っている。背が高くて足も長い、目鼻立ちのくっきりとさわやかな笑顔は誰からも慕われている。その仁さんのためだけに姉さんは台所に立っているのだ。
「良男君早かったじゃない、晩にまたかつぐんでしょ」
麻子さんがおたまを片手に言った。
「はい」
「まったく、お神輿しか頭にないんだから、勉強の方もこれぐらい夢中になってくれたらいいのにねえあなた」
ビールを飲みかけていた父さんは母さんに突然振られて咽ていた。
「ああ、ああそうだな」
父さんは、僕がお神輿をそれほど好きじゃないことに気付いている。でもそれを誰にも口外しないでいる。僕がお神輿好きでいれば母さんも機嫌よく、実家との関係も円満に保てるからである。父さんは僕を見て薄ら笑いを浮かべ、『頼むな、我慢してくれや』と暗号を飛ばした。
二階に上がるとおばあちゃんはまだ海を見ていた。観光客のせいでひっきりなしに往復する渡し船を飽きもせず眺めている。僕が後ろに立っていることに気が付いていないと思ったら「良坊ここへお座り」と振り返らずに言ったのでびっくりした。横に座るとおばあちゃんは僕の頭を撫ぜた。観音様のようにやさしい笑顔だった。
「おばあちゃんはな、あの渡し舟に乗ってここに来たんだよ。もう六十五年以上になるかな、真吉が今年還暦だからな」
「向こう側に住んでたの?東叶神社の近くとか?」
おばあちゃんはスローモーションのようにゆっくりと首を横に振った。
「おばあちゃんの生まれたのは山梨県の山の方でなあ、貧しい農家のうちに生まれた。そしてな、父さんや母さん、弟や妹のためにこの町に来たんだよ。生まれて初めて海を見て、あの舟に乗ってなあ」
おばあちゃんが山梨県出身であることはショックだった。もしかしてこのことを知っているのは死んだおじいちゃんと僕だけのような気がした。
「お見合いが成立しておじいちゃんちに来たわけ?」
「おばあちゃんがこの町で働くことによってな、山梨で暮らす親兄弟の生活が、いっときだがよくなったんだよ。それも三年辛抱すれば帰れるって約束があるからおばあちゃん一生懸命働いた。身体を壊して女将さんに迷惑かけたこともあるけど、病気が治るとそれまで以上に働いた」
「女将さんて旅館での仕事だったの、料理を運んだり掃除をしたりとか?」
おばあちゃんはまた僕の頭を撫ぜた。もうそのやさしい笑顔は観音様を超えていた。僕の髪を擦るおばあちゃんの掌から何かが、例えようのない、何か一切の苦痛を取り除いてくれるような、そんなパワーを感じた。
渡し船に八人の客が乗船した。そのうちの六人は観光客で、二人は地元の主婦のようだ。商店の少ない東側から買い物に来たのだと思う。買い物籠から飛び出した青いネギの先端が潮風に晒されていた。
「旅館か、そうだなあ旅館と言えば旅館勤めかなあ、おまえの考えている旅館の仕事とは大分違うけどな、女にとって、ましてや子供のあたし達にはきつい仕事だった。でもなかにはいい人もいてなあ、お小遣いをくれる人もいた。おばあちゃんなあ、そのお小遣いを自分の部屋の畳の下に貯めておいて、お祭りの日に屋台でおいしいものをたくさん食べた。でもな、弟や妹のことを思うと、あたし一人でこんなおいしいものを食べているのが悪いと思ってな、それでも涙流しながら綿飴やカルメ焼き食べていた。うちは貧乏だったから、いや村中が貧しかったら、甘いもんなんてそう食べられなかったからなあ。あたし一人でこんなおいしいものを食べていて、罰が当たるんじゃないかと思ったもんだ。しかし今になって考えると、町に売られて食べることに不自由しないあたしか、貧しいけど親と暮らせる兄弟の方が幸せだったのか、おばあちゃんは今でもわからない」
おばあちゃんの言った『町に売られて』というのを僕には理解するだけの知識もなかった。肉や野菜がスーパーで売買されるように人が売られるなど僕には想像できなかった。おばあちゃんは歳だから表現に誤りがあったのだと思った。
「昔の方が賑やかだったんでしょ浦賀って、軍艦造っていたりして」
「ああ、賑やかだった。お客さんもドックのひとが多かった。毎晩夕方になると客が押し寄せた。おばあちゃん一生懸命働いたけどなあ、どうしても好きになれないお客さんがいた。お酒臭いのや煙草臭いのは我慢できたけどなあ、おしりに毛の生えた人だけはいやだった。女将さんに、そんな人だけは勘弁してくださいと泣いてお願いしたけど笑って相手にしてくれなかった。『おしりに毛の多い人ほどやさしくてお金を持っているんだ』って諭されて、まだおばあちゃんも世間知らずの子供だったからその気になってなあ、女将さんの言うことを鵜呑みにしていた」
鈍感な僕はおしりの毛の話を聞いてもおばあちゃんの仕事内容を把握できないでいた。
「お金のため、家族のためと辛抱したけどな、おしりの毛を見るたびに涙がこぼれた。でもな、女将さんの言ったことはまんざら嘘でもなくて、お金持ちの人が多かった。良坊はおしりに毛が生えてるか?」
実は少し生えてきていた。父さんが毛深いので遺伝したのだと思う。でもおばあちゃんに嫌われたくなくて、悲しませたくなくて嘘をついた。
「たぶん生えていないと思うよ、特に気にしていないからわからないけど」
「そうか、良坊は毛が生えていないか、それじゃあお金持ちにはなれないかもしれないなあはっはっは」
「おじいちゃんは、おじいちゃんはどうだったの?」
「しーっ」
おばあちゃんは紫色の唇にしわくちゃの人差し指を当てて言った。
「よしおー、そろそろ駅まで行くよ」
下から母さんの声がした。もう五時を回っていた。
「おばあちゃんそろそろパレードが始まるよ。一緒に駅まで行こうよ」
「お前達は先にお行き、おばあちゃんはタクシー呼んでもらってあとから行くから。玲子にタクシー呼ぶようにそう言ってくれるかい」
駅まで歩くと二十分はかかる。去年は休み休みでも歩いて行ったのに、今日はあまり足の調子がよくないみたいだった。
「うん」
下に行くとまだ盛り上がっていた。
「さあ、最後の乾杯にしましょうかご主人、ご主人に付き合っていたら肝臓がいくつあっても足りない」
やはり徳山さんが仕切っていた。
「母さん、おばあちゃんがタクシー呼んでって」
「あら、だったら無理しなくても。休んでいるようにあたし言ってくるわ、だいたいタクシーなんて走れるわけないじゃない」
「母さん、タクシー呼んであげてよ、おばあちゃん行きたいんだよ、僕が付き添うから」
僕は二階へ駆け上がろうとした母さんの腕を掴んでそれを阻止した。どうしてもおばあちゃんに行って欲しかった。僕の咄嗟の行動にみんなは唖然としていた。
「良男君、でもおばあちゃんに無理させない方がいいんじゃないかねえ、転んでしまったりしたら足以外にも影響あるし」
恒三郎さんがおばあちゃんの足を気遣い言った。
「そうよ良男、社長の言う通りよ。おばあちゃんにはまだまだ長生きしてもらわなくては困るでしょ。みんなおばあちゃんの顔が見たいから、元気な姿がみたいからこうやって毎年集まってきてくれんじゃない。無理して足を悪くしたらそれこそ元も子もないじゃない」
「なにしろだめだよ、おばあちゃんを連れて行かなければ、山車を引っ張らせてあげなきゃ」
懸命に食い下がる僕をみんなは不思議そうに見ていた。自分でもどうして足の痛むおばあちゃんをそこまでして連れて行こうと粘っているのかわからなかった。ただどうしても連れて行きたかった。絶対に連れて行くんだという気持ちだけがとても強かった。
「でしゃばったこと言って申し訳ありませんが、私も良男君に賛成だ。雅子さんがパレードに顔見せなきゃ浦賀もいよいよ終いだ。ミス浦賀には多少足の悪いのは辛抱してもらって、なあに、良男君のお神輿かつぐ威勢のいい姿と一緒に、海ほたるの道先案内で浦賀の海岸を見せびらかして歩いてもらわなくっちゃ」
そう言うと徳山さんはグラスに残った日本酒を煽った。
「玲子、タクシー呼ばなくてもいいよ」
「ほら良男、父さんもそう言ってるし、どうせ陽子が留守番に残るから、おばあちゃん独りにするわけじゃないから」
「そうじゃないよ、俺がばあちゃんおぶって行くっていうんだよ。これだけ男がいてタクシー呼ぶことないだろう」
「あなた」
父さんが母さんにイニシアティブをとった。いつも黙って頷いている父さんが男らしく思えた。僕はうれしくて二階に駆け上がると、おばあちゃんは半纏を羽織って踊り場に立っていた。上がるときは手をついて四つんばいになればそれほど足に負担はかからないが、下りるときは誰かの支えがないと転げ落ちてしまう。僕は両手をしっかりと手摺で突っ張り、おばあちゃんの体重を肩に受けて一段一段を確実に下りた。途中から父さんが僕の胸を支えてくれた。
「こんにちは、坂下です。そろそろ出発しないとパレードに間に合いませんよ。あっ、ばあちゃん、今日は一度もお見かけしなかったんで気になって理事長に聞いたら、足の具合があまりよくないみたいだって言ってたから心配でお迎えにあがったんですけどこれだ、もう半纏着てやる気じゃねえかばあちゃん、安心した」
仁さんが涼風のごとく玄関に入ってきた。姉ちゃんが落ち着かない。台所と居間を行ったり来たりしている。
「ようしばあちゃん、おぶされ」
「ばかにするなよ仁、あたしはまだ重いぞ、小僧にかつげるか」
「なあに言ってやがるくそばばあ、ほらよっと、なんだうちのチワワより軽いじゃんか。しっかりつかまってろよ、ほうりゃあ、そうりゃあ、うーりゃあ、そうりゃあ」
仁さんはさっと来て、さっとおばあちゃんをさらって行った。お神輿をかつぐ掛け声で、屋台の並ぶ参道の人垣を縫うように消えていった。さっきまで僕達が悩んでいた、おばあちゃんの足の具合とか、タクシーを呼ぶ呼ばないとか、そんな面倒くさいしがらみも何も関係なくおばあちゃんを連れ去っていった。
「かっこいい」
姉ちゃんの一言に酔っ払いの親父達は追い出されるように駅に向かった。父さんは少し離れたところでアキレス腱を回していた。
「良男君は雅子さんが好きなんだなあ」
僕と徳山さんは父さん達から少し離れた後ろを歩いていた。
「失礼ですけど徳山さんはいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「父さんより少し上で六十ぐらい?」
「そうかい、そりゃあうれしいねえ。実は雅子さんとそれほど変わらない。変わらないといっても五つ六つは違う」
ということは七十歳をとっくに過ぎているわけで、世間では老人と分類されるわけだけど、とてもそんな風には見えなかった。背は父さんより高く、背筋もピンとしている。白髪に近いが量は多く、整髪量でバックにセットしている。生地のことなんかさっぱりわからない僕でも一目で高いと確信できる着物の上に半纏を羽織っている。父さんが借りてくるビデオに出てくるひとによく似ている。『死んで貰います』ってビデオを観たあと父さんが母さんに言っていた。母さんは『バーカ』と相手にしない。
「徳山さんはおばあちゃんの若い頃を知ってますか?」
徳山さんは僕の顔をじっと見つめた。角度を変えながらじっと見続けた。
「お気を付けて」
カルメ焼きを売っているテキヤのおじいさんが徳山さんに挨拶した。そういえば立ち並ぶテキヤのおじさん達やお兄さん達は徳山さんが前を通ると頭を下げている。
「ああ、ありがとう、あんたさんも身体をいといなさいよ」
カルメ焼きのおじいさんは徳山さんに声をかけられると深く一礼した。
「会長、今年も声をかけていただいてありがとうございます」
カレンダーを売っているおじさんがわざわざ店から出てきて徳山さんに深く一礼した。
「おう哲、ご苦労さん、しっかり売していきなさい」
「ありがとうございます」
カレンダー売りのおじさんは再度一礼した。
「そういえば君は善三さんによく似ている。右斜め上三十八度から見ると瓜二つだ」
善三さんとは死んだおじいちゃんの名前で、仏壇に書いてあるので僕も知っていた。徳山さんは笑って僕の頭をくしゃくしゃにした。
「おばあちゃんは浦賀の渡しでこっちに来たって言ってました。生まれは山梨県の山の方で、旅館の仕事をしに来たって」
不思議と徳山さんにはなんでも話せた。
「おしりに毛の生えたひとが嫌いだったけどお金持ちが多いから我慢したらしいです」
「へーっ、雅子さんそんなことまで君に話したのかい、そう、そんなことまでねえ、きっとおまえさんが好きで好きでたまらないんだろうなあ。ああようく知っているよ、雅子さんのことは。やさしいひとだったかどうかは深く付き合ったわけじゃないからなんとも言えないが、きれいなひとだった。とにかくきれいなひとだった」
徳山さんが懐からラークを取り出し、マッチで火をつけた。
「昔はこの辺もドックのおかげでとても賑やかでねえ。私が八歳だったかなあ、たぶん雅子さんは十四だったと思う」
タバコを深く吸い込み、空に向かって吐き出した。そしてぽつぽつと話し始めた。
「この浦賀の西と東を渡していた船頭の辰蔵さんは、来年からは蒸気船になるから私の仕事はなくなりますって言っていなさった。山の女を年中渡している辰蔵さんも雅子さんの大ファンだった。私と一緒でねえ」
『女将さん、山の女が東を出ました、船頭の辰蔵さんが櫂を振ってます』
渡し船が西の船着き場に寄せた。
『さあさあ、あがんなさい、おまえさん名前は?』
『はい、雅子といいます』
『いいかい、今日からこの人がおまえの母さんになるんだよ。言うことをよく聞いて、一生懸命働けば三年なんてあっという間に過ぎちまう。お客さんに可愛がってもらいない、そうすりゃあお小遣いをたくさんくれるから。弟や妹に甘いもんでもたくさん買って帰れるさ。なあに私が責任持って故郷(くに)まで送っていくから。あの渡し舟に乗って、東の叶神社で三年後のこの日この時に、きっちりと待っているからね』
「良男君、君は女衒という商売人を知っているかい。まあ知らなくて当然だ。人買いだよ。貧しい田舎の百姓の娘をね、買って遊郭に売り飛ばすんだ。昔はみんな貧しかったからねえ、奉公に出したり、女衒に売って、多くの家族の生活を支えたんだ。うちに出入りしていた女衒の安田という男を私は嫌いでねえ、人買いとか、彼の性格とかじゃなくて、唾をよく吐く男でねえ、一度玄関を出たところで私が踏んじまったんだよ。買ったばかりの靴の目にへばりつきやがってね、井戸で裏のゴムが減るほど洗ったもんだ。それ以来大嫌いになった」
『安さんありがとうございます』
『この子は稼ぎますよ。素直だし、なにしろ器量が飛び切りだあ。大事にしてやってください。おっそうだ忘れていた、ぼっちゃんチョコレートをあげよう』
『ほら正一郎、どこ行くの、ほら安田さんがチョコレートくださるって、もう変わった子なんだから。あとで渡しておきます』
僕は徳山さんの話を聞いていくうちにだんだん不安になってきた。おばあちゃんは山の女で、その山の女とは売られてきた女の人のことで、そして売られた遊郭という旅館のぼっちゃんが徳山さんであることに。
『雅子、こちら市会議員の吉田さんですよ、とてもいい人だからやさしくしていただきなさい。さあ先生どうぞ、昨日来た子なんですよ、よろしくお願いします。すぐに支度させますから』
『まさこのまさってどういう字かな、正しい、それとも昌、日が重なった?』
『違います、優雅の雅です。父さんがきれいな女になるようにって』
『そう雅子ねえ、名前に負けないきれいな子になったねえ。浦賀で一番いい女だよ。お父さんの願い通りになったわけだ。さあ、こっちにきてお酒を注いでくれないかい』
「雅子さんは一生懸命に働きなすった。父さんや母さん、弟や妹のことを思うといやな客とも明るく接することができたみたいだねえ。妹さんの歳が私と同じらしくてね、私のことをかわいがってくれましたよ。客からいただいたお小遣いで飴やかりん糖を買ってくれました」
『こら雅子、おぼっちゃんに触ったらだめだって言ったでしょう。おぼっちゃん、雅子から物をもらってはいけません。女将さんに言いつけますよ』
『治子のばーか』
「私は雅子さんを悪く言うひとがたまらなく嫌でしてねえ、そんなひとには罵声を浴びせては逃げたもんです。実を言うと初恋ってやつだな」
徳山さんがおばあちゃんを初恋の人だと言って驚いた。もしかしたら徳山さんがおじいちゃんになっていたかもしれない。
『お母さん、ちょっと出て来ますから』
『雅子、今晩ドッグの専務さんが社員を連れてくるのよ、おまえさんをご指名だからお願いね』
『はい。お母さんにお願いがあるの、いい?吉岡専務におしりの毛を剃るように言ってください』
『ああ、しっかりと伝えておきます。六時には戻ってね』
「もう年季が明ける年だから雅子さんも十八歳になる頃だねえ。うちでは欠かせないお女郎さんになっていなさった。浦賀でね、そうだなあミスコンとでも言ったらいいのかなあ、遊郭関係の人達でNo1を決めようって話が持ち上がってね、見事一等賞をとったのが君のおばあさん、雅子さんだよ。うれしかったねえ、内心は確信していたんだけどね、やっぱり決まるまでは胸が張り裂けるぐらいドキドキしたもんだ」
なんて言ったらいいんだろう。僕は徳山さんの今喋っていることは物語で、趣味で執筆活動をしているという徳山さんの架空の話であって欲しかった。でもさっき窓際でおばあちゃんが話してくれたことと、何もかもが一致するわけで、もし徳山さんが言っていることが事実ならば、おばあちゃんは売春婦であったわけで、それも管理されているから組織売春をしていたことになる。だけど中学生の僕にはどういう背景からそういうことになったかなどと余裕のある答えを出せなくて、なんだかおばあちゃんが汚いものに感じてしまった。徳山さんは搾り出すように六十年前の話を続けてくれた。たぶん僕が、おばあちゃんから『おしりに毛のある人は嫌い』と聞いたと言ったもんだから、僕が過去のすべての事実をおばあちゃんから聞いて知っていると勘違いして、六十年間封印してきた過去を明かしてしまったのだ。
『雷オコシ、お客さんにいただいたの、あとで食べて』
『ああ、いつも悪いな、近所のがき共喜ぶ』
『あら、辰蔵さんのおばあさんは嫌いなの?』
『いやあ好きさ、大好きさ。こんな銘菓滅多に口できねえし。三分の一に手で折ってな、そのひとつを口に入れて、歯がねえから、米粒がふやけてばらばらになるまで飴玉みてえにしゃぶってよ、お茶と一緒に流し込むんだ。ひとつ食うのに半日かかってよ、はっはっは』
『そうだったわねえ、おばあさん歯がないんですものねえ。あたしばかねえ、そうだ、こんだあのお客さん来たら羊羹にしてもらいましょう』
『気にするなって、オコシの方がくだらねえ説教聴かされる時間が少なくなっていいんだ』
「雅子さんは暇さえあれば辰蔵さんの渡し舟に乗っていなさった。客は大概ひとりかふたりだからねえ、櫓を漕ぐ辰蔵さんのすぐ前に座って、編み物しながらデートを楽しんでいたよ。片道十分のクルーズを、昼過ぎから夕方まで何往復もね」
『来週帰るのあたし』
『そうかい、そりゃあよかった。もう三年も経っちまったんだなあ。そうかいそりゃあほんとによかった』
『昨日女衒の安田さんが女将さんに話して言ったそうです』
『こう言っちゃあなんだけど、あんまり信用しねえ方がいいぞあの安田って男。ちらっと耳にしたんだが、故郷に返すと言って他の遊郭に売り飛ばすらしい』
『これ、腹巻』
『こりゃあいいや、ありがとう雅ちゃん』
「渡し舟の上で雅子さんが編みあげた腹巻が、辰蔵さんの腹を保温する前に不幸な悲しい事件が起きてねえ、雅子さんの年季明けの三日前だったなあ。約束の東叶神社でさ。なんて言ったらいいのか、後味の悪い事件だったなあ」
『船頭の辰っあん、なんだい話って?渡しが終えたんならそこらで一杯やりながら聞こうじゃないか。野郎二人で話すにゃあ寂し過ぎるぜここは』
『申し訳ありません、こんなとこにお呼びしてしまって。お時間は取らせません。ひとつふたつお訊ねしたいことがありまして。手短でいいんです。お願いします』
『雅子のことかい?』
『どうして雅子ちゃんのことって?』
『あんたと雅子が好き合っているのをこの浦賀で知らないもんはいないよ。沖で飛び跳ねるイルカだって知ってるさ。それで雅子がどうしたって?』
『はい、あの子は本当に故郷に帰れるんでしょうか?親元に帰ることができるんでしょうか?』
『辰っあん、その手の話は企業秘密ってやつでねえ、情に流されて口外するとろくなことはないって過去の教訓だ。話すわけにはいかないねえ』
『そうですか、お願いします。雅ちゃんを無事故郷まで連れて行ってやってください。この通りですお願いします』
『おいおい、立ちなさいよ、そんな砂利に額をこすり付けてみっともない。板子一枚地獄で命張って仕事なさってるおまえさんが、外道の私に頭下げているのを子供等にでも見られたらそれこそ大変だ。私はもうこの浦賀には顔を出せなくなるよ、さあ上げた上げた』
『お願いします。お願いします。雅子を故郷へ』
『私もやくざ失格かねえ。さあ立ってください辰蔵さん。お話しいたします。実はね、故郷の父親から便りがありましてね。信州の帰りに立ち寄ってきました。弟が村を離れて上の学校に進むそうです。しかし貧しい村だあ、そんな金なんてありゃあしねえ。みんな痩せちまっている。それでも食うもん我慢して子供の教育を優先しているんでしょう。それでね、その資金を雅子で支払いたいって父親がねえ、母親は傍で泣いていましたが、それ以外に策なんてありゃあしないんでしょう。もう三年分の奉公代を渡してきました。もちろん三年前とは桁が違う。私が帰るときに両親は土間に土下座して雅子をお願いしますって、今のおまえさんみたいにねえ、まっとうな人間が人買いの私にだよ』
『安田さん、お話しいただきありがとうございます。無理を承知でお願いがあります。私にその金を払わせてください。現金じゃ無理かもしれないけど、毎日稼いで少しずつでも必ず返します。お願いします。この通り』
『おまえさんそんなに雅子に惚れているのかい。だったら雅子をさらって逃げたらどうだい。そりゃあ追っ手はかかるが首尾よく逃げ切れることだってある。いっそのことあの渡し舟でどこかの島に消えてしまうことだってできる。やくざに頭下げるような下品をやらかすよりその方がよっぽど様子がいいと思うがねえ。でもおまえさんにはそれができない、年老いたばあさんは、あんたの稼ぎで生活している兄弟は、そんなしがらみから抜け出せないひとはねえ、無理をしねえこった。そんなことは雅子の方がよっぽどわかっているよ。それがいやだったら私を殺す以外にないよ。私は行くよ。この階段を下りて鳥居を潜るまでに答えを出しなさいよ。鳥居から先は神様の管轄外だ。あたしもやくざだからね、邪魔するもんには身体を張ってそれを守るからね』
「狛犬の台座に置かれた出刃包丁は、安田の腰から内臓を突っ切って臍から刃先がのぞいていたらしい。安田は階段から転げ落ちて鳥居の基礎にぶつかって止まっていた。辰蔵さんは翌朝漁師小屋に隠れていたのを通報され捕まった。逃げる気なんかなかったみたいだ、正直な人だから。素直に後ろ手に手錠をかけられて二人の警官に挟まれてうちの敷居をまたぎなさった」
『女将、雅子を呼んでくれ』
『辰蔵さんじゃないか、どうしたんです?』
『殺人だ、昨夜東の神社で女衒の安田という男が一突きで殺された。そして今朝方隠れていたこの川上を連行し問い質すと犯行を自供した。それで雅子に聞きたいことがあってな』
『た、辰蔵さん、どうしたの?なんで?嘘でしょ、ねえ嘘でしょ』
『雅ちゃん、こんなもんさ、渡しの船頭にはちょうどいい結末さ』
『雅子、これを確認してくれ、おまえの父親が安田に宛てたものかどうか。川上が安田の懐から奪ったと自供している』
「いくら弟の進学のためとはいえ、父親が一言の連絡もなく安田に売ったことがショックだったんだろうよ雅子さんも。努めて明るくしていたのも、三年辛抱すればって思いが強かったんじゃないのかねえ」
『どうして、辰蔵さんどうして、あたしを好いてくれているならどうして連れて逃げてくれなかったの。逃げ切れなくても一緒に死のうってどうしてそうしてくれなかったの』
『そんな気が利きゃあ雅ちゃん、渡しの船頭なんてしちゃいねえよ。身体を大事にな、すぐにでもお金持ちのいいひと見つけて所帯を持つといい』
『辰蔵さん』
「雅子さんはそれから三日三晩渡しの桟橋で泣いていなさった。浦賀に海ほたるが増えたのは雅子さんの涙だと当時の年寄りが言っていたよ。結局ね、うちの母親が雅子さんを引き取った。安田と契約していた東京の遊郭にお願いしてねえ」
『雅子、おまえ幸せもんだよ、ドックの竹田さん、ほら吉岡専務の鞄を大事そうに抱えているメガネかけた若い人。あのひとねえ、網元の三男坊でね、あんたを初めてここで見かけたときから好いていたらしい。まあ当然親御さんは反対したらしいけどそれを押し切って決めたらしいよ。ねえありがたい話じゃないか』
『はい』
「抜け殻のようになってしまった雅子さんに先を考えるゆとりなんかなくて、周りの人達が敷いたレールに黙って乗るだけだった。でもねえ、さんざん試練を与えた神様もそれを解いてくれたんだろうよ、いい人だったねえ良男君のおじいさん。雅子さんの生い立ちからすべてのことを納得して一緒になったそうです」
『この家は父に金を出してもらいましたが少しずつ返していきます。浦賀の渡しと東叶神社がよく見えるよう二階建てにしてもらいました。君にまつわった噂は人伝に聞いています、すぐに気持ちを整理できる簡単な経験じゃないと思うし、君からすれば好きでもない僕のところに嫁にくるなんて心外かもしれない、だけど僕の気持ちに偽りのないことだけは信じて欲しい。君に気持ちの整理がつくまで、その窓から見える神社の幟や渡し舟が、君の胸に溶け込むまで、僕はいつまでも待つから』
「善三さんがそんな気障なせりふを吐いたかどうかは私の想像ですけどね、それだけの広い心で雅子さんを迎え入れたのは間違いないでしょう。やがて幟も渡し舟も一枚の額縁に納まったころ、真吉さんや君のお母さんの玲子さんが誕生なさった。出世街道を進んでいた善三さんはドックの事故でなくなったがね。まあ雪解け後の春のような生活を十年近くは過ごせたんだから幸せだったといってもいいんじゃねえかなあ。たぶん真吉さんも玲子さんも雅子さんのつらい時期のことは聞いていないと思う。まあそんなことは知らずにすめばそれにこしたこたあねえけどな。私と君の胸の中にしまっておこうじゃないか、なあ良男君、これからずっとさ」
おばあちゃんの過去をその目で見てきた、七十歳をとうに過ぎた徳山さんと、十五歳になったばかりの僕は共有の秘密を持つことになった。失礼な話だけど、平均寿命から考えてみても徳山さんはもうじきという感じだからいいけど、僕はこれから先、年老いてからこうやって打ち明けられるひとが出てくるのだろうか。この美しい浦賀の海に面した町で起きた悲しい事実を、僕で終わってしまうのかもしれない。でもお父さんが借りてくるビデオの世界を、僕のおばあちゃんが経験していたなんて不思議でならなかった。そしてさっきおばあちゃんを汚いと感じた自分が、なんだかとても侘しく思えてきた。
浦賀の駅前はパレード関係者とその観光客とでごった返してした。僕にすべてを明かした徳山さんは、自身が暮らす町内の集合場所へ行った。おばあちゃんは稚児さんとガードレールに腰をあずけて、彼女達が帯に挿んだポケベルのストラップを掌に取り、目を細めて、その先にぶら下がったキャラクターがなんであるか当てようと必死になっていた。僕が近づくとおばあちゃんより先に稚児さんが気付いて、「あっ甥っ子」だ」と大きな声で言い、指差した。
「良男のこと知ってるのかい?仲良くしてあげてね」
「知ってるよ。お祭り馬鹿って理事長が言ってた」
僕は笑ってごまかし、おばあちゃんのところから離れ、お神輿の側に寄った。モヒカンがじっと僕を見ている。ニタッて笑った。手招きしている。仕方なく近寄ると身体から酒そのものの臭いが鼻を刺した。
「おめえよう、途中で逃げ出しちゃだめじゃねえか。一度肩を入れたら最後まで神様に触れていねえと罰が当たるぞ。こっから宮入までは肩抜かねえでがんばってみろ。なんかいいことあるから、なっ」
「はい」
モヒカンに崇高な説教をされるととても不思議な感じがした。そういえばインディアンも神を崇めているわけで、まんざら繋がりがないでもないと思った。僕はお神輿の一番後ろをかついだ。おばあちゃんは山車の一番前を母さんと並んで引いていた。僕は絶えず後ろを振り返りおばあちゃんに笑顔を振りまいた。僕らの想像もできない悲しみを胸に隠し持っているおばあちゃんに、嘘の笑顔でもいいから投げかけたかった。せめて僕といるときだけは楽しくいて欲しかった。僕は恥ずかしさを我慢してお神輿を一生懸命かついだ。誰よりも声高に、威勢よく、腕を突き上げておばあちゃんの声援に応えた。おばあちゃんが入れ歯をむき出して笑うのがうれしかった。母さんがおばあちゃんを支えているのがうれしかった。父さんが嫌々だけど付き合いで山車を引いてくれているのがうれしかった。浦賀の海岸淵をパレードし、海ほたるに見つめられているのがうれしかった。
宮入がすんだのは十時を回っていた。真吉伯父さんがお神輿を納めようとすると、モヒカンを頭とした神輿馬鹿集団がそれを阻止するのである。永遠と神社の境内で暴れまくるお神輿を地元観衆が煽り立てる。しかしいくらインディアンの血を継いでいても体力には限界があり、真吉伯父さんの魔法の両手によってお神輿は正常な上下運動を取り戻し、渇いた拍子木の音が上気した空気を切り裂いた。そして所定の場所に落ち着いた。モヒカンが酋長に見えた。
うちに戻ると山車を引き終えたおじさん達がすでに酒盛りをしていた。
「さあさあ、めでたい席だ乾杯しましょう」
最初から徳山さんのリードで進んでいる。
「おばあちゃんは?」
「さっきシャワーをお浴びになって庭で涼んでいますよ」
姉さんが余所行き言葉で言った。仁さんの横にぴったりとくっついて接待している。
「椎茸どうですか?少ししょっぱかったので味を直したんですけど」
「美味いっすよ。ちょうどいい」
「よかった」
母さんと麻子さんが何時間もかけて直した味なのに、姉さんがすべてさらってしまった。おばあちゃんは駐車場の車止めに腰掛けていた。
「おう、良坊、疲れたろ。カッコよかったよ」
「疲れやしないよ。もっとかついでいたかったけどいつまでも振り回していたら真吉伯父さんに悪いし」
「そうか、やさしいなあ良坊は。そうだ桟橋まで夕涼みに行こう」
桟橋に腰をおろすと、風が少し強かった。それと満潮が重なっていて、小さな波しぶきが岸壁に当たり、それが足に跳ねて冷たかった。おばあちゃんは対岸を見つめていた。
「あたしはねえ、ここに、あの舟に乗って売られてきたんだよ本当は、旅館勤めなんて嘘でね、男に身体を売っていたんだよ」
「徳山さんから全部聞いたよ。家族のために売られたことや、渡しの船頭さんのことも、おじいちゃんとの出会いとか、色々話してくれた」
「そうかい。徳山のおぼっちゃんがねえ。立派な侠客だけど歳のせいで口元がゆるくなってしまったんだよきっと」
そう言うとおばあちゃんは笑って僕の頭を撫ぜ、口をつぐんでしまった。徳山さんから聞いたと言わない方がよかったかもしれない。そうすればおばあちゃんを無口にさせずにすんだかもしれなかった。
「ほら良坊海ほたるがいっぱい」
足元を見るとものすごい海ほたるの大群が僕等を見つめていた。
「あたしも初めてだよこんなのは」
海ほたるはおばあちゃんの涙だと徳山さんが言っていた。もし本当にそうだったらこれくらいの数がいてもおかしくないと思った。おばあちゃんが僕の肩に手を回した。
「さあ、そろそろ終いにしようか、お迎えが来たみたいだし」
僕にはその言葉がどういう意味だったのかわからなかった。ただおばあちゃんの胸のふくらみが以外に大きく柔らかかった。
「いいか、良坊、その話は絶対に喋っちゃ駄目だぞ」
そう言うとおばあちゃんの顔が僕の肩に落ちてきた。
「おばあちゃん、おばあちゃんたら、眠っちゃだめだよ、風邪ひくよ、ねえおばあちゃんたら、おばあちゃん、おばあちゃんてば、おばあちゃん、おばあちゃん」
僕のおばあちゃんを呼び続ける声を聞いた近所の人が交番に知らせてくれた。
「救急車、お願いします。ええと呼吸停止、気道確保、人工呼吸開始」
お巡りさんは実際には体験したことがないようで、想い出しながら人工呼吸をはじめた。ハンカチもタオルもあてがわずおばあちゃんの鼻をつまんで口に息を吹き込んだ。お巡りさんの息がおばあちゃんの胸を膨らました。
「循環のサイン確認一二三四五六七八九十、呼吸なし、心臓マッサージ一二三四五六七八九十十一十二十三十四十五」
お巡りさんは何度も繰り返した。僕はじっと見つめていた。涙があふれて止まらなかった。おばあちゃんが生き返るくらいうれしいことはないが、いくらお巡りさんが頑張っても、おばあちゃんはもう生き返らないような気がした。いやもうおばあちゃんは善三おじいちゃんや辰蔵さんと一緒に、あの小さな舟でクルージングを楽しんでいるような気がした。それぐらい楽しそうな顔をしていた。お巡りさんは手を止めることができなくなっていた。すぐ横で覗き込んでる僕に気を遣ってくれていたのかもしれない。帰りが遅いと心配して真吉伯父さんが小走りに寄ってきた。紋付袴に下駄を履いて、神社での神事をすませ、そのままの格好だった。もしかしたら虫の知らせというやつがあったのかもしれない。救急車も到着して隊員がおばあちゃんを担架に乗せようとした。心臓マッサージを繰り返すお巡りさんの肩を真吉伯父さんがやさしく叩いた。
「ありがとうございます。でももううちのばあさんは天国に逝っちまったようです。この顔みてやってください。こんなやさしいおふくろの顔なんか今まで見たことがありません。ほんとにありがとうございます」
真吉叔父さんはお巡りさんに深く礼をした。お巡りさんは唇を噛み締めていた。
「お願いがあります。今晩のところはうちへ引き取らせていただけませんか、いや規則はわかりますがなんとかお願いします。祭りの晩を、最後の晩を、おふくろにしっかりとうちで過ごさせてやりたいんです。お願いします」
休憩していた年配の警官が、若いお巡りさんと救急隊員に目配せをした。薄ぼんやりとした月がおばあちゃんを囲んだ僕らを照らしていた。真吉伯父さんはおばあちゃんをおぶって歩き出した。
「おふくろ、祭りの日に死ぬなんておふくろらしいや、それにおふくろのその血を引いた良坊に看取られて、こんな往生はねえぞ、幸せもんだおふくろは」
真吉伯父さんは背中のおばあちゃんに話しかけていた。あとは涙と鼻水をしゃくりあげる音でよく聞き取れなかったが、ずっとおばあちゃんに話しかけていた。僕は少し離れた後ろから、蛙のような格好したおばあちゃんをずっと見ていた。
「そうだ良坊、これからうちまで『ばあちゃん神輿』かついでいくべー。なっ、今日は俺がはな棒でおまえがしっかりと後ろで支えてやってくれ」
真吉伯父さんの顔は真っ赤で、目から下は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。伯父さんの肩に乗ったおばあちゃんの顔は生きているようだった。そして月よりも白かった。
「うん」
「なんだ良坊、顔拭け、ぐちゃぐちゃだぞみっともねえ」
たぶん僕の顔も真吉伯父さんと同じだったのだろう。
「そうれーっ行くぞーっ。そうりゃあ、ほうりゃあ、うーりゃあ、そうりゃあ、こうりゃあ、そうれい」
僕はおばあちゃんのおしりを片方ずつ持ち上げるように押さえた。
「ほうりゃあ、そうりゃあ、そうれい、こうりゃあ、そうれい、こうりゃあ」
「どうしたっ元気ねえぞーっ。ほうりゃあ、そうれい、くうりゃあ、そうれい、こうりゃあ、そうりゃあ」
そうりゃあ、こうりゃあ・・・。
「そろそろ帰るよ。終電に間に合わなくなるから」
僕は三回忌という宴会を繰り広げている人達に一礼した。徳山さんがウインクして見送ってくれた。西叶神社の下で『おばあちゃんをよろしく』と手を合わせて海岸に出た。桟橋から海岸淵を歩いて浦賀の駅に向かった。昔は大きな船がたくさん造られていて、それが進水するときは道路にまで海水が冠水したらしい。東の桟橋に蒸気になった渡し船が停泊している。もう山の女はあの船に乗らない。山の女がいなくなったのかどうかはわからない。
ドックの近くまで来ると海ほたるの大群が、いやおばあちゃんの涙が僕を見送ってくれた。明日からは真剣に受験勉強をしなければならない。浦賀に来るのはこれが最後のような気がした。それはお祭りが面倒くさくなったわけではなくて、おばあちゃんが僕に残した遺言を守るためである。おばあちゃんだけじゃない、徳山さんとも二人の胸にしまっておこうと約束した。これから先ずっと。
『最終登り電車が発車しまーす』
駅員の声は鼻にかかっていた。
了
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