祭囃子を追いかけて

壺の蓋政五郎

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祭囃子を追いかけて 9

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「じゃあ行ってきます」
 カズは賢治と目を合わせず、口に手を当て頭を下げた。笑いを我慢しているのがわかった。二人は軽自動車に乗り込んだ。賢治の視線は車のあとを追っている。駐車場から道路に出る手前で、カズの笑い声が爆発した。格子の入った小さな荷台の窓越から、バックミラーを見る明と目が合った。賢治は下腹部の膨張過程をしっかりと見られたのを悔やんだ。
 居間で浴衣を脱いで世津子を呼んだ。
「おい、世津子、一発やらせてくんねえか」
「いらないってもう、気持ち悪い」
 世津子の一言で下腹部の血流が、潮が引くようにさっと本流に合流していった。
「なんか食わしてくれない、仕事行くから」
「鍋にすき焼きが残ってるからすき焼き丼で食べて」
 表で洗濯物を干しながら世津子は言った。
「あっいけない、番屋の掃除に行かなくちゃ」
 すき焼きで想い出した世津子は掃除道具一式を抱えて御仮屋に向かった。広げかけた拓郎のワイシャツが左肩下がりの不恰好のままぶら下げられていた。
賢治は作業服に着替えて台所に立った。鍋の蓋を取ると肉は一欠けらもなく、春菊とえのきが複雑に絡み合っている。角のとれた焼き豆腐にちぎれたうどんが被さっている。
 丼にご飯を盛り、具が混じらぬよう慎重に汁だけをお玉ですくってかけた。汁と一緒にぐったりとしたエノキ茸が一本飯の上に乗ってしまった。賢治はそれを箸でつまみ上げシンクに放り投げた。
「ばか野郎、おめえなんか食わねえっつうの」
 
「あら、お母さんすいません、すっかり忘れちゃって」
「いいよいいよ、あたしがやっておくから賢治の食事の支度でもしてやって」
「支度してから来ましたからもういいんです」
「そうかい、それじゃあゴミだけあたしが持って帰るから掃除はお願いね」
「はいわかりました、あっ濡れてる」
「賢治が鍋を蹴飛ばしてひっくり返したんだよ、雑巾持って来たかい?何回か拭き取らなきゃだめだよきっと、今晩務める人に迷惑だよ、まったくだらしがない子だよう」
 サキはそう言って番屋をあとにした。手にはこぼれたすき焼きの具を新聞紙に包めて持っている。新聞紙の隙間から染み出た水滴が、アスファルトの上に溜まった乾いた土埃を直撃する。小さな噴煙が上がる。
 世津子は御仮屋の裏の流しに行き、バケツに水を汲んで、汁の染み込んだ畳を何度も拭き取った。四つん這いの格好で道路に尻を向けているので、通勤のサラリーマンが世津子の掃除姿に見惚れている。
 
 世津子が賢治と玲子の浮気を知ってから、夫婦関係はほとんどなかった。世津子の欲望が萎えたわけではなく、むしろ激しさを増していった。たびたび賢治が求めてくるが、世津子は我慢してそれには応じないでいた。くじけそうになるがここで身体を許してしまえば賢治の浮気を容認してしまうと考えていたからである。しかしその欲望も限界に達してきていた。誰かにつつかれたら弾けてしまうほどに熟れていた。
 その欲望からか、賢治の裏切りに対して報復してもよいと考えるようになっていた。自分が浮気をするのは賢治に対する報復であり、欲望を満たすためではないと言い聞かせても、それは空しい言い訳に過ぎないと世津子もわかっていた。賢治はあと十日足らずで刑務所に行ってしまう、もし服役中にそのチャンスがあれば世津子は欲望に負けてしまうだろう。特に竹内に誘われたらすぐに受け入れてしまう淫らな自分を否定しなかった。賢治には見せたことのない姿態を曝け出して、竹内にむしゃぶりつく自分を想像して頬が紅潮した。畳を拭く手に力が入った。
「こんにちは」
 世津子が振り返るとベンツから手を振る竹内だった。
「あら、竹内さん、今想像していたとこなんです」
 世津子は咄嗟に出てしまった言葉に恥ずかしさが込み上げた。
「それは光栄ですね、実は香織ちゃんのことで相談があるんですけどお時間ありますか?」
「香織が何か問題でも起こしたんでしょうか?」
「いやいやそんなことじゃありません、香織ちゃんは一生懸命にやってくれてます。チーフや料理長からも絶大な信用を得てがんばってくれてます。実はお話というのは香織ちゃんの将来のことで少し世津子さんの考えを聞かせていただきたいなあと思いまして寄らせて貰いました。賢治さんはお仕事ですか?」
「ええもう行ったと思います」
「うわーっお祭りですか、そういやあ賢治先輩高校のときから神輿に燃えてましたからねえ、いいなあお祭りかあ」
「竹内さんもお神輿かつぎに来てくださいよ、かつがなくても遊びにいらしてください」
「ええ、都合がつけば必ず寄らせて貰います、世津子さんお掃除ですか?終わったら送っていきますよ」
「いやもうお掃除は終わったんですけど」
「あっ、じゃあどうぞどうぞ、汚い車ですけど」
世津子は、すき焼き鍋の中に取り皿や箸を入れ、布巾を被せた。助手席のドアが開けられた。
「十分ぐらいのドライブ付き合ってくれますか」
「ええ、はい」
 番屋の掃除を終わらせてしまえば今日は特に用事はない、十分と言わず夕方まで付き合ってもいいと内心思っていた。
 竹内は車をユーターンさせて、モノレールの下を鎌倉山に進んだ。鎌倉山のロータリーで車を停めた。桜の枝が頭上を覆い、焼けたボンネットを労わってくれている。スピーカーからはスローテンポのサックスが邪魔にならないほどよいボリュームに調整されている。
「実は香織ちゃんから先日告白されました、勘違いしないでくださいよ、高校を辞めてうちで働きたいと彼女が言いました。僕は卒業してからでも遅くはないよと説得してみたんですけど香織ちゃんもかなり悩んで結論を出したらしく、強い決意が感じ取れました。うちの料理長は黄という台湾人ですが、彼の元で修行したいと申し出たらしいです。黄が言うには、料理に打ち込む情熱を感じると言っていました。彼は経験から、彼女の思いがよくわかり、自分では説得するだけの自信がなくて、僕に相談に来たんです。それで僕が香織ちゃんを呼んで、真意を確かめたところ、高校を辞めて修行したいと告白したのです」
 竹内はそこまでを一気に話し終えると窓を細めにあけ煙草に火をつけた。
世津子を気遣い煙草の先をその隙間から外に出している。吐くときも口を窄めて狭い隙間から暑く湿った外気に吹き出した。三分の一も吸わずに灰皿でもみ消した。揉み消すときに発生した煙だけが車内を一周した。
「すいませんね、こればっかりは止められなくて、やらない人には不快でしょうねえ」
「私も以前は吸っていましたから、嫌いで止めたわけではないんですよ、土地柄かしら、なんか嫁が煙草を吸うのはいけないことのような感じがして、私の考え過ぎかもしれませんが」
 香織の決意より竹内の息が気になった。僅かな煙草の残り香以外は無臭で、賢治が放つ生臭さや酒臭さは竹内の息には一切なく、内臓まで清潔なのだろうと感じてしまう。
「一本吸ってみようかな、五年前に同窓会で吸って以来だわ。一本いただけますか」
「はい、たまに隠れてやるのもいいもんですよ」
 竹内が差し出したラークを咥えると、洒落た細いライターで火を点けてくれた。竹内の手を世津子は両手で覆った。車内に火を揺らす風はなく、両手でカバーする必要などなかったが、そうしてみたかった。だが竹内の女のように細く白い手に、家事の染み込んだ赤みがかった手を被せたことを後悔した。産毛のようにやさしい竹内の手首の毛が世津子の掌を刺激した。噎せた。久々の煙草が咽喉を刺激したわけではなく、竹内の毛に触れたことにより息が詰まったのだ。
「大丈夫ですか、ふかすだけにしたら」
「はい、でももったいないからもう少し」
 世津子は軽く吸い込み天上を向いて煙を吐き出した。
「ゴジラみたいでしょ、悪友からよくからかわれたわ」
 竹内は世津子の手から煙草をそっと引き抜き、それをひとふかしして灰皿でもみ消した。その行為で世津子の自制心は崩壊してしまった。竹内の首に抱き付き、唇に吸い付いた。
 ロータリーを回る定期バスに乗る客の一人が、窓ガラスに両手を当てて見ている。竹内が世津子の髪に手串を入れ、親指を耳朶に当て世津子の顔を起こした。女の扱いに手馴れている竹内に、世津子の剥きだしの欲望は始めからわかっていた。
「世津子さん、これ以上一緒にいると狂ってしまいそうで怖い、あなたの魅力に自制を失いそうだ。送っていきます」
 鳥肌が立つような弄びの言葉も、世津子にはそれが嘘だと見破るだけの理性はどこかに飛んでしまっていた。弾けてしまった欲望の波はそう簡単に静められない。世津子は両手を股間に挟み、深呼吸をして竹内の判断を待った。
 ロータリーを半周して江ノ島方面に進路を取れば彼と深い関係になるだろうし、一周して大船方面に戻れば世津子の期待は達せられない。竹内は二周して鎌倉山の住宅地へと進んだ。竹内も迷ったのであった。
 このまま旧友の女房と関係を持つか、それとも深入りは止めた方がいいのか、この場では結論を出さずに鎌倉山方面に車を走らせた。この方向に行けば世津子を自宅まで送って行くのになんの不自然さもないし、来た道をそのまま戻って世津子に恥をかかせることもなく関係を維持できる都合のよい選択肢であると判断したからだ。
「たばこもう一本くれる」
 竹内は一本を口に咥えて車のシガライターで火をつけ世津子に渡した。炎と違い、熱で焼ける煙草の巻紙が、一瞬車内に不快な臭いを充満させた。
世津子は窓を細く下ろし、思いっきり吸い込み、そして思いっきり吐き出した。煙草の煙を吐き出すというより、欲望の気を少しでも吐き出したかったのだ。
 御仮屋の前に停まった。
「また連絡します」
 竹内は世津子の方を向かずに静かに言った。世津子も正面を見たまま頷いた。できることならこのまま関係してしまいたかった、その方がけじめがついていいと思った。賢治に知れても、言い訳などせず責任を取ろうと考えていた。しかし、このまま別れてしまえば、関係してしまった以上に罪悪感を強く持つだろう。ドロドロの欲望も体内に沈殿して、ドラマのラブシーンや公園での恋人達の戯れなど、男女の接触を見るたびに沸き上がってくるに違いないと。  
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