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祭囃子を追いかけて 12
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「本家にも言ったの?」
「ああ勿論」
「なんだって?」
台所からまな板を小気味良く叩く音が聞こえる。重太郎の再婚相手、博子が来ている。生まれ故郷での最後のお祭りを三人で過ごしたいと、重太郎の強い希望であった。
「別にどうもこうもないさ、父さんが決めたことだから兄貴達も特に何も言いはしなかった。ただ困ったことがあったら連絡しろって」
消したばかりなのにまた煙草をくわえた。吸いたいのではなく、緊張すると煙草を吸う癖がある。
「それでなあ、おまえに相談しておかなければならないことがあるんだ。相談というよりもお願いかなあ」
「なに?、それより父さん煙草吸いすぎだよ。僕の前で緊張してたら向こうに行ってどうなんの、煙草くわえっ放しになるよ」
重太郎は半分ほど吸って、笑いながらもみ消した。
「止めるか、これを機会に」
「無理すんなって、減らせばいいじゃない」
「ああそうする。ところでこの家のことなんだけどなあ、父さんにはもう必要ないんだ。それでな、父さんもあいつも同意見なんだが、おまえに譲ろうと思っている。建物はじいさんが死ぬ前に一度改修したっきりだから、二十年以上経っていて価値はほとんどないけど、土地は結構な価格になるらしい、二番目の兄貴が不動産屋だから調べてもらったんだ。どうする?」
「どうするって?」
「はーい支度できたわよ、暑いけどすき焼き、話の続きはつっつきながらどうですか、ビールも冷えているし、あたしも仲間に入れて」
食事の誘い方まで死んだ洋子にそっくりなので、二人は顔を見合わせて笑ってしまった。
「えっ、すき焼き」
俊夫はすき焼きなど大学に入ってから食べた記憶がなかった、それが二日続けて食せる偶然に驚いた。
「あら、俊夫さんすき焼き嫌いなの?」
「そんなことありませんよ、大好きです」
「そうだろう、おまえすき焼き大好きだよなあ、父さんの勘違いじゃないよなあ」
重太郎は俊夫の答えに安心して煙草をくわえた。
「重太郎さん、これから食事ですよ。煙草止めてください」
重太郎はくわえた煙草をケースに戻した。博子が煙草盆を自分の方に摺り寄せた。
「重太郎さん吸い過ぎ、それに煙草を味わっているって感じじゃないの、緊張すると火をつけるの、条件反射みたいに、あまりカッコよくないわよ」
真っ黒の瞳を輝かせ、額に垂れたおかっぱ頭を、首を振ってかきあげた。
「そうだな、なんで緊張しちゃうのかな、もう五十だしなあ、少しは余裕のある態度みせないとな」
そう言いながらシャツの胸のポケットをまさぐった。
「こっちです」
博子がキャビンのケースをつまんで重太郎に見せた。三人がテーブルについたときにはぴんとしていた春菊に程よく火が通り、焼き豆腐の上に覆い被さった。
「さあどうぞ、お肉まだありますからたくさん食べてください、重太郎さんも俊夫さんも、あっそうそうビール出さなくちゃ」
博子は冷蔵庫からビールを出し、二人に注いだあと、自分もグラスを持ち、重太郎に催促した。
「注いで」
重太郎は俊夫の前でも構わず甘える博子が恥ずかしかった。俊夫の視線を気にしながら博子の差し出したグラスに荒っぽくビールを注いだ。いつもこうやっているのかと息子に察しられるのがとても照れ臭かったし、既に十年経ったとはいえ、まだ十年である、洋子のことを忘れて博子と年甲斐もなくママごと的な生活を楽しんでいるのだと俊夫に思われたくなかった。こぼれそうになった泡をあわてて博子が口に運んだ。その泡が口髭のように薄紅の唇の上に付着した。
「泡、泡ついてるよ」
「重太郎さんがやさしく注いでくれないからでしょ、拭いて」
博子が重太郎の方へ顎を突き出した。
「そ、そんなこと、おい、俊夫たくさん食べなさい」
重太郎はまた胸のポケットをまさぐった。胸のポケットにないとわかるとズボンのポケットに手を突っ込んで煙草を探している。
「そんなとこにはありません、ここです、ここにあります」
おかっぱ頭をかきあげるのが癖で、前髪を跳ね上がると悪戯な瞳がはっきりと窺えた。不器用な父親であっても、陽気で積極的な博子となら上手くやっていけるだろうと俊夫は思った。人と接触することが苦手な重太郎にとって秋田で農業をするのは、こっちにいて会社勤めをしているより性に会っているだろう。向こうに行けば兄夫婦と母親、それに博子以外に接する必要はほとんどない。苦手な近所付き合いは活発な博子に任せて、ひたすら田や畑で汗をかけばいいのだ。三本目のビールが空いた。
「もう一本出しましょうか」
博子が台所にたった。
「僕にも必要ないよこの家、父さん達で処分したら、多少の蓄えになるじゃない。僕はバイトしながらでも学校は行けるし、一人でこんな広いとこに住んでもしょうがないよ」
「お節介かもしれないが学費は父さんに面倒看させてくれ。まあ小遣いまでは無理かもしれないが生活費の足しになるくらいの仕送りはするつもりだから」
博子が席につき、話の邪魔にならないようにそれぞれのグラスにビールを満たした。俊夫はグラスに手を添え軽く頭を下げた。
「ありがとう、でも無理しないでいいから。僕は今言った通り要らないよ。ここから学校に通うんじゃ二時間はたっぷりかかるし、父さんの折角の仕送りも三分の一をその交通費で消化してしまう。時間もお金ももったいないよ、その分寝ていた方がずっといい」
「ねえ、悪いけど一本くれないか、どうも決まりがつかなくて」
博子は仕方なく一本を引き抜き、自分でくわえて火をつけ、重太郎に渡した。重太郎の照れる顔を見て楽しんでいる。
「それじゃあ父さんの希望を話そう、おまえが受け入れる入れないは別として聞いてくれ。父さんがおまえに残せるものはこの家と土地しかないんだ。私は、彼女の実家に行けば立派な住まいを無償で提供してくれるから必要ない。本当は彼女の家族に迷惑をかけたくないから、アパート暮らしをしようって提案したんだけど、彼女の兄さんに、その方がよっぽど迷惑だってそう言われてなあ、だいたい近くにアパートなんてないし、それに冬場は雪に埋まってしまって容易に行き来なんて出来ないらしい。おふくろさんは足腰が不自由だから彼女と兄嫁さんと、交代で世話をしなければならないだろう、だから同じ敷地で生活した方が何かと都合がいいんだそうだ」
「大きいの、家?」
「ああでかいぞ、ここの三倍以上ある。うちの本家よりもっとでかいし、まだ築三年で新居同然なんだ。部屋数は七以上あるよな、それに大広間があってこれが三十畳ぐらいはあるんじゃないか、なあ」
重太郎が博子に確認した。
「あたしの兄が結婚したときに父に建ててもらったものなの、それが三年前で、父は翌年に脳溢血で倒れてそのまま逝ってしまったの。まだ六十五歳の働き盛りだったけどやっぱりお酒と煙草が大好きでそれが原因だったみたい。母は父が亡くなったショックでやっぱり倒れてしまってねえ、命に別状はなかったけど抜け殻みたいになってしまって、外にはあまり出ないようになったの。最近は足腰も弱くなってしまって、誰かが支えてあげないと、汚い話だけどおトイレにも不自由してしまうの」
「兄さんて幾つだと思う?まだ三十九歳で父さんより一回りも下なんだぞ」
「父さんはなんて呼ぶの?兄さんじゃ失礼でしょ父さんみたいなおやじが」
「あら俊夫さん、おやじおやじって言わないで、あたしのフィアンセなんですから」
重太郎は真っ赤になってポケットをまさぐっている。
「あたしの姉さん、兄の嫁さんね、フィリピンの人なの、彼女もまだ二十三で、あたしより一回りも下なのよ、可笑しいわねえ、兄よりも弟がおやじで、姉よりも妹がおばさんなんて」
「あばさんなんてそんな」
言ってしまってから俊夫は恥ずかしくなってしまった。
「あら、そう嬉しいわ、重太郎さんより先に俊夫さんと知り合えれば良かったなあ、ねえ重太郎さん」
恥ずかしさで居場所のなくなった重太郎は「ようし」と照れ隠しの掛け声と共に洗面所に立った。
「あたしね、春先に始めてここへ招待されたときにわかったの、重太郎さんがあたしと一緒になるって決めた理由が、正直言ってショックだったわ、お仏壇のお母様の遺影を見たとき」
博子は俊夫のグラスにビールを満たし、残った僅かを自分のグラスに注ぎ込んだ。
「それでね、重太郎さんにアルバム見せてってせがんだらあんまりいい顔しないのよ。でもあたし強引でしょ、見せてもらったの。驚いたわ、世の中にはよく似ている人が七人いるとかって言うでしょ、お母様とあたしはまさにその関係だと思ったわ」
「僕も初めてあなたを紹介されたときは驚きました。母にそっくりというよりそのものでした。アパートの机に立ててあるのですが、僕が小学校の入学式で、母親と手を繋いで取った写真から抜け出して来たのかと思ったくらいでした。喋ってみてその声に驚きました、てきぱきと動く活発さに驚きました。あなたがキッチンで食事の支度しているのをおやじと僕がここで待っているのは、なにかタイムスリップしたように不思議な感覚になりました」
「そう、やっぱり俊夫さんも感じていたの。重太郎さんはあたしとじゃなくて洋子さんと再婚するんだなあってちょっと寂しかったわ。それでね、あたしお断りしようと思っていたのよ。でもはっきり断る勇気がなくてあたし考えたの、いろいろ難題を出して、重太郎さんの方から諦めてもらおうと思って」
「失敗したとか?」
「ピンポーン、そのときはね。絶対に重太郎さんがイエスと言えない難題はないかなあって考えたの。父親が亡くなって、母も倒れて看病が必要な時期だったから、ようしそれにしようって決めたの。兄はあたしに秋田に戻って来いなんて一度も言わなかったわ、母が倒れたときも姉さんがいるし、それでも間に合わなかったら家政婦さんを頼むから心配するなって、おまえはおまえで悔いのないよう東京でやってみて、もしだめだったらいつでも俺達は歓迎だからって言ってくれてたの。俊夫さん知ってる?警備会社の事務なんて暇なのよ、それにあたし一日中座ってるの嫌いなの。でもこんなご時世でしょう、辞めたら再就職は難しいし我慢して勤めていたのよ。一度ね、課長じゃ遠回りだから人事部に行って現場の警備に回してくれるようお願いしたの。そしたらねその部長、『君を警備に回すと、一人の男性に辞めていただかなくてはならない、君も会社が厳しいのはよくわかってくれていると思う、希望はわかるが今は辛抱してくれないか』って言われてねえ、尤もなことなんだけど悲しくなってきちゃって。好きでもない仕事を生活のために我慢して続けなければならないなんてね」
「ああ勿論」
「なんだって?」
台所からまな板を小気味良く叩く音が聞こえる。重太郎の再婚相手、博子が来ている。生まれ故郷での最後のお祭りを三人で過ごしたいと、重太郎の強い希望であった。
「別にどうもこうもないさ、父さんが決めたことだから兄貴達も特に何も言いはしなかった。ただ困ったことがあったら連絡しろって」
消したばかりなのにまた煙草をくわえた。吸いたいのではなく、緊張すると煙草を吸う癖がある。
「それでなあ、おまえに相談しておかなければならないことがあるんだ。相談というよりもお願いかなあ」
「なに?、それより父さん煙草吸いすぎだよ。僕の前で緊張してたら向こうに行ってどうなんの、煙草くわえっ放しになるよ」
重太郎は半分ほど吸って、笑いながらもみ消した。
「止めるか、これを機会に」
「無理すんなって、減らせばいいじゃない」
「ああそうする。ところでこの家のことなんだけどなあ、父さんにはもう必要ないんだ。それでな、父さんもあいつも同意見なんだが、おまえに譲ろうと思っている。建物はじいさんが死ぬ前に一度改修したっきりだから、二十年以上経っていて価値はほとんどないけど、土地は結構な価格になるらしい、二番目の兄貴が不動産屋だから調べてもらったんだ。どうする?」
「どうするって?」
「はーい支度できたわよ、暑いけどすき焼き、話の続きはつっつきながらどうですか、ビールも冷えているし、あたしも仲間に入れて」
食事の誘い方まで死んだ洋子にそっくりなので、二人は顔を見合わせて笑ってしまった。
「えっ、すき焼き」
俊夫はすき焼きなど大学に入ってから食べた記憶がなかった、それが二日続けて食せる偶然に驚いた。
「あら、俊夫さんすき焼き嫌いなの?」
「そんなことありませんよ、大好きです」
「そうだろう、おまえすき焼き大好きだよなあ、父さんの勘違いじゃないよなあ」
重太郎は俊夫の答えに安心して煙草をくわえた。
「重太郎さん、これから食事ですよ。煙草止めてください」
重太郎はくわえた煙草をケースに戻した。博子が煙草盆を自分の方に摺り寄せた。
「重太郎さん吸い過ぎ、それに煙草を味わっているって感じじゃないの、緊張すると火をつけるの、条件反射みたいに、あまりカッコよくないわよ」
真っ黒の瞳を輝かせ、額に垂れたおかっぱ頭を、首を振ってかきあげた。
「そうだな、なんで緊張しちゃうのかな、もう五十だしなあ、少しは余裕のある態度みせないとな」
そう言いながらシャツの胸のポケットをまさぐった。
「こっちです」
博子がキャビンのケースをつまんで重太郎に見せた。三人がテーブルについたときにはぴんとしていた春菊に程よく火が通り、焼き豆腐の上に覆い被さった。
「さあどうぞ、お肉まだありますからたくさん食べてください、重太郎さんも俊夫さんも、あっそうそうビール出さなくちゃ」
博子は冷蔵庫からビールを出し、二人に注いだあと、自分もグラスを持ち、重太郎に催促した。
「注いで」
重太郎は俊夫の前でも構わず甘える博子が恥ずかしかった。俊夫の視線を気にしながら博子の差し出したグラスに荒っぽくビールを注いだ。いつもこうやっているのかと息子に察しられるのがとても照れ臭かったし、既に十年経ったとはいえ、まだ十年である、洋子のことを忘れて博子と年甲斐もなくママごと的な生活を楽しんでいるのだと俊夫に思われたくなかった。こぼれそうになった泡をあわてて博子が口に運んだ。その泡が口髭のように薄紅の唇の上に付着した。
「泡、泡ついてるよ」
「重太郎さんがやさしく注いでくれないからでしょ、拭いて」
博子が重太郎の方へ顎を突き出した。
「そ、そんなこと、おい、俊夫たくさん食べなさい」
重太郎はまた胸のポケットをまさぐった。胸のポケットにないとわかるとズボンのポケットに手を突っ込んで煙草を探している。
「そんなとこにはありません、ここです、ここにあります」
おかっぱ頭をかきあげるのが癖で、前髪を跳ね上がると悪戯な瞳がはっきりと窺えた。不器用な父親であっても、陽気で積極的な博子となら上手くやっていけるだろうと俊夫は思った。人と接触することが苦手な重太郎にとって秋田で農業をするのは、こっちにいて会社勤めをしているより性に会っているだろう。向こうに行けば兄夫婦と母親、それに博子以外に接する必要はほとんどない。苦手な近所付き合いは活発な博子に任せて、ひたすら田や畑で汗をかけばいいのだ。三本目のビールが空いた。
「もう一本出しましょうか」
博子が台所にたった。
「僕にも必要ないよこの家、父さん達で処分したら、多少の蓄えになるじゃない。僕はバイトしながらでも学校は行けるし、一人でこんな広いとこに住んでもしょうがないよ」
「お節介かもしれないが学費は父さんに面倒看させてくれ。まあ小遣いまでは無理かもしれないが生活費の足しになるくらいの仕送りはするつもりだから」
博子が席につき、話の邪魔にならないようにそれぞれのグラスにビールを満たした。俊夫はグラスに手を添え軽く頭を下げた。
「ありがとう、でも無理しないでいいから。僕は今言った通り要らないよ。ここから学校に通うんじゃ二時間はたっぷりかかるし、父さんの折角の仕送りも三分の一をその交通費で消化してしまう。時間もお金ももったいないよ、その分寝ていた方がずっといい」
「ねえ、悪いけど一本くれないか、どうも決まりがつかなくて」
博子は仕方なく一本を引き抜き、自分でくわえて火をつけ、重太郎に渡した。重太郎の照れる顔を見て楽しんでいる。
「それじゃあ父さんの希望を話そう、おまえが受け入れる入れないは別として聞いてくれ。父さんがおまえに残せるものはこの家と土地しかないんだ。私は、彼女の実家に行けば立派な住まいを無償で提供してくれるから必要ない。本当は彼女の家族に迷惑をかけたくないから、アパート暮らしをしようって提案したんだけど、彼女の兄さんに、その方がよっぽど迷惑だってそう言われてなあ、だいたい近くにアパートなんてないし、それに冬場は雪に埋まってしまって容易に行き来なんて出来ないらしい。おふくろさんは足腰が不自由だから彼女と兄嫁さんと、交代で世話をしなければならないだろう、だから同じ敷地で生活した方が何かと都合がいいんだそうだ」
「大きいの、家?」
「ああでかいぞ、ここの三倍以上ある。うちの本家よりもっとでかいし、まだ築三年で新居同然なんだ。部屋数は七以上あるよな、それに大広間があってこれが三十畳ぐらいはあるんじゃないか、なあ」
重太郎が博子に確認した。
「あたしの兄が結婚したときに父に建ててもらったものなの、それが三年前で、父は翌年に脳溢血で倒れてそのまま逝ってしまったの。まだ六十五歳の働き盛りだったけどやっぱりお酒と煙草が大好きでそれが原因だったみたい。母は父が亡くなったショックでやっぱり倒れてしまってねえ、命に別状はなかったけど抜け殻みたいになってしまって、外にはあまり出ないようになったの。最近は足腰も弱くなってしまって、誰かが支えてあげないと、汚い話だけどおトイレにも不自由してしまうの」
「兄さんて幾つだと思う?まだ三十九歳で父さんより一回りも下なんだぞ」
「父さんはなんて呼ぶの?兄さんじゃ失礼でしょ父さんみたいなおやじが」
「あら俊夫さん、おやじおやじって言わないで、あたしのフィアンセなんですから」
重太郎は真っ赤になってポケットをまさぐっている。
「あたしの姉さん、兄の嫁さんね、フィリピンの人なの、彼女もまだ二十三で、あたしより一回りも下なのよ、可笑しいわねえ、兄よりも弟がおやじで、姉よりも妹がおばさんなんて」
「あばさんなんてそんな」
言ってしまってから俊夫は恥ずかしくなってしまった。
「あら、そう嬉しいわ、重太郎さんより先に俊夫さんと知り合えれば良かったなあ、ねえ重太郎さん」
恥ずかしさで居場所のなくなった重太郎は「ようし」と照れ隠しの掛け声と共に洗面所に立った。
「あたしね、春先に始めてここへ招待されたときにわかったの、重太郎さんがあたしと一緒になるって決めた理由が、正直言ってショックだったわ、お仏壇のお母様の遺影を見たとき」
博子は俊夫のグラスにビールを満たし、残った僅かを自分のグラスに注ぎ込んだ。
「それでね、重太郎さんにアルバム見せてってせがんだらあんまりいい顔しないのよ。でもあたし強引でしょ、見せてもらったの。驚いたわ、世の中にはよく似ている人が七人いるとかって言うでしょ、お母様とあたしはまさにその関係だと思ったわ」
「僕も初めてあなたを紹介されたときは驚きました。母にそっくりというよりそのものでした。アパートの机に立ててあるのですが、僕が小学校の入学式で、母親と手を繋いで取った写真から抜け出して来たのかと思ったくらいでした。喋ってみてその声に驚きました、てきぱきと動く活発さに驚きました。あなたがキッチンで食事の支度しているのをおやじと僕がここで待っているのは、なにかタイムスリップしたように不思議な感覚になりました」
「そう、やっぱり俊夫さんも感じていたの。重太郎さんはあたしとじゃなくて洋子さんと再婚するんだなあってちょっと寂しかったわ。それでね、あたしお断りしようと思っていたのよ。でもはっきり断る勇気がなくてあたし考えたの、いろいろ難題を出して、重太郎さんの方から諦めてもらおうと思って」
「失敗したとか?」
「ピンポーン、そのときはね。絶対に重太郎さんがイエスと言えない難題はないかなあって考えたの。父親が亡くなって、母も倒れて看病が必要な時期だったから、ようしそれにしようって決めたの。兄はあたしに秋田に戻って来いなんて一度も言わなかったわ、母が倒れたときも姉さんがいるし、それでも間に合わなかったら家政婦さんを頼むから心配するなって、おまえはおまえで悔いのないよう東京でやってみて、もしだめだったらいつでも俺達は歓迎だからって言ってくれてたの。俊夫さん知ってる?警備会社の事務なんて暇なのよ、それにあたし一日中座ってるの嫌いなの。でもこんなご時世でしょう、辞めたら再就職は難しいし我慢して勤めていたのよ。一度ね、課長じゃ遠回りだから人事部に行って現場の警備に回してくれるようお願いしたの。そしたらねその部長、『君を警備に回すと、一人の男性に辞めていただかなくてはならない、君も会社が厳しいのはよくわかってくれていると思う、希望はわかるが今は辛抱してくれないか』って言われてねえ、尤もなことなんだけど悲しくなってきちゃって。好きでもない仕事を生活のために我慢して続けなければならないなんてね」
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