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横須賀線東京行
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地元では、裏の道と呼ばれている北鎌倉の線路沿いを明月院方向に曲がりかけると、膝掛けをして寄り添う今風のカップルよりも、ピアスにタトゥウの、更に今風の車引きがこれでもかという笑顔で建長寺方向に舵を切った。院を訪れた紫陽花の花見客は苔生した名月川と併走する細い道に車が往来するなどと考えてもいない。道の中央に列を組んで歩いている。晃が遠慮がちにクラクションを鳴らすと、その一団の長らしき男が眉間に皴を寄せて睨みつけた。まるで聖地に迷い込んだアウトローを蔑むような目付きである。面倒くさそうに両端に避ける一団はみな、胸に黄色いツーリストの札をぶら下げている。
「何が楽しくて紫陽花なんか見物に来るのかねえ、もともとうちの便所の裏に咲く紫陽花をおじいちゃんが植えたっていうのにねえ。この先が家なんだけど」
晃は最後の一言を、通り過ぎるまで睨みつける男に口パクで対抗した。助手席の恵子は下を向いて一団の視線を避けている。
「この道を院の参道と勘違いしてるんだ観光客は、生活道路であることをしっかりと案内していないから地元が遠慮しなきゃならないんだ」
「そんなふうに言わないでよ兄さん、二十年ぶりに帰って来て地元の振りして。みなさんお父さんの植えた紫陽花を楽しみに来てくださっているんですから」
恵子は父が人生をささげた紫陽花をけなす兄に腹が立った。
「父さん死ぬ前になんか言ってたか俺のこと?」
恵子は返事をしなかった。晃の乱暴な問い掛けが嫌だった。晃はどうしても父親の最後の言葉が訊きたかった。『晃はどうしてる』とか『晃に敷居を跨がせてやれ』そんなやさしい言葉の有無が確認したかった。名月院を過ぎて最初の路地を曲がると高橋宅がある。一昨日道夫が亡くなるまで恵子と二人で三代続く古い家を守ってきた。戦後に祖父の道久が建て直したがそれでも築半世紀を越えていた。恵子は道夫が亡くなったらここを出る決意をしていた。道夫もそれに賛成していた。
「家は古くて一銭にもならないが、土地は一億五千万になるらしい。俺が死んだらおまえに全部やるから東京に行ってマンションでも買えばいい、東京行きに乗れば小一時間で着いちまう。なるたけ高いとこに暮らせ。おまえはずっと下見て生きてきたからこれからは上から物見て暮らせ」
一昨日眩暈がするからと早めに床について、水差しの盆を枕元に用意する恵子にそう話した。そしてそのまま食事もせずに眠ってしまった。普段ならば五時には新聞配達を待ち構えて新聞を受け取るのだが、昨日に限ってポストの蓋が閉まる音で恵子は目が覚めた。新聞を抜き取り道夫の寝室に耳を当てるが静まり返っていた。
「父さん、父さん」
恵子が縁側から障子越しに声を掛けたが無反応だった。氷の結晶が項から背筋へと滑り込むような冷気を感じた。障子を開けると道夫はうつ伏せで右手の先が水差しに触れていた。恵子は『父さん』と連呼しながらうつ伏せの道夫を仰向けにした。そのとき水差しに触れていた道夫の指先が引っ掛かり盆の上に零れた。目は瞑っていた。布団も乱れてはいない。温もりを感じるが医者に確認するまでもない、恵子は父親のやさしい表情から死を確信した。苦しまずに息を引き取ったに違いないと安堵した。恵子は水差しに残った水を口に含み、道夫の唇の隙間にそっと流した。母親の敏子が亡くなってから二十五年後の梅雨で、室内まで咽るぐらい湿気の多い朝だった。
「母さんごめん、父さんとキスしちゃった」
仏壇の敏子に話しかけた。そして泣き崩れた。地元の高校を卒業してからずっと母の代わりに道夫の世話をしてきた。植木以外は無知と言ってもおかしくない道夫は家事など一切しなかった。恵子が洗濯しなければいつまでも着替えずにそれを着ていた。恵子が食事を用意しなければいつまでも食べずに餓死したに違いない。恵子は生涯道夫の世話をすることを人生とした。しかしそれはいつの間にか、敏子に嫉妬する、ひとりの女になっていたのも感じていた。
「兄さん、もう少し奥に入れて、お隣が買物から帰って来られるから」
「父さんの軽トラも処分しなければならないなあ」
「消防の西田さんがね、処分するなら分団で引き取りたいって」
「西田が、まだ葬儀も終えていないのにそんなことを心配してるんだあいつ、相変わらず変わってんなあ」
以前西田は恵子に恋心を抱いていた。一度デートしたことがあるがそれ切りになった。西田の悪口を恵子は嫌っている。晃はうっかりしていた。
「西田さんは分団長を八年も務めていらっしゃる立派な方よ。うちには後継ぎがいないからこれからは西田さんにすべてお願いしなければならないのよ、その辺を考えて」
恵子は植木屋の跡取りを放棄した晃を皮肉った。
道夫の後を継がずに大学で中国語を学んだ晃は台湾の企業に就職した。恵子は晃が実家を継いでいれば人生も大きく変わっていたと怨んだこともあった。当時道夫は、地元の学園を卒業した晃にそれとなく後継を薦めたことがあった。
「大学に行って勉強するのもいい、それからでも遅くはない。七年辛抱すれば一人前にしてやる。地元に残って囃子や消防に携わりながら父さんに協力しちゃくれないか、そうしてくれりゃ父さんも嬉しいし何より母さんが喜ぶ」
生返事をしたまま晃は大学を卒業した。そして就職先が台湾企業であることを直前まで隠していた。台湾行きを伝えたときは既に航空券を購入した後であった。
「おまえ台湾て、それいつ決まったの、いつ帰って来るんですか?」
敏子は慌てた。道夫は仕事に出ていて夕方まで戻らない。
「父さんには母さんから伝えといて、僕から言うと言い争いになるし、そうなればお互いに後味悪いし、外国ったって台湾なんて飛行機なら三時間で行き来が出来る。沖縄の隣だと思えば離れているような気がしないよ。なあに何かあったらすぐに帰国するし心配しないでいいから母さん」
「そうだけど父さんのお仕事はどうするの、うちにはあなたしかいないのよ」
「恵子に婿を取らせばいいじゃないか、西田も変わりもんだけど悪い奴じゃないし」
「勝手なこと言って、母さん怒りますよ」
「電話するって、それじゃ宜しく」
それっきり敏子の葬儀にも戻らなかった。そして十年後の1999年9月の台湾大地震で嘉義と言う都市にある晃の会社は甚大な被害を受けた。古い建物は崩壊し、死者こそなかったが数人が大怪我をした。会社は再建までに時間を要する。晃は解雇となった。減俸でもいいからと雇用の継続を訴えたが、地元社員を優先したいともっともな社長の説得を聞き入れた。晃には台湾人の妻と二人の子供がいた。台湾での生活を諦め日本に戻った。
「もしもし」
恵子にはすぐに晃の声が分かった。
「兄さんね、兄さんでしょ、どうしたの?どこにいるの?父さん、兄さんから」
恵子は時が道夫の心を変化させていると思っていた。今なら兄を受け入れてくれる、何の疑いも持たずに恵子が受話器を差し出すが道夫は受け取らなかった。道夫にすれば『お帰りなさい』と敷居を跨がせるわけにはいかなかった。母親の葬儀にも戻らない男を意地でも許したくなかった。
「用があるならおまえが聞いてやれ」
それでも道夫は晃のことが気になる。勘当しても我が子である。そう言って縁側から庭に下りてしまった。
「父さんね、今お客様が来てるから後でもう一度電話して、それで急用ならあたしに聞いておけって、何?」
「父さん怒ってんだろう、無理もない。おまえにも心配かけて悪いな」
「そんなことないわ、ねえ遠慮しないで言って、お金でしょ、いくら必要なの」
晃の口調で無心と感じた。
「兄さんな、台湾で失業してな、観光会社を立ち上げようと考えてんだ。会社ったって東京に俺がいて台北に女房がいてそれだけの会社なんだけど、事務所をな、東京に借りるつもりで、それが情けないことに資金がなくてな、飛び出した親の脛かじろうとして電話したんだ。でもいいんだ。大学時代の友人をあたってみる。悪かったな恵子、父さんに謝っておいてくれ」
「いくら、いくら必要なの?友達なんてそんなにいないくせに。あたし意外と貯金があるのよ」
「一千万必要なんだ、おまえに頼める金額じゃない」
「電話するわ」
金額に驚いて受話器を置いてしまった。恵子には貯金があった。それは道夫から毎月もらう小遣い二万円を二十年間ほとんど使わずに貯金していた。しかし晃の必要とする金額の半分である。残りは道夫に頼むしかなかった。
「ボンクラの用件はなんだ?」
道夫が恵子に声をかけた。晃が家を出て行ってからずっとボンクラと呼んでいる。恵子の前ではボンクラ呼ばわりしているが心配でならない。ずっと相談するタイミングを逸していた恵子だが今がチャンスだと思った。三本目の銚子を膳の布巾に下ろした。そして布巾に包めて首を摘み道夫のぐい飲みに注いだ。
「金だろ、ボンクラの用件は」
「ボンクラ、ボンクラって父さん」
「あいつはボンクラの正札提げて台湾まで行ってたんだ」
そう言って道夫が笑うと恵子もつられて笑った。手元が揺れて銚子の先がぐい飲みから外れた。
「こぼすな、もったいない」
「いいわよ、サービスでもう一本付けてあげるから」
「なあ恵子、俺は晃が後を継がなかったから怒っているわけじゃない。そりゃ継いでくれてりゃそんなうれしいことはない。でもそんなことは序でいいんだ。世話になった町の衆に挨拶もせずに消えたことが父さん一番恥ずかしいんだ。町の商店の跡取りたちは、お祭り盛り上げたり、消防団に入って恩返ししているじゃないか。一年でもいや半年でもよかったんだ。地元に恩返ししてそれからなら台湾だろうがニューギニアだろうが何処へ行って好き勝手やったっていいんだ。いや年に一度戻ってきて、盆踊りの手伝いでもしてくれりゃそれだってよかったんだ。寺と神社ばっかりの町に生まれた運命だと思ってそうしてくれてりゃ父さんそれでよかったんだ」
「もう一本つけてくる」
恵子は酒のせいで愚痴をこぼす道夫に寂しさを感じた。還暦を迎えるまでの十五年間、男盛りをずっと一人で耐えてきた辛さは三十五歳を過ぎた恵子にもよく理解出来た。
「おまえもどうだ」
徳利をつまんで恵子に向けた。
「ちょっと待ってて」
生前敏子が使用していたお猪口をポットの湯ですすぎ、道夫の前に差し出した。
「一杯だけだぞ、おまえも母さんと一緒で首から上が真っ赤になるからなあ」
注がれた酒をぐい飲みして、またお猪口を差し出した。道夫は目の前の恵子が敏子に変わる錯覚がした。
「まったくしょうがねえなあ、倒れてもしらねえぞ」
恵子は晃の用件をすっかり忘れて父親との砕けたひと時に酔いしれていた。もし道夫が母と勘違いしても、それを受け入れてしまうかもしれない、そんな自分を容認するほどに心地よい晩であった。
「それでいくら必要なんだってボンクラは」
たったの猪口二杯だが寝過ごしてしまった恵子の寝室に道夫の声と共に光が差し込んだ。
「あら、ごめんなさいお父さん、すぐに支度しますから」
「いいよ、急に起きると貧血起こすから寝ていなさい。たまには銀行の前の珈琲屋でパンにコーヒーでも食ってやろう」
「すいませんお父さん、お昼は用意しておきますから面倒でも戻ってきてくださいね」
道夫は鏡台の前で髪を梳き始めた恵子に、敏子が乗り移ったのを感じた。道夫は首を振ってその幻影を追い払った。
「ボンクラいくら必要なんだ。俺に用意できる金額なのか?」
家事家計の一切を恵子に頼っている道夫に、預金がいくらあるのかなど、まったく無頓着であった。
「ええ、充分」
「そうか、それならいい」
「父さん、兄さんをここに呼んでもいい?」
「それは許さねえ、いいか恵子、てめえの母親の死にも戻らなかったボンクラだぞ。俺に『お帰えんなさい』て言えると思うか。金はあるだけ全部くれてやれ」
そう言って手入れの行き届いた障子をさっと閉めた。薄っぺらな障子紙一枚が恵子の息も温もりもすべてを遮断した。
翌日の午後二時に、北鎌倉駅の上りホームの大船よりのベンチに晃は座っていた。すべて恵子の指示通りであったが三時を回っていた。
「兄さん、ごめん銀行で時間かかっちゃった。普通に引き出し用の紙に書いたら受付の女の子がちょっと待ってくださいって、支店長の太田さんまで出てきちゃって『どうかしたんですか?』っ聞くから『太田さんこそどうしたんですか?』って言ったらみんな大笑いして。金額が大きいから少し時間がかかりますってそれで遅くなっちゃった。上り電車何本も見送ったでしょ」
「いやいいんだ、それより悪いな恵子」
「千二百万あるは、七百万はお父さんのお金、五百万は私の貯金全額。本当はお父さんのお金で全部用意できたんだけどなんとなく」
札束の入った鳩サブレーの紙袋を晃に手渡した。
「サンキュー、父さんにも宜しく、きっと返しに来るからって」
「落とさないでよ。落としたらもう知らないから。成功して兄さん、返さなくてもいいから成功して、奥さんや子供たちを幸せにしてやって」
東京行きが滑り込んできた。恵子はもしかしたらこれが晃との最後の対面になるかもしれないと感じた。そして道夫の葬儀に晃が帰って来た。晃は車から降りると軽トラックの脇から身体を横にして庭に回った。すぐに玄関に入るのを躊躇った。就職してから一度も敷居を跨いだことがない。母敏子の死にも戻らず、そして父道夫の死も見守ってやれなかった後ろめたさが、玄関から立ち入ることを自然に拒んだのだ。二十年ぶりの庭を見て晃は驚いた。色鮮やかな紫陽花が庭一面に咲いている。これが五十年前に便所の裏に咲いていた紫陽花の姉妹とは想像できなかった。
「兄さん、驚いた?おじいちゃんの紫陽花をお父さんがここまでにしたのよ」
紫陽花に目を奪われている晃に恵子は鼻が高かった。
「すごい、見事だ」
「これが院内を埋め尽くしているのよ。これだもお客さんが来るでしょ」
恵子は庭に下りて大きな一厘を切った。
「まず母さんにご挨拶して」
そう言ってその一厘を晃に渡した。晃は頷き三波石の上がり台から縁側に上がった。仏壇には既に灯りがある。恵子が灯したのだ。晃は花立てに紫陽花を生けた。大き過ぎて位牌が隠れた。前卓には敏子の遺影がある。これも晃のために恵子が用意したのだ。晃には四十代で急逝した敏子が恵子の妹のように映った。
「おい恵子、おまえいくつだっけ?」
「兄さんより五つ下でしょ、たった一人の妹の歳を忘れたの」
顔立ちや体系だけでなく、話し方までそっくりな母の歳を過ぎた娘と、晩年まで暮らした父は、どんな思いでいたのだろうか。家庭のことなど何一つ顧みずに勝手気侭に生きてきた晃は、恵子の人生から選択肢を奪った自分を改めて責めた。
「ただいま母さん、ごめんよ。勝手だけど恵子のこと見守ってやってくれ」
線香を立てると再度敏子の写真をじっと見つめた。涙があふれワイシャツを濡らした。量が多くてシャツにしみ込まずにそのまま地肌を滑り脇腹からインナーのゴムまで伝わった。涙が枯れるまで母を見つめた。泣きっ面は恵子に見られたくなかった。
「兄さん、ちょっとたまごやさんまでおビール買いに行ってきます」
恵子が晃の気持ちを察しての行動だった。籐の買い物籠を提げて玄関を出ると車引きの吉川がいた。
「お嬢さん、ご連絡いただきました。まったく残念なことで、なんて言ったらいいか」
吉川は鎌倉で一番早く車屋を出した。三十年前にこの地に何の伝もなく開業したのだ。ただ車一台と自慢の足だけだった。
「おい、あんたは観光案内か?」
初めて客待ちした円覚寺の山門で声をかけたのは乗馬ズボンに法被姿の道夫だった。吉川は自身の井出達に近い服装の道夫に親しみを感じた。
「今日からこの辺りで車引きをさせていただきます。吉川と申します。鎌倉は初めてなので観光案内は出来ませんが追々勉強させていただいて皆さんのご要望に叶えればと頑張ります」
「そうか、それじゃタクシー代わりに利用してもいいんだね。俺が一番の客だな。おまえさん幾つだ、二十八かい、そうかい、それじゃ足には自信があるんだろうなあ」
「はい、ずっと山登りとマラソンやっていたんで。さあどうぞ」
道夫も人力車に乗るのは初めてだった。
「道がよくわかりませんので教えてください」
「まずその踏切を渡って突き当たりの鎌倉街道を左に曲がってくれ」
吉川は道夫を気遣いゆっくりと車を引いた。
「痛くないですかお尻とか背中とか」
「おまえさんは落語好きかね?」
「いえ、たまにテレビで漫才を見る程度です」
「そうかい、そりゃ残念だな、車屋をテーマにした演目があるんだが、俺はそれが大好きでね、特に桂伸治のは最高だ。テープがあるからそのうち聞かせてやろう。ところでこんな調子でこれからこの辺りで車屋やっていこうってのか?」
道夫は早足の人と変わらない速度にいらいらしていた。
「何か問題でもありますか、やっぱりひざ掛けは用意した方がいいでしょうか」
「年寄りやおじょうちゃんを観光案内するならこれでもいいだろうが、俺はね、足としてお前さんの車に乗りたいんだ、跳ねても揺れても引っくり返ったってかまわねえからかっ飛ばしてくんな、怪我したってあんたに責任取らせるようなことはしねえからさ」
「そうですか、そう言っていただけると僕もやりがいがあるんです。何しろ走りたくしょうがないからこの商売選んだんですから、それじゃお言葉に甘えて飛ばしますよ」
太腿の筋肉がはちきれるほどにアスファルトを蹴った。スピードに乗ってくると車は左右に揺れた。道夫は落語家が演じる車引きの所作を思い返していた。
「この踏み切りは一端停止しなくったって大丈夫だ、かまわねえから全速力で駆け抜けてくんな」
「わかりました」
新聞配達の自転車を追い越した。道夫は完全に『反対車』の主人公になりきっていた。吉川は速度をまったく落とさずに踏み切りに突入した。車が跳ねるというより道夫の身体が上下左右に跳ね上がった。
「渡ったらすぐに左に曲がれ」
道夫の指示が急だったので危うく角の塀に突っ込みそうになった。体勢を立て直すとすぐに三叉路が吉川の視界に入った。
「だんなさん、あれはどっちで」
「真っ直ぐ行ったら元に戻っちまうじゃねえか、右だ」
コーナーミラーを確認しながらきれいな弧を描いて通過した。
「この川が明月川で、あの突き当りが明月院だ、俺の仕事場だ覚えておけ」
「はい勉強しときます」
それから道夫は吉川の車を足代わりに利用するようになった。酒好きな道夫は出先で薦められる酒を断ることができなかった。ほろ酔いで軽トラックを運転して帰宅する道夫が心配でならなかった恵子にとっても、吉川の車屋出現を歓迎していた。
「吉川さん、お父さんね吉川さんに遺言を残しているんです。それでご迷惑だとは思ったんですけど相談しようと思って和尚さんに吉川さんに会ったらご連絡いただけるようにお願いしていたんです。どうもすいません」
吉川はダボシャツに喪章をしていた。
「おじょうさん、だんなさんのお顔を拝見させていただけないでしょうか」
「ありがとうございます。今兄が戻っていますからどうぞお上がりください」
「はい、おじょうさんはどちらに?」
「たまごやさんにお買物に」
「それでしたら乗っていってください。帰ったらゆっくりと拝ませていただきます」
恵子は吉川の車に乗るのは初めてだった。梶棒を上げると恵子は思わず『あっ』と声を上げた。吉川が振り返ると首を振って笑った。
「おじょうさん、だんなさんの遺言にわたしのことが書いてあると仰ってましたけどどんなことが」
恵子が答えようとすると横須賀行きが北鎌倉駅を発車したばかりだった。通過するのを待った。
「お父さんね、建長寺まで吉川さんに運ぶようにって命令口調で書いてあるの。気にしないでくださいね、まったく失礼なんですから」
吉川は買い物籠を受け取り、恵子を座席に落ち着かせた。そして蹴込みに籠を縦にして恵子のふくらはぎに挟ませた。そのとき吉川のガサガサとした掌が恵子のくるぶしに触れた。父の掌と感触がそっくりだった。吉川に誘われたら二つ返事で受け入れる準備を二十五年間ずっと抱いていた。
「おじょうさん、だんなさんの遺言なんですけど、おじょうさんさえよかったらやらせていただけませんか。いや是非やらせてもらいたんです」
「でも、お父さんったって死体ですし、車を汚してもいけないし、それにご商売に影響があってもいけないし」
「そんなことはまったくありません。三十年前に右往左往しているわたしに声をかけてくださって最初に乗っていただきました。実はそろそろ引退を考えてまして、こんなこと言っちゃ失礼ですけどだんなさんを最後の客にしようかとおじょうさんが買物してる間に決心がつきました」
恵子は吉川の決心に驚いた。しかし内心は道夫の遺言通りに送ることが出来る、それが嬉しかった。
晃は母敏子の遺影を見つめて涙が涸れるまで泣き続けた。そして涙を拭き取り道夫の棺の前で正座した。
「父さん、黙って上がってすいません」
枯らしたつもりの涙が再び溢れ出した。ガラスを通して見る道夫のやさしい顔を見ると余計に自分の愚かさが浮かび上がった。厳しく怖い顔をしていたら、まだ慰められたのにと悔しくて棺に爪がくい込んだ。ぶたれようと、蹴られようと、もっと早く戻っていれば、もしかしたら親孝行の真似事ぐらいは出来たかもしれない。後を継がなくても孫の顔を見せれば喜んでくれたかもしれない。また井戸のように涙が汲み上げられる。
「兄さんただいま、吉川さんがお父さんに会いに来てくださった」
恵子は大きな声で言った。晃が涙を拭く余裕を与えるためだった。晃と吉川は初対面だった。吉川は晃より二つ年上である。
「これ」
恵子は晃に道夫の遺言状を渡した。
恵子へ
なにもかもすべてを恵子に譲る。ボンクラには何もやらない。
父さんの死体は霊柩車を使わずに吉川の車で建長寺まで運んでくれ。
平成二十三年六月十五日 高橋 道夫
「六月十五日って一昨日じゃないか」
「お父さん天国からのお迎えを感じて簡単に書いたんだわ」
「ボンクラってもちろん俺の事だろうなあ」
恵子が大きく頷くと晃は笑った。
「吉川さんは引き受けてくれました」
棺に合掌をしていた吉川が、ガラスの向こうの道夫に一礼して振り向いた。
「だんなさんにはずっとお世話になっていました。忌の際にわたしのことをご指名していただいて光栄なんです。それに代金はもらっているんです。釣りをお返ししていないんでそれで充てさせていただきます。無事に建長寺さんまで送らしていただきます」
「だけど問題ないのかなあ法的に、それに道路も大丈夫なのかな鎌倉街道とか」
「そうねえ、西田さんに連絡してみる」
翌日の昼過ぎ西田は北鎌倉駅前交番にいた。
「吉田ちゃん、悪いけどお願いがあるんだ」
「西田ちゃん何、朝っぱらからお願いって、気持ち悪いな」
吉田は北鎌倉駅前交番に赴任して六年になる。年齢は一緒で二人とも独身、それに地元消防団長と地元交番の警察官という緊密な関係を維持しなければならない。その上二人とも大酒飲みある。酒を酌み交わすことが増えるのは必然だったし自然と馬が合った。
「こないだパンクしたときタイヤ交換手伝ったよね葛原が丘で」
「そういう作戦で来るんだ、貸しを全面に出してそれを交換条件にしようという手法は古いよ西田ちゃん。とりあえずはっきり言ってみて、出来るなら協力するし無理なら職務上断るから」
西田は煙草をくわえた。差し出した煙草を吉田もくわえた。点きの悪い百円ライターを幾度も擦って、やっと点いた火に二人は顔を近づけて大きく吸った。
「鎌倉街道十分間止めてくんない」
吉田は西田の言った意味が理解できなかった。
「なんかあれ、道路沿いの大きな木を切るとかそういうこと?」
「いや大事な車を一台ここから建長寺まで通したいんだ」
「アメリカの大統領かなんかだったらそれは俺じゃなくて政府にお願いしてもらわないと駄目だよ。それで誰が通るの?」
「俺の師匠で、山ノ内の観光に貢献した人だ」
「高橋さんじゃないの知ってますよ。一昨日亡くなって明日建長寺で通夜じゃない。大きな葬儀になるから署からも交通整理が出るけど通行止めは出来ないよ、だめだめ、こればっかりはいくら西田ちゃんの頼みでも聞けない。俺の首が飛ぶ」
「そこをなんとかこうやって頭下げて頼んでんだ」
西田は椅子から下りて床に土下座して、額を床に付けて吉田に頼んだ。
「お父さん、あの人おまわりさんに怒られてるの?」
「しっ、静かにしなさい、世の中色々あるんだから」
交番に道を尋ねようとした観光客が交番内の異様な光景を目にして立ち去った。
「西田ちゃん、やめてよみんな見てるから、まずいよこういうの、なんか権力を傘に翳して市民をいじめてるみたいに映るよこれ」
「おねげいします、お代官様~」
駅まで聞こえるような大声で西田が言った。
「わかったわかった、わかったっつうの」
西田は笑って立ち上がりたばこをくわえた。差し出すと吉田もくわえた。顔を寄せて火を点けた。
「さすが吉田ちゃん、町の救世主、ありがとう」
「七分、七分間で一秒たりともまけられない」
その晩行きつけの中華屋で念入りな打ち合わせを行った。消防団に所属する団員の父親が経営する地元大手の水道工事業が水道管破裂を緊急修理するということで、北鎌倉駅前から建長寺前までを十五時から七分間通行止めにするという作戦でまとまった。
「うまくいくかな、七分て相当長いぞ」
「相当長いな、でも俺ももう五十過ぎたし、意外と時の流れって早いような気がする」
「七分だと相当車繋がるぞ」
「相当繋がるだろうな、こないだの連休東北自動車道五十キロ繋がってた」
作戦を危惧する吉田と、恵子からの相談に一役買えた喜びで舞い上がる西田とでは会話が通じなかった。
高橋邸前には二台の車が止まっていた。吉川の生き様に共感して三年前に車引きになった伊藤である。何処のグループにも属さず、吉川のアドバイスを受けながら一人で車屋をやっている。吉川の車には明月院から切り取ってきた紫陽花の花で飾られていた。そして生前道夫から「車屋だったらこの演目ぐらい聞いておいたほうがいい」と借りた桂伸治の『反対車』のカセットを肘掛にぶら提げていた。
「伊藤、俺はこれで引退する」
「そんな気がしてました」
「白鷺池(びゃくろち)から建長寺入り口門まで七分できっちり送らなくちゃならない」
「まじきついっすねえ。勝負してもいいですか?俺吉川さん目指してきたけど最後の勝負受けてくれませんか」
「よし、こんないい機会はない。だんなさんも大喜びに違いない。それで何賭ける?勝負だからな」
「俺が勝ったらもう一年俺を指導してください」
中から道夫をおぶった晃と恵子が出てきた。葬儀社の男が「それでは」と喪主の晃に深く一例し、ついでに吉川に軽く会釈して迎えの車に乗って出て行った。吉川と伊藤は道夫の冷たい身体を支えて車に乗せた。
「わーきれい、ほらお父さんの紫陽花に」
恵子はそこまで言って声を詰まらせた。
「お願いします」
伊藤の車に乗り込む晃の腕には敏子の遺影がある。
「お兄ちゃん、最後の道、父さんと母さんにしっかり付き合ってあげて」
晃は大きく頷いた。
「さあだんなさん、飛ばしますよ」
カセットのスイッチを押すと『おい、車屋』と流れた。二人は梶棒を上げてゆっくりと高橋邸を後にした。明月院の前には和尚が出ていた。数珠を擦りつけ道夫を見送った。白鷺池を右手に見ると吉川が『よいさ、こらさ』と伊藤に声をかけた。伊藤も太い声で『よいさ、こらさ』と笑顔で吉川に返した。この掛け声は地元鎮守である八雲神社の神輿渡御の掛け声である。吉川も伊藤も氏子である。二台の車が鎌倉街道を左に曲がると同時に笛がなった。交番の吉田が吹いた通行止めの合図である。道路は閉鎖された。吉田が敬礼して二台を見つめる。
「頼むぞ、吉川さん」
吉川は上り車線、伊藤は下り車線のアスファルトをこれでもかというほど蹴りつけた。五十代半ばと三十になったばかりの瞬発力の差は顕著だった。スピードに乗る伊藤が先に踏み切りに入った。線路手前十メートルで踏み切りが鳴り出した。吉川は『たったったったった』と声を上げて踏み切りに突入しぎりぎりで抜け切った。晃は異常なスピードに親子の別れに感傷している余裕を失っていた。伊藤がリードを広げていたが上り坂になると吉川がその差を縮めていた。山岳部で鍛えた吉川の真骨頂を発揮した。そして長寿寺の前で伊藤を捕らえた。そして建長寺入り口門に滑り込んだ。山ノ内消防団員が整列していた。西田の号令で全員が姿勢を正し敬礼をした。梶棒を下ろすと道夫の身体が吉川に寄りかかってきた。道夫はクラゲみたいに崩れていた。
「だんなさん、精一杯走りました。三十年間ありがとうございました」
葬儀屋が大勢で道夫を抱えて山門を潜った。
「吉川さん、ありがとうございます。あたし東京に行きます。落ち着いたら連絡します」
恵子は「待っています」と言う言葉を声に出来ずに飲み込んだ。吉川は出囃子『武蔵名物』が流れるカセットのスイッチを切り、恵子に深く一礼して山門を後にした。
恵子と晃は北鎌倉駅上りホームの大船よりに立っていた。
「しかし紫陽花が多いんだなあこの辺は」
「兄さんどうするのこれから?」
「どうするって守らなきゃならない家族がいるからな。今の観光で細々と食っていくさ」
「お金が必要だったら言って」
「やっぱり処分するのか?」
「うん、お父さんにね、おまえは下ばっかり見てきたから東京行ってマンション住んで、高いとこから世の中見て暮らせって遺言みたいに言ってた」
「そうか、それがいい、しばらく東京になんか出ていないだろう」
「行きたいところがあるの」
「どこ?」
「ホストクラブ」
二人は腰を折って大笑いした。十六時二十二分発東京行きの先頭車両が恵子の前に停車した。
了
「何が楽しくて紫陽花なんか見物に来るのかねえ、もともとうちの便所の裏に咲く紫陽花をおじいちゃんが植えたっていうのにねえ。この先が家なんだけど」
晃は最後の一言を、通り過ぎるまで睨みつける男に口パクで対抗した。助手席の恵子は下を向いて一団の視線を避けている。
「この道を院の参道と勘違いしてるんだ観光客は、生活道路であることをしっかりと案内していないから地元が遠慮しなきゃならないんだ」
「そんなふうに言わないでよ兄さん、二十年ぶりに帰って来て地元の振りして。みなさんお父さんの植えた紫陽花を楽しみに来てくださっているんですから」
恵子は父が人生をささげた紫陽花をけなす兄に腹が立った。
「父さん死ぬ前になんか言ってたか俺のこと?」
恵子は返事をしなかった。晃の乱暴な問い掛けが嫌だった。晃はどうしても父親の最後の言葉が訊きたかった。『晃はどうしてる』とか『晃に敷居を跨がせてやれ』そんなやさしい言葉の有無が確認したかった。名月院を過ぎて最初の路地を曲がると高橋宅がある。一昨日道夫が亡くなるまで恵子と二人で三代続く古い家を守ってきた。戦後に祖父の道久が建て直したがそれでも築半世紀を越えていた。恵子は道夫が亡くなったらここを出る決意をしていた。道夫もそれに賛成していた。
「家は古くて一銭にもならないが、土地は一億五千万になるらしい。俺が死んだらおまえに全部やるから東京に行ってマンションでも買えばいい、東京行きに乗れば小一時間で着いちまう。なるたけ高いとこに暮らせ。おまえはずっと下見て生きてきたからこれからは上から物見て暮らせ」
一昨日眩暈がするからと早めに床について、水差しの盆を枕元に用意する恵子にそう話した。そしてそのまま食事もせずに眠ってしまった。普段ならば五時には新聞配達を待ち構えて新聞を受け取るのだが、昨日に限ってポストの蓋が閉まる音で恵子は目が覚めた。新聞を抜き取り道夫の寝室に耳を当てるが静まり返っていた。
「父さん、父さん」
恵子が縁側から障子越しに声を掛けたが無反応だった。氷の結晶が項から背筋へと滑り込むような冷気を感じた。障子を開けると道夫はうつ伏せで右手の先が水差しに触れていた。恵子は『父さん』と連呼しながらうつ伏せの道夫を仰向けにした。そのとき水差しに触れていた道夫の指先が引っ掛かり盆の上に零れた。目は瞑っていた。布団も乱れてはいない。温もりを感じるが医者に確認するまでもない、恵子は父親のやさしい表情から死を確信した。苦しまずに息を引き取ったに違いないと安堵した。恵子は水差しに残った水を口に含み、道夫の唇の隙間にそっと流した。母親の敏子が亡くなってから二十五年後の梅雨で、室内まで咽るぐらい湿気の多い朝だった。
「母さんごめん、父さんとキスしちゃった」
仏壇の敏子に話しかけた。そして泣き崩れた。地元の高校を卒業してからずっと母の代わりに道夫の世話をしてきた。植木以外は無知と言ってもおかしくない道夫は家事など一切しなかった。恵子が洗濯しなければいつまでも着替えずにそれを着ていた。恵子が食事を用意しなければいつまでも食べずに餓死したに違いない。恵子は生涯道夫の世話をすることを人生とした。しかしそれはいつの間にか、敏子に嫉妬する、ひとりの女になっていたのも感じていた。
「兄さん、もう少し奥に入れて、お隣が買物から帰って来られるから」
「父さんの軽トラも処分しなければならないなあ」
「消防の西田さんがね、処分するなら分団で引き取りたいって」
「西田が、まだ葬儀も終えていないのにそんなことを心配してるんだあいつ、相変わらず変わってんなあ」
以前西田は恵子に恋心を抱いていた。一度デートしたことがあるがそれ切りになった。西田の悪口を恵子は嫌っている。晃はうっかりしていた。
「西田さんは分団長を八年も務めていらっしゃる立派な方よ。うちには後継ぎがいないからこれからは西田さんにすべてお願いしなければならないのよ、その辺を考えて」
恵子は植木屋の跡取りを放棄した晃を皮肉った。
道夫の後を継がずに大学で中国語を学んだ晃は台湾の企業に就職した。恵子は晃が実家を継いでいれば人生も大きく変わっていたと怨んだこともあった。当時道夫は、地元の学園を卒業した晃にそれとなく後継を薦めたことがあった。
「大学に行って勉強するのもいい、それからでも遅くはない。七年辛抱すれば一人前にしてやる。地元に残って囃子や消防に携わりながら父さんに協力しちゃくれないか、そうしてくれりゃ父さんも嬉しいし何より母さんが喜ぶ」
生返事をしたまま晃は大学を卒業した。そして就職先が台湾企業であることを直前まで隠していた。台湾行きを伝えたときは既に航空券を購入した後であった。
「おまえ台湾て、それいつ決まったの、いつ帰って来るんですか?」
敏子は慌てた。道夫は仕事に出ていて夕方まで戻らない。
「父さんには母さんから伝えといて、僕から言うと言い争いになるし、そうなればお互いに後味悪いし、外国ったって台湾なんて飛行機なら三時間で行き来が出来る。沖縄の隣だと思えば離れているような気がしないよ。なあに何かあったらすぐに帰国するし心配しないでいいから母さん」
「そうだけど父さんのお仕事はどうするの、うちにはあなたしかいないのよ」
「恵子に婿を取らせばいいじゃないか、西田も変わりもんだけど悪い奴じゃないし」
「勝手なこと言って、母さん怒りますよ」
「電話するって、それじゃ宜しく」
それっきり敏子の葬儀にも戻らなかった。そして十年後の1999年9月の台湾大地震で嘉義と言う都市にある晃の会社は甚大な被害を受けた。古い建物は崩壊し、死者こそなかったが数人が大怪我をした。会社は再建までに時間を要する。晃は解雇となった。減俸でもいいからと雇用の継続を訴えたが、地元社員を優先したいともっともな社長の説得を聞き入れた。晃には台湾人の妻と二人の子供がいた。台湾での生活を諦め日本に戻った。
「もしもし」
恵子にはすぐに晃の声が分かった。
「兄さんね、兄さんでしょ、どうしたの?どこにいるの?父さん、兄さんから」
恵子は時が道夫の心を変化させていると思っていた。今なら兄を受け入れてくれる、何の疑いも持たずに恵子が受話器を差し出すが道夫は受け取らなかった。道夫にすれば『お帰りなさい』と敷居を跨がせるわけにはいかなかった。母親の葬儀にも戻らない男を意地でも許したくなかった。
「用があるならおまえが聞いてやれ」
それでも道夫は晃のことが気になる。勘当しても我が子である。そう言って縁側から庭に下りてしまった。
「父さんね、今お客様が来てるから後でもう一度電話して、それで急用ならあたしに聞いておけって、何?」
「父さん怒ってんだろう、無理もない。おまえにも心配かけて悪いな」
「そんなことないわ、ねえ遠慮しないで言って、お金でしょ、いくら必要なの」
晃の口調で無心と感じた。
「兄さんな、台湾で失業してな、観光会社を立ち上げようと考えてんだ。会社ったって東京に俺がいて台北に女房がいてそれだけの会社なんだけど、事務所をな、東京に借りるつもりで、それが情けないことに資金がなくてな、飛び出した親の脛かじろうとして電話したんだ。でもいいんだ。大学時代の友人をあたってみる。悪かったな恵子、父さんに謝っておいてくれ」
「いくら、いくら必要なの?友達なんてそんなにいないくせに。あたし意外と貯金があるのよ」
「一千万必要なんだ、おまえに頼める金額じゃない」
「電話するわ」
金額に驚いて受話器を置いてしまった。恵子には貯金があった。それは道夫から毎月もらう小遣い二万円を二十年間ほとんど使わずに貯金していた。しかし晃の必要とする金額の半分である。残りは道夫に頼むしかなかった。
「ボンクラの用件はなんだ?」
道夫が恵子に声をかけた。晃が家を出て行ってからずっとボンクラと呼んでいる。恵子の前ではボンクラ呼ばわりしているが心配でならない。ずっと相談するタイミングを逸していた恵子だが今がチャンスだと思った。三本目の銚子を膳の布巾に下ろした。そして布巾に包めて首を摘み道夫のぐい飲みに注いだ。
「金だろ、ボンクラの用件は」
「ボンクラ、ボンクラって父さん」
「あいつはボンクラの正札提げて台湾まで行ってたんだ」
そう言って道夫が笑うと恵子もつられて笑った。手元が揺れて銚子の先がぐい飲みから外れた。
「こぼすな、もったいない」
「いいわよ、サービスでもう一本付けてあげるから」
「なあ恵子、俺は晃が後を継がなかったから怒っているわけじゃない。そりゃ継いでくれてりゃそんなうれしいことはない。でもそんなことは序でいいんだ。世話になった町の衆に挨拶もせずに消えたことが父さん一番恥ずかしいんだ。町の商店の跡取りたちは、お祭り盛り上げたり、消防団に入って恩返ししているじゃないか。一年でもいや半年でもよかったんだ。地元に恩返ししてそれからなら台湾だろうがニューギニアだろうが何処へ行って好き勝手やったっていいんだ。いや年に一度戻ってきて、盆踊りの手伝いでもしてくれりゃそれだってよかったんだ。寺と神社ばっかりの町に生まれた運命だと思ってそうしてくれてりゃ父さんそれでよかったんだ」
「もう一本つけてくる」
恵子は酒のせいで愚痴をこぼす道夫に寂しさを感じた。還暦を迎えるまでの十五年間、男盛りをずっと一人で耐えてきた辛さは三十五歳を過ぎた恵子にもよく理解出来た。
「おまえもどうだ」
徳利をつまんで恵子に向けた。
「ちょっと待ってて」
生前敏子が使用していたお猪口をポットの湯ですすぎ、道夫の前に差し出した。
「一杯だけだぞ、おまえも母さんと一緒で首から上が真っ赤になるからなあ」
注がれた酒をぐい飲みして、またお猪口を差し出した。道夫は目の前の恵子が敏子に変わる錯覚がした。
「まったくしょうがねえなあ、倒れてもしらねえぞ」
恵子は晃の用件をすっかり忘れて父親との砕けたひと時に酔いしれていた。もし道夫が母と勘違いしても、それを受け入れてしまうかもしれない、そんな自分を容認するほどに心地よい晩であった。
「それでいくら必要なんだってボンクラは」
たったの猪口二杯だが寝過ごしてしまった恵子の寝室に道夫の声と共に光が差し込んだ。
「あら、ごめんなさいお父さん、すぐに支度しますから」
「いいよ、急に起きると貧血起こすから寝ていなさい。たまには銀行の前の珈琲屋でパンにコーヒーでも食ってやろう」
「すいませんお父さん、お昼は用意しておきますから面倒でも戻ってきてくださいね」
道夫は鏡台の前で髪を梳き始めた恵子に、敏子が乗り移ったのを感じた。道夫は首を振ってその幻影を追い払った。
「ボンクラいくら必要なんだ。俺に用意できる金額なのか?」
家事家計の一切を恵子に頼っている道夫に、預金がいくらあるのかなど、まったく無頓着であった。
「ええ、充分」
「そうか、それならいい」
「父さん、兄さんをここに呼んでもいい?」
「それは許さねえ、いいか恵子、てめえの母親の死にも戻らなかったボンクラだぞ。俺に『お帰えんなさい』て言えると思うか。金はあるだけ全部くれてやれ」
そう言って手入れの行き届いた障子をさっと閉めた。薄っぺらな障子紙一枚が恵子の息も温もりもすべてを遮断した。
翌日の午後二時に、北鎌倉駅の上りホームの大船よりのベンチに晃は座っていた。すべて恵子の指示通りであったが三時を回っていた。
「兄さん、ごめん銀行で時間かかっちゃった。普通に引き出し用の紙に書いたら受付の女の子がちょっと待ってくださいって、支店長の太田さんまで出てきちゃって『どうかしたんですか?』っ聞くから『太田さんこそどうしたんですか?』って言ったらみんな大笑いして。金額が大きいから少し時間がかかりますってそれで遅くなっちゃった。上り電車何本も見送ったでしょ」
「いやいいんだ、それより悪いな恵子」
「千二百万あるは、七百万はお父さんのお金、五百万は私の貯金全額。本当はお父さんのお金で全部用意できたんだけどなんとなく」
札束の入った鳩サブレーの紙袋を晃に手渡した。
「サンキュー、父さんにも宜しく、きっと返しに来るからって」
「落とさないでよ。落としたらもう知らないから。成功して兄さん、返さなくてもいいから成功して、奥さんや子供たちを幸せにしてやって」
東京行きが滑り込んできた。恵子はもしかしたらこれが晃との最後の対面になるかもしれないと感じた。そして道夫の葬儀に晃が帰って来た。晃は車から降りると軽トラックの脇から身体を横にして庭に回った。すぐに玄関に入るのを躊躇った。就職してから一度も敷居を跨いだことがない。母敏子の死にも戻らず、そして父道夫の死も見守ってやれなかった後ろめたさが、玄関から立ち入ることを自然に拒んだのだ。二十年ぶりの庭を見て晃は驚いた。色鮮やかな紫陽花が庭一面に咲いている。これが五十年前に便所の裏に咲いていた紫陽花の姉妹とは想像できなかった。
「兄さん、驚いた?おじいちゃんの紫陽花をお父さんがここまでにしたのよ」
紫陽花に目を奪われている晃に恵子は鼻が高かった。
「すごい、見事だ」
「これが院内を埋め尽くしているのよ。これだもお客さんが来るでしょ」
恵子は庭に下りて大きな一厘を切った。
「まず母さんにご挨拶して」
そう言ってその一厘を晃に渡した。晃は頷き三波石の上がり台から縁側に上がった。仏壇には既に灯りがある。恵子が灯したのだ。晃は花立てに紫陽花を生けた。大き過ぎて位牌が隠れた。前卓には敏子の遺影がある。これも晃のために恵子が用意したのだ。晃には四十代で急逝した敏子が恵子の妹のように映った。
「おい恵子、おまえいくつだっけ?」
「兄さんより五つ下でしょ、たった一人の妹の歳を忘れたの」
顔立ちや体系だけでなく、話し方までそっくりな母の歳を過ぎた娘と、晩年まで暮らした父は、どんな思いでいたのだろうか。家庭のことなど何一つ顧みずに勝手気侭に生きてきた晃は、恵子の人生から選択肢を奪った自分を改めて責めた。
「ただいま母さん、ごめんよ。勝手だけど恵子のこと見守ってやってくれ」
線香を立てると再度敏子の写真をじっと見つめた。涙があふれワイシャツを濡らした。量が多くてシャツにしみ込まずにそのまま地肌を滑り脇腹からインナーのゴムまで伝わった。涙が枯れるまで母を見つめた。泣きっ面は恵子に見られたくなかった。
「兄さん、ちょっとたまごやさんまでおビール買いに行ってきます」
恵子が晃の気持ちを察しての行動だった。籐の買い物籠を提げて玄関を出ると車引きの吉川がいた。
「お嬢さん、ご連絡いただきました。まったく残念なことで、なんて言ったらいいか」
吉川は鎌倉で一番早く車屋を出した。三十年前にこの地に何の伝もなく開業したのだ。ただ車一台と自慢の足だけだった。
「おい、あんたは観光案内か?」
初めて客待ちした円覚寺の山門で声をかけたのは乗馬ズボンに法被姿の道夫だった。吉川は自身の井出達に近い服装の道夫に親しみを感じた。
「今日からこの辺りで車引きをさせていただきます。吉川と申します。鎌倉は初めてなので観光案内は出来ませんが追々勉強させていただいて皆さんのご要望に叶えればと頑張ります」
「そうか、それじゃタクシー代わりに利用してもいいんだね。俺が一番の客だな。おまえさん幾つだ、二十八かい、そうかい、それじゃ足には自信があるんだろうなあ」
「はい、ずっと山登りとマラソンやっていたんで。さあどうぞ」
道夫も人力車に乗るのは初めてだった。
「道がよくわかりませんので教えてください」
「まずその踏切を渡って突き当たりの鎌倉街道を左に曲がってくれ」
吉川は道夫を気遣いゆっくりと車を引いた。
「痛くないですかお尻とか背中とか」
「おまえさんは落語好きかね?」
「いえ、たまにテレビで漫才を見る程度です」
「そうかい、そりゃ残念だな、車屋をテーマにした演目があるんだが、俺はそれが大好きでね、特に桂伸治のは最高だ。テープがあるからそのうち聞かせてやろう。ところでこんな調子でこれからこの辺りで車屋やっていこうってのか?」
道夫は早足の人と変わらない速度にいらいらしていた。
「何か問題でもありますか、やっぱりひざ掛けは用意した方がいいでしょうか」
「年寄りやおじょうちゃんを観光案内するならこれでもいいだろうが、俺はね、足としてお前さんの車に乗りたいんだ、跳ねても揺れても引っくり返ったってかまわねえからかっ飛ばしてくんな、怪我したってあんたに責任取らせるようなことはしねえからさ」
「そうですか、そう言っていただけると僕もやりがいがあるんです。何しろ走りたくしょうがないからこの商売選んだんですから、それじゃお言葉に甘えて飛ばしますよ」
太腿の筋肉がはちきれるほどにアスファルトを蹴った。スピードに乗ってくると車は左右に揺れた。道夫は落語家が演じる車引きの所作を思い返していた。
「この踏み切りは一端停止しなくったって大丈夫だ、かまわねえから全速力で駆け抜けてくんな」
「わかりました」
新聞配達の自転車を追い越した。道夫は完全に『反対車』の主人公になりきっていた。吉川は速度をまったく落とさずに踏み切りに突入した。車が跳ねるというより道夫の身体が上下左右に跳ね上がった。
「渡ったらすぐに左に曲がれ」
道夫の指示が急だったので危うく角の塀に突っ込みそうになった。体勢を立て直すとすぐに三叉路が吉川の視界に入った。
「だんなさん、あれはどっちで」
「真っ直ぐ行ったら元に戻っちまうじゃねえか、右だ」
コーナーミラーを確認しながらきれいな弧を描いて通過した。
「この川が明月川で、あの突き当りが明月院だ、俺の仕事場だ覚えておけ」
「はい勉強しときます」
それから道夫は吉川の車を足代わりに利用するようになった。酒好きな道夫は出先で薦められる酒を断ることができなかった。ほろ酔いで軽トラックを運転して帰宅する道夫が心配でならなかった恵子にとっても、吉川の車屋出現を歓迎していた。
「吉川さん、お父さんね吉川さんに遺言を残しているんです。それでご迷惑だとは思ったんですけど相談しようと思って和尚さんに吉川さんに会ったらご連絡いただけるようにお願いしていたんです。どうもすいません」
吉川はダボシャツに喪章をしていた。
「おじょうさん、だんなさんのお顔を拝見させていただけないでしょうか」
「ありがとうございます。今兄が戻っていますからどうぞお上がりください」
「はい、おじょうさんはどちらに?」
「たまごやさんにお買物に」
「それでしたら乗っていってください。帰ったらゆっくりと拝ませていただきます」
恵子は吉川の車に乗るのは初めてだった。梶棒を上げると恵子は思わず『あっ』と声を上げた。吉川が振り返ると首を振って笑った。
「おじょうさん、だんなさんの遺言にわたしのことが書いてあると仰ってましたけどどんなことが」
恵子が答えようとすると横須賀行きが北鎌倉駅を発車したばかりだった。通過するのを待った。
「お父さんね、建長寺まで吉川さんに運ぶようにって命令口調で書いてあるの。気にしないでくださいね、まったく失礼なんですから」
吉川は買い物籠を受け取り、恵子を座席に落ち着かせた。そして蹴込みに籠を縦にして恵子のふくらはぎに挟ませた。そのとき吉川のガサガサとした掌が恵子のくるぶしに触れた。父の掌と感触がそっくりだった。吉川に誘われたら二つ返事で受け入れる準備を二十五年間ずっと抱いていた。
「おじょうさん、だんなさんの遺言なんですけど、おじょうさんさえよかったらやらせていただけませんか。いや是非やらせてもらいたんです」
「でも、お父さんったって死体ですし、車を汚してもいけないし、それにご商売に影響があってもいけないし」
「そんなことはまったくありません。三十年前に右往左往しているわたしに声をかけてくださって最初に乗っていただきました。実はそろそろ引退を考えてまして、こんなこと言っちゃ失礼ですけどだんなさんを最後の客にしようかとおじょうさんが買物してる間に決心がつきました」
恵子は吉川の決心に驚いた。しかし内心は道夫の遺言通りに送ることが出来る、それが嬉しかった。
晃は母敏子の遺影を見つめて涙が涸れるまで泣き続けた。そして涙を拭き取り道夫の棺の前で正座した。
「父さん、黙って上がってすいません」
枯らしたつもりの涙が再び溢れ出した。ガラスを通して見る道夫のやさしい顔を見ると余計に自分の愚かさが浮かび上がった。厳しく怖い顔をしていたら、まだ慰められたのにと悔しくて棺に爪がくい込んだ。ぶたれようと、蹴られようと、もっと早く戻っていれば、もしかしたら親孝行の真似事ぐらいは出来たかもしれない。後を継がなくても孫の顔を見せれば喜んでくれたかもしれない。また井戸のように涙が汲み上げられる。
「兄さんただいま、吉川さんがお父さんに会いに来てくださった」
恵子は大きな声で言った。晃が涙を拭く余裕を与えるためだった。晃と吉川は初対面だった。吉川は晃より二つ年上である。
「これ」
恵子は晃に道夫の遺言状を渡した。
恵子へ
なにもかもすべてを恵子に譲る。ボンクラには何もやらない。
父さんの死体は霊柩車を使わずに吉川の車で建長寺まで運んでくれ。
平成二十三年六月十五日 高橋 道夫
「六月十五日って一昨日じゃないか」
「お父さん天国からのお迎えを感じて簡単に書いたんだわ」
「ボンクラってもちろん俺の事だろうなあ」
恵子が大きく頷くと晃は笑った。
「吉川さんは引き受けてくれました」
棺に合掌をしていた吉川が、ガラスの向こうの道夫に一礼して振り向いた。
「だんなさんにはずっとお世話になっていました。忌の際にわたしのことをご指名していただいて光栄なんです。それに代金はもらっているんです。釣りをお返ししていないんでそれで充てさせていただきます。無事に建長寺さんまで送らしていただきます」
「だけど問題ないのかなあ法的に、それに道路も大丈夫なのかな鎌倉街道とか」
「そうねえ、西田さんに連絡してみる」
翌日の昼過ぎ西田は北鎌倉駅前交番にいた。
「吉田ちゃん、悪いけどお願いがあるんだ」
「西田ちゃん何、朝っぱらからお願いって、気持ち悪いな」
吉田は北鎌倉駅前交番に赴任して六年になる。年齢は一緒で二人とも独身、それに地元消防団長と地元交番の警察官という緊密な関係を維持しなければならない。その上二人とも大酒飲みある。酒を酌み交わすことが増えるのは必然だったし自然と馬が合った。
「こないだパンクしたときタイヤ交換手伝ったよね葛原が丘で」
「そういう作戦で来るんだ、貸しを全面に出してそれを交換条件にしようという手法は古いよ西田ちゃん。とりあえずはっきり言ってみて、出来るなら協力するし無理なら職務上断るから」
西田は煙草をくわえた。差し出した煙草を吉田もくわえた。点きの悪い百円ライターを幾度も擦って、やっと点いた火に二人は顔を近づけて大きく吸った。
「鎌倉街道十分間止めてくんない」
吉田は西田の言った意味が理解できなかった。
「なんかあれ、道路沿いの大きな木を切るとかそういうこと?」
「いや大事な車を一台ここから建長寺まで通したいんだ」
「アメリカの大統領かなんかだったらそれは俺じゃなくて政府にお願いしてもらわないと駄目だよ。それで誰が通るの?」
「俺の師匠で、山ノ内の観光に貢献した人だ」
「高橋さんじゃないの知ってますよ。一昨日亡くなって明日建長寺で通夜じゃない。大きな葬儀になるから署からも交通整理が出るけど通行止めは出来ないよ、だめだめ、こればっかりはいくら西田ちゃんの頼みでも聞けない。俺の首が飛ぶ」
「そこをなんとかこうやって頭下げて頼んでんだ」
西田は椅子から下りて床に土下座して、額を床に付けて吉田に頼んだ。
「お父さん、あの人おまわりさんに怒られてるの?」
「しっ、静かにしなさい、世の中色々あるんだから」
交番に道を尋ねようとした観光客が交番内の異様な光景を目にして立ち去った。
「西田ちゃん、やめてよみんな見てるから、まずいよこういうの、なんか権力を傘に翳して市民をいじめてるみたいに映るよこれ」
「おねげいします、お代官様~」
駅まで聞こえるような大声で西田が言った。
「わかったわかった、わかったっつうの」
西田は笑って立ち上がりたばこをくわえた。差し出すと吉田もくわえた。顔を寄せて火を点けた。
「さすが吉田ちゃん、町の救世主、ありがとう」
「七分、七分間で一秒たりともまけられない」
その晩行きつけの中華屋で念入りな打ち合わせを行った。消防団に所属する団員の父親が経営する地元大手の水道工事業が水道管破裂を緊急修理するということで、北鎌倉駅前から建長寺前までを十五時から七分間通行止めにするという作戦でまとまった。
「うまくいくかな、七分て相当長いぞ」
「相当長いな、でも俺ももう五十過ぎたし、意外と時の流れって早いような気がする」
「七分だと相当車繋がるぞ」
「相当繋がるだろうな、こないだの連休東北自動車道五十キロ繋がってた」
作戦を危惧する吉田と、恵子からの相談に一役買えた喜びで舞い上がる西田とでは会話が通じなかった。
高橋邸前には二台の車が止まっていた。吉川の生き様に共感して三年前に車引きになった伊藤である。何処のグループにも属さず、吉川のアドバイスを受けながら一人で車屋をやっている。吉川の車には明月院から切り取ってきた紫陽花の花で飾られていた。そして生前道夫から「車屋だったらこの演目ぐらい聞いておいたほうがいい」と借りた桂伸治の『反対車』のカセットを肘掛にぶら提げていた。
「伊藤、俺はこれで引退する」
「そんな気がしてました」
「白鷺池(びゃくろち)から建長寺入り口門まで七分できっちり送らなくちゃならない」
「まじきついっすねえ。勝負してもいいですか?俺吉川さん目指してきたけど最後の勝負受けてくれませんか」
「よし、こんないい機会はない。だんなさんも大喜びに違いない。それで何賭ける?勝負だからな」
「俺が勝ったらもう一年俺を指導してください」
中から道夫をおぶった晃と恵子が出てきた。葬儀社の男が「それでは」と喪主の晃に深く一例し、ついでに吉川に軽く会釈して迎えの車に乗って出て行った。吉川と伊藤は道夫の冷たい身体を支えて車に乗せた。
「わーきれい、ほらお父さんの紫陽花に」
恵子はそこまで言って声を詰まらせた。
「お願いします」
伊藤の車に乗り込む晃の腕には敏子の遺影がある。
「お兄ちゃん、最後の道、父さんと母さんにしっかり付き合ってあげて」
晃は大きく頷いた。
「さあだんなさん、飛ばしますよ」
カセットのスイッチを押すと『おい、車屋』と流れた。二人は梶棒を上げてゆっくりと高橋邸を後にした。明月院の前には和尚が出ていた。数珠を擦りつけ道夫を見送った。白鷺池を右手に見ると吉川が『よいさ、こらさ』と伊藤に声をかけた。伊藤も太い声で『よいさ、こらさ』と笑顔で吉川に返した。この掛け声は地元鎮守である八雲神社の神輿渡御の掛け声である。吉川も伊藤も氏子である。二台の車が鎌倉街道を左に曲がると同時に笛がなった。交番の吉田が吹いた通行止めの合図である。道路は閉鎖された。吉田が敬礼して二台を見つめる。
「頼むぞ、吉川さん」
吉川は上り車線、伊藤は下り車線のアスファルトをこれでもかというほど蹴りつけた。五十代半ばと三十になったばかりの瞬発力の差は顕著だった。スピードに乗る伊藤が先に踏み切りに入った。線路手前十メートルで踏み切りが鳴り出した。吉川は『たったったったった』と声を上げて踏み切りに突入しぎりぎりで抜け切った。晃は異常なスピードに親子の別れに感傷している余裕を失っていた。伊藤がリードを広げていたが上り坂になると吉川がその差を縮めていた。山岳部で鍛えた吉川の真骨頂を発揮した。そして長寿寺の前で伊藤を捕らえた。そして建長寺入り口門に滑り込んだ。山ノ内消防団員が整列していた。西田の号令で全員が姿勢を正し敬礼をした。梶棒を下ろすと道夫の身体が吉川に寄りかかってきた。道夫はクラゲみたいに崩れていた。
「だんなさん、精一杯走りました。三十年間ありがとうございました」
葬儀屋が大勢で道夫を抱えて山門を潜った。
「吉川さん、ありがとうございます。あたし東京に行きます。落ち着いたら連絡します」
恵子は「待っています」と言う言葉を声に出来ずに飲み込んだ。吉川は出囃子『武蔵名物』が流れるカセットのスイッチを切り、恵子に深く一礼して山門を後にした。
恵子と晃は北鎌倉駅上りホームの大船よりに立っていた。
「しかし紫陽花が多いんだなあこの辺は」
「兄さんどうするのこれから?」
「どうするって守らなきゃならない家族がいるからな。今の観光で細々と食っていくさ」
「お金が必要だったら言って」
「やっぱり処分するのか?」
「うん、お父さんにね、おまえは下ばっかり見てきたから東京行ってマンション住んで、高いとこから世の中見て暮らせって遺言みたいに言ってた」
「そうか、それがいい、しばらく東京になんか出ていないだろう」
「行きたいところがあるの」
「どこ?」
「ホストクラブ」
二人は腰を折って大笑いした。十六時二十二分発東京行きの先頭車両が恵子の前に停車した。
了
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