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2章 足を焚べて、声を焚べて、恋を焚べて

1.過保護な兄様

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 オリエンテーリングの日からすでに二週間が経った。一日目こそ傷口が熱を持っていた所為で、ぼんやりしていたけれど、大人しく療養していたこともあり、さすがにもう良くなったと思う。ベルリオース家お抱えの主治医も「激しい運動さえしなければ大丈夫」と仰っていたし。
 ────なの、だけど。

「……ねえ、セシル。わたくしの気のせいかもしれないのだけど」
「はい、お嬢様。どうなさいましたか?」
「兄様が、その、ちょっと……過保護なような気がして」

 気の所為かしら? とセシルに尋ねると、「レミニシア様はお可愛らしいですから、過保護なくらいでちょうどよろしいかと」という答えが返ってきた。
 ……なるほど、気の所為ではないことが分かったわ。ついでに、この件に関してはセシルが味方になってくれることはないような予感もするの。

「……みんなに心配をかけてしまったことは申し訳なく思うわ。でも、怪我は良くなったのだから、そろそろ学園に戻らないと」
「それは……イクシス様がお許しになる可能性は限りなく低いかと」
「や、やっぱり?」

 怪我もある程度良くなったというのに、兄様はわたくしが屋敷から出ることを許してくださらない。
 実は、お部屋から出て良いと許可が下りたのもつい三日前のことだ。そのときに学園にはいつ戻って良いかをおうかがいしたのだけど、兄様は「許可できない」と一点張りだった。

「……兄様の口振りだと、怪我が完治したとしても、わたくしを学園に戻すつもりはないんじゃないかしら」
「学園の行事中に襲撃を受けたのです。イクシス様のご憂慮は当然ではないでしょうか?」
「それは、そうかもしれないけれど……わたくしは学園に戻らないといけないのに」

 たとえば、兄様とわたくしの立場が逆だったら、わたくしはきっと安全が保証されるまでは行かないでください、と兄様にしがみついただろう。だから、兄様の気持ちが理解できないとまでは言わない。
 でも、わたくしには学園に戻って、知識を深めなければならない理由がある。遠くない未来に訪れるだろう《魔の王》覚醒を防ぐためには、知識を習得できる学園に通うのが最も効率的だからだ。
 もちろん、兄様にはそれとなく意志を伝えた。学園で魔術を学び続けたいのだ、と。
 兄様の返事は「ならば家庭教師を雇えば良い」だった。取り付く島もなかった。否、取り付けなかった、と言うべきかもしれない。

「もし、おまえの身に何かあれば、私は冷静でいられなくなる。誰彼構わず、骨も残さず燃やし尽くすだろう」

 私のレミニシア。兄の為に、私の側にいておくれ────なんて兄様に、推しに言われたら、断れないでしょう!?
 兄様の大きな手がわたくしの頬を優しく包んで、苦しげに眉を寄せる麗しい顔を間近で見て、嫌です! なんて言えないでしょう!?
 乙女ゲームだったら、ばっちりスチルがあったシーンだったわ。いや、この世界は乙女ゲームにとてもよく似た現実なのだけど。
 兄様の優しさと顔面に負けては駄目よ、レミニシア。どこかにお出かけしていらっしゃるようなので、お戻りになってから、今日こそはお許しいただかなくては!

「セシル、兄様に学園復帰の許可をいただきたいのだけど、何か良い案はない?」
「お嬢様は、セシルよりも学園に通う他のご令嬢を選ばれるのですね……」
「まって?」
「所詮は実家に資産があるだけの浅い女に負けるなんて、セシルは悲しゅうございます……!」
「まってまって何の話なの!?」

 真っ白なエプロンで顔を覆い、しくしくとわざとらしく──嘘泣きなのだから、当然と言えば当然だ──嘆くセシル。
 言ってることが冗談に聞こえないのはわたくしの気の所為? というか、世の貴族令嬢のこと、実家に資産があるだけの浅い女だと思ってたの?
 はっ! もしかして、わたくしのことも「お嬢様のことは別ですが」そ、そう、良かったけれど、まるで心を読まれたかのようなタイミングで、背中がぞわっとしたわ。

「レミニシアお嬢様、少しよろしいでしょうか?」

 そのとき、おそるおそるといった様子で、メイドの一人であるマリーが顔を覗かせた。あまり顔色が良いようには見えない。
 どうかしたの? とわたくしが尋ねるよりも早く、マリーの「実は先程、イクシス様がお戻りになったのですが、少し様子が……」という言葉を耳にし、わたくしはさながら弾丸のように飛び出していた。
 礼儀作法? 兄様と天秤にかけるまでもない、取るに足らない些細なことよ。

「兄様、レミニシアです。少しよろしいでしょうか」
「……構わない。入れ」

 分厚い扉の向こうから、兄様のくぐもった声。許可をいただいたとは言え、何か様子が違うらしいので、なるべく音を立てないように扉を開いた。
 すらりと長い足を組んで、ソファに腰掛けてる姿は、動悸息切れがするほどに美しくて、絵画に残しておくべきだと思いました。
 ……そうじゃない、そうじゃない。マリーの様子からして、兄様に何かあったと思ったのだけど。いえ、確かに普段と様子が異なっているけれど、なんというか、不満? 拗ねている? ように見えて。

「何かございましたの?」
「……来なさい、レミニシア」

 促された先は、兄様の隣。対面ではなく、推しの隣。ご褒美であると同時に、ある種の拷問だわ。
 兄様の顔面はいつもとても美しくていらっしゃるのだけど、最近の兄様はますます美しくなっているような気がして、長く見つめていると心臓が苦しくなるんだもの。
 いや、今はそんなことを言っている場合ではないわ。わたくしにできることなど限られているでしょうけれど、兄様のお話を聞くくらいできないでどうするの!

「兄様、わたくしにできることなど些細なことですが、兄様の憂いを晴らすお手伝いがしたいという思いに嘘偽りはございません。ご迷惑でなければ、どうかお話を聞かせてくださいませ」
「…………学園に、戻りたいか」
「え?」

 兄様のお顔を曇らせる悩みとはどれほどのものかと身構えていたら、予想外の内容で。しかも、わたくしの方から頼もうとしていたことを、兄様から切り出されるとはちっとも思っていなくて。
 だって、兄様はわたくしを学園に戻す気が全くなかった筈なのに。

「今日、公子殿下に呼び出された」
「まあ。殿下はなんと?」
「レミニシア本人が戻りたがっているならば、学園に戻すべきだ、と」
「殿下がそのようなことを……」

 殿下の思惑を考えると、素直に喜んでいいものか。わたくしを心配してくださっている気持ちもあるでしょうけれど、あの方はわたくしにフルール嬢の鳥籠役を期待していらっしゃる。学園に通ってフルール嬢と交流を深めて欲しい、というお考えなのではないかしら。
 ただ、殿下には申し訳ないけれど、兄様がその程度の理由──建前を告げたにしろ、本音を明かしたにしろ──で折れるとは思えなかった。
 兄様が考えを改めるようなことを、殿下が仰ったのかしら。……き、気になる。とても気にはなるものの、兄様が表情に出すほどの内容を直接おうかがいする勇気はない。そのうち、殿下にこっそり訊いてみよう。

「……兄様のお言葉に従います、と答えたいところですが、わたくし個人の意志を申し上げるならば学園に通いたいです」
「安全性について、絶対の保証はない」
「それは否めませんが……」

 とはいえ、『時のサイハテ』のストーリー通りに進むのなら、兄様が《魔の王》に覚醒するまで、魔物に襲われるような危険はない。
 そんなこと明かせないし、そもそもストーリーが破綻している現状、絶対に襲われないと断言することも難しいのだけど。

「……でも、何かあったとしても、兄様がまた守ってくださいますでしょう?」

 これは、我ながらずるい言い方だと思う。兄様はお優しいから、妹を見捨てるような真似をする筈がない。事実、兄様はとても複雑そうなお顔をしながらも「当然だ」と首肯した。
 もちろん、兄様に心配も迷惑もかけるつもりはない。わたくしはただ、そう遠くない未来の為に知識を得たいだけなのだ。

「兄様が傍にいてくだされば、怖いものなしですわね」
「……それとこれとは別の問題だ」
「そうかもしれませんが……それに、兄様との学園生活が心から楽しくて仕方がありませんの。だから、学園に戻りたいです!」

 眉間に深い深い皺を刻んでいる兄様を、じっと見つめる。憂いを帯びた兄様の顔は、うっかり国が傾きかねない美しさだ。なんなら、わたくしの意志も揺らいでしまいそうでとてもまずい。
 兄様が折れるのが先か、わたくしが折れるのが先か。静かな部屋に小さな溜息なひとつ、落ちた。

「……一つ、条件がある」

 折れてくださったのは兄様だった。本当に苦々しいと言わんばかりで、それでもわたくしの頬を包む手はうっとりするほどに優しい。

「────殿下には気を付けろ」
「え? 殿下、ですか?」
「そうだ。可能ならば、口は利くな」
「え、ええっと……それはさすがに難しいかもしれませんが、できる限り努めますわ」

 ほ、本当に、殿下は兄様に何を仰ったのかしら。気にはなったけれど、やはり尋ねる勇気はない。わたくしのために折れてくださった兄様を、これ以上嫌な気持ちにさせたくはないもの。
 だから代わりにまだ不満そうな兄様へ、ありったけの感謝と好意を伝えるべく、口を開く。

「兄様、大好きです!」


 ◇


「────なぁ、イクシス。シアを妻として所望すると言ったら、おまえはどうする?」

 瞬間、ここが何処なのか、目の前にいる相手が誰なのかも忘れた。魔力が爆ぜたのは、半ば無意識に因るもの。疾風のごとき波動が窓ガラスを砕く。
 フレデリクは、怒りを抑えきれずにいるイクシスに目を丸くしたが、すぐさま「冗談、冗談」とけらけら笑い声を上げた。
 忌々しい、とイクシスは嘆息する。たった一言で感情と魔力が暴走してしまった己の未熟さが歯痒い。
 以前は、もう少し手綱を握れていたようにも思うが、あの一件────レミニシアが魔物に襲われてからというもの、どうにも魔力が暴れているような感覚に襲われていた。なんとか抑えているものの、今回のように感情に引きずられて暴発してしまうことも少なくない。
 よりにもよって、公子殿下の前でやってしまうとは、とイクシスは舌打ちをしたい気分になった。目の前の人物は仕える相手として申し分ないが、人となりに難がある。決して隙を見せて良い相手ではないと分かっていたというのに。
 そもそも、今日呼び出した時点で、フレデリクが何か企んでいるのは明白だった。
 レミニシアを屋敷に半ば軟禁して二週間。最初こそ手紙で様子を尋ねてきたフレデリクや他の連中だったが、イクシスの意図をなんとなく察したらしく、数日前の手紙には「屋敷に押し掛ける」という旨が書かれていた。
 何らかの方法でレミニシアと接触するつもりなのだろうと考えていただけに、フレデリクがレミニシアではなくイクシスを城に呼び出し、挙げ句の果てに度しがたい戯れ言を吐くとはさすがに予想していなかった。

「おまえさあ、何してくれてんだよ。ちょっとはしおらしくしろっての」
「請求書は侯爵家に寄越せ」
「未来の公主を危険にさらしたことへの謝罪はしようぜ?」

 まあ良いけど、とフレデリクは肩を竦める。応接間の窓ガラスが粉々になったというのに、駆けつけてくる者はいない。アドルフですら姿を見せなかった。最初から誰も近付かないよう命じていたのだろう。
 一体、何を考えているのか。一人がけのソファに膝を組んで深く座っているフレデリクの思惑は底知れない。

「まあ、それはそれとしてだ。シアについてだが、おまえがいつまでも閉じ込めておくようなら、俺はあれを妻として迎えても良いと思ってる。そうでもしないと、おまえはシアを屋敷に閉じ込め続けるだろ?」
「そこまでする理由はなんだ」
「レミニシア・アノス・ベルリオースは公国の貴族の一人だ。民の血税で生活をしているのは、部屋の奥でおとなしくしている為じゃない。貴族として教養を高め、国に還元することは貴族に課せられた責務を果たしてもらう必要がある」
「レミニシアの分を、私が担うと言ったら?」

 フレデリクの言は正しい。民の血税で生かされている以上、貴族のひとりとして責務を果たす必要がある。だが、レミニシア一人の働きなどたかが知れている。その分、イクシスが補えば問題はない筈だ。
 だが、フレデリクは「貴族の女には大事な仕事があるだろ?」と嗤う。ソファの背後、よく分からない彫像が粉々に砕けた。

「……言わんとしていることは分かるけどな。貴族の女のはらに期待をするのは、何もおかしなことじゃない」
「傷物を娶ると?」
「俺は気にしない。傷痕に目を瞑るだけの価値が、シアにはある。使える駒を遊ばせるほど、能無しなつもりはないぞ?」

 目の前の男を能無しだと思ったことはない。むしろ、最も油断ならない人物だ。
 イクシスのもっとも柔い箇所に刃を突き立て、しかし致命的な傷は与えない。ある程度の危険性を覚悟の上で行動し、許容量を見極めようとする胆力と判断力は流石の一言に尽きる。

「……家庭教師を付ける」
「だめだ。学園に通わせ、人脈を作らせろ」
「あれに人脈だと?」
「シアは賢い女だが、それでもおまえほどじゃあない。人脈とは時に鎧にもなる。能天気なお嬢様を守る鎧は、一つでも多い方が良いとは思わないか?」

 素直に認めるのは癪だが、フレデリクの言葉には一理ある。
 レミニシアは貴族としての教養や振る舞いを身につけているものの、価値観はどうにも貴族らしくない。加えて、妙に危機感も薄い。
 人脈という鎧を拵えるには、学園が最も適している場だろう。煮え切らないイクシスに、フレデリクは「それに」と続けた。

「レミニシアの意志を無視し続けて、嫌われても知らないぞ?」
「それはない」
「断言すんなよ……まあ、嫌われないとしても、落ち込むだろうなあ、あいつ」
「……レミニシアが望むのであれば、学園に復帰させる」

 これで満足かと問えば、フレデリクは応と首肯した。仮に、イクシスが折れなければ、フレデリクが何をしたかわかったものではない。先ほどの戯れ言を真実にしてしまう可能性もある。
 ……いや、あれが戯れ言だとどうして言える? もしも、フレデリクがレミニシアを憎からず想っているとしたら?
 イクシスからレミニシアを奪おうと言うのなら容赦はしない。だが、疑わしいという理由だけで排除するには、フレデリクの立場が厄介だ。しばらくは目を光らせておくにとどめるが、警戒するようレミニシアにも促しておくべきかもしれない。

「……うーん、これはちょっと想定外だったな」
「何の話だ」
「いんや、こっちの話」
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