1 / 5
ローズマリー①
しおりを挟む
「俺は、貴女の夫です」
一切の感情を押し殺したような、平坦な声だった。「どなたですか」と尋ねた時、目の前の青年はそう答えたのだ。でも、それはつまらない冗談だと私は思った。なぜなら彼はたった今初めて顔を合わせた相手なのだから。
私はベッドに横たわっていて、力の入らない片手を彼の両手に包まれていた。彼の手は大きくて武骨で、そして冷たかった。触れ合ったところから体温と一緒に彼の緊張が伝わってくるようだった。
「本当なんですか」と私は訊いてみた。部屋の中は暖炉の火が燃えているおかげで暖かいけれど、まるで雪が降る前のようにしんとしている。
少し間があって、青年が言った。
「誓って嘘ではありません。貴女は記憶を喪失してしまったんです。自分の名前を思い出せますか?」
思わず呆気に取られたものの、彼の言葉通り自分の名前を思い出そうと試みて、私は愕然とした。一文字も頭に浮かんでこない。それどころか、自分の年齢も身分も、髪と目が何色だったかすら全く覚えていなかった。
「あれ? どうして……」
なんとか記憶を探ろうとするけれど、必死になればなるほど頭の中が真っ白になっていく。慌てて身体を起こそうとすると、青年が腕を背中に回して支えてくれた。
「目を覚ましたばかりだから混乱してしまうのは当然です。これを飲んで。気分が落ち着くはずですから」
「……」
私はまだ呆然としていて、彼の声があまり耳に入らなかった。彼がもう一度辛抱強く「飲んで下さい」と繰り返したので、その時ようやく、何か薬湯のようなものが差し出されているのに気がついた。促されるままにそれを受け取って一口飲んだ途端、爽やかな香りが鼻腔を抜ける。同時に、体内の枯渇していた魔力が僅かに満たされる感覚があった。
(この味には覚えがある……。ああ、上級回復薬だわ)
そう思った途端、私は上級回復薬が非常に高価な薬であることも思い出した。そういう知識はちゃんと記憶に残っているのだと分かると少し安堵して、青年に向き直って礼を言う。
こうして間近に見てみると、彼は本当に美しい人だと感じた。顔は彫刻のように整っていてまさに非の打ち所がない。水晶のような紫の瞳と、光に透ける淡い金髪が綺麗だった。
「俺のことはオルハイドと呼んで下さい」
彼が淡々とした声音で言った。オルハイド、と何度か口の中で転がすように呟いたが、私はその名前をたった今初めて聞いたとしか思えなかった。でも、確かにオルハイドという名前は彼によく似合っている気がする。そういえばオルハイドというのは花の名前だと私は思い出した。花弁の形が羽を広げた蝶のように見える美しい花。
「あの、私の名前も教えて頂けますか?」
ローズマリー、と青年が答えた。やはり耳馴染みのない響きだ。私は少し首を傾げ、それから「オルハイド様」と呼びかけた。すると彼が訂正するように言う。
「オルハイド、と。呼び捨てで構いません」
「……以前はそう呼んでいたということですか?」
「ええ、そうです」
オルハイドは優しく瞬いて言葉を続けた。
「その記憶障害は魔法で治せる類のものではありません。ですが、これからも俺がそばで貴女をお世話するつもりです。……どうかあまり不安に思わないで下さい」
それを聞いて、私は不思議な気分になった。彼の言葉にはちゃんと夫としての愛情がこもっている。私からすれば彼は見ず知らずの他人だが、彼からすれば私は人生を分かち合う伴侶なのだろう。
オルハイドの手がのばされて私の頭にそっと触れる。思わず首をすくめてしまったけれど、その手は優しく気遣うように髪を撫でてくれた。彼は不器用な微笑みを浮かべていて、それが氷のような美貌にどこか温かみを与えているように見えた。
──きっと二人はとても良い夫婦だったんだわ。
まるで窓辺の景色を眺めるように、そう思った。
一切の感情を押し殺したような、平坦な声だった。「どなたですか」と尋ねた時、目の前の青年はそう答えたのだ。でも、それはつまらない冗談だと私は思った。なぜなら彼はたった今初めて顔を合わせた相手なのだから。
私はベッドに横たわっていて、力の入らない片手を彼の両手に包まれていた。彼の手は大きくて武骨で、そして冷たかった。触れ合ったところから体温と一緒に彼の緊張が伝わってくるようだった。
「本当なんですか」と私は訊いてみた。部屋の中は暖炉の火が燃えているおかげで暖かいけれど、まるで雪が降る前のようにしんとしている。
少し間があって、青年が言った。
「誓って嘘ではありません。貴女は記憶を喪失してしまったんです。自分の名前を思い出せますか?」
思わず呆気に取られたものの、彼の言葉通り自分の名前を思い出そうと試みて、私は愕然とした。一文字も頭に浮かんでこない。それどころか、自分の年齢も身分も、髪と目が何色だったかすら全く覚えていなかった。
「あれ? どうして……」
なんとか記憶を探ろうとするけれど、必死になればなるほど頭の中が真っ白になっていく。慌てて身体を起こそうとすると、青年が腕を背中に回して支えてくれた。
「目を覚ましたばかりだから混乱してしまうのは当然です。これを飲んで。気分が落ち着くはずですから」
「……」
私はまだ呆然としていて、彼の声があまり耳に入らなかった。彼がもう一度辛抱強く「飲んで下さい」と繰り返したので、その時ようやく、何か薬湯のようなものが差し出されているのに気がついた。促されるままにそれを受け取って一口飲んだ途端、爽やかな香りが鼻腔を抜ける。同時に、体内の枯渇していた魔力が僅かに満たされる感覚があった。
(この味には覚えがある……。ああ、上級回復薬だわ)
そう思った途端、私は上級回復薬が非常に高価な薬であることも思い出した。そういう知識はちゃんと記憶に残っているのだと分かると少し安堵して、青年に向き直って礼を言う。
こうして間近に見てみると、彼は本当に美しい人だと感じた。顔は彫刻のように整っていてまさに非の打ち所がない。水晶のような紫の瞳と、光に透ける淡い金髪が綺麗だった。
「俺のことはオルハイドと呼んで下さい」
彼が淡々とした声音で言った。オルハイド、と何度か口の中で転がすように呟いたが、私はその名前をたった今初めて聞いたとしか思えなかった。でも、確かにオルハイドという名前は彼によく似合っている気がする。そういえばオルハイドというのは花の名前だと私は思い出した。花弁の形が羽を広げた蝶のように見える美しい花。
「あの、私の名前も教えて頂けますか?」
ローズマリー、と青年が答えた。やはり耳馴染みのない響きだ。私は少し首を傾げ、それから「オルハイド様」と呼びかけた。すると彼が訂正するように言う。
「オルハイド、と。呼び捨てで構いません」
「……以前はそう呼んでいたということですか?」
「ええ、そうです」
オルハイドは優しく瞬いて言葉を続けた。
「その記憶障害は魔法で治せる類のものではありません。ですが、これからも俺がそばで貴女をお世話するつもりです。……どうかあまり不安に思わないで下さい」
それを聞いて、私は不思議な気分になった。彼の言葉にはちゃんと夫としての愛情がこもっている。私からすれば彼は見ず知らずの他人だが、彼からすれば私は人生を分かち合う伴侶なのだろう。
オルハイドの手がのばされて私の頭にそっと触れる。思わず首をすくめてしまったけれど、その手は優しく気遣うように髪を撫でてくれた。彼は不器用な微笑みを浮かべていて、それが氷のような美貌にどこか温かみを与えているように見えた。
──きっと二人はとても良い夫婦だったんだわ。
まるで窓辺の景色を眺めるように、そう思った。
242
あなたにおすすめの小説
「無能な妻」と蔑まれた令嬢は、離婚後に隣国の王子に溺愛されました。
腐ったバナナ
恋愛
公爵令嬢アリアンナは、魔力を持たないという理由で、夫である侯爵エドガーから無能な妻と蔑まれる日々を送っていた。
魔力至上主義の貴族社会で価値を見いだされないことに絶望したアリアンナは、ついに離婚を決断。
多額の慰謝料と引き換えに、無能な妻という足枷を捨て、自由な平民として辺境へと旅立つ。
氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。
吉川一巳
恋愛
ビビは婚約者である氷の王弟イライアスが大嫌いだった。なぜなら彼は会う度にビビの化粧や服装にケチをつけてくるからだ。しかし、こんな婚約耐えられないと思っていたところ、国を揺るがす大事件が起こり、イライアスから神の国から召喚される聖女と結婚しなくてはいけなくなったから破談にしたいという申し出を受ける。内心大喜びでその話を受け入れ、そのままの勢いでビビは神官となるのだが、招かれた聖女には問題があって……。小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
せっかくですもの、特別な一日を過ごしましょう。いっそ愛を失ってしまえば、女性は誰よりも優しくなれるのですよ。ご存知ありませんでしたか、閣下?
石河 翠
恋愛
夫と折り合いが悪く、嫁ぎ先で冷遇されたあげく離婚することになったイヴ。
彼女はせっかくだからと、屋敷で夫と過ごす最後の日を特別な一日にすることに決める。何かにつけてぶつかりあっていたが、最後くらいは夫の望み通りに振る舞ってみることにしたのだ。
夫の愛人のことを軽蔑していたが、男の操縦方法については学ぶところがあったのだと気がつく彼女。
一方、突然彼女を好ましく感じ始めた夫は、離婚届の提出を取り止めるよう提案するが……。
愛することを止めたがゆえに、夫のわがままにも優しく接することができるようになった妻と、そんな妻の気持ちを最後まで理解できなかった愚かな夫のお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID25290252)をお借りしております。
最後のスチルを完成させたら、詰んだんですけど
mios
恋愛
「これでスチルコンプリートだね?」
愛しのジークフリート殿下に微笑まれ、顔色を変えたヒロイン、モニカ。
「え?スチル?え?」
「今日この日この瞬間が最後のスチルなのだろう?ヒロインとしての感想はいかがかな?」
6話完結+番外編1話
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
悪役令嬢だとわかったので身を引こうとしたところ、何故か溺愛されました。
香取鞠里
恋愛
公爵令嬢のマリエッタは、皇太子妃候補として育てられてきた。
皇太子殿下との仲はまずまずだったが、ある日、伝説の女神として現れたサクラに皇太子妃の座を奪われてしまう。
さらには、サクラの陰謀により、マリエッタは反逆罪により国外追放されて、のたれ死んでしまう。
しかし、死んだと思っていたのに、気づけばサクラが現れる二年前の16歳のある日の朝に戻っていた。
それは避けなければと別の行き方を探るが、なぜか殿下に一度目の人生の時以上に溺愛されてしまい……!?
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始
女避けの為の婚約なので卒業したら穏やかに婚約破棄される予定です
くじら
恋愛
「俺の…婚約者のフリをしてくれないか」
身分や肩書きだけで何人もの男性に声を掛ける留学生から逃れる為、彼は私に恋人のふりをしてほしいと言う。
期間は卒業まで。
彼のことが気になっていたので快諾したものの、別れの時は近づいて…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる