吠える犬は噛み付かない

宇土為名

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 カウンター席に座った若い男が、愛の告白をしていた。
 それだけならまだいい。
 男の左手の薬指には銀の指輪が光っている。いわゆる浮気というやつだった。
 この仕事を始めてから身に付けた技は、客の話は自動的に聞こえなくなる、というものだった。皆バーテンダーなどいないものとして話している。どんな話にも巻き込まれたくはないし、日々は平穏に流れて欲しい。だから、聞こえてくる言葉や話し声は耳の中を通らず上滑りして、意味を結ばずに俺の体を突き抜けていく。透明人間になれ、と言ったのはこの仕事を教えてくれた隠居寸前の老いぼれだった。
 にやついた男の前からそっと離れた。
 今夜はやけに忙しかった。入れ代わり立ち代わり来る客。休憩する暇もなく、気がつけば二十三時を過ぎていた。ようやく波が引き、煙草に火を点けたところで知り合いが顔を出した。
「それで? 上手くいったなら良かったな」
 仕事の話をするそいつに頷いていると、煙草の灰が落ちると文句を言われた。
「外に行けねーんだから大目に見てよ」
「…自業自得だ」
 まあそれはそうだと、俺は頷いた。
「彼女、まだ来る?」
「来てんじゃない? 他の客が見たらしいし」
 声を幾分潜めて聞いてくるのは、こいつなりの配慮なんだろうか。別に今更、と苦笑した。女が怖いとかそういうのはない。ただ面倒だと思うだけだ。
 忘れていた注文を作り始める。オーダーした客がこちらを睨んでいるようだが、この店に来てそれは気が短すぎだろ、と肩を竦めた。
 そのうち眠そうにしているそいつに帰れと声を掛けるが、まだいいと言った。終電ぎりぎりの時間だ。どうやらそれをやり過ごしたいらしい。
 元恋人とはまだ上手くいかないようだった。
 テーブルに酒を持って行く。文句を言われるかと思ったがそんなことはなかった。隣のテーブルの常連と二言三言交わし、カウンターに戻る。ドアが開き、客が入って来た。終電でも逃したのかと目を向ければ、以前来たことのある客だった。今夜で二度目。
「どうもー」
 関西訛りの言葉は、いかにも軽薄そうだ。だが服装はそれなりに堅く、身だしなみには気をつけていることが分かる。
 何の仕事してるか分かったもんじゃない。
 そういえば、とふと思う。由良は何の職業なのだろう。
 普通の会社員と少し違う雰囲気。
 注文された酒を出すと、男はスマホを取り出しながら口の端を上げた。
 そっと離れると、知り合いがトイレに立った。飲みかけのグラスにカバーをかけてやる。他所のことは知らないが、この店ではこうする決まりだった。一人客も例外はない。デート中の女が席を立つと酒に薬を混ぜる男は少なからずいる。目の前でそんなことをする奴を見つけたら、その手に煙草の火を押し付けてやろうと思っている。
 俺がそんなことをしないための予防策だった。
 まだ警察には捕まりたくないからな。
「あー、礼人お? 悪いなあ寝てた?」
「──」 
 思わず俺は振り向いていた。
 アヤト?
 関西弁の男がスマホを耳に当て、話していた。その横顔は驚くほど穏やかだった。
「んー? そうなん? じゃあまた掛けるわ。…手伝えんでごめんな? 埋め合わせさせてよ?」
 じゃあ、と男は通話を切った。
 こんな時間だ。相手は寝ていたに違いない。
 それにしても、アヤト。
 最近よくその名前を耳にする。
 男に背を向けた。よく分からない苛つきに煙草を咥えた。
「客の前で吸うん?」
 その声に目を向けると、男は頬杖をついて俺を見ていた。
「俺の店なんで」
「それ通用する?」
「…嫌なら出て行ってもいいんですよ?」
 ドアを顎で示せば、男は一瞬置いてからくく、と喉で笑った。
「おもろいね、君」
 それはどうも、と俺は煙を吐き出した。
 トイレから戻った知り合いは、その後すぐに帰って行った。疲れた顔で出て行く後ろ姿を見送る。関西訛りの男もそれからおかわりの一杯をし、少し残して出て行った。
 奥の席でぐだっていた常連たちを追い出し、ようやく今日も閉店時間となる。誰もいない店内で気の済むまで煙草を吸い、後片付けをした。
 無性に由良に会いたくなった。
 今はまた帰っていることを知っている。ふたりで買い物に行った後、次来るのは引っ越しの日だとそう言っていたからだ。
 あと三日? 四日?
 あれから一週間ばかり経ったが、まだそんなものだ。
 特別な関係でも何もない。ただ、ふとそう思っただけだ。
 明け方の四時過ぎ、俺は店を出た。夏の夜空の端はもう既に淡く白い。
 帰り道にあったコンビニに寄る。棚に残っていた食パンを買って帰った。
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